1449年4月ローマ教皇より十字軍の出征とワラキア公ヴラド三世に対する異端の指定が布告された。しかし百年戦争を継続中のイギリスやフランスに応ずる力はなく、王位継承の争い覚めやらぬカスティリヤ=レオン王国やアラゴン王国もまた国内政治事情から不参加を表明していた。また、神聖ローマ帝国も出兵にはひどく消極的でありわずか八百の兵の供出にとどまっている。数的主力は聖ヨハネ騎士団を始めとする各国の修道騎士団とハンガリー王国そしてポーランド・リトアニア連合王国となっていた。 ここで厄介なのはポーランド王国である。リトアニアを従え黄金期に差し掛かったポーランドの国力はあなどれない。しかもポーランドはワラキアの東に位置しており、長年にわたってモルダヴィアを狙ってきた歴史がある。今回も彼らの矛先はワラキアではなく、モルダヴィアに向かうであろうことが当初から予想されていた。下策であるとは知りながらも、ワラキアとしては二正面作戦を取らざるを得ない。ようやく交流が円滑化してきているモルダヴィアを見捨てるという選択肢はとれないのだ。 まさかオスマン戦のまえに存亡の時を迎えるとは思わなかったな…………。もっともこんな死亡フラグを成立させる気は微塵もないが。 悪いことにシエナの情報を基に可能な限りの手はうっていたが反応は思わしくはなかった。 ポーランドには恨み骨髄であるはずのドイツ騎士団は結局教皇の命に従い十字軍に参加していた。やはり異端指定が効いているのだろう。またヤン・イスクラもまたオーナーたる神聖ローマ帝国から釘を刺されたためかろうじて中立を保つのみに留まっている。もっとも彼らが敵に回っていたらワラキアは風前の灯であったろうからありがたいとも言える。さらには友邦ヴェネツィア共和国の一部有力商人が諸侯に協力する姿勢を見せていた。モチュニーゴを始めとする元老院主流派に対する非主流派の巻き返しらしいが、おかげで経済封鎖が所定の効果を挙げられずにいる。さらにはトランシルヴァニアの貴族内で不穏な動きが見られるなど難問は山積していた。 だからといって明るい兆しがないわけではない。もっとも素晴らしい福音はヘレナの故郷、東ローマ帝国からもたらされた。しかもその福音はヘレナの機転によってもたらされたものなのだ。 「………異端指定という言葉の前には正教徒守護の勅命だけでは弱い。それでは味方の動揺を抑えられるかわからんぞ、我が夫よ」 「かといってオレが敬虔な正教徒の守護者であることを総主教に認めていただく以外に方法があるか?」 「ヨセフのお爺は話がわかるゆえ、我が夫にワラキア・トランシルヴァニア・モルダヴィアを統べる大主教の地位をいただこうと思うのじゃがどうじゃ?」 君主と大主教を兼務するのは稀なことではあるがかつて全く例がないことでもない。東欧に冠たる大主教に就任することがもたらす宗教的権威は、一介の勅命ひとつとは比べ物にならぬほど巨大なものだ。心の底から思う。よくぞこの少女を我が伴侶にしてくれた! 「我が妻の英慮には感謝の念を禁じ得ぬな」 「………感謝を表すなら丁度よい方法を知っておるぞ?我が夫よ」 「無論、吾も知っておるさ、我が妻よ」 そうすることが自然であるように顔を寄せた二人はお互いの口を吸いあい、やがて貪るように舌を絡め始めた。ヘレナの小さな口を存分に嬲り、唾液と唾液を交換し、お互いの唇に銀糸の橋をかけ、再び口腔内の粘膜という粘膜をひたすらに舐めあう未熟な官能の火を持て余すヘレナの表情がなんとも言えず妖艶だった。先日の一件から二人の関係は明らかに変化している。少女から女へ、保護者から男へと。 「いっそこの先も堪能したいものじゃが…………」 「………………それは異端だろう、我が妻よ」 ってかたぶん物理的に無理。 ヘレナもようやく十一歳を迎えたばかりだが、二人にとって記念すべき日はもしかするとそう遠くないのかもしれなかった。 正教徒にとって絶対ともいうべき権威を手中にしたことで、セルビアやアルバニア・キプロスと言った正教国家で深刻な動揺が広がっている。さらにはトレビゾント帝国やグルジア王国などからは傭兵五百名と支援物資がキリアへむけて送り出されようとしていた。ともに外交関係の厚い国家ではなかったが、正教徒の危機とオスマン朝の脅威に対する戦略的パートナーとしてワラキアは認められたということなのであった。 キプチャクカン国についてもジェノバ共和国を仲介とした支援要請の感触は悪くない。これ以上のポーランド勢力の伸長はキプチャクカン国にとっても国家の存亡にかかわるからだ。