『仮装舞踏会(バル・マスケ)』の掲げる『大命』。
掲げると言っても、『仮装舞踏会』の中にはその言葉を聞いた事もない者も多数いるものの、それは数千年も前からの彼らの目標だった。
その『大命』の第一段階こそ、数千年前にこの世と紅世の狭間に放逐された“『仮装舞踏会』の『盟主』”・“祭礼の蛇”の『代行体』を作り出す事だ。
『暴君』による『鏡像転移』を用いて、人間のあらゆる感情を採取し、『盟主』が彼方、『久遠の陥穽』から『代行体』を思う儘に操るための『仮装意思総体』を作り出す。
そして、『大命』の中途で必要であると目された『零時迷子』に、“壊刃”サブラクの力を借りて、そのための『大命詩篇』を打ち込んだ。
その際、肝心の『零時迷子』を手に入れる事は叶わなかったが、『零時迷子』への『大命詩篇』の打ち込みは完了したのだ。
だが、まだ『大命詩篇』は完成したわけではない。今まで打ち込んだ式の全てを繋げる、一番重要な『大命詩篇』はまだ未完成、今のままでは『代行体』として機能するはずがない。
「ぐっ、ああっ!」
黒い炎に焼かれ、悶え苦しむ。
(馬鹿な! いくら『零時迷子』を蔵していたとしても、まだ『大命詩篇』は完成していないはず‥‥‥)
いや、完成していたとしてもおかしい。目の前の少年は『盟主』ではない。
『創造神』の持つ唯一無二の黒の炎を操り、その諧謔の風韻にも覚えはある。
だが、今までのやり取り、『盟主』本人にしてはあまりに不自然な点が多すぎる。
「立て。この程度で満足するお前でもあるまい?」
姿や炎のみではない。雰囲気や話し方も、先ほどまでとは違う。
この少年は、一体‥‥‥‥
「来ぬなら、また余から行くぞ」
「っ!」
「はっ、はっ、はっ!」
走る。ヘカテーは『星黎殿』の中を走る。飛ぶ。
今までずっと悩んでいた事。御崎市を去った決意。今の自分の行動。
考えるべき事も、今の自分の矛盾もあるはずなのに、それらは頭の中で無茶苦茶に乱れて、思考になる前に掻き消える。
それなのに、体は一切迷いなく動く。
大きな戦いの気配と轟音の渦巻く五廊式の大伽藍を目指して、まるできつく縛られた紐で引っ張られているかのように、体は“そこ”を目指す。
「‥‥‥まったく、せっかちだねぇ」
ヘカテーの自室の前、ベルペオルは見事に置いてきぼりにされていた。
いや、置いて行かれたのはどちらなのか。
「‥‥‥‥‥‥」
ベルペオルの左前、ヘカテーが開いた扉に隠れた死角に、銀の霞の渦巻く漆黒の穴。
『星黎殿』内部を自在に行き来出来る通路・『銀沙回廊』である。当たり前だが、ヘカテーもこれの存在は知っているはずなのだが、完全に『侵入者』の事しか頭にないという事だろうか。
(まったく、ままならないねぇ)
久しぶりに、この常套句を使う。さっきのヘカテーを見て、それだけでそれほどの余裕を得た自分を自覚して、薄い笑みが零れる。
「これを使えばすぐに着くのにねぇ」
さて、せっかちな姫君より先に、『侵入者』の下に行く事にしよう。
ヘカテーが着く前に取り返しのつかない事になっていなければいいのだが。
「ッゴォアー!!」
先制される前に慌てて虎の口から放たれた炎弾を、少年がタンッと跳んで躱す。
ドォオオン!!
紫の爆炎の熱が吹き荒れるのにもまるで気にした様子もなく、得体の知れない少年・坂井悠二は着地する。
「ヘカテーはどこだ?」
決定的な質問と同時に、少年がコツッと、自らの黒い炎が生み出す銀色の影を靴で軽く叩く。
「っ!」
途端、銀影が広がり、そこから鎧の破片や歯車、発条やクランクなどをグシャグシャに混ぜた銀色の濁流が湧き上がり、シュドナイに迫る。
それは見る間にまた形を変え、無数の銀の板金鎧と化す。
「ッオオオオオ!!」
再び、無数に分裂し、巨大化させた『神鉄如意』が銀の鎧達を薙ぎ払う。
先ほど容易く曲がった物と同じ物とは思えない威力が、剛槍に宿っている。
(‥‥もう一度、試すか?)
