「ご………冗談でしょう?」 ジョバンニの言葉がひび割れたものとなるのも無理からぬことであった。ギリシャの火………ビザンツ帝国で門外不出の秘伝とされコンスタンティノポリス防衛に幾度となく威力を発揮した伝説の兵器。空気に触れると着火する神秘の液体。その火炎によって幾千の軍船や兵士を焼き払ってきた当時の技術では防御不能な決戦兵器。それがワラキア公国に伝授されているなど考えるほうがおかしい。 「厳密にはギリシャの火に似たようなもの………ですかな?ギリシャの火の現物はまだ見たことがないのでね」 「それは……いったいどういう………」 まさかとは、まさかとは思うが……………。 「話に聞いたギリシャの火ってのはホースから火炎を噴出す、水をかけても消えない火だったかな?それがギリシャの火だというならワラキアで開発したものも間違いなくギリシャの火と言えましょう」 今度こそジョバンニは言葉を失った。 概ねジョバンニとの交渉は成功だったと考えていいだろう。ギリシャの火は予想通り切り札として有効だった。なにせ水をかけても消えない火炎放射器は陸上以上に海上でこそ厄介な兵器なのである。言わずもがなこの時代の軍船は全て木造であるからだ。ようやく大砲が普及しつつあるとはいえ、ただの鉄球でしかない砲弾は一撃で撃沈というほどの威力はないうえ発射速度・命中率・射程の全てにおいて信頼性に欠ける。砲撃戦が海戦の死命を制するには百数十年後のレパントの海戦を待たなくてはならないのだ。海上勢力に国家の命運を託しているヴェネツィア共和国では喉から手が出るほど欲しいはずだった。 しかし錬金術士がこんなところで役に立つとはなあ………国内で科学的素養のあるものを選抜したらほとんど錬金術士になってしまったのだから仕方がないんだけど。彼らの思想は理解に苦しむが、未知のものに取り組む姿勢だけは素晴らしいものと言えた。オレが油田の場所を教え、ギリシャの火の製作を依頼してからわずか三ヶ月で現物を作り上げてくれたからな。 実のところギリシャの火というのはビザンツ帝国の滅亡とともに歴史の彼方に消失した技術なのだが、現代においていくつかの推測はなされていた。最も有力な説は硫黄・酸化カルシウム・石油を大釜で熱しサイフォンの原理で汲み上げたものであろうとする説とナフサに硫黄・松脂を混合したものであろうという説である。しかしオレが作らせたものはそのどちらとも違う。その意味で厳密にギリシャの火とは呼べないのかもしれない。オレが作らせたものは中世版のナパームだ。ナパーム………ベトナム戦争で米軍が大量に使用し、そのあまりの殺傷性に使用が自粛されたといういわくつきの兵器である。威力の割りに製法は簡単で、原油を常圧蒸留したときにできるナフサにパーム油から抽出した増粘剤を混入してゼリー状にしたというだけだ。極めて高温で燃焼し、親油性が高いため水をかけても消えない。また燃焼する際酸素を大量に消費するので近くにいただけでも酸欠で窒息死する可能性があるという恐ろしい代物である。常圧蒸留は錬金術士の技術で十分できるものであったからあとはパーム油にかわる増粘剤の発見だけだったのだが………いともあっさり鯨油から抽出した脂肪酸で代用しやがった。……………錬金術士恐るべし! それから四か月ほどの時がたち年が替わった。ヴェネツィア商人が領内を訪れるようになり国内商人も順調に力を付けてきている。海のないワラキアはモルダヴィアの交易都市キリアを使うしかないが、それがモルダヴィアとの貿易を活発化させ両国によい影響をもたらしていた。ヴェネツィア商人もモチェニーゴ家の独占を許すまいと続々とワラキアに取引を申し込んでおり、デュラムも大わらわの状態だ。種痘も順調で既に国民の八割が種痘を受けている。今年中に羅患者が目に見える形で激減すれば各国はこぞってワラキアに教えを乞うだろう。実のところ既にモルダヴィアやヴェネツィア・ジェノバ・フィレンツェなどから複数の打診を受けているのだ。残念ながら各国で期待されているペストのワクチンまではオレの知識ではつくれない。衛生管理の浸透を指導してやることが精一杯だ。これに関してはワラキアが先駆けて公衆トイレの設置や煮沸消毒などの衛生指導などを行っている。トイレの糞尿は国家が買い上げて肥料や硝石の原料(土硝法)にすることになっていた。 国力の増進は今のところ順調だ。来年からはオスマンへの貢納を始めなければならないが増収分でお釣りがくるようになるだろう。 増えてきた予算の投入先だがやはり軍事費の増強は避けられない。軍事的にいってワラキアはまだまだ小国の域を出ていないのだから当然だ。近代編成の二個大隊が練成中とはいえ、その数わずか三千。常備軍としては大きい数字ではあるが最終的な動員兵力ではやはり大国には及ばない。兵力差を解消するため青銅砲の小型化と車輪付砲架の配備を進めているところだがこれがまた大喰らいだ。