ブラショフの戦いはトランシルヴァニアに深刻な政情不安を投げかけずにはおかなかった。ヤーノシュ不在のなかで指揮をとる力量ある重臣がいなかったためである。ワラキア軍が進撃を開始してもなお、中小の貴族は自らの領地の守りを固め、事態の推移を固唾を呑んで見守っていた。身を挺して公都に馳せ参じるような忠臣はトランシルヴァニアにも数少なかったのだ………。 「くっ…………まさかヴラドの手がここまで伸びておったとは…………」 ヤーノシュは撤退にかかったところをヤン・イスクラの軍勢に噛みつかれ少なくない損害を蒙っていた。今ならわかる。すべてはヴラドの策のうちだったのだと。戦ばかりか外交にまで才を見せるとは奴は本当に16歳の餓鬼なのか?いずれにせよ今は逃げの一手しかない。たとえ犠牲が多くなろうとも………ヤン・イスクラに勝利の凱歌をあげさせることになろうとも。 「深追いするな。歩兵と馬を集中的に狙え……どうせヤーノシュの親父を討ち取れるってわけじゃねえんだ。削れるところから削っときゃそれでいい」 もとよりヤンの率いるフス派の軍は侵攻向きではない。もちろん侵攻戦でも強さを発揮はするがフス派の本領は陣地戦である。それにフス派の兵士は信仰を同じくする同志故の団結力を発揮する反面、思うように兵数を伸ばせないという欠点を持つ。被害は常に最小限を心がけるべきであった。 「…………にしてもうまくやりやがったな、あの小僧…………」 ついたばかりの早馬が、ワラキア軍の勝利と進軍を告げている。ヤーノシュにはこの戦場を離れて息つく暇は与えられそうになかった。 シギショアラの公国宮廷は沈黙に包まれていた。まさかのトランシルヴァニア軍の敗北とラースローの捕縛……そしてセスタスの戦死。二男マーチャーシュは政務を取るには幼すぎ、残されたものにできることは、ただ援軍を待つのみであった。中には待つことに耐えられぬものもいる。日を追うごとに逃亡者が増えていた。シギショアラの防備につくものと言えば、公家の直臣数百名と傭兵数百名。合わせて五百には届かない。誰もが絶望的な未来を想像せずにはいられなかった。従属させ見下してきたはずのワラキアが公都の喉元にまさに手をかけようとしていた。 トランシルヴァニア領内にあった飛び地アムラシュとファガラシュで兵糧と傭兵を補充したワラキア軍はシギショアラを攻囲していた。既にシビウやトゥルヌロッシュと言った大都市がワラキアの軍門に降っている。これらの都市の制圧でワラキアはトランシルヴァニアの商業圏の過半を制したに等しい。流石に公都は守りを固め容易には降らぬ覚悟を見せつけているが、ヤーノシュの戻らぬ限り張り子の虎でしかないことは敵も味方もわかっていた。 「それで………降伏する気はないと?」 「はい……ヤーノシュ公の援軍に望みをつないでいるようで………」 トランシルヴァニア公ヤーノシュはそれだけ城内の人間にとって絶対であるということか。確かにヤーノシュに戻られてはこちらとしても都合が悪い……………。 「シエナ」 「これに」 この信頼すべき謀臣にはいくつかの工作を並行して進めさせている。策は多ければ多いほどいい。十の策のうち実を結ぶ策など一つ有るや無しやなのだから。 「ハンガリー宮廷にトランシルヴァニアの危機は伝えたか」 「もちろんでございます。目下ヤーノシュ公に対抗意識を燃やしているバルドル公が盛んに吹聴しておりますゆえ、もはやハンガリー宮廷で知らぬものはおらぬかと」 「うむ」 何といってもヤーノシュの権力の源泉はトランシルヴァニアの豊かな経済と戦力である。領地を失った流亡の貴族ではハンガリー宮廷を支配することなど到底成し得るものではない。なればその源泉を失いかけた今こそヤーノシュを追い落とす絶好の好機に他ならないのだ。成り上がり者のヤーノシュに首根っこを押さえつけられていた大貴族が騒ぎ出すのは当然ですらあった。 「パラシュ伯などは敗戦の責任を追及するため王都に召喚すべきと言い立てておりますようで」 どうやら対ハンガリー宮廷工作は満足すべき成果を納めつつあるようだ。 「シギショアラのルーマニア人組織はどうなっている?」 「それがどうやらマジャル人やサス人が武装して監視にあたっているようで……既に幾人かが斬られております」 これまでこの手で街をいくつも陥としてきたからなあ…………。 「ならば場所は問わぬから火を点けさせろ。消火に人を取られれば監視も緩む」 「御意」 「ネイ」 「これに」 「騎兵五百を率いて哨戒にあたれ。もしヤーノシュの軍勢が現れたら一撃して退いてこい。いくらかは時間を稼げる」 「御意」 ……………さて……今後のことを考えれば出来るだけ犠牲少なく勝ちたいところだが……… 翌朝、シギショアラの各所から火の手があがった。にわかに市中を巡回していた武装民兵たちの動きが慌ただしいものになる。彼らもこのシギショアラに家と財産を有しているのだから当然であろう。自らの家の近くで黒煙が上がれば平静でいられるはずもない。 「…………卑怯な………!」 この隙を利してルーマニア人たちが何らかの行動を起こすことは明白だった。しかし火事は消さなくてはならない。放っておけば類焼から被害の拡大は免れないからだ。諦念とともに消火活動にあたる彼らをあざ笑うかのように、また一筋の新たな煙が市内にあがった。 