もぞもぞ
朝の布団の中、それは至福の一時。
夏場にも関わらず、この部屋は快適な温度に保たれていた。
部屋の中心、天井の辺りに、銀色に光る羽根が浮いている。
これに、部屋の温度を調節している便利な自在法が込められている。
部屋の鍵は閉めているから、悠二の両親に見つかる事もない。
早朝、と呼ぶにもまだ早い時間。ヘカテーは夢うつつに目覚める。
そして、宙に浮いた羽根にピッと指を向け、途端に羽根の輝きは銀から、明るすぎる水色に変わる。
急に、部屋が冷え込む。
ヘカテーにとって、これは最近の習慣だ。最初はともかく、今は、別に意図してやっているわけではない。
本能的に行なっている。
部屋が冷え込み、寒さから逃れるように、同じ布団で眠る想い人に思う存分抱きつき、体全体で擦り寄る。
こうすれば、朝目覚める時、寒さからか、悠二も自分を抱きしめていてくれる。
これでいい。このぬくもりの方がいい。
寝ぼけた頭、意識の片隅でそう思い、愛しく、優しく、心地よいぬくもりに包まれて、ヘカテーはまた深い眠りに落ちて行くのだった。
(‥‥‥‥ん?)
寒い。いや、暖かい?
暖かさに目を向ければ、自分の胸に、腕の中に、水色の少女。
安心しきったその寝顔、素直に可愛いと思う。
もう、ヘカテーが抱きついてくるだけではなく、起きたら自分も抱きしめている事が多くなった。
ふと、上を見上げる。羽根が水色に変わり、部屋の温度が下がっている。
「‥‥またやったのか」
やめなさいと言っているのに、しょうがない子だ。
しかし、その理由を考えると、やはり可愛い。
眠る、無垢な少女、何となく、あごの下をちょいちょいと撫でてみる。
くすぐったそうに身をよじり、今度は手を差し込む隙間もないほどにぎゅうっと強く抱きついてくる。
本能的にでも、離れるという選択肢を取ろうとしないこの少女が、無性に可愛く、大切に思える。
左手で、少女を包むように少女の左肩を抱き、右手で自分の胸に顔を埋める少女の頭を撫でる。
夏休み、そんなに早く起きる理由もない。
もう一度眠ろう。このぬくもりを抱いて。
「もう、行ってしまうのですか?」
坂井貫太郎。普段は家を留守にして海外を飛び回っている謎の男である。
今回も、数日の休暇をとったのみで、また行ってしまうらしい。
そんな、想い人の父親に惜別の言葉を向けるヘカテー。
「すまない。しかしこれでも、いつもよりずっと長くいたんだがね」
当の貫太郎は口調はあっさり、行動は急に、今朝いきなりの旅立ちを告げた。
その旅立ちの場には、家族たる坂井千草、悠二、ヘカテー、そして遊びに来ていた平井の姿があった。
「こういう人なのよ、ヘカテーちゃん。なかなか捕まえさせてくれない人なんだから」
言葉とは裏腹に、何故か幸せそうな千草を、ヘカテーは不思議に思う。
自分が同じ立場なら、絶対嫌だ。無理にでも引き止めるか、それがダメならついていく。
(そういえば‥‥)
ヴィルヘルミナの祝勝会の日、いや、翌日、坂井夫婦は堂々の朝帰りを果たした。
どうも、御崎グランドホテルの高層バーで夜通し飲んでいたらしい。
(あの時のおばさまは‥‥‥何か‥‥)
今のように幸せそうな笑顔で、そして常にはない、上手く言い表わせないが、不思議なオーラ、魅力? を漂わせていた。
『愛』を完成させた者として、おそらく自分がまだ理解すら出来ない"何か"があるのか。
それが、この笑顔の秘密なのか。
そんな坂井千草に憧れを抱くと同時に、いつか自分も、想いが叶えば、そんな、自分がまだ理解も出来ないような深い形の『愛』を知る。その事に、不確定な未来ながらも胸が高鳴る。
一人で幸せな夢想に浸るヘカテーをよそに、悠二が貫太郎の前に進み出る。
「はい、これ」
紳士服店の物らしい小包みを渡す。どうせこうなるだろうと考えていたので用意はいい。
「ありがとう、いつも済まないな。この間のデートで小遣いも残り少ないだろうに」
「いや、その心配は‥‥‥」
「え?」
「何でもない」
嫌味ではなく、本気で息子を気遣う貫太郎だが、悠二には無用の心配だった。
中国での一件、それまでのようにただゴタゴタに巻き込まれた形とは違い、『外界宿(アウトロー)に協力した』形となったあの一件。
正式な『報酬』として、不自然なほど破格な額を頂いている(ちなみに、この金額には『困った事があったらまた手を貸せ』という裏の意味がある事を悠二は知らない)。
「どうかな?」
受け取った貫太郎は、小包みを開封し、ビニール越しに胸元にやり、妻に意見を求める。
渋い、紺地のネクタイである。
「うん、いいかも」
その千草の言に頷き返して、コートの中にしまい込む。
「さて」
そして、本当にあっさりと出立を告げる。
「今度の帰郷は、なかなかに刺激的だったよ」
軽く腰を折り、笑顔を平井とヘカテーに向ける。
「不束な息子だ。どうか厳しく接してやってほしい」
「了解♪」
「厳しく‥‥わかりました」
「父さん‥‥」
恨めしげな息子にさらなる笑顔を。
「いってらっしゃい」
そして、最愛の妻に、最高の笑顔を向ける。
「いってきます」
「‥‥‥‥‥‥‥」
ある日の平井家。
ヴィルヘルミナが珍しく私服、平井からプレゼントされた白のワンピースで出かけたある日(どうやら、メリヒムを連れ出すつもりらしい)。
ヴィルヘルミナは、平井の、ワンピースには合わないというアドバイスに見せ掛けた"建て前"に従い、ヘッドドレス、すなわち"夢幻の冠帯"ティアマトーを置いて行った。
「疑問」
そして今、床に置かれたティアマトーに、平井ゆかりが対峙していた。
右手には梅酒の瓶、左手には洗面器。
その目には、好奇心という名の妖精が宿っている。
「恐怖」
「ティアマトーさん。ここは一つグイッと♪」
「遠慮」
「問答無用♪」
日本人的精神の下、遠慮しがちなティアマトーを宙に放る平井。
梅酒を並々と注がれた洗面器に、ヘッドドレスという名の紅世の王がダイブする。
ポチャン!