一回の実弾演習で火縄銃隊一個大隊分の火薬を消費してしまう。近代戦を戦うには産業革命を待たなくてはならないのかもしれなかった。 「こちらにおいでになりましたか、殿下!」 演習を視察中のオレが単独行動しているのに慌てふためいた様子でベルドがやってくる。………後に考えれば計算された罠と言えるのかもしれない。衛兵に紛れ込んだ刺客が、抜刀して斬りかかってきたのはまさにその瞬間であった。 「悪魔ヴラドに天罰を!!」「先祖の恨み思い知れ!」 鎖帷子を着こんだ重装の騎士が二人雄たけびをあげながら吶喊してくるのが見て取れる。おそらくは粛清した貴族の縁者であろう。暗殺のタイミングとしてはこのうえないところだった。護衛の騎士はおらず、オレは多少豪奢ではあってもただの洋服を着ている状態にすぎない。しかし…………… -………夫れ剣は瞬息、心・気・力の一致なり- 考えるより先に身体が動いていた。鎧ごと断ち切ることを課せられた騎士の剣は予備動作が大きい。落ち着いて軌道を読めば避けることは困難ではなかった。師範の太刀筋はこんなレベルじゃなかった……………。この世界に訪れる前、幼い日から身に覚えた剣の理は今でもオレの中に生きていた。この見切りと切り落としがオレに残された在りし日の象徴であった。 -一心一刀に専心し二心二刀を持つべからず。之一刀の極意なり- 避けざまオレは男の顔面に剣を突き入れた。道場剣法であるオレの剣では鎖帷子ごと断ち切るのは難しいからだ。予想外のオレの反撃にほとんど避けるそぶりもなく男の顔に剣が突き立つ。びくりと脊髄を硬直させ一人目の男が崩れ落ちた。あと一人…………!もうひとりの刺客はオレの剣技に動揺してしまい、仲間の死が作った隙を生かすことができないでいた。もしかすると、こいつもそれほど実戦の経験がないのかもしれない。相討ち覚悟で身体ごとぶつかってこられたら危うかったのだが。余裕を持って刺客に向き合ったはずのオレを激痛が襲った。左足の脛を一本の矢が貫いていた。 ………しまった………弩の射手がいたのか………! 体がなす術なく左へと傾いていく。嫌らしい笑いを浮かべた刺客が歓喜とともに剣を振り上げて……………… 頭を吹き飛ばされた。 振り向けばマルティン・ロペスの火縄銃から硝煙が上がっている。100m先の的でもはずさない銃の達人というのは真実であった。 「貴様あああああああ!」 憤激に我を忘れて弩の射手に斬りかかるベルドをオレは制した。 「殺すな………捕らえたらすぐにシエナに引き渡せ………」 忘れていた。この世界が悪しき戦乱の巷であるということを。オレが殺し、オレが殺させた幾千の命のうえに今が成り立っているのだということを。そうして殺し続けていかないかぎり、今は決して未来には続いていかないのだということを…………。 だが、今やオレはそれを思い出した。そして二度と忘れはしない。たとえ幾万の屍のうえに立とうとも、オレはオレの理想と幸せのためにそれを踏みにじって見せる! オレが意識を保っていられたのはそこまでだった。 「ご報告にあがりました」 ベッドに身を預けたオレの元にシエナが訪れたのは襲撃から三日後の夜だった。月明かりしかない部屋の中で蝋燭すら点けようとせずにシエナは続けた。 「刺客はヴラディスラフについた貴族の一党です。先年ヴラディスラフの死後息子のダンを擁してハンガリー王国に支援を要請しておりましたが舞い戻ってきていたようで。」 「常備軍はオレの子飼いだ。どうやって進入した?」 「出入りの商人に化けて潜入して幕営の中で入れ替わったようですな。馬小屋の陰から騎士に死体がふたつ発見されています」 もはやからくりは読めた。次にシエナが言い出す事実をオレは正確に予想することができる。それは…………… 「出入りしていた業者はブラショフと取引のある新興の商人です。そして舞い戻ってきたのは刺客たちばかりではありません。御輿であるダンもまた、家臣団とともにブラショフに滞在しております。つまり…………」 既得権を失ったのがよほど腹に据えかねたと見える………… 「この件の首謀者はブラショフのサス人商人です。彼らはハンガリー王の腰が重いのに業を煮やし、先代の遺児ダンに政権を取らせるべく画策したのです」 オレは腹の底から哂った。共存の道は与えた。それが嫌だというのなら仕方あるまい。しかし共存できぬというからにはどちらかが死滅するまで戦う覚悟を決めたと考えて良いのだろう? 「確かヤーノシュは先月からまた上部ハンガリーに出兵していたな」 「御意」 残念だったな、ブラショフの市民よ。貴様らはワラキアを舐めすぎた。 「ヤン・イスクラに兵糧を送るともに戦いをできる限り長引かせるように伝えろ。トランシルヴァニアのルーマニア人には資金を与えて三民族からの解放を煽動せよ。兵が整い次第、ブラショフに出兵する」 1448年春、再びワラキアを戦の嵐が訪れようとしていた…………。