トランシルヴァニアの経済的支配階級はサス人(ザクセン人)である。ハンガリー王位を神聖ローマ帝国皇帝が兼任した結果、植民したドイツ系移民は様々な特権を現地で享受することができたからだ。彼らは商業を中心に成功を収め、トランシルヴァニア内にドイツ風の自治都市を建設するまでに繁栄した。この都市群をジーベンビュルゲンといい、ブラショフとシギショアラはその中心的役割を果たす商業都市であった……………。 「失敗したというのか!」 激昂する男………パルドイはブラショフの有力商人でブラショフ商会の代表を務める男だった。全くあの男………磔狂の悪魔がワラキアに来て以来やることなすことがうまくいかない。価格決定権を失っただけでも致命的な損害であるのに、二ケ月前からの貨幣通用令によって、オスマンのアスパー銀貨とワラキアのダカット金貨の併用が定められハンガリーの一フロリン金貨も含めた強制交換比率が施行された。これにより、ハンガリーのフロリン金貨の交換比率をことさら高く設定していたサス人商人は再び大打撃を蒙っていたのである。しかも最近はヴェネツィア商人が大手を振ってワラキア国内を闊歩しており、ブラショフの景気は冷え込む一方なのであった。 「全くヤーノシュ公もことの重大性をわかっておられぬ!」 あの磔公の力が増すということは即ちオスマン朝の力が増すということではないのか。その脅威を前になぜキリスト教徒同士が争わなくてはならないのか。上部ハンガリーのフス教徒の残党など、所詮は根なし草であり、時間をかけて交渉すれば取り込むことはそれほど難しいことではないはずなのにやっきになって征伐に走るヤーノシュには不信感を拭いえない。もっともこれはハンガリー王位を狙うヤーノシュにとって取り戻さなくてはならない自国領土であったからなのだが。 「パルドイ殿には誠にご苦労をおかけする。奴を打ち払い正当な公位を回復した暁には必ずやこの恩義に報いよう」 ダンとしては現在のところ唯一のパトロンに降りられてはかなわない。激昂するパルドイをなだめるように甘い将来像に口を上らせる。 「いかにあの男でも所詮は人間。しかも後継者のいない虚弱な政権は奴ひとりが倒れるだけで瓦解する砂上の楼閣のようなもの。次こそはきっと息の根を止めて御覧に入れる」 パルドイはダンの言葉に頷いては見せたが心の靄は晴れなかった。ダンの頭にはワラキアの発展も経営戦略もない。ただ公位への妄執があるだけだ。はたしてこの男にかの磔公を倒せるものだろうか…………? いや、倒してもらわねばならぬ。隣国の名君などこちらにしてみれば迷惑以外の何物でもない。愚鈍な君主に名誉を、そして我々の懐には金を。そんな利益を同じくする関係がもっとも望ましいものであるはずだった。 しかしそれぞれの未来に思いを馳せる二人が、全く見逃している事実がある。それは利益を共有しているダンとパルドイは、彼ら自身の不利益もまた共有しているという事実であった。 「お加減はよろしいでしょうか?殿下」 ベルドがしきりとオレにまとわりついている。お前はオレのお母さんか! 「大事ない」 先日の襲撃に対してこいつが責任を感じているのがわかるから強くは言わないが、流石にこう気を使われると居心地が悪い。だいたい護衛として手練が選抜されているからベルドがどうこうする余地はないのだ。 「やはり考え直してはいただけませぬか?」 「…………すでに決まったことだ」 ベルドもネイもタンブルもオレが戦場に出ることについてはこぞって反対していた。敵国の懐に飛び込む以上心配はもっともだが、この戦いは戦場だけで決着のつくものではない。である以上オレの出馬は必然なのだ。そのあたりのことがわかっているのかゲクランは黙して語らない。何気ない風を装ってマルティンが近くを徘徊しているのはご愛敬だろう。 「今は学べ。オレがお前に安心して采配を任せられるまで、な」 夜陰に紛れて兵が行く。そのいでたちは紅く染められた軍装で彩られていた。つい先頃完成したばかりの常備軍専用の羽織である。本当は軍服にしたかったのだが、いまだ火器が十分に発達していないのでほとんどの人間が鎖帷子や鎧を着こんでいるのでやむを得なかったのだ。 …………南カルパチア山脈を越えればブラショフは目の前だ。 トランシルヴァニアの主要都市は南部に集中している。