ワクワク、ワクワク
最近何やらノリの良いティアマトー、酔ったらどうなるのやら果てしなく気になる平井ゆかり。
花火が上がる前の空を眺める心境で見守る。
そして‥‥‥
「あっ------!」
それから、吉田一美の誕生日があり、
十六歳になったお祝いに吉田が悠二の大事なものを奪おうとし、それをヘカテー、平井、池が阻止し、池が殴り飛ばされたり、賑やかに過ごした。
他にも海に行ったり、森に行ったり、プールに行ったり、思う存分夏休みを満喫した。
夏休みも終わりに差し掛かり、皆で佐藤家でたまりにたまった夏休みの課題を済ませようと集まったある日。
「平井ちゃん」
佐藤啓作が、一大決心の下、平井ゆかりに話し掛ける。
いつかの勉強会の時同様、子供達(女性陣)で作った夕食を食べ、平井とヘカテーが皿洗いをしている場で、である。
当然、池や緒方などの、『聞かせてはならない人間』はこの場にいない。
「俺を、外界宿で働かせて欲しい」
今まで、何だかんだで二の足を踏んでいた一大決心を、ようやく告げる。
「‥‥‥何で?」
しかし、平井、いや、平井とヘカテーの反応は思わしくない。
今まで、佐藤の無謀な行ないを目にしてきた事もあるし、佐藤がそこまでする理由がわからない。
親友である田中も、その辺りの折り合いはつけているはずなのに。
平井の目には、佐藤が前から時折見せていた『悠二に対する安っぽい反発』の延長のように映ったのだ。
「‥‥俺は、マージョリーさんの力になりたい。戦うのが無理ってのは‥‥もうわかってる。だから、他の分野であの人を助けるために‥‥」
少々恥ずかしい思いで、佐藤は理由を述べる。
この言葉に、
(‥‥へぇ)
訝しげだった平井が、
(!)
以前の、佐藤が『ミステスにして欲しい』と悠二に頼みかけ、危うく悠二を傷つけかけた事を密かに根に持っていたヘカテーが、驚愕する。
"こういう事"になっているとは思わなかった。
しかし、佐藤の"危うさ"は、まだ拭い去れてはいない。
「‥‥オッケー。なら、これからは、私が第八支部から書類持って帰るようにするから、その整理手伝って」
全部知って、ちゃんとした理由があって、確とした意志があるなら止めはしない。
だが、本当にちゃんとやれるか様子は見させてもらう。友達として。
「言っとくけど、全然面白い仕事じゃないからね? 書類とのにらめっこみたいなもの。それでもやる?」
「やる! やる! ありがとう平井ちゃん!」
欣喜雀躍の言葉通りに大喜びする佐藤。紅世に関わる事は逃さず関わっていくという心構えである。
(熱意はあり、か)
どちらにしろ、佐藤に適性が無ければ採用など無理だろう。
実際に審査するのは自分ではないのだし。
そんな風に思う平井。
そして‥‥
「‥‥‥シュガー」
その覚悟を知り、佐藤の評価を、上げたヘカテー。
「あげます」
ポケットに入れていたキャンディーを一つだけあげた。
翌日、佐藤にも手伝わせてやろうと、第八支部の書類をまとめて、帰り支度を整える平井。
(?)
ふと一つの書類が、目に留まる。
「関東外界宿第十六支部、消滅‥‥‥?」
(あとがき)
前話のロールキャベツの所の描写、紛らわしい部分があったようなので修正しておきました。
うん、あれはわかりづらい、と感想もらってから思いましたね。