砂糖菓子をほおばりながらヘレナが条約内容を吟味している。 「確かに武力行使が下策ではあるが……トランシルヴァニア併合はやりすぎではないのか?」 「だからファガラシュとアルマシュに二都市を譲渡することにしている。どちらも豊かな都市だからある程度の収入は維持できるだろう」 「ふむ………それでヤーノシュは納得するものか?」 「納得するわけがない。しかし納得しないなりに落とし所を探るのが政治って奴だからな」 講和調印のためハンガリー・ルーマニア国境の街、オレディアへ向かう途上、なぜか当然の如くついてきているヘレナに説明しているオレがいた。この時代の旅は現代人が考えるほど気楽なものではない。馬車に揺られているとはいえその振動は激しく、腰の痛みは避けられない。しかも言葉は悪いが飲食やトイレの事情も決して良いとはいえないのだ。とうてい帝国の姫君を連れていける環境ではなかった。本当に子供の体力で大丈夫なのものか不安でならないが………。 「ちょうどよい抱き枕があるから大丈夫じゃ♪」 くっ………思わず可愛いと思ってしまった自分が憎い…………。 今回の講和条約の内容は多分にワラキアに有利な内容である。正教会の仲裁でワラキアに有利な判定がなされるという効果は大きい。セルビアやグルジアなど現存する正教徒国家に対して東ローマ帝国の存在感を示しすことができるからだ。国家の延命をはかるために心ならずもカトリックに追従する国家にとって頼るべきあてになるということは、きっと将来の財産となる。それにしてもヤーノシュにとってはふたりの息子の無事と引き換えとはいえ、苦渋の決断であったろう。まずトランシルヴァニアのワラキアへの割譲、ただしもともとワラキア領であったファガラシュとアルマシュをヤーノシュ領とするという交換条件だということを差し引いてもヤーノシュのダメージは計り知れない。そして互いの地位の確認、フニャディ・ヤーノシュはヴラド三世をワラキア唯一の主権者と認め、ヴラド三世はフニャディ・ヤーノシュをハンガリー王国摂政として認める。この確認に伴いワラキアは上部ハンガリーへの軍事支援を停止するものとする。これは取扱の難しい条項だ。下手をすればせっかく友好を築きつつあるヤン・イスクラとの関係が悪化しかねなかった。 「それでも素直に墨守する気はないのであろ?」 「直接的なものでなければ支援する方法はいくらでもあるからね………それに極端なことを言えば上部ハンガリーとは関係なしにハンガリーへワラキアが攻め込むのをこの条項では止められないしね…………」 「なんとも悪辣なことよな」 トランシルヴァニアと上部ハンガリーとの結節点にあたるニーレジハーザをヤン・イスクラが実効支配し続けるかぎり彼は貴重な顧客だ。ヤーノシュには悪いが見捨てる気はさらさらない。もっともその程度のことはとっくに見通しているのだろうが……………。 史実の流れから言ってもヤーノシュがヤン・イスクラを打ち破ることは不可能だろう。なんといってもこの時期のフス派軍隊は天下無敵である。史実と違い、権力の弱体化したヤーノシュも無理な遠征は行わないに違いない。 それより確か1448年といえば十字軍を率いてセルビアへ遠征するはずだったがこの分ではどうなることか…………。主力のハンガリーがこの有様では実現は難しかろう。それにジュラジ・ブランコビッチは有能な政治家だがセルビア貴族はワラキア貴族以上にたちが悪い。1389年のコソヴォの戦いではオスマンのスルタン、ムラト一世を殺害し九分通り手中にした勝利を味方セルビア貴族の裏切りで失っている。とてもともに手を取り合って戦いたい相手ではなかった。 …………頼りになる味方が欲しいな………スルタンにははっきりと疑われてるようだし。 ヘレナとの婚約を知らされたスルタンは、抗議こそしなかったが結婚はスルタンの同意なしに行わぬよう命令を発していた。また、東ローマ帝国の縁戚になる以上貢納金の額も変わるであろうとも。 オスマン朝の首都アドリアノーポリにもっとも近い国家といえばセルビアとワラキアになる。トランシルヴァニアを併合して旭日昇天の勢いのワラキアこそ、オスマンにとって最も危険な敵になりかねないということに、今更ながらにスルタンは気づいたのだ。今後は対オスマンの外交は綱渡りを強いられることになるだろう。ムラト二世が好戦的な政治家でないことだけが救いだった。 とはいえ今回手打ちをするヤーノシュと違い、スルタンには寵愛する有力な手駒がいる。十四歳に成長しているはずの実弟ラドゥがいるかぎり、オスマンはいつでもワラキアの公位に干渉することができるのだ。できることなら敵対したくない人間だった。無垢な愛情を寄せてくれたたった一人の弟であり、オレがこの世界に生まれて最初にオレを受け入れてくれた人間だからだ。 ……………お前をおいて去った兄を恨んでいるか?ラドゥよ……… ハンガリー王国との講和を成し遂げたオレは種痘の情報の公開に踏み切った。ヘレナの輿入れの祝い替わりにコンスタンティノポリスに既に情報を提供していたからだ。情報の漏洩が避けられぬなら今が商売の売り時というやつだった。