まだ残る“銀”を無視して、再び坂井悠二に剛槍を向けようかと考えるシュドナイの眼に‥‥
「っ!」
黒の自在式を絡めた左腕をこちらに向ける坂井悠二。
「喰らえ」
その左掌から、先ほど同様に炎の蛇が放たれる。
悠二の『蛇紋(セルペンス)』。
だが、今までと二つ違う事がある。
一つは色、そしてもう一つは数。
八岐の黒炎蛇。
「くっ、おおお!?」
八匹の黒炎の大蛇の猛攻に、シュドナイが跳び退く。
「っふん!」
迫りくるうちの一匹の頭を、『神鉄如意』で串刺しにし、さらにそのまま横薙ぎにもう一匹の首を落とす。
しかし‥‥
(速っ‥‥、多すぎる!!)
対処しきれずに後方に逃げる。先ほど斬り、貫いた二匹の蛇も、すぐに元の形に戻っている。“炎”なのだから、当然なのか?
「まとめて‥‥消えろ!」
『神鉄如意』を巨大化、分裂させる。紫の豪炎を伴った千の刺突、“千変”シュドナイ、全身全霊の一撃。
「ッゴァアアアア!!」
それらが、
「爆ぜろ」
たった八匹の黒炎の大蛇に、うち破られていた。
「ぐっ、あああぁ!」
シュドナイの一撃をうち破った黒炎の余波が、シュドナイ自身の体をも焼く。
「見事だ。“千変”シュドナイ」
誰の目にも勝敗の喫したこの場で、『仮装舞踏会』の構成員の誰もが信じられない光景、『将軍・“千変”シュドナイの敗北』に言葉を出せぬ中、少年・坂井悠二がシュドナイの見せた実力を、燃え立つような喜悦を面に表して称揚する。
(どういう、事だ?)
『銀沙回廊』で遅れて現れた“逆理の裁者”ベルペオルは、目の前の光景が信じられずにいた。
ミステスを殺してしまわないよう『将軍』を止めるつもりだった。
だが、目の前の光景は全くの逆。
何より信じがたいのは、この場に燃える黒い炎。
ベルペオル同様に遅れて現れた“螺旋の風琴”リャナンシーも、その表情に驚愕を表す。
この場で驚いていないのは四人、リャナンシー同様遅れて現れた“狩人”フリアグネとその恋人マリアンヌ。当人たるミステス・坂井悠二。
そして、
「お疲れさま」
もう一人のミステス、悠二のパートナーとして『星黎殿』に攻め入った平井ゆかりだった。
その労いの言葉に、悠二も柔らかく微笑んで返す。
「まあ、ここからがまた大変かも知れないけどね」
前髪から覗く、安心する黒の瞳、平井はこの眼も好きだった。
「うん。やっぱり悠二は前髪ある方がいいよ」
以前、フリアグネと対峙した時と今の悠二の姿の違いは髪型の僅かな変化だけである。
以前はオールバックのようになっていた髪を下ろして部分長髪のロングのようになっていた(後頭のそれは中途から竜尾となっているが)。
平井の要望である。
「そりゃ、どうも」
照れくさそうに頬をかいてそう返す悠二。
口調の変化も、ある程度直せてはきている。
「よし!」
平井が拳をグッと顔の前で握り、周囲の徒達の方を向く。
「ヘカテーがどこにいるか、教えて。“一騎打ちに負けたんだから”」
敵から望んだ一騎打ちに勝利した事を活かせるか、“一応”試そうとする平井を、悠二が制する。
「ゆかり、いいよ。“もう来た”」
裂かれた天井に飛び込む。
瓦礫を吹き飛ばして急ぐ。
「っ!」
いた。
燃え盛る黒い炎。周りの徒達。倒れ伏す『将軍』。
それら全てが目には入っても頭には入ってこない。
緋色の凱甲と衣、漆黒の竜尾。
明らかに以前とは違う姿であっても、間違えるはずなどない。
坂井悠二。愛しい、少年。
親友の、平井ゆかりも。
(‥‥悠二!)
