「‥‥‥‥‥‥‥」
ベッドにもたれかかり、封絶も張らずに、両手の間で自在式を遊ばせる。
ふと、視線が机の上に行く。
水色の、小さな小鳥のぬいぐるみ。
少年は、僅かにその目に怒りを宿し、また次の瞬間には、悲しみに染まる。
視線を外して、また自在式を見つめる。
その胸中は、知れない。
「おっはよー!」
"表面上"はいつも通りの明るい声で、一人の少女が教室に入ってくる。
「お、おはよ」
"普通のクラスメイト達"には、元気そのものの少女・平井の挨拶だが、親しい友人の一人である緒方真竹には、それが表面上のものである事がわかる。
少し、ぎこちない挨拶を返してしまう。
「おはよう」
一緒に教室に入ってくる坂井悠二も、平井ほど上手くはないが、内心を面には出さない。
が、わかる。
二人が、自分の机にカバンを置きに行く。
「‥‥やっぱり、無理してるよね」
横にいる佐藤と田中に、答えを求めていない問いを投げ掛ける。
「‥‥ああ」
「そう、だな」
当然のように不分明な答えが返ってくる。
この二人は、緒方より悠二や平井の"事情"をよく知っている分、悠二達の辛さを理解出来る。
もちろん、自分達も辛い。クラスメイト達にも、愛らしい少女の喪失は堪えている。だが、あの二人の辛さは、おそらく自分達の比ではない。
「おはようございます」
今度は、吉田一美。こちらも、最近では地が出る事がほとんどない。昔のようにおとなしい女子生徒に見える。そのせいで、吉田の場合は全クラスメイトに悟られている。
「もう随分経つけど、やっぱりまだ‥‥ダメみたいだな」
そんな様子を見ていた池が、緒方達三人の会話に混ざる。
「無理、ないだろ」
また、どうしようもない現状に、佐藤が呟く。
その場にいた四人が、会話の流れから、誰ともなく視線を流した先に、シャナ・サントメール。
黙って、窓の外を眺めている。
この少女の心中は、誰にもわかっていない。見てわかる変化は、口数が前より減った"だけ"。
何を思っているのか、見当がつかない。
「はぁ」
緒方真竹が、何とも言えない寂しさを感じて、溜め息をこぼす。
近衛史菜、いや、"頂の座"ヘカテーがこの街から姿を消してから、一ヶ月が経っていた。
「っああああ!!」
「っだあ!」
夜の鍛練。平井とシャナが実戦を考慮に入れた立ち合いをする中、ヴィルヘルミナはそれを眺める。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ヴィルヘルミナやメリヒム。そして他者の感情を読み取る事に疎いシャナでさえ、平井の胸中をはっきりわかっているのは、この鍛練の事が大きい。
普段の態度は、前とそんなに変わりないが、鍛練の時は人が変わったように一心不乱になる。
「‥‥まるで、憑き物でもついたようだな」
傍らで、壁にもたれていたメリヒムが、平井のそんな様子をそう評する。
「‥‥坂井悠二は?」
「今日も、自宅で自在式の構築を繰り返しているそうであります。零時直前にはこちらに着くから気にしないでいい、との事」
そう、悠二の方は平井のように鍛練に入れ込んでいるわけではなく、ただぼんやりと自在式をいじる事が多くなった。少なくとも、周りにはそう見えた。
平井が何を考えているかは、想像にかたくない。
しかし、悠二は、大切なものを失い、空っぽの虚脱状態にあるように見えた。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ヴィルヘルミナは、実の所、消えたヘカテーを探しだす手掛かりを知っていた。
あの時、『革正団(レボルシオン)』との戦いに介入してきた『仮装舞踏会(バル・マスケ)』。
ヘカテーが『星黎殿』に帰った事は容易に想像出来た。
そして‥‥
『俺の"天道宮"と奴らの"星黎殿"は、迂闊に近づけちゃいけねえ』
『星黎殿』を見つける手段を、ヴィルヘルミナは知っていた。
しかし、
(‥‥話す、べきでありましょうか)
この世で最大級の徒の大集団・『仮装舞踏会』。
そんな連中に攻撃する。大規模な『戦争』の引き金を引く事になりかねない。
あの少女が、何を想ってこの街を去ったのかはわからない。
だが、あれほど坂井悠二に恋慕の情を寄せていた少女が、一人で街を去る。
本人の願いにそぐわぬ行動である事は明白だった。
だが、それでも、『仮装舞踏会』に干渉するのは危険に過ぎた。
情に厚い、しかしフレイムヘイズであるヴィルヘルミナは、苦しむ二人に、結局何一つ出来ず、自身も苦しんでいた。
そうでなくとも、あの無垢な少女は、自分にもよく懐いていたのだ。
‥‥悲しみが、胸に満ちる。
「っふ!」
右手に短い木の枝を持ち、向かってくる少女に、刺突を繰り出す。
(わからない)
それを、首を横に逸らして、目の前の少女・平井ゆかりは躱す。
(全然、わからない)
"頂の座"とは、特別親しかったわけではない。
いや、むしろ仲が悪い方だっただろう。
(私は‥‥何を感じてる?)
それが突然いなくなって、坂井悠二は、ふぬけてしまった。
平井ゆかりは、異常に鍛練に打ち込んでいる。
(でも‥‥何で?)
自分が、単純に"頂の座"が消えた事に辛さを感じているわけではない事に、何となく気づいていた。
(私、何に‥‥)
パァン!