シギショアラの壮大な城門にワラキアの攻撃が開始された。火縄銃隊の援護のもとに砲兵が前進する。もちろん逆撃に備えて両翼は長槍兵が固めていた。15世紀末にシャルル八世が実証することだが、城壁の防御力は砲兵の前にはあまりに心もとないものでしかない。砲撃が開始されるとトランシルヴァニア軍の弩兵や銃隊が城門前に集結して必死の防御射撃を展開する。しかしマルティン指揮する火縄銃隊は地勢の劣勢にも関わらず、これを終始圧倒していた。 「目標、城門右3m弩兵……狙え!……構え!……撃て!」 ワラキア軍銃兵が敵を圧倒するわけの一端は、この射撃術に求められるだろう。この当時、銃兵の射撃、という行為は完全に個人のものであった。火縄銃というものは一人一人が狙い打つ言うなれば狙撃銃だからである。引き金を落とすタイミングを自分で決めないとどこに弾が飛んでいくかわからないのだから当然だ。大河ドラマなどで長篠の戦いの織田の鉄砲隊が一斉射撃をするようなシーンがあるがあれは現実には存在しない。幕末の近代化にいたるまで、火縄銃の射撃は狙撃であり続けたのである。それをまがりなりにも統一せしめているのはワラキア軍の火縄銃に取り付けられた木製のストック……後付の銃床のおかげだった。今後は火打石式の撃発機構の採用や銃剣の装備など与えられた課題は多いが、ワラキアの成し遂げた統一射撃という射撃法はそれを遥かに上回る………ある種革命のようなものであった。 後年のアヘン戦争においてイギリスと清国が戦ったとき、時の江戸幕府がイギリスの武器性能が清国に勝ったのだろうと考え調査に乗り出したことがある。答えは否、清国は当時ドイツ製の小銃を大量に輸入しており、むしろ抱え大筒のような篭城武器を持っていた分清国のほうが勝っていたことが判明した。ではいったい何が勝敗を分けたのか。その答えは銃兵の統一性であった。密集体形をとった銃兵が指揮官の号令一下一斉射撃を行い、敵前列が算を乱したと見るや、これまた一斉に銃剣突撃を敢行する。敵前面に対する火力の集中と衝力の融合こそ、近代銃陣の真髄にほかならなかった。 ほとんど何の手も打てないままに城門は半ばが瓦礫と化し、城壁には死体が積み上げられていった。そればかりではない。城門前に兵力が集中した結果、市内の各所で兵力の空白が生じ、城壁の数箇所でルーマニア人がロープを下ろしてワラキア兵を招きいれ始めたのだ。 ………攻撃開始三時間にしてシギショアラ攻防の勝敗は決した。 ブラショフに続くシギショアラの完敗の報を受けてヤーノシュのとった行動はヴラドの予想を超えるものであった。上部ハンガリーのヤン・イスクラに対する押さえとして残してきた一万の兵を除く残り一万の兵力を率いてシギショアラの奪還ではなく、ハンガリー宮廷の制圧に向かったのである。内通の嫌疑によりバルドル公爵やバラシュ伯爵などの門閥貴族の多くが処断され、彼らの領地の多くがヤーノシュとその一党に与えられた。事実上ヤーノシュのハンガリー王位簒奪が成った瞬間であった。 あまりに強引な手段をとらざるを得なかったヤーノシュとしては次の敗北が命取りになるであろうことがよくわかっていた。損害を回復し、万全を期さない限りヴラドと戦えるものではない、と。しかしヴラドにフリーハンドを与えることもまた危険であった。ヴラドがヤン・イスクラと結んでいることは明白なのだ。そしてヤン・イスクラは神聖ローマ帝国の援助を受けている。積極的な意思さえあれば三国でハンガリーを分割占領することすら考えられないことではない。 …………貴人の身柄は金で購えるのが世の常識だ……… ラースローやマーチャーシュの人質交渉の間の休戦を申し入れるべきか?いや……借りを作るには危険な相手だがここはやはりあの方に出張ってもらうが賢明か……… 一週間後、シギショアラの地に一団の聖職者が訪れた。教皇特使ジュロー枢機卿の一団であった。 「キリスト教国同士が相争うことはただ異教徒を利するのみ。我ら法王庁が公正な裁定を行うゆえワラキア公には一旦国にお引取り願いたい」 寝言は寝て言え。 オレは思いつくかぎりの罵詈雑言をかろうじて飲み込んだ。しまった。こんな搦め手があったかよ。 「聡明なワラキア公ならば必ずや我らにお任せいただけるであろう。決して悪いようには致しませぬ」 明らかに悪くする気満々じゃねえか!この野郎!………考えろ……考えるんだ。 「ワラキア公の返答やいかに?」 ここでバカ殿の真似したらカトリックまとめて敵にまわすんかなあ………あい~ん!怒っちゃやーよ!って。無理無理、オレだってまだ死にたかねーや。 「………考える時間をいただきたい」 「これはしたり!教皇特使たる私の言葉が信じられぬのか!我が言葉は教皇の言葉にござる。キリスト教徒なら決して反抗など許されぬことにござるぞ!」 ほう…………キリスト教徒、ね。 オレは天啓のようにある人物を思い出していた。どうやらヤーノシュの策に一泡吹かせられるかもしれん。そろそろどうにかして接触しておきたいと思っていたところだ。 「何か思い違いをしているのではないかな?枢機卿殿」 「なんですと!?」 「我々の信仰する教主は教皇様にあらず。ローマ皇帝ヨハネス八世陛下と総主教ヨセフ二世げい下にあらせられる。お戻りいただきヤーノシュ公にお伝えいただこう。我ら正教会の仲裁になら応ずる用意があると」