ガブリ
悠二が、騒ぎながらこちらを見ている。
痛いらしい、少し溜飲が下がった気分になる。
ガブリガブリ!
また、悠二が騒ぐ。
もう鬱憤は晴れたような気もするが、この行動自体が楽しい。
カプリ
歯を立てるのはやめて、唇で強く挟む。
「あっ、ちょっと痛くなくなったかも」
先ほどの悠二の態度への理不尽な仕返しは、もう思考のうちにない。
純粋に、悠二との触れ合いを楽しむ。
やってしまってから気付くが、こんな事をして嫌われないだろうか?
悠二の腕を噛んだまま、上目遣いに見る。
「ヘカテー、そろそろ離して?」
怒っているようには見えない。若干困っているといったところだ。
自分は、悠二に嫌われる事に過敏に反応してしまうが、よく考えたら悠二に怒られた事など一度もない。
そういえばおばさまが‥‥‥
『例え好きでも、男の人の言いなりになるような人になっちゃだめよ?』
と、花嫁修行の時に言っていた。『少しわがままなくらいが丁度良い』とも言っていた気がする。
悠二も怒っていない。嫌われていない。
だから‥‥‥
「はむ‥‥‥」
もう少し、わがままする。
「‥‥‥ん」
甘える。
悠二との触れ合いを、文字通り"噛み締める"。
ちゅう〜
楽しい。嬉しい。幸せだ。
ヘカテーは、恥、周囲の目、自制心、見栄、それら全てを忘れ、悠二を求めてしまう。
(‥‥‥ヘカテー?)
噛み付いてきたのはまだいい。
何か気に入らない事があって、この色々な意味でズレた少女が噛み付くという常識はずれな行動をとってもさほど驚かない。
だが‥‥‥
「‥‥はむ」
強く噛み付くのをやめた後、唇だけで悠二に喰いついてくる。
何故か、凄く嬉しそうだ。
ちゅう〜
しかし、もはや口付けのようになっている。
(‥‥おかしい)
このヘカテーの姿は‥‥懐いているとかそういう姿ではないのではないか?
「‥‥‥‥‥‥」
目をつぶり、余計な先入観、今の自分の混乱を無理矢理忘れ、目を開く。
「‥‥‥‥ん」
優しく、忘我の様子で自分の腕に口付けているヘカテー。
それを、まるで戦いの最中の時のように、全くの平静を保って、見る。
その姿は、どこまでも‥‥"愛しさ"に溢れていた。
(ヘカテーが‥‥僕を、好‥‥き?)
それが一度頭をよぎると取り繕った平静は即座に吹き飛ぶ。
顔を、無茶苦茶な熱さが襲う。
鼓動が早くなる。
そして気付く。
(可愛い)
今までだって可愛いとは思ってきた。
純粋で、無垢で、どこかぬけている女の子。
素直で、手間のかかる、そこも可愛い女の子。
戦いや鍛練の時には、純粋ゆえの確たる意志と揺るぎない有り様を見せる、眩しいほどに強い女の子。
強さと儚さ、その二つのギャップが魅力的な女の子。
そんな事は、今までだって思っていた。わかっていた。
だが、今気付いたのはそんな今までの認識を軽々と打ち破る‥‥
"恋する少女"としてのヘカテーの姿。
(可愛い)
気付けば、もう知らない時には戻れない。
可愛い。可愛い。どこまでも可愛い少女。
自分に恋慕の想いを込めて、我を忘れ、その腕に愛おしそうに口付けている少女。
そんな少女に、一切の思考もなく、ただ"触れたい"と思って、呼び掛ける。
「ヘカテー」
フィレスは、自分の恋人を身のうちに宿しているかも知れないミステスを見ていた。
そんな時、水色の少女、"頂の座"ヘカテーがミステスの少年にかじりついた。
そしてしばらくして、それはまるで口付けのように優しくなる。
その姿には、その想いには、馴染みがあった。
(私と‥‥同じ)
愛しい人と触れ合える喜びに満ちた姿。
あの水色の少女が、まだ会話さえかわしていない『紅世の王』が、突然近くに感じられるようになった。
そして、もう一つ、沸き上がる気持ち。
(ヨーハン)
それは、羨望。自分も、ヨーハンに触れ合いたい。
そんな気持ちを抱きながら、フィレスは自分の鏡のような水色の少女を見つめる。
「ヘカテー」
ビクッ
自分を呼ぶ悠二の声に、その声に込められた真剣な響きに、ハッと我に返る。
また、『暴走』してしまった。
"恋心"に支配されてしまった。
怯えるように悠二を見る。
何を考えているまではわからない。
だが、真っ直ぐに自分を見るその視線でわかる。
わかってしまった。
(気付‥‥かれた)
自分の持つ、この狂おしいほどの恋心を、悠二に見抜かれた。
それがわかってしまった。
(ダメ。まだ、好きになってもらっていないのに‥‥)
まさしく自分の撒いた種。誰に言い訳する事も出来ない自分の責任。
わかっている。わかっていて、それでも恐い。絶望が、体中を支配していく。
これから受けるだろう"拒絶"に、心底からの怯えを感じる。
カチ
軽く、固い音が聞こえる。
カチ、カチカチカチ
すぐに、それが自分の歯が震えているのだと気付く。
気付き、より早く現状を理解していた体に、頭が追い付く。
追い付くと、体と心が同じ位置までくると、今度は体全体が無茶苦茶な勢いでガタガタと震えだす。
恐怖と絶望で、全身がバラバラにされていく。
(助けて!!)
