モルダヴィア公国は1359年ボグダン一世が建国した新しい国である。カリパチア山脈を越えた東側に位置し、黒海に面している沿岸国家で土地は肥沃でドナウ川やプトナ川などの豊富な水源に恵まれていた。その豊富な農業生産量のなかでもモルダヴィアのワインはつとに有名であり、この国の主力商品にもなっている。現大公ボグダン二世はワラキアのヴラド二世の弟にあたり公子シュテファンはヴラドにとって従弟にあたる存在であった。頼もしき盟友である反面、対立する利害がないわけではない。それはヴラドの援助を得てモルダヴィア大公になったシュテファンとヴラドが、後年刃を交えたことでも明らかだ。モルダヴィアの北方にはハンガリー以上に強力なポーランド=リトアニア連合王国が君臨していたからである。 「従兄様!」 ルービックキューブを贈って以来懐かれてしまったシュテファンが犬のようにまとわりついてきて非常に困っているオレがいた。 「ああ……シュテファン、オレはお父上と話があるから……これを壊さぬように二つに分けてみろ」 「……はあ……このふたつの絡み合った棒を分ければ良いのですね!」 「壊さずに、だぞ。できたらまた新しいのをくれてやる」 「わかりました!」 知恵の輪を渡してシュテファンの追求をふりきるとオレはボグダン二世との会見に向かった。 「ふんぬううううううううう!!」 …………聞かなかったことにしよう。 しかしあいつの懐きよう………ラドゥを思い出すなあ………元気でいるかなあ、ラドゥ………… ボグダン二世は兄のヴラド二世に似ず温和な内政家であった。ヴァルナの戦い以降もモルダヴィアが豊かで安定した治安を維持していることからもその実力が伺える。しかし戦乱の巷である現在、主権者として不安視する向きが貴族内に存在するのも事実であった………。 「叔父上、ご壮健そうでなによりでございます」 「貴殿の活躍は耳にしておるよ。なかなか派手にやっておるではないか」 「生きるのに必死なだけでございますがな」 オレは肩をすくめて笑った。実際ほとんど生き延びるために様々な手をうっただけで何かを楽しむ暇などなかったような気がする。落ち着いて戦争など考えなくてすむようになれば歴史オタクの名にかけて名所旧跡を生で見に行くのだが。 「…………コンスタンティノポリスよりご使者が参ることは聞いておるが……やはりトランシルヴァニアに満足するお前ではないか?」 流石は老練な政治家、オレの意図を見抜いている。これはオスマンに疑いを抱かれる日も近いかもしれん………。 「ご明察恐れ入ります。つきましてはキリアの一部の租借と駐留権をいただきたい」 予想もしなかったオレの要請にボグダン二世の瞳が驚愕に見開かれた。 ワラキアには海がない。少し南に下がるだけでブルガリアの巨大港湾都市コンスタンツァがあるのだが、すでにオスマンに占領されてしまっている。貿易取引量も増え、東ローマ帝国とも外交関係を結ぼうとする今、小なりといえど海軍を所有する必要をオレは感じていた。しかし、もし今海軍を運用するとなればモルダヴィアのドナウデルタ以外の立地はありえない。モルダヴィアを武力占領するという選択肢はオレのなかにはなかった。ワラキアの主要物産をキリアから積み出すことで両国には密接な経済交流が出来始めている。せっかくの友好をだいなしにしてまでモルダヴィアを占領して、ポーランドと国境を接するのは間尺にあわないというのがオレの考えなのだった。 「ずいぶんと欲張ったものだが……キリアはモルダヴィアにとっても生命線。そう易々とは渡せんぞ」 「キリアはもはやポーランドにとってもオスマンにとっても垂涎の的、いずれにしろ戦は避けられませぬ」 ボグダン二世の目が薄く眇められた。オレの言っているのはほとんど脅しなのだから当然だ。近い将来の戦に協力して欲しくば言うことを聞けと言っているようなものなのだから。 「見返りはあるのだろうな?」 「モルダヴィアの安全と繁栄を」 キリア港が拡張され、ワラキア海軍とその兵力が常駐すれば港湾の物資の消費量と安全は格段に進化するだろう。人が増えれば金が回るのはいつの世も変わらぬ真理なのである。それにワラキアからの流通量がドナウの河川交通を利用して倍増すればキリア全体としての取引数量も絶対的に増加するはずであった。その結果モルダヴィアの国庫に収まる税収も莫大なものになるに違いない。 租借金の納入・税収の増加・貿易量の増加・治安の向上・軍事的抑止力の駐留………オレの提案でモルダヴィアの損になる要素はひとつしかない。すなわちそれは駐留権を認める以上、軍事的にワラキアと命運をともにすることになる、という要素だった。この提案の行き着く先は、軍事経済両面に渡るワラキア=モルダヴィアの連合なのだ。 