大公として政務を執るオレの日常は忙しくなるばかりである。ちっとは君主らしい優雅なひとときにひたらせろってーの! 「構いませんが………二年後泣きを見ても知りませんよ?」 このまま経済が成長せずに二年後、オスマンへの貢納金を支払うようになれば経済破綻は必至だ。軍隊ってなんでこんなに金がかかるんだよ!LOVE&PIECEじゃいかんのか? 「なぜ大公殿下が英語をご存知なのかは知りませんが………はっきりと妄想です」 そうなんだよな………この世の中じゃ平和主義なんて……銅貨一枚の価値もない………。 戸籍の再調査に加え農民たちに対しノーフォーク農法を定着させるために人民大臣として南部貴族の中からボッシュ伯爵を起用することにした。何でもオレがやってたらいい加減死んでしまうからな。ちょっとはオレの苦労をわかりやがれ! 「かかる栄誉を賜るとは、このボッシュ伯カンブール身命を賭して勤めさせていただきます」 うん、別に命までかける必要はないが頑張ってくれ。 戦乱の時代だけあって逃散する民もいれば他国から流入する民もいる。人口はなんといっても国力の目安である。一刻も早く正確な数字を把握する必要がある。それと未だに原始的な二圃制(畑を二分割して片方を地味回復のために休耕する農法)に甘んじているワラキア農民に対し、18世紀にイングランドのノーフォーク州で始まった大麦→クローバー→小麦→カブの順に四年周期で行う四輪農法を普及させるのも大切だ。休耕地がなくなり、牧草栽培による家畜の飼育が可能となり穀物生産力が増大したことから農業革命とも呼ばれた農法である。この普及がうまくいけばワラキアは四年後には現在に数倍する農業生産力を手に入れられるはずであった。それに戸籍が確定した村から順に天然痘の種痘を開始しなくては。 「おそれながら種痘は新たな疫病の元にもなりかねませぬが…………」 ボッシュ伯がしぶい表情で言葉を濁す。流石に正面から反対はしないが気の進まぬ様子は明らかである。 「天然痘そのものを種痘させるつもりはない。主に牛が感染する牛痘があるが、これを種痘させれば発熱くらいはするかもしれないが死ぬようなことはない。発症して伝染させるようなこともな」 「なな、なんと………それは真にございますか!?」 ボッシュ伯はまるでムンクの叫びのような驚愕の表情で固まってしまった。オレにとってはどうということのない知識だが、実はこの治療法が確立されたのは18世紀も後半である。それまでは人痘のかさぶたを貼り付けて天然痘に感染させるという方法が伝えられていたが、この場合ほぼ数パーセントの割合で感染したものが死亡したり、そこからさらに二次感染を引き起こしたりするなどリスクがあまりに大きすぎた。もしオレが言っているのが事実だとするなら(事実なのだが)ペストと並んでヨーロッパの癌と呼ばれる難病を根絶することが可能だ。かつては古代ローマにおいて三百五十万人という甚大な死者を出し、十字軍以来東西世界の全てに蔓延してもはや定着してしまった感のあるこの病がいったいどれだけの人命を奪い続けているか。現にボッシュの父も妹も天然痘の犠牲者だった。これによって長期的にどれほどの人間が救われるか、ボッシュ伯には想像もつかない。 「私は……私は殿下にお仕えできることを誇りに思います!!」 この人はワラキアの希望だ。今はワラキアの希望だが……長じれば東欧世界の輝ける星にすらなれるかもしれない………私は……もしかして歴史的瞬間に立ち会っているのやも………。 そう感激されると面映いな。しかし悪どいと言われようが、この際オレの評判向上のために種痘は全面的に利用させてもらわなければ。わが国での実績が目に見える形であがってくれば、これは諸外国に対する有力なカードになる…………。 農業の次は商業だ。商業については財務大臣のデュラムが蒸留酒の製造や流通の拡大などの様々な施策を実施しているが、デュラム一人では解決できぬ大きな問題がある。三民族同盟による商業行為の制限である。ここにいう三民族同盟とはハンガリー王承認のもとに1437年トランシルヴァニアで成立した条約で、サス人(ドイツ系殖民)・マジャル人(ハンガリー人)・セーケイ人(ハンガリー内の少数民族)のみを民族として公認するというものであった。人口の50%を超えるはずのルーマニア人は民族として認められず、こと商業に関してはサス人の奴隷のような有様であった。なにせ驚いたことに価格決定権がない。いくらで売れ、いくらで買え、というのがもっぱらサス人に決められてしまっては正常な商行為などありえないだろう。