イワン伯爵から聞き出したワラキア公の実情はノタラスの想像を絶するものであった。稀代の戦略家なことは疑いない。ワラキア公に就任してからの各国との外交や軍事戦略を見てもそれは明らかだ。それ以上に常軌を逸しているのは公が発明家にして学者で、はたまた法律家でかつ優秀な商人という、知れば知るほどわからなくなるワラキア公の多面性である。知り合いのヴェネツィア商人に問い合わせたところ、ヴェネツィアの商船隊の間でワラキア公は聖アンセルムスに次ぐ尊敬を受けているという。航海の安全を司る守護聖人に次いで船乗りの崇敬を獲得するとはいかなることなのか、言葉を濁されてしまったので詳細はわからずじまいだが………よほどのものを提供したことは間違いあるまい。つまりワラキア公はヴェネツィア共和国に対し相当な影響力を持っているということだ。そして噂を聞いたときには馬鹿にしていた天然痘の治療……天然痘を根絶できればペストの脅威は残るにしろ大都市ならではの大量感染による大量死の危険性は著しく減ずることができる。かつて帝国で三百五十万人という大量の死者をだし、帝国衰亡の引き金にもなったこの病を根絶することは帝国にとっても悲願といってよい。 それだけでも帝国にとって重要な人物なことは言うまでもないが、それにもまして問題にすべきは英雄の資質を備えた彼の大公殿下が正教徒であり、かつ独身であるということなのだった。 私の勘に間違いは無い。彼の御仁は帝国にとって必ずや救いの光となろう…………。 ノタラスはワラキア公を取り込むための外交戦略について寝食を忘れて思案に没頭していった。 会議は紛糾している。皇帝ヨハネス八世が病臥していることから帝国の国政をノタラスが主導しているとはいえ、ことは帝国の将来に関わる重大事なのだ。 「ワラキアといえばオスマンに朝貢していたはず。はたして信頼してよいものか」 ノタラスの構想は西欧に依存した国防戦略の見直し……具体的にはワラキアを中心とした正教会国家の同盟である。同じ正教の徒として賛意を示したい気持ちはあるが、その実力には疑問符を付けざるを得ないというのがコンスタンティノス11世の考えだった。そもそも、ブルガリアやトラキア・マケドニアを占領された今となっては頼るべき正教徒の国など数えるほどしかないではないか。 「彼の大公がただオスマンに臣従するだけのお人であれば、我が国に調停を依頼するはずもありませぬ。ハンガリー王国との戦いにしろオスマンの尖兵として戦いを継続してしかるべきにございます。……これはワラキア公の差しのべた手なのです。我々はこれを振り払うべきではありません」 ノタラスのいうことはわかる。しかし帝国は今存亡の危機にあるのだ。迂闊な決断は断じて出来ない。人格者であり、なおかつ慎重な性格のコンスタンティノス11世はなお様子を見るべきであると考えていた。デメトリウスや帝国の重臣の面々も次代の帝位を担う若き専制公に賛意を抱いている様子である。 ………なんといっても彼らはオスマン朝に帝都を包囲された光景を忘れてはいなかった。キリスト教徒同士が力を合わせて戦い、それでもなお惨敗に終わったヴァルナの戦いをも。その恐怖を今も鮮明に描くことができるのに、頼りにするにはワラキアはいかにも荷が勝ちすぎるのであった。 「しかし嫁がせるにも相手というものがある……軽挙な真似はできまいぞ」 ワラキア公ヴラド三世17歳……帝国で適齢期にある女性といえばモレアス専制公デメトリウスの娘ヘレナぐらいである。テオドロス二世の娘はキプロス王国に嫁いでおり、他の娘は嫁がせるにはいささか幼すぎるのが問題だった。オスマンとの協調あるいは敵対の切り札としてワラキアにヘレナを嫁がせるという選択肢にはさすがに否定的にならざるをえない。ノタラスに言わせるならば、だからこそここでワラキア公との縁談をまとめることに意義があるというところなのだが…………。 「妾が参るぞ!」 舌足らずさが抜けきらない幼女の声が響いたのはその時だった。 「…………ヘ……ヘレナ様………」 ヘレナと言っても前述のデメトリウスの娘ではない。アカイア侯ソマスの長女ヘレナであった。鮮やかな金髪に象牙のような肌が王族ならではの気品に彩られてなんとも言えぬ美しさである……が御年わずかに十歳! 「これ!控えなさい!ヘレナ!………方々誠に申し訳ない。我が娘のご無礼なにとぞご容赦いただきたい………」 「分かっておらぬな、お父上よ。妾がワラキア公に嫁ぐと申しておるのじゃ。これで問題は解決であろ?」 ヘレナの云い様はあくまでも屈託ない。自分が異国に嫁ぐといっているのにまるで物見遊山にでも出かけるような気やすさだった。 「人が悪いぞ、宰相殿。ワラキア公がどれほどの人物かみなに隠したままではいかな宰相の言といえど易々とは聞けまいに」 ヘレナは愛らしい表情でくつくつと笑っているがノタラスはほとんど蒼白になって震えた。この令嬢は何を知っている? 「…………確認のとれぬ情報で会議を主導するのもいかがかと思われましたので………」 うそである。