消極的ながらリトアニア国境に兵力を移動するくらいのことはやってくれそうであった。 最大の問題はオスマン朝の介入であったが…………なぜか奇妙なほどの沈黙を守っていた。ワラキアからの支援要請がないのをいいことに双方の被害が最大に達したタイミングでしゃしゃり出てくる気なのかもしれない。どちらにしろ長期戦になれば介入は避けられまい。 モルダヴィアの支援に二千名を振り分けると、残るのは常備軍三千名、貴族軍二千名・屯田兵二千名の計七千名となる。昨年から実施している屯田兵制度は開始したばかりとあって兵士としての戦力化は難しい。しかし土木工事用の工兵としては十分だった。いずれにしろ国内の貴族にいまだ低いレベルの信頼しか与えることのできないワラキア軍は兵数の少なさを質と運用によって補っていかなければならないのだ。 「シエナ」 「御前に」 「ヤーノシュに殺されたバルドル公縁故の者との渡りはついたか?」 敵の敵は味方である。兵力と国力に劣る以上、使えるものはなんでも使う以外にはない。それにヤーノシュは国権の簒奪に犠牲を払い過ぎていた。粛清された貴族の復権を条件に気脈を通ずる者が多いのはそのせいだ。これはもちろんワラキアにも言えることであって、いまだ一部の貴族以外には重要な戦略情報を託せずにいるのだが…………。 「国内の情報工作に二人、十字軍従軍者に三人と言ったところでございます。近日中にはさらに数名を増やせるものと」 「前線で動ける手駒は多いほうがいいが、それと悟られるな。接触は控えておけ」 「御意」 十字軍は所詮同床異夢の寄り合い所帯にすぎない。攻撃力は強力だが、その戦術機動力は最低だ。特に石頭の修道騎士団においてそれは激しい。裏を返して言えば、こちらの都合に合わせて誘導しやすい軍隊ともいえる。流石にヤーノシュはそれほど御しやすい男ではないが、十字軍という連合体を思うさま指揮を執るのにはいささか手に余るであろう。 「ジプシーの情報工作はどうなっている?」 「主だったジプシーは殿下の種痘を受け入れワラキアでの保護に感謝の意を表明しています。まず期待通りの働きをしてくれるものと」 ジプシーたちにはキリスト教徒に向けて発せられた十字軍を神がお怒りになっている、という噂を広めさせている。現教皇の正当性を疑う噂もだ。教会大分裂以降三人の教皇を廃位させてきただけに、庶民にとっては耳触りのよい噂となるだろう。 ジプシーのこうした工作の影でシエナ配下の工作員には天然痘患者の瘡蓋を煎じた粉を各国の井戸に投じさせていた。天然痘の感染力はそれほど高いものではないが、同時多発的に流行の兆しが見られれば社会問題になるのは避けられない。ましてそれが十字軍参加国のみで見られる現象だということになれば有形無形の社会不安が造成されることは必至だった。 そしてジプシーにはワラキアでは天然痘が根絶され、もはや流感に怯えることもないという話をジプシー自身という証拠つきで証言してもらう予定だ。頑迷な教会がその情報をあえて握りつぶしているとなれば教会の影響力は目に見えて低下するはずだった。 だがそれもこれも全てワラキアが軍事的成功を収めればの話だった。衆寡敵せず十字軍に蹂躙されることあらば、いかなる策も効果をあげることはできない。ワラキアに課せられた命題は重く厳しいものだった。短期的に勝利を収めなければならない。それも決定的な勝利を。 「殿下、出陣の準備整いましてございます」 「うむ」 ベルドに迎えられてオレは愛馬の背に跨った。いつもながら戦場に立つとなれば胸にこみあげる高揚がある。それは震えがくるほど恐ろしさを感じさせるものではあるが、同時に癖になりそうな快感を与えるものでもある。 「勝利の報を待っておるぞ。とっておきの褒美を用意して待っておるゆえな」 ………もしかしてそれは自分自身にリボンをかけて………よそう、今それを想像するべきではない。たぶん。 「わが運命と汝の運命は同じ物だ。いまだ夫婦ではなくとも、それは変わらぬ。だから妾のために勝て!それが夫の甲斐性というものぞ!」 ヘレナの激励には真摯なヘレナの決意が込められていた。東ローマ帝国の血をひくヘレナを欲するものは世界中に数多いだろう。結婚していればともかくただの婚約者であればヘレナはいくらでも良縁を見つけられるはずだ。その少女がこのオレと運命を共にすると言ってくれている。 ここで勝たずしてなんの漢であろうか! 「よかろう。ヘレナの伴侶たるの力をカトリックの狂人どもに教えてやるとしよう。この天と地の狭間には奴らの触れ得ぬ愛の形があるのだということを、決して忘れ得ぬ形で刻みつけてくれる」