この同盟の効力は本来ならトランシルヴァニア領内にとどまるべきものだが、ワラキアはトランシルヴァニア内にアルマシュとファガラシュという領地を所有していることに加え、公国に対するハンガリー王国の影響が増大したあたりから、ワラキア公国内でもこの三民族同盟の効力が暗黙のうちに通用しだしていた。要するにオスマン朝から守って欲しければ言うことを聞け、と親分が諸肌脱いで出張ってきたわけだ。しかし今のワラキアの現状ではハンガリーに対するなんの負い目もない。 ワラキア公国領内におけるサス人に一切の特権を認めぬ。またトランシルヴァニア領内においても三民族同盟による特権をワラキアは認めぬこととする。今後もなお、特権を享受することあらば、ワラキアは領内における三民族に対し、人頭税を課すものとする。以上が先日オレが出した布告であった。面従腹背とはいえ、オスマンに朝貢している地理的状況を生かさぬてはない。ワラキアを東西の中継貿易の拠点として機能させるためにも国内商業の育成は不可欠なのだ。 これまで当然のように享受してきた権益を奪われたサス人の反発は激甚だった。ヴラド三世は恣意的に国内貴族やサス人を磔にして悦にいる入っている残虐非道な為政者だ、と宣伝工作を開始したのだ。これは史実のヴラドも経験したことなので驚きはない。実際のところ串刺し公の悪名はサス人とハンガリー国王マーチャーシュ一世によって広められた政治的風聞なのである。今のところオレが主権者として成功しているうちはさしたる影響はないので放置しているが…………。 …………やりすぎると火傷するってことを判ってりゃいいんだがな………… 史実においてもトランシルヴァニア内のサス人たちは奪われた己の権益を取り戻すために、ヴラドに替わる大公候補の擁立に動いている。ハンガリー王国の援助を当て込んでのことなのだろうが、ヤーノシュにもはや昔日の面影はない。ダン三世が表立って擁立されるようなことがあれば、それはワラキア公国軍によるトランシルヴァニア侵攻の口火になるはずであった。その時にはもう一度ヤーノシュのハンガリー軍と雌雄を決しなければならないだろうが…………。 「シエナはいるか?」 「御前に」 「トランシルヴァニアへの工作は進捗しているか?」 我がオーベ○シュタインの返事は心強いものだった。 「既にワラキアでの政策が浸透し、ルーマニア人たちの間で不満が高まっております。彼らの優遇を約束すれば必ずや力になるものと」 人口の多数を占める民族が少数の民族によって支配され、かつ不当な扱いを受けているなら取り込みは容易い。ましてルーマニア人は正教会を信仰する同士でもある。ハンガリー人やドイツ系サス人はカトリック教徒だから、我がワラキアのほうに親和性があるのは当然なのだ。 「例の件はどうなった?」 もしトランシルヴァニア侵攻が現実となれば、衰えたりとはいえ大国ハンガリーをワラキア一国で相手するのは厳しい。そうした意味で頼もしい同盟相手に交渉を持ちかけているところなのである。 「ヴェネツィア共和国の方は今のところ進展はありません。しかし上部ハンガリーのヤン・イスクラは同盟に積極的です。あとは交渉次第であるかと」 「ヴェネツィア共和国についてはオレが対応する。シエナはヤン・イスクラとの同盟をまとめろ。現状でできるかぎりの支援は約束する」 「御意」 ヤン・イスクラまたの名をギシュクラ・ヤーノシュ。ハプスブルグ家の支援によって今も上部ハンガリーを実効支配するフス戦争の生き残りである。フス戦争で穏健派との勢力争いに敗れたとはいえ、不敗の将軍ヤン・ジシュカが手塩にかけたターボル派(フス強硬派)の結束と軍事力はまだまだ健在であった。史実では1461年にいたるまでハンガリー王国軍を撃退し続け、内部分裂により降伏するまで上部ハンガリーに君臨した。オーストリアハプスブルグ家に領土的野心を燃やすハンガリー王国にとって、ワラキアより遥かに目障りな武装勢力であったのだ。お互いにハンガリーの圧力を撥ね退けるために協力し合うのは共通利益にかなうし、トランシルヴァニアをワラキアが保持したならば、ハンガリー王国の北と東から両国軍の連携が可能だ。オーストリア・上部ハンガリー・ワラキアに包囲されれば窮地に陥るのはむしろハンガリー王国の方だろう。そうした戦略的構想をヤン・イスクラは興味深げに聞き入っていた。 面白い男がワラキアにいるじゃないか………しかもこれで十六歳とは…………! 狂い始めた歴史の歯車にまたもうひとつの歯車が加わろうとしていた………………。