今ボグダン二世に迫られているのは、近い将来にそれを受け入れる決断であった。 「……………まったく、出来の良い甥を持つと苦労するわい………」 大公の嘆息は事実上ワラキア=モルダヴィアの連合を決した。 「………それで我が国の力が借りたいと」 いかにも海の男らしい赤ら顔の商人が難色そうな風を装っているが答えは最初から決まっているようなものだった。。 「この話はフィレンツェも興味を示しておったのですが、私は海軍力における貴国の実績を評価させていただいたのですよ」 ヴェネツィアにこれ以上借りをつくりたくないこちらの足元を見ようと思ったのだろうが……残念ながら今は極端な売り手市場なのだ。 「そこまで我々を買っていただいておるのなら否やはありませんな」 男の名をアントニオ・ゼルガベリ……ジェノバ共和国の要人のひとりだった。 当初ワラキア貿易はヴェネツィアのモチェニーゴ家が独占していたが、需要の高まりにつれて様々な商人が取引を申し込んできている。それでも取引の中心は依然としてヴェネツィア商人であり、各国の商人はなんとかワラキア貿易に割り込もうと必死の営業活動を展開していた。 なかでもとりわけ必死であったのがジェノバ共和国であった。ヴェネツィア共和国のライバルにして黒海の制海権を支配する彼らにとって、黒海沿岸でヴェネツィアが巨富を貪るなどあってはならないことであったからだ。それだけではない。海洋民族にとって無視しえない情報が彼らを畏怖させている。すなわち、ヴェネツィアに供給した羅針盤と望遠鏡である。ヴェネツィアの厳重な秘匿行動によって詳細はしれないが、それが船乗りにとってどれだけ貴重なものか彼らは身を以って知っていた。ジェノバ共和国にとってワラキアとの関係改善は国策ですらあったのである。 「お互いによい取引が出来て幸いです」 ジェノバ共和国はコンスタンティノポリスに影響力が強いうえ、トレビゾント王国やキプチャクカン国へのパイプも強力だ。パートナーとして不足はない。オレがジェノバに要請したのは新設する海軍の教導である。海軍は陸軍以上に養成に時間がかかるものであり、航海技術や建造技術は一朝一夕で身につけられるようなものではない。後年レパントの海戦で大量の海兵を失ったヴェネツィアが急速に国力を減じたことでもそれは明らかだろう。ゼロから海軍を築き上げることはオレにもできない。歴史と経験のある海軍の指導が絶対に必要なのだった。 ジェノバ傭兵の相場は非常に高価だがキリアをモルダヴィアから租借できる見込みがたった以上あてはある。これまで内陸に偏っていた加工産業を海産物にも広げるのだ。とりあえずは鰯のオイルサーディンや鯨肉の瓶詰めあたりか。加熱殺菌は今のところワラキアだけの秘匿技術だから類似品の出回る心配はない。トランシルヴァニア内の石灰石鉱山を使ってセメントの試作も開始しているが、残念ながら原料の粉砕に手間どっているところだった。 「そういえば今日あたりローマ帝国の使者がお着きになるのではありませんかな?」 コンスタンティノポリスに商売の拠点を置くだけにアントニオの情報は正確だった。 「おそらく夕刻前には参りましょう。よければアントニオ殿もご一緒されてはいかがか?」 「かかる場に臨席を賜るとは恐悦至極。ぜひともお願いしたい」 このときアントニオの大仰な喜びように不審を感じてしかるべきだった。オレがその真実を知るのはイワンを乗せた船が到着する夕暮れ時になる…………。 ………………船からカッターが降りてくる。桟橋に出迎えたオレは何やら場違いな同乗者がいるのに気づいた。イワンの派手な衣装は相変わらずなのはともかく、おそらく調停者であろう司教にローマの外交官らしき貴族然とした男、なぜか子供がひとり紛れ込んでいるように見えるのは気のせいなのだろうか? 「おお!待ちかねたぞ!」 …………気のせいではなかった。 品のよさそうな幼女が夕闇にも鮮やかな群青色のドレスを纏い桟橋へと降り立った。肩で切りそろえられた金髪が活発な印象を与えているが整った鼻梁といい白磁器のような肌といい、まごうことなき美少女であった。こんな小さいのに船旅をしてくるなんていったい………… 出迎えの列に向けられていた少女の翡翠色の瞳がオレを捉えたとき、つい先日と同じ悪寒がオレを襲った。 「ふむ………」 なにやら勝手に納得して頷く少女から目が離せない。オーラが違う。存在感が違う。まるで人外の妖魔に魅入られてしまったような錯覚とともにオレは不思議な既視感を感じていた。こんなシーンをいつかどこかで見たような…………。 「………………問おう、……貴殿が我が夫となるものか?」 ってF〇TEかよ!