最初から天然痘の種痘やヴェネツィアとのつながりは会議を制するうえでの切り札にするつもりでいた。しかしヘレナの口から語られるというなら自らが危険を犯す必要もない。むしろ自分が言うよりこの令嬢のほうがうまく会議を纏められるのではないだろうか? 「確認なら妾が自ら取っておる。子供相手だと船乗りの口は軽くなるのでな。なんでも東欧が世界に誇る大天才だそうだぞ?ワラキア公が自ら作られた羅針盤はどんな嵐のもとでも正確に方角を指し示し、遠眼鏡と申す道具などは遥か彼方の風景をまるで眼前にあるが如く見せられるそうな。船乗りにとってはこれはこたえられまい」 よく城内を抜け出していると思っていたが船着場に出入りしていたのか!まったくよく誘拐されなかったものだ。 「ワラキア公が作られたというザワークラウトなるものも珍味であったぞ。一年を通して保存がきくので売れ行きは順調だそうだ。それに………ワラキアにおるものは天然痘にかからぬ術を知っておるそうな……それだけでも妾がワラキアに行く価値があると思わんか?」 ヘレナが言った内容はすぐには反応をもたらさなかった。さすがの世なれた男たちもあまりに非現実的な話を聞かされた気がして理解が深くまで達しなかったのである。 「「「「ななななななにいいいいいいいいいい!!??」」」」 「…………父上たちはわかるが何故宰相殿まで叫ぶのじゃ?」 耳を押さえて目を潤ませる様は、とうてい先ほどまでの毅然とした少女のものとも思われない愛らしさである。 「羅針盤や遠眼鏡の話は私も聞いておりませんぞ!?」 「………では宰相はほかの話は知っていた、と」 「はい…………いまだ調査中ではあるものの、少なくとも天然痘の話は事実でありましょう」 帝国を支える重臣たちが一様に息を呑む。天然痘で失われる犠牲者の数はそれほどに巨大なのだ。 ヘレナは父ソマスの手を取っておしいただくように額にあてると晴れ晴れとした笑顔で言い放った。 「父上、私は会いたいのだ。そして知りたい。ヴェネツィアの船乗りが言う万能の人(ウォーモ・ウニエルサーレ)の世界がどんなものなのかを」 「…………なんかとてつもなく嫌な予感がしたのは気のせいか?」 休戦に伴いワラキアに帰国したオレはダンに与した貴族の粛清にあたっていた。どうも裏切ることのリスクに対する危機感が足りないようなのでとりあえずは布告で我慢するがいずれは本格的な国内法が必要になるだろう。あと五年もすれば貴族の子弟を中心にトゥルゴヴィシテに開かれた大学が機能し始めると思うんだがな。 「どうかなさいましたか…………?」 相変わらずオレに張り付いて離れないベルドが心配気な顔を寄せてくる。普段は優しげな男なんだがオレがからむと大魔神並みに人相が変わるから恐ろしい。お前が忠誠心100なのは認めるから少し離れてくれ、これ以上衆道疑惑が広がってはかなわんからな! 「いや………なんでもない。しかし……思ったよりも便利なものだったな、これ」 ダンが捕らえられたときに破滅を悟った貴族の一部が反乱を起こしたものの、いともあっさり鎮圧できたのはこれのおかげと言ってもいいだろう。オレの視線の先には平凡なレンガ造りの塔がある。ただ平凡でないのは頭頂部に巨大な三本の木が釣り下がっているということだ。いまだ一部の地域にしか整備しきれていないこの塔と三本の木の名は腕木と言った。 腕木通信は18世紀末、フランス革命後のフランスで開発された技術である。三本の巨大な棒をロープで操り、その組み合わせを別の基地局の人間が望遠鏡で解読することで情報を伝達した。組み合わせの種類により手旗信号より遥かに多くの情報を伝達することが可能であったという。 ゲリラ戦においては情報の速度は絶対だ。自分より強い敵が出れば退き、自分より弱い相手に食いつくのがゲリラである。ゲリラを駆逐するには速やかに退路を断って殲滅する以外にない。 反乱貴族を追い詰めるのに腕木通信はしごく有効だった。彼らにしてみれば逃げる方向をあらかじめこちらが知っているような錯覚さえ感じただろう。兵数に勝るこちらとしては彼らの逃亡方向から想定される複数の脱出口に兵を差し向けるだけで包囲は容易なのだ。 「そういえばイワンからまだ連絡はないのか?」 オレは不意にコンスタンティノポリスに派遣した伊達男を思い出してベルドに尋ねた。もうそろそろ使者を連れて戻ってきてもいいころなのだが………早く休戦から講和に持ち込まんと余計なちょっかいかけられんとも限らんからな! 「確か昨日のヴェネツィア商人に聞いた話ではあと一週間ほどでキリアに着くだろうと申しておりましたが…………」 ぞぞぞぞ…………! 先ほどと同じ不可思議な寒気が背筋を駆け昇っていく。 ………どうやら風邪をひいたか……… 「城に戻るぞベルド。明日はコンスタンティノポリスの使者を迎えついでにモルダヴィア公国を訪問することになろうからな」 「御意」 親友シュテファンをどう扱うべきか……対モルダヴィア戦略に没頭し始めたオレにはわからなかった。 そこでオレは運命に出会うことになるということを。