如何に見張りの幾人かを無力化しえたにしろ、数千の軍勢が攻めよせる音を隠しきることはできない。地鳴りにも似た低く這うような揺らぎが、城壁に立つ兵士に遅すぎる事態の到来を察知させた。 「ワラキアが……ワラキア軍が攻めてきたぞーー!」 鐘が打ち鳴らされ、仮眠していた傭兵たちがおっとり刀で飛び出してきた時、戦いはすでに始まっていた。 「放て」 城門前に運ばれた砲架式の青銅砲が火を噴くと同時にワラキア歩兵の突撃が始まった。兵数に劣る守備軍はマルティンの指揮する火縄銃隊に射すくめられて効果的な対応がとれない。至近距離からの大砲の斉射を受けた鉄の城門は実にあっさりとその役目を放棄していた。 「タンブルの中隊は街の出口を固めろ。ネイの中隊は傭兵たちの掃討にあたれ。ゲクランはルーマニア人協力者に従ってダンとパルドイを捕捉せよ」 「「「御意」」」 都市を守る城壁も、多額の費用を払った傭兵ももはや全てが無用の長物と化している。圧倒的なワラキアの軍威の前に傭兵は逃亡を始めており、城門ばかりか裏門もまた、内通したルーマニア人によってワラキア軍が引き入れられていた。 「こんな………こんな馬鹿な………!」 パルドイは何かに裏切られたような思いで一杯だった。ワラキアの小勢がトランシルヴァニアに侵攻してくるなどということがあって良いものか。 物の道理をわきまえぬ馬鹿ものめが…………! トランシルヴァニアがワラキアに攻め込んでもワラキアがトランシルヴァニアに攻め入ることはありえない。なんとなればトランシルヴァニアはハンガリー王国摂政フニャディ・ヤーノシュの領地であり、ワラキアの貧弱な軍勢に十倍する大軍を用意することが可能だからだ。嫌がらせに山賊まがいな略奪を働くことはできても、れきとした軍事侵攻を行うことは自殺行為に他ならない。 …………それがわからぬほどの愚か者だということか………! しかし世界のルールはパルドイの思うほど不変なものではない。プレイヤーが変わればすぐに変えられてしまうのがこの世界のルールというものであった。 「家財を持っていく余裕はないか………全く忌々しいことだ…………」 喧噪が街の中心部にまで広がりつつあるのがもはや肌で感じられるほどだ。一刻の猶予も許されない。全ては命あっての物種なのだから。 「…………マルトー!マルトーはいるか!?」 パルドイは長年に渡って仕えてきた執事の名を呼んだ。 「いいか、金を急いで地下室に隠すのだ。倉の商品はもはやどうしようもないが現金だけは守り抜け。援軍が来るまでさほどの時間はかからん。決して地下室の存在をワラキアの田舎者に気取られるなよ?」 そう言いつつもパルドイはこの老執事に全ての後事を託すつもりは毛頭ない。金の運び込みが終わったら別口の奴隷に始末させてしまうつもりでいた。死人は口を割らないのだ。 「お言葉ながらそれは無理でございます、旦那さま」 肯定の言葉以外を口にしたことのない執事の思いもかけぬ反抗にパルドイは目を剥いた。 「貴様………何を言ってるかわかっているのか?」 部下とはいえ人権思想などないこの時代のこと、使用人の命など代えのきく消耗品にすぎない。ワラキアの暴走に踊らされているのならこいつはもう用無しだ。 「誰かある!この者を……………!!!」 今度こそパルドイは絶句した。屋敷内にいる使用人のほとんどが、憎々しげな眼差しを自分に送っていたからだった。 「お気づきになりませんか?旦那さま、当屋敷の使用人はほぼ九割以上がルーマニア人でございます」 ルーマニア人は低労働者に。それがこの国の伝統であった。 「しゅ、しゅ、主人を裏切るというのか、使用人にすぎぬ貴様らが!」 「今日この日より我々がトランシルヴァニアの主人となるのです」 使用人たちが包囲の輪を狭めてくるのをパルドイは悪夢を見る思いで震えながら呟いた。 「…………………………神よ」 パルドイの盟友ダンもまたワラキアの侵攻に恐慌をきたしていた。ただの御輿にすぎぬ彼は同行していた貴族の半ば以上に見捨てられ、傭兵の逃亡とも相まってほとんど丸腰同然で置き捨てられていたのである。 噂に聞く磔公のもとに降伏することなど思いもよらない。逃げなければならない。しかし逃げるべき兵も手段もない。狂乱の巷を右往左往しながら、ただワラキア兵から遠ざかるべくダンは足を動かしていた。 「公子様」 「な、何かいい知恵でも浮かんだか?」 一縷の望みを託すように父の代から仕えてきた貴族の男に問いかける。いつも誰かの指示に従うことでしか己の運命を決めてこなかったダンはそのツケを払わされることになった。 