心許せる親友か、尊敬に値する保護者か、仲の良いおじさまか、自らと同じ三柱の眷属か、彼女の神か、あるいは、これから絶望を与えるだろう想い人かに叫ぶ。
ぎゅっ
そんな可哀想な、恐怖に震える少女の体を、暖かさが包み込む。
想い人たる少年が、予期していたものと正反対のもので自分を包み込んでいる。助けて、守ってくれている。
「大丈夫。怖くないから」
そう言って、優しく抱きしめて、頭をなでてくれる。
(‥‥‥ああ)
無茶苦茶に振幅する自分の心が、今何を思っているのかヘカテーにはもうわからなかった。
全てを観念したかのような、この少年に与えられる全てを受け入れたいかのような気持ちで少年に目を向ける。
真っ直ぐに、自分を見つめてくる。
そこに、冷たさの欠片も感じない。
悪い予感は、しない。
悠二の唇が動く。
ついに"期待"が、恐怖を超える。
(何を言って"くれる"の?)
突然、気配が現れる。
万が一に備えて張り続けていた封絶に、巨大な気配が現れる。
それは凄まじい速さでこちらに迫ってくる。
速い、というより、"大きい"、気配の範囲、すなわち体の面積が大きい。
「なっ!?」
「む」
「敵接近!」
「‥‥‥‥え?」
ヴィルヘルミナやシャナは、その気配に即座に反応する。悠二も、ヘカテーの事を気にしながらも構える。
ヘカテー一人が、そんな現れた気配にすら気付かず、『期待』に胸を一杯にしていたヘカテーだけが周りの突然の挙動に間抜けな声を出す。
ふらっと目をやれば、海面から伸びる巨大なハ本の足。
悠二は、あれに構えるために、今、『吸血鬼(ブルートザオガー)』を手にしている。
あれが、自分の、大切すぎる瞬間を台無しにした。
頭が焼け付くように熱く、同時に凍り付くように冷たい。
かつて、ヴィルヘルミナ・カルメルが悠二と戦い、悠二を串刺しの血まみれにした時以来だ。
これほどの怒りを覚えるのは。
(よくも、よくもよくもよくもよくも!!)
ここに、水色の破壊神が誕生した。
「きゃっ!!」
巨大な蛸の足が悠二を、、ヴィルヘルミナを襲う。
しかし、その足が起こす波によって衝撃を受ける船、今叫び声をあげた平井ゆかりが一番危険だ。
(時間をかけてられないか)
何故、封絶、つまりフレイムヘイズがいる可能性の高いここにこの徒が入ってきたのかわからないが、そんな事より今はどうこいつを倒すかだ。
平井の持つ白い羽根。そのうちの一つの効力に封絶の中で動けるというものがあるが、これは、通常なら封絶の中で静止し、破壊されたものは、あとから修復できるが、静止しないものは修復できないという性質に則って、平井がもし封絶の中で怪我したり、死んだりすればなおせない事も指す。
しかも海の上、逃げ場なし。
早めに勝負をつけたいが‥‥‥
「はあっ!」
悠二は銀の炎弾を放つが、それは海中にいる徒の本体には当然届かず、海面に当たって水蒸気爆発を起こす。
船の上から紅蓮の大太刀を放つシャナも同様のようだ。
というか、船に注意を引き付けるような真似はむしろやめてほしい。
ヴィルヘルミナも、炎を多用しないが、元々単純な破壊は不得手である。
そして、おそらく一度でも海中に引きずり込まれればまず助からないだろう。
気配も相当にでかい。
以前聞いていた、海洋上で人を襲う徒、『海魔(クラーケン)』というやつだ。
近年ではほとんど見なくなったと聞いていたのだが‥‥‥
ともあれ、"自分達"に出来るのは、海面から飛び出して、まるで"捕食"するかのように襲ってくる、海色の炎を沸き上がらせる蛸の足を攻撃する事くらいだ。
そこで、"自分達"に含まれない一人が遅蒔きながら飛んでくる。
そう、炎でなく光弾を得意とし、海という環境を苦にしない。さらにこの中でフィレスを除けば最も空中飛行が速い少女。
そう、ヘカテーならこの徒に対抗でき‥‥‥
「絶対に、許さない!」
怖い。
(ヴィルヘルミナ)
自分を庇ってくれた友達。
(ヨーハン)
本当に、今、自分を探して旅をしているのだろうか?
「‥‥‥‥‥‥」
ヨーハンに会いたい。
今すぐ、『零時迷子』を開けて、ヨーハンを救い出したい。
ヴィルヘルミナが、"騙されていてほしい"。
もしそうなら、今すぐヨーハンに手が届く。
"でも"‥‥‥
思うのは、友達と、もう一人。
"頂の座"ヘカテー。
「‥‥‥‥‥‥」
そんな、事実としてはあまりに無意味な葛藤を続けるフィレス。
その"分け身"の一つに‥‥‥
(!)
気配察知が当たる感覚。
すぐさま、"その先"で"ここにある物"とは別に、『傀儡』を実体化させる。
(ヨーハン)
そして、ほんのわずかな希望をかけて、『傀儡』を気配察知に向かわせる。
そして‥‥‥
(あとがき)
本当なら今回で『海魔』戦終わらせるつもりだったのに、水虫に妙なスイッチが入ってしまいました。
次話、『海魔』の名前と決着といきます。