北と西を二千メートル級の山脈に守られた天然の要害だが、南部の標高はそれほどではないうえ、距離的にも近いのでそれほど大きな侵攻の障害とはならない。心配があるとすればトランシルヴァニアの地形は西に向ってはなだらかな平野が続いており、ハンガリーからの速やかな援軍が得られるという点であった。 シエナの諜報によればヤーノシュは相変わらずヤン・イスクラに拘束されており、トランシルヴァニア兵の半ば以上が従軍中とある。留守を守るのは後にヤーノシュの遺志を継いでハンガリー王位に昇りつめたマーチャーシュ一世ではなく兄にあたるフニャディ・ラースローであるが、両名とも父親ほどには戦場での勇を伝えられていない人物のはずだった。もちろん油断は禁物だが。 ………いずれにしろ倒すのみだがな……… 索敵の軽騎兵が本隊を追いぬいてカルパチアの山並みに消えていくのが見えた。これもようやく間に合った望遠鏡と弩を装備している。ハンス・リッペルスハイが望遠鏡の特許を取得するのは1609年だから大きなアドバンテージを得たと言えるだろう。偵察任務にとってはかけがえのない品だ。 しかし斥候として散る軽騎兵の任務は敵の動向を探るばかりではない。味方の行動を秘匿するため目撃者を消すということも重要な彼らの任務なのだった。 …………………おかしい トランシルヴァニア公フニャディ・ヤーノシュのその歴戦の勘が警鐘を鳴らしている。ヤン・イスクラ率いるターボル派の残党との戦は、彼らの防御壁を崩すことが出来ずにこう着状態に陥っていた。堡類車両と短銃で武装した彼らの戦術は、先年野戦築城によってハンガリー軍を撃破したヴラドの戦術とよく似ている。だからこそ、今回の出兵でヤーノシュは軽騎兵を下馬させ攻城兵器まで投入して射撃戦に徹していた。ハンガリーが誇る野戦機動部隊はこの種の防御部隊に相性が悪すぎるのだ。 おかげで損害こそ極限されているが戦況は一向に動かない。しかし不審なのはいつになくヤン・イスクラの守備が重いことであろうか………。 彼らは土地を守ることに固執しない。戦況が悪くなればとっとと逃げ出し敵を引きずりこんで再び反撃に出る。延々と続く射撃戦は決して彼らを利するものではないはずだ。にもかかわらず消耗を承知で射撃戦を継続する彼らが、何とも言えず不気味に思えるのだった。 …………何がある?いったい何をたくらむというのだ、ヤン・イスクラ! 目に見えて敵の防御火力が落ち込んでいる。堡塁車両と濠だけでも防御効果は十分だろうが、このジリ貧の状況ではそれも時間の問題だと思えるのに…………疑念が晴れない。またもや罠に引きずり込まれているようなそんな予感が消えない………。 ……………ならばその罠、噛み破るのみ! 「ちったあ、あの親父も頭使ってんじゃねえか!」 ヤン・イスクラは狩人が獲物を目の前にしたような歓喜と闘志が入り混じったような複雑な顔でそう評していた。馬鹿の一つ覚えのように突撃を繰り返していた十字軍の連中とはさすがに一味違うということらしい。二つだけとはいえ、この戦場に投石器を持ち込んだことは感嘆に値する。おかげで貴重な堡塁車両を幾台も失うはめになってしまった。 「しっかしなあ………自分が有利なうちは退けんだろう?ヤーノシュさんよ」 戦が不利な時に退くことは容易い。しかし現に味方が押している状態で退くことは至難の技だった。もうひと押し、もうひと押しで敵を崩せるという勝利への誘惑は抗しがたく恐ろしいほどに魅力的なのである。これまで苦渋を飲まされてきた相手ならなおのことだ。 残念ながらいくら頑張ったところで味方は崩れない。ヤーノシュの目には我々が弱りつつあるように見えるだろうが、それはあえて兵を退かせ示弱してみせているにすぎない。全ては今後に行う総反攻のために。 「坊主…………あんまりオレを待たせんじゃねえぞ!」 射撃戦のあい間に行われる歩兵突撃への対応の指揮を執りながら、ヤン・イスクラは遠い東の空へ笑みを向けた。 ブラショフの城壁の上で灯火が振られていた。城壁から数百m離れた小さな林でも、同じように灯火が振られている。まるでそれをリレーするように数百m離れた街道で再び灯火が振られる…………。 ブラショフの街が宵闇のまどろみを享受しているころ、カルパチア山脈を越えた真紅の兵団が街道に姿を現そうとしていた。 「トラ・トラ・トラというところかな………………」 シエナが組織したルーマニア人組織は城壁の見張りの無力化に成功した様子であった。