「貴方という土産があれば、かの磔公も悪いようにはしますまい…………」 助けを求めて周りを見回すダンの目に映るのは、保身のためにぎらついた目を見開いて獲物を見つめるかつて仲間であったものたちの残骸であった。 もはや助けのないことを思い知らされたダンは奇しくもパルドイと同じ言葉を紡ぎだした。 「…………………神よ」 ブラショフ陥落の報はシギショアラのトランシルヴァニア宮廷に激震を走らせた。都市の防御力というものが高いこの時代、わずか一夜で都市が陥落するということは珍しいことであったし、先代ヴラド二世の時代にはハンガリーの保護国化さえしていたワラキアがこのトランシルヴァニアに侵攻してくるなど驚天動地というほかはないものであったからだ。 「おのれヴラド!慮外者め!」 留守を預かるフニャディ・ラースローは若干15歳らしい激情とともに叫んだ。父のいない国は自分が守らなくてはならない。若さゆえの純真な使命感がラースローの戦意を滾らせていた。 「セスタス、兵はどれほど残っている?」 父が残していった歴戦の腹心に問いかける。トランシルヴァニアはいまだ常備軍を用意していない。軍役を負った貴族の半ばは父ヤーノシュとともに上部ハンガリーの地にあるからどれほどの動員が可能かはラースローには判断がつかなかったのだ。 「一万には届きますまい」 セスタスはざっとトランシルヴァニアに残された貴族の顔ぶれを思い出してラースローに告げた。同時にラースローが血気にはやらぬよう忠告することも忘れない。 「ブラショフが落とされた以上東部の諸侯は当てにはなりますまい。大公殿下の援軍を待つが上策と心得ます」 ブラショフはトランシルヴァニアの臍のような都市だった。ここの陥落はトランシルヴァニアを東西に分断されたに等しい。十分な兵力を期待できない以上、万全を期すべきだとセスタスは考えていた。 しかしラースローはセスタスの消極策にはあからさまに不満であった。聞けばヴラド三世16歳、自分とたった一年しか変わらぬ少年である。16歳のワラキア君主にできることが15歳の次代トランシルヴァニアを担う自分にできないことがあるだろうか! ラースローの檄文とともに伝令の兵があわただしく国内を往来し、数日後には北部と西部の残存貴族から七千の軍勢が参集した。 このとき、セスタスは既にワラキア軍がブラショフを離れワラキアへ帰還していることを疑っていなかった。いかにワラキア公が戦上手といえどカルパチアを越えてブラショフを維持するのは荷が勝ちすぎるはずであったからだ。しかもブラショフを出てこのシギショアラへ向かい雌雄を決しようとしているという報も聞かない。である以上セスタスの想像は軍事的にいって全く妥当なものであった。 ところがここで事態は一変する。一人の騎兵がブラショフにヴラド在り、との情報を携えてきたのである。ヴラドに随行する兵、わずかに二千弱。ヴラドはブラショフの根こそぎ供出させた財産を馬車に詰めるだけ詰め込み、またダン一党を磔にしていまだ悦に浸っているという。このままではサス人商会の者たちの命も風前の灯である、と兵士は申し添えた。 「直ちに出陣する」 「………お待ちを。ヴラドがいまだにブラショフにいるのはおかしい……何があるかしれませぬ」 しかしその場に参集した貴族たちにとってワラキア兵がわずか二千でブラショフにいるというのは肥え太った獲物を目の前に晒されたに等しかった。 ワラキアのひよっこなぞなにほどやあらん!ブラショフの民を見捨てるな!公子殿下の武威を今こそ見せつけてくれん! 勇ましい掛け声を一身に浴びてラースローは高々と抜剣した。 「我れフニャディ・ラースローは神に誓う。暴虐なヴラドに神の裁きを!そしてトランシルヴァニアに勝利と平和をもたらさん!」 慎重論を唱えるセスタスが口を挟む余地もなく瞬く間に軍議は出戦に決した。手柄を立てるのは今だと言わんばかりに我先に貴族たちが己の兵を東に向けていく。勝ち戦を信じて疑わぬ味方にセスタスは危うさを隠せなかった。 かくなるうえはこの身を以ってラースロー殿下をお守りするよりほかあるまい…………。 それに何かあると決まってわけではない。むしろ何もない可能性のほうが高い………………。 ヴラドの動向に不自然さを感じるセスタスではあるが、ではヴラドが何をしようとしていくのかと問われれば想像もつかぬのもまた事実であった。 ………しかしラースローより直々に褒賞を受け取った兵士が、ルーマニア人であったことに注目したものは誰一人としていなかった。そして褒賞を受けた後、いずこともなく姿を消したこともまた……………。