「今回の事がなければ、話すつもりはなかった。だが、ちゃんと"話せる男"になってるように見えたんでな」
井上原田鉄橋の中央、一人の少年と一人の男、坂井悠二、そして坂井貫太郎である。
「そりゃ‥‥どうも」
父からの言葉に、悠二の照れ笑いに僅か、涙と誇らしさが混じる。
"この事"を父が自分に話した。そうさせた自分の変化が、"存在の力を繰れるようになった事"が原因なのか、それとも、"それ以外の事"が原因なのかはわからない。
ただ、自分が父にそう思わせるようになった事は、素直に嬉しい。
「‥‥‥ヘカテーさん、いなくなったんだって?」
「‥‥‥うん」
(僕が抱えてる秘密は、話して理解してもらえるような事じゃない)
「‥‥どうするんだ?」
「‥‥‥‥‥‥‥」
(でも、信じてもらえなくてもいい。聞いてもらうだけでもいい)
「父さん」
「ん?」
(父さんが、話してくれたように‥‥‥)
「‥‥いつか、"全部"話すよ」
それは、今から、十日前の出来事。
「‥‥‥‥‥‥‥」
早朝の肌寒い外気を感じながら、坂井悠二は真南川の河川敷を歩く。
元々、急用で帰って来ていただけの坂井貫太郎は、またすぐに出掛けてしまった。
ここ最近、一つの事に固執して取り組んでいたからか、こんな気分で外を歩くのが久しぶりな気がする。
「散歩?」
「そんなところ、かな」
そうして歩くうちに、いつかと同じ川沿いの石段に、平井ゆかりを見つける。
「鍛練は?」
「ん、今日は休み」
なら、何故こんな朝早くにこんな所にいるのかと思い、お互い様か、とも思った。
しかし‥‥
「あ‥‥‥」
すぐに、その理由に気づいた。
ここはいつか平井が言っていた、平井の好きな景色を眺められる場所。
あの時、平井が言っていた夕焼けではない。しかし真南川の水面に、冬の早朝だからかまだ空に輝く星が映り、幻想的で美しい眺めが広がっていた。
「この景色、好きだから」
いつかと同じ言葉でまた平井は言う。
「‥‥‥‥‥‥」
そのまましばらく、二人共、言葉は交わさずに、じっとその景色を眺める。
空が白み始めてから、平井がスッと立ち上がる。軽快な足取りで階段を上る。
悠二も、それを追う。
また二人黙って、河川敷を歩く。
しかし、今度の沈黙は短い。
静かな雰囲気はそのままに、平井が口を開く。
「"出来た"?」
「うん」
迷い無く返す。返せる事が嬉しかった。
「私も‥‥強くなったよ。試す?」
「いや‥‥"わかる"」
「‥‥‥‥‥‥」
可笑しそうに言う悠二に、平井は少しだけ不安を感じる。
「"今の"坂井君は‥‥」
感じて、しかしそれは杞憂だった。
「大丈夫」
平井が、言いたくなくても言おうとする言葉を、悠二が制する。
その言葉を自分が受けたくないからではない。平井が言いたくないだろう厳しい言葉を言わせないためだ。
いい機会だから、自分の『決意表明』も聞いてもらいたかった。
「僕は‥‥トーチで、ミステスで、"銀の炎"、ヨーハンまで中にいたりもした」
平井も、黙って聞いてくれている。
「極めつけが、"これ"だ」
自身に取り巻く無数の不可解に、もはや恐怖も戸惑いも感じない。
「今まで、わけがわからない自分に悩みながら、戦ってきた」
でも‥‥
「‥‥それは、関係なかったんだ」
意識して決めた決意ではない。いつの間にか、自分の中に出来ていた。
気づかぬうちに成っていた覚悟。
『‥‥ホントはね。ずっと、一緒にいたかったんだ。徒とか、人間とか関係なく、皆一緒に‥‥‥』
あるいは、目の前の少女が教えてくれたのかも知れない。
「"自分が何者だろうと関係ない"。ただ、やる。それだけの事なんだ」
「!」
平井はその、悠二が静かに告げた覚悟に、"圧倒される"。
圧倒された自分を感じて、
(‥‥うん)
満足する。
こうでなくては、自分を預けられない。
「坂井君」
「わっ!?」
呼び掛け、振り向いた悠二に、平井が大きく一歩近寄っていた。
突然胸元へと迫られて、悠二は立ち止まる。
互いに胸を合わせるほどに近く向き合い。
二人共、何も言わない。いや、悠二は言えない。
今までの平井と、何処か違う。
"親友であるという以上"の『近さ』を、今の平井から感じる。
それは、自分の全てに近寄って来ても構わない。そんな『近さ』。
(あっ‥‥‥‥‥)
"壊刃"との戦いの後、瀕死の平井と共にいた、あの時。
今の平井が、あの時と同じ空気を纏っていると悟る。
悠二がそれに気づいたと判断すると、平井は目を閉じる。あごを上げる。
そして、かかとを浮かせて背伸びする。
「んっ‥‥‥」
悠二の唇に、自分の唇を重ねる。
「‥‥‥‥‥っ!?」
ようやく事態を把握した悠二が驚くと同時、ぴょんと悠二の胸元から逃げてみる。
「なっ、なな‥‥ななななななっ!?」
完全に動転している悠二に、今度は平井が、『決意表明』する。
曇り一つない、直視するにはあまりに眩しすぎる笑顔を輝かせて。
「"ずっと一緒にいるからね"!」
今までで一番綺麗な笑顔で、言い放つ。
「いや、あの、だから、ヘカテーがその、じゃなくて平井さんが僕、えぇっ!?」
さっきまでの貫禄はどこにいったのか、大げさに騒ぐ悠二に、
