「‥‥‥‥‥‥っ!」
見慣れた。いや、懐かしい?
とにかく、親しみ深い天井が見える。
隣に愛しい少年はいないが、庭から、親友と一緒に鍛練していると思われる声がする。
そして、庭に面した窓を開けているのか、トーストの音が聞こえたような気がする。
大好きな主婦が、朝食の支度をしている?
飛び起きるように、掛け布団をどける。
階段を駆け下りる。
夢だったのだ。
そうだ。この広い世界で自分一人を、たった半年で見つけられるはずがない。
おばさまが、微笑んでくれている。
そうだ。自分の大切な日常はここに在る。
怖い夢だった。
何もかも失って、空っぽになってしまった。
一度暖かさを知ったから、それを失う悲しみは、想像を絶するものだった。
怖い、怖い夢だった。
すぐにでも、悠二の声が聞きたい。抱きしめたい。ぬくもりを感じたい。
いた。庭で、大好きな親友と組み手をしている。
怖かった。
でも、悠二がいる。
その喜び、安堵のまま、呼び掛ける。
「悠‥‥‥!」
呼び掛けようとして、声に出して、"目が覚める"。
無駄に広い、白い部屋。大きなベッド。"思い出"の詰まったぬいぐるみが、自分の周りにいくつもある。
親しみの湧いた家も、おいしいご飯の匂いも、坂井千草の穏やかな微笑みも、平井ゆかりの明るい笑顔も‥‥大好きな悠二も、
ない。
「う‥‥うあ‥‥」
何も、無かった。
「ぅ‥‥うぁあああああ!!」
「‥‥‥‥‥‥」
『星黎殿』で最近変わった事はといえば、帰還した『巫女』の異変のみではない。
常は『星黎殿』に寄り付かず、世を放埒しながら趣味で『他の徒の護衛』の仕事をしている『将軍』"千変"シュドナイが巫女の帰還からずっと『星黎殿』に留まっているのだ。
この『将軍』は、ヘカテーを何があっても守ると決めている(そのわりに普段は『星黎殿』にも寄り付かないのだが)。そのヘカテーの、誰が見てもわかる変事に、道楽好きのシュドナイといえど放っておくわけにはいかないのだ。
といっても、いたところで何が出来るわけでもない。
というより、顔を合わせる事も禁止されている。
(‥‥‥何なんだ)
今からおよそ二週間前、『託宣』も、『訓令』も、祈る事さえせず、ただ自室で引きこもるヘカテーを心配し、シュドナイはヘカテーの部屋を訪れた。
無論、それまでもヘカテーの様子がおかしい事には皆気づいていたが、ヘカテーが何も話さないのでどうしようもなかったのだ。
だから、軽い話でも何でもいいから元気づけようと思って訪れたのだが、その軽口の中の一語、今までも何度となく使ってきた、もはや習慣のような一語に、ヘカテーは過剰反応した。
『俺のヘカテー』。
これを使った途端、部屋のドアを破壊して飛び出し、光弾を使い、ヘカテー相手に手を出せないシュドナイを、本気で"殺そうとした"。
完全に我を忘れていた。たまたま近くにいたベルペオルが止めなければ、本当に殺してしまっていただろう。
それほど危険な状態だった。シュドナイも、そしてヘカテーも。
それ以来、シュドナイはヘカテーに会う事を禁止されている。
シュドナイも同意の上だ。ヘカテーを傷つけてしまうのは彼の本意ではないし、あんな死に方もしたくない。
シュドナイは知らされていない事だが、ベルペオルが『零時迷子』への干渉を避けている要因にはこの事件のヘカテーの豹変が大きい。
「‥‥‥‥‥‥‥」
ワインを、グッと呷る。相変わらずここの酒はまずい。
(‥‥何があった?)
あの時、殺されかけたのは自分だが、ヘカテーの心を踏み躙ったのは間違いなく自分だろう。
何か、心に傷を負って帰って来たのか。
(‥‥『零時迷子』)
ヘカテーが繰り返す。「『零時迷子』のミステスは破壊した」という言葉。
『零時迷子』のミステスが、関係している?
"それ"が、ヘカテーの心に傷をつけた?