取引の窓口にはヴェネツィアのジョバンニがあたっているので呆れるほどの巨利を上げてくれるだろう。同じくジェノバのアントニオにはコレラの治療法を委託していた。十九世紀末に日本を含め世界的に流行したコレラだが、意外にもその歴史は古く紀元前三世紀には既に歴史書にその名を連ねている。コレラの治療法は単純である。コレラの死因は大量の下痢と嘔吐による水分と電解質の減少からくる脱水症状なのだから、それを補ってやればよいのだ。具体的に言えば経口補水塩のように水にデンプン(ブドウ糖)と塩を溶かしただけのもので十分だった。これを常時補給させてやるだけで、大半の患者は死を免れることが出来る。早くも医聖などという声が上がり始めているらしいが、現代人のオレには過ぎた名前だ。 「それにしてもいったいどうやってそんなことを知りえたのだ?我が夫よ」 「………夢で見たのさ」 ヘレナの翡翠の瞳が湖水のような静謐な色を湛えてオレを見つめるが真実を話すつもりはない。信じてもらえぬに決まっているからだが………どうやら未来から来ただけの平凡な歴史オタクだとヘレナに知られたくない気持ちもあるらしい。我ながら度し難いものだ。 「こんなに美しい妻に隠し事とはけしからぬな?我が夫よ」 「………美しい妻は知らんが可愛い婚約者なら目の前にいるな」 「その可愛い婚約者はおかんむりだぞ」 「では……ご機嫌をとるとしようか」 このところヘレナは膝のうえに抱かれてキスを交わすのがお気に入りだ。こうなるとくすぐったそうに微笑んで蕩けたようにご機嫌になってしまう。 オレは気に入ってないよ?柔らかくて暖かい体温とか、生得の甘い香りとか気になったりしてないですよ?本当ですYO? ……オレはうかれていたかもしれない。いろいろな意味で刺激のあるパートナーを得て万全とは言い難いが順調な国家運営に慢心していたのかも。 ワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアの三国の経済発展は目覚ましい。加工食品やワインの蒸留や製本を中心にした産業の発展は既に農業人口を圧迫しつつある。人口密度の低いルーマニアならではといったところだろうか。特に陶器を使った瓶詰は高温殺菌など想像もできない欧州各国で爆発的な売れ行きを示していた。流石に缶詰をつくるには冶金技術が追い付かなかったのだが、とりあえず陶器でも代用として不足はない。さらに巨費を投じて各国から技術者まで招いた精密加工業については、とうとう火打石式(フリントロック)銃の試作に成功していた。火縄銃の欠点はまさに火縄を用いることにある。生の火を使うことから、しめるとよく不発を起こし、雨中ではしばしば使用不可能になるなど、火縄から派生する問題は多かった。そして以外に知られていないことだが火縄銃の発砲の際には風下にむかって約1mほどにわたって無数の火の粉がはじけ飛ぶ。そのため射手と射手の間隔を広くとらざるを得ず、どうしても銃兵の密度は低いものにならざるをえないのだ。しかし火打石式銃にはそうした問題点はない。ほぼ長槍兵と同様の密度で火力網を形成することが可能だ。火打石式銃には銃剣もまた標準装備されており、ワラキア大隊が世界に名を馳せる日は近いと思われた。 海軍はまだまだ航海術の慣熟がせいぜいで形をなしてはいないものの、オレのうろおぼえのクリッパー船のラフスケッチをもとにジェノバ共和国と共同で新型艦船の開発が進んでいる。餅は餅屋といったところか、平凡なラフスケッチからジェノバの海軍設計者はオレの全く知りえない情報を丹念に読み取ってくれていた。もともと発想のブレイクスルーさえあれば実現は難しくない技術なのだ。おかげでまた万能の人の噂が海軍関係者の間に広まってしまったが。 1449年に入りオスマン帝国への貢納金の納入が始まったが、もはや二年前のワラキアとは経済基盤が違うので支出に不足はない。既に種は蒔かれた。士官学校の生徒や大学の生徒がワラキアの新たな官僚層を形成するまでそれほど長い時間はかからないだろう。ネーデルランド式の常備大隊も五個大隊六千名に増員することも決定していた。そう、全ては順調だったのだ。 「大公殿下に急報がございます」 「シエナか。ハンガリーに動きでもあったか?」 シエナはゆっくりと首を振った。常には動揺など見せぬ男が、珍しく焦りの色を浮かべていた。ヤーノシュの侵攻すら顔色ひとつ変えなかった男だ。絶対に尋常な事態ではない。 いやな予感が胸を衝く。…………いったいオレは何を見過ごしたというのだ? 「ニコラウス五世教皇猊下がフェリクス五世猊下を廃位され、唯一の教皇として新たな十字軍の編成を命じられました。既にハンガリー・セルビア・ポーランド・オーストリアなど各国が水面下で動員を開始しています」 「ワラキアにも参戦しろとでも言ってきたか?」 それは困る。教皇を敵に回したくはないが今オスマンを完全に敵に回してしまうのは絶対に避けねばならない。 「違います。確かに十字軍の最終目標はオスマンではありますが……当面の目標はオスマンの属国、つまり…………ワラキアなのです」