「わかってるよ。そんな事」
と告げる。
その言葉で当面の問題を直視出来たのか、悠二も少し正気に戻る。
「え‥‥なら、どういう‥‥‥?」
平井が、"ヘカテーの事"をわかっているなら、さっきの言葉の真意が掴めない。
「それでもいいの。ずっと、一緒にいる」
「けっ、けどそれは‥‥‥‥」
「『拒否権』。あると思ってる?」
無い。平井を人間でない存在ほと変えたのは他でもない自分だ。
平井の人生の責任は、自分が負うしかない。
拒否権など確かにないが、平井が"そういう事"ならまずいのではなかろうか。
意地悪な笑顔を作る平井に、反論しようとするが、いい言葉が出てこない。
「いいの。それで‥‥」
その言葉に含まれた、自分だから気づけるほんの僅かな不安に、悠二は全てを理解する。
確かに平井は悠二がいなければ力を回復は出来ない。
だが、平井の持つ存在の力は相当に多い。
メリヒムの前例が示すように、自在法などな余計な力を使わずに生きれば、人の一生分くらいなら軽く生きられる。
無論、人間に戻る事など出来ないが、“そういう選択肢”もあるのだ。
それでも、悠二と共に在る。
これは、平井の『甘え』なのだ。
"ヘカテーの事"があるのに、平井の気持ちを知った上で平井と共に在る。
それは『自分の甘え』だと悠二は無意識に考えていた。
しかし、それだけではない。"ヘカテーの事"を知った上でそう言う、『平井の甘え』でもあるのだ。
そう気づいた時、
「‥‥‥ぷっ」
何故か、笑いたくなった。
何故か、平井も笑う。
「プッ、クク、ハハハハハハ!!」
「ハハッ、アハハハハハハハ!!」
どこまでも明るく、大声で、二人はしばらく笑い続けた。
しばらくして、ようやく笑いが治まって、悠二が口を開く。
「いいの?」
自分が、平井が、甘えていいのか、訊く。
「『自分が何者だろうと、ただやる』だけだよ?」
平井は悠二の言葉を真似て、また悪戯っぽく笑う。
「‥‥‥‥‥‥‥」
「ごめん」は言わない、だから‥‥‥
「よろしく」
「こちらこそ♪」
パンッ!
手と、手が、音を立てて叩かれた。
夜遅く、坂井悠二は目覚める。
「‥‥‥‥‥‥‥」
馴れ親しんだ家、かけがえのない日々が、想起させられる。
寝る前に、荷物はすでに『収納』している。あとは、行くだけ。
(‥‥ごめん。母さん)
"こんな時に"行く自分。父が家を空けがちな坂井家。親不孝の言葉が、重たかった。
「‥‥‥‥‥‥‥」
全部わかって、それでも‥‥
(‥‥ごめん)
階段を、音を立てないようにゆっくりと下りる。
自分の家を、あえて見回さずに、真っ直ぐに玄関に向かう。
これが最後だと考えないための、無意識の行動だったのかも知れない。
「悠二」
「っ!」
伏せて靴を履く背中に、声が掛けられる。
聞き間違えようのない、声が。
「‥‥母、さん」
何故、こんな時間に起きているのだろうか?
何も言わずに行くつもりだった。帰ってから、全て話そうと。
旅立ちが、辛くなるから。
そんな悠二の戸惑いを察して、坂井千草は穏やかに言う。
「行くのね?」
何も話していないのに、何故わかるのだろうか。
「‥‥‥うん」
本当に、何も知らなくても何でもお見通し。
不思議な母だと思う。
そんな坂井千草は、これだけは聞かなければならない問いを、息子に投げ掛ける。
「ヘカテーちゃん?」
「‥‥うん」
この問いは、予想していた。
「そう‥‥」
それきり、黙る。何も訊いてこない。
「何も、訊かないの?」
沈黙に耐えられずに自分から訊く悠二に、千草はなおも穏やかに応える。
「訊いたら、答える?」
「‥‥‥‥‥‥」
答えられない。
「いつでも帰って来なさい。今度はヘカテーちゃんも一緒にね」
千草が、後ろから柔らかく抱き締めて、そう言う。
「う、ん‥‥」
泣いてしまわないように、歯を食い縛ってそう応える。
立ち上がり、正面から向き合う。
「うん。男の顔になったわ」
そんな事を言いながら微笑む母に、悠二も微笑み返す。
心配いらない。そう伝えるように、力強く、
「いってきます」
旅立つ。
「‥‥‥‥‥‥‥」
息子の旅立ちに、自分以外誰もいなくなった家に、坂井千草は寂しそうに溜め息を漏らす。
しかし、一人ではなかった事に気づいて、自らのお腹を優しく撫でる。
「お兄ちゃんとお姉ちゃんが帰ってくるまで、いい子で待ってましょうね?」
「‥‥‥‥‥‥‥」
御崎大橋の首塔の上で、一枚の写真を見つめる。
小さい自分が中心にいる写真。しかし、やけに遠くから撮られている。
おそらく、この写真には本来、"自分の両親も写っていたのだろう"。
今や、顔すら"思い出す"事が出来ない両親。
だが、きっと自分を大切に育ててくれた両親。
そう信じる事しか出来ないが、それでも‥‥
(ありがとう)
「‥‥待った?」
そんな平井ゆかりに、やってきた坂井悠二が言う。
「少し待つくらいの方がちょうどいいでしょ?」
「かもね」
二人、生まれ育った街を眺める。
故郷を、友達達を、共に戦ってきた仲間達を、想う。
次に帰ってくる時は、きっと‥‥‥
「よし、行こうか」
「了解!」
坂井悠二と平井ゆかり、二人のミステスがこの日、御崎市から姿を消した。