ヘカテー自身、まるで予想していなかった。
「悠、二‥‥」
あれほどに固めた、悠二を傷つけないための、危険に晒さないための覚悟が、悠二を目にした瞬間に、ただ『傍にいたい気持ち』に負けていた。
打ち砕かれていた。
「う、えぐ‥‥‥」
自分が悠二を傷つけてしまう恐怖を、自分がひたすら少年を想う恋心が、完全に超えた。
「う‥‥ひっく‥‥」
もう、危険でも怖くても構わない。何があっても、離れない。きっと、“それだけの事なのだ”。
「悠二!!」
想いのまま飛びつこうとしたヘカテー。
だが‥‥
パァン!
「‥‥‥‥‥‥‥」
誰もが、沈黙する。言葉が出ない。
悠二が、ヘカテーの頬を、思い切りひっぱたいていた。
自分の頬を押さえて呆ける、馬鹿な、馬鹿な少女を、悠二は今度こそ抱き締める。
強く、強く。
「馬鹿‥‥‥」
その想いのまま、一言だけ呟いた。
「う‥うぁああ‥‥‥」
ヘカテーの頬を、涙がぼろぼろと伝う。
痛みではない。悲しさでもない。不思議な暖かさと熱さで胸がいっぱいになって、ヘカテーは泣いていた。
「うぇえ‥‥うわぁああん!!」
今こそ、ヘカテーは理解する。自分が悠二を傷つけまいととった行動が、悠二をこれ以上なく傷つけてしまったのだと。
自分は、こんな所に迎えに来てもらえるほど想われているのだと。
「‥‥ご、ごめ‥‥なさ‥う‥‥うわぁああん!」
謝罪の言葉さえ、まともに言えないほどにヘカテーは泣きじゃくる。
霧のように、いつとも知れず元の姿に戻った悠二は何も言わず、ただ黙って、ヘカテーの背中をポンポンとたたき、頭を撫で、抱き締め続けた。
その、“余人を寄せ付けない”二人の様に固まっていた周囲の構成員達が、はっと、巫女に手を上げた大罪人を許すまじと動こうとして‥‥
ガンッ!!
重い音に止められる。それは他でもない。“千変”シュドナイが地に叩きつけた槍の石突きの音だった。
「お前達、いい」
「し、しかし‥‥」
「いいんだ」
尚も抗議しようとする徒に、言わせず、黙らせた。
余人を寄せ付けない二人に、しかし一人だけ介入する。
平井ゆかりである。
「こら」
悠二と抱きしめあうヘカテーのほっぺたをぎゅうっとつねる。
「お姉さんにも言う事あるんじゃないの?」
その言葉に、一秒ほどまじまじと平井を見つめたヘカテーは‥‥
「うわぁああん!」
また泣きじゃくって、今度は平井に抱きついた。
「フリアグネ様」
「ああ、マリアンヌ」
“同じ恋人達”として満足のいく結果を見られたフリアグネとマリアンヌは微笑みあう。
「ふ‥‥‥」
“螺旋の風琴”リャナンシーも、少女の得た結末に、柔らかく微笑んだ。
「ままならぬ、が‥‥」
そして、“逆理の裁者”ベルペオルも、
「悪くはないね」
柔らかい溜め息を吐いた。
「ヘカテー」
また悠二に抱きついていたヘカテーに、悠二は穏やかに話し掛ける。
余計な言葉はいらない。
こちらに向ける少女の涙に濡れた瞳を、ただじっと見つめる。
「‥‥‥あ」
想いを受けて、ヘカテーは理解させられる。
自身知らず、あごが上に上がる。
近づいてくる悠二の顔、瞳、唇。
「んむ‥‥‥」
合わせられた唇。誓い。
今度の誓いは、あんな悲しいものではない。
かつてのそれとはまるで違う。
信じられないほどの心地好さ。熱さ、暖かさ。
今、ヘカテーは世界一幸せな自分を、はっきりと感じていた。