「あ‥‥!」
平井の蹴りが、シャナの手にしていた木の枝を弾く。
そして、首に平井が短い木の枝を突き付ける。
「はあっ、はあっ、初めて、一本とった」
「‥‥‥‥‥‥‥」
迂闊。全くの迂闊。
そんな自分を恥じる。
(何で‥‥こんな気持ちになるの‥‥‥?)
「‥‥‥‥‥‥」
ヘカテーが消えてから、迷走にあるシャナを見守るメリヒム。
シャナが悠二に好意を抱いているかも知れないと考えた時、メリヒムやヴィルヘルミナが反対したのは、単なる親バカというだけではない。
坂井悠二には、ヘカテーという大事な少女がいた事。坂井悠二がシャナを"そういう対象"として見ていない事を知っていたからである。
娘が傷つくのは見たくなかった。
そして、ヘカテーが、大事な少女がいなくなった後の坂井悠二を見続けた愛娘の結果が‥‥
『これ』である。
坂井悠二がヘカテーをどれだけ大切にしていたか、大切にしているかを明確に見せ付けられ、それに抱いた、自分自身にもわからない感情に振り回される。
今のシャナの心は、あまりに不安定だった。
『あなたの愛では、私は止められない。つまり今、私は、あなたを、とうとう、ふっちゃった。ってわけ』
「‥‥‥‥‥‥‥」
想いが、別の想いに断ち切られる。
メリヒムも、ヴィルヘルミナも、その痛みを、癒えない傷を、知っていた。
「‥‥‥‥‥‥‥」
佐藤家の室内バー。常のようにワインを傾ける、一人の女傑。
『弔詞の詠み手』マージョリー・ドーである。
「‥‥‥‥‥‥‥」
『敖の立像』に消し飛ばされた彼女の右腕は、通常の怪我より幾分時間がかかったとはいえ、もう再生している(フレイムヘイズなのだから当たり前だが)。
『貴女も、私が守ります』
一人の少女が消え、坂井悠二と平井ゆかりを筆頭に、周りも少なからず変わってしまった。
(私も、かな‥‥)
変わったというより、落ち込んでいるだけか。
元々、彼女がどういうつもりで『星黎殿』を出てこの街に居着いていたのか、細かい理由は知らない。
「‥‥‥‥‥‥」
もし、"螺旋の風琴"リャナンシー、紅世の徒最高の自在師がこの街に健在なら、ヘカテーの居場所を突き止める事も出来たのかも知れない。
だが、ヘカテーがこの街から消えた時、リャナンシーも同時に姿を消している。
彼女は、何か知っていたのだろうか?
「‥‥不味いわね」
あれから、酒が全然美味しくない。
世の何処かを飛ぶ『星黎殿』。
最近、この空間は異様な静けさに包まれている。
その『星黎殿』内部の酒保で、三眼の女怪が溜め息を漏らす。
(‥‥さて、どうしたものか)
約半年の期間をかけ、『星黎殿』を飛び出した巫女・ヘカテーを見つけだしたまでは良い。
だが、そのすぐ後に『星黎殿』に戻ってきたヘカテーは、前と同じ、いや、前以上の冷たさを持って自分達の前に現れた。
何も知らずに"何か足りない"空虚感を漂わせていた以前とは違う。
"何か大切なもの"を知って、それが無い事に絶望している、冷たさ。
ヘカテーをよく理解するベルペオルでなくとも、誰でもわかるほどの冷たさを、ヘカテーはこの一ヶ月撒き散らし続けている。
以前は『星辰楼』で祈ってばかりいたヘカテーだが、今はただ、下界に下りてから私物の増えた自室に籠もりっきりである。
話を聞こうにも、「『零時迷子』のミステスは破壊し、無作為転移を起こしました」しか言わない。
あまり深く訊き続けると、まるで壊れた人形のように無表情のまま、涙を流す。
「‥‥‥はぁ」
"実質上"、ヘカテーの行動は何の役にも立っていない。
ベルペオルはヘカテーがいたあの街を調べもせずに放置するほど浅慮ではない。当然、あの街に『銀の炎を持つミステス』が今もいる事も突き止めている。
しかし、皮肉にも今のヘカテーの状態そのものが、ベルペオルを止める要因になっている。
(‥‥ミステス、か)
ヘカテーがついたわかりやすい『嘘』。裏返せば、彼女が『零時迷子』のミステスを庇っているという事だ。
ヘカテーがこの状態のまま『零時迷子』を手に入れてもしょうがない。『大命詩篇』は完成していないのだから。
むしろ、今そのミステスを破壊でもしたら、ヘカテーがどんな行動に出るかわからない。
"二週間前のような事"程度では済まないだろう。
それくらい、今のヘカテーの"危うさ"は周知の事実であった。
ヘカテーは『零時迷子』以上に重要な『大命』の要中の要。
それが今、触れたら切れそうな、触れたら壊れそうな状態にある。
迂闊に『零時迷子』に干渉など出来ようはずもない。
大体、『大命』の事など無関係に、少女の保護者としてこの状態は看過出来るものでもない。
「‥‥‥どうしよう」
世に知れ渡る鬼謀の王は、今、心底困っていた。
(あとがき)
前の話で読者減ってしまったかと不安な私。
ただでさえアニメ派な人には未体験ゾーンみたいな感じになってきてますからね。