「‥‥‥‥‥あ」
ふと、力を入れすぎてしまったのか、手にしていたグラスが割れてしまった。
「もうそろそろで"停泊地帯"です」
「そうか。本当に気配の欠片も感じないね。大したものだ」
「ご無理を言ってすいません。御徒」
『星黎殿』は、世界を決められたルートで巡回し、あらかじめ決められた停泊地点で徒達は出入りする。
『星黎殿』が感知不可の異界・『秘匿の聖室(クリュプタ)』に包まれているという性質上、これは必要な措置であった。
そして今、一人の『捜索猟兵(イェーガー)』が、『星黎殿』への訪問者達を導いていた。
「世に知られた"王"である貴方が何故『星黎殿』に? 今さら『訓令』が必要なわけでもないでしょう」
袖が地に付くほどブカブカのローブに、大袋を背負ったやぶにらみの小さな子供、"蠱溺の盃(こできのはい)"ピルソインである。
これでも『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の中でも名の知れた『捜索猟兵』であり、相棒の『巡回士(ヴァンデラー)』"驀地しん"リベザルと共に上げた大功も多い。
その子供のような徒は、相棒たる『王』がいない事もあり、『星黎殿』でこの『客人』が何事か起こすのではないかという警戒を解けずにいる。
そしてそれは、当の客人にも悟られていた。
「ただの興味本位さ。少し、"きっかけ"があってね」
「きっかけ?」
どこか人を食ったような感じのする美青年、それとおそろいの白のスーツドレスを着た女性。
思った印象の通り、男ははぐらかす。
「まあ、何はともあれ心配はしなくていいよ。私はこれでも初対面の相手にはフレイムヘイズにでも礼儀を欠かした事はないつもりだからね」
「だ、大丈夫です。本当に」
二人揃って常にイチャついているのも、"三味線を引いている"ようで少し不気味だった。
何せ、彼は近代以降で五指に数えられる強大な王なのだから。
一応、もう一度念を押しておく。
「いくら貴方でも、『星黎殿』で揉め事を起こすのは危険ですよ。"狩人"フリアグネ」
「わかっているさ。それと、私を呼ぶ時は私の可愛いマリアンヌとセットにして欲しいな」
「ああ、ご主人様」
「フリアグネ様、だろ? まだ癖が抜けないんだね。私の可愛いマリアンヌ」
『星黎殿』・ヘカテーの自室。
以前ならば祈りの形をとっていたヘカテーの両手は、一つの物を大切に胸に抱いていた。
銀の珠の形を成した『大命詩篇』。しかしこれは今のヘカテーにとって、大命遂行のための物でも、『仮装舞踏会』のための物でもない。
『零時迷子』の中には、同種の『大命詩篇』が刻まれている。
つまり、"悠二とのつながり"を感じるための物だ。
もし、『零時迷子』に、それを宿した少年に何か異変があれば、この『大命詩篇』が共振によってそれを知らせてくれるかも知れない。
そして、少年の危機だとわかれば、自分が残して行った水色の小鳥のぬいぐるみ、それに刻んだ自在式を使って駆け付ける。
あれは、こちらが使う『転移』の目印の自在式なのだ。
(そうすれば‥‥)
「っ!」
刹那、自分の脳裏に浮かんだ思考に、愕然となる。
だけでなく、猛烈な自己嫌悪に襲われる。
(今‥‥私‥‥?)
"悠二に何か異変があれば会いに行ける"。
自分が少年に会いたいがために、少年の危機を、ほんの一瞬だが願ってしまった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
自分で、自分に思い知らされたような気がした。
『大命詩篇』も『零時迷子』も関係ない。
自分のために悠二の危機を願ってしまうような自分には、元々悠二の隣に在る資格など、ない。
ぎゅっ
「‥‥‥‥‥‥‥」
もう、考えるのはやめよう。
『これ』で悠二を感じる。悠二の危機には駆け付ける。
自分は遠くで悠二を想い、自分の全てで悠二を守る。
人も喰らわない。約束したからだ。
そうして、いつか‥‥‥‥
「"消えられる"、か?」
「!」
いつの間にか、部屋の隅に、一人の少女がたたずんでいた。
紫のベリーショートの髪、薄い布を纏った細い体躯。
『敖の立像』の中で、自分とベルペオルとの会話を聞いていた"螺旋の風琴"リャナンシーである。
自分が御崎市を出る時に一緒に『星黎殿』にもついて来たのだ。
だが‥‥
「入室を許可した覚えはありません」
誰にも、会いたくない。
「‥‥少し、私の話をしようか」
リャナンシーは構わずに続けてくる。
無理矢理に追い出そうかという考えが頭を支配しそうになり、すぐに自制する。
いつかの"千変"の事もある。実力行使に出た時、自分を抑えられる自信が無かった。
「一人の、優しい青年がいた。一人の馬鹿な小娘がいた。小娘の起こす不思議を、青年はいつも喜んで見ていた」
リャナンシーは"私の話"と言っているのに、何故か"自分が"『馬鹿な小娘』だと言われているような気がした。
「しかし、青年は、小娘の起こす不思議が、人を喰らって起こすものだと知った時、泣いて小娘を怒鳴りつけた」
脳裏に浮かぶ。悠二が、自分のとった行動に怒っている姿が浮かぶ。
「小娘は逃げ出した。怒り、泣いた青年が怖くて、青年を傷つけた自分が怖くて。"いじけて"逃げ出した」
逃げた? 違う。自分は逃げたのではない。悠二を、守るために‥‥
「結局、小娘はいじけて逃げたまま、青年は老いて死んでしまった。後になって自分の愚かさに気づいた小娘は、心に癒えない傷を負った」
もう嫌だ。そんな話、聞きたくない!
「今の君は、逃げているだけではないのか? 君が、結果的に坂井悠二を傷つける事を恐れて、"自分が恐いから"逃げ出しただけではないか?」
違う。と叫ぼうとして、しかし、声にはならない。
悠二を失う事。自分が原因で悠二を失う事。悠二を傷つける事。
そう、恐いのだ。目の前の少女が言う通り、恐いのだ。
逃げ出した。そうかも知れない。
だけど‥‥‥
「‥‥‥悠二が、死んだら‥‥‥‥」
逃げたと思うなら、そう思えばいい。
臆病者だと罵られても仕方ない。
自分はいくら傷だらけになろうと構わない。
自分には、悠二の隣に在る資格はない。
遠くで想っていられればいい。
ただ、悠二が生きて、笑っていてくれればいい。
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
リャナンシーの言葉も、ヘカテーを動かす事は、出来なかった。