月が替わった5月、ヤーノシュが満を持して兵力を集中する中、ワラキア軍もトランシルヴァニアで兵力を再編する必要に迫られていた。大主教就任の効果が予想以上に大きく、オスマン領であるブルガリアやマケドニアのほかセルビア王国などの正教会国家から一個人としての参戦希望者が相次いでいたからだ。その数およそ二千名………カトリックの修道騎士団には及ばないがそれでも堂々たる戦力である。既に全軍に十字架の旗と徽章を供与して、この戦いが正しい信仰として認められることは周知していた。アルビジョア十字軍など比較にならない、歴史上初めてのキリスト教徒対キリスト教徒………カトリック教会対正教会の戦いが今始まろうとしている………。 ヤーノシュはことの成り行きに不安を隠せずにいた。この十字軍は自分にとって最後の賭けである。もし負けることあらば、ほぼ確実な破滅が自分を待っている。 ヴラド三世が教皇の心証を決定的に悪化させた正教会との接近はヤーノシュにとってまたとないチャンスに思われた。医療技術の売買を始めたヴラドは教会にとってもはや見過ごせない危険人物と目されているのは疑いない。あとひと押しするだけで奴が異端の烙印を押され、その拭いきれぬ汚名のもとに破滅していくのは確実なはずであった。 君主にとって破門ならともかく異端の指定はあまりにも致命的なものだからだ。中世的な観念からいえば生きながら地獄に落とされたに等しいものであった。 にもかかわらず、正教会大主教という輝かしい地位を身に着け、以前にもまして国民の信頼を獲得したヴラドの政治手腕はヤーノシュにとっては魔術的とすら言えるほどだ。計算違いも甚だしい。現に正教徒と戦うことに戸惑いを感じている修道騎士は少なくないのである。 …………奴はいったい何者なのだ………? まるで正体の知れぬ怪物と相対したような腹の底が重くなるような恐怖が消えない。しかしただ一つ確実なことがある。 この違和感の根源はあのヴラド三世にあり、ワラキアの戦略も政治も外交もあの男一人の命にかかっているということだ。ヴラド失くしてワラキアはなく、正教会もない。たとえ十字軍の九割までが死に絶えようとも、ヴラドの命させ奪えるなら最終的な勝利はヤーノシュの頭上に輝くはずであった。 ブダに集まる兵士の数は実に四万に達しようとしていた。主力はハンガリー王国軍二万にポーランド王国軍一万、修道騎士団他が一万ほどである。さらにポーランド王国軍はモルダヴィアへもおよそ二万弱の兵力を派遣しておりドニエストル川を挟んでモルダヴィア・ワラキア連合軍一万二千とにらみ合いに入っていた。それに対するワラキア軍の規模はいかにも小さい。総兵力で一万弱………しかもうち二千余名は戦力としては数えることのできない工兵であった。おそらく根こそぎ動員をかける気になれば二万以上の数を揃えることは可能だろう。しかし訓練に次ぐ訓練を重ねてきた常備軍の兵士や、士官学校で戦術を叩きこまれた士官たちは知っている。時として戦意と忠誠心の薄い味方は敵以上に質が悪いものなのだと。 前線兵力ではないが、ワラキアには各国にない兵力以外の軍属が存在する。輸送に特化した戦略輸送兵団とでも呼べばよいだろうか。本来貴族が担ってきたワラキア軍主力たる軽騎兵が補助的なものとなり、常備軍による密集歩兵が主力となったことで余剰が生じた軍馬で構成されている。兵員の武力は山賊に襲われない程度の警察力レベルだが完全に軍組織に組み込まれた輸送組織はいまだ世界に類を見ないものであった。火力戦と野戦築城を得意とするワラキア軍にとって彼らが存在する意義は大きい。 「この戦いで我らが勝利することあらば、その功績は誓って君たちのものだ。各員の努力に期待する」 ワラキア大公から直接の御情を賜った彼らの士気は天を衝かんばかりに高まっていた。 「おい、てめーら!とっとと戦支度を始めやがれ!あんまり気い抜けた面してんじゃねえぞ!」 ヤン・イスクラは柄の悪いダミ声で兵士たちに出征の準備をさせることに余念がなかった。 「えっ………今回の十字軍は静観すると決まったんじゃ………」 「馬鹿野郎!ヤーノシュが勝ったらワラキアは終わりだ!トランシルヴァニアにでも出兵しなきゃ格好がつかねえだろが!ヴラドの小僧が勝ったらハンガリーが終わりだ。この機会にミシュコルツ州を頂く!………これでもオレらあ主持ちだからよ。ちったあ役に立つとこ見せておかなきゃしゃあんめえよ」 ハプスブルグ家の継続した支援を受けている以上、雇い主の意向はある程度聞いておくのが気の利いた傭兵というものである。もっとも額面通りに全ての内容を完璧に果たすなど考えてもいなかったし、戦うべき時と相手は全く自分が決めるつもりであった。 「あの小僧とは………なあんでかやる気にならんわなあ………」 ヤンにとってヴラドはほとんどびっくり箱のような人間だ。遠くフスの理想から外れてしまった今の自分にとって、面白いということ以上に大切なものは何もない。そんな自分と同志の間に隔意が生じつつあることも気づいてはいる。しかし、ヤンにとって夢はもうすでに終わったのだ………。新たにヤンに夢を与える者が現れるまで、気の向くままに流れる生き方を変えるつもりはヤンにはなかった。 「まだだ………まだこんなところでくたばるんじゃねえぞ小僧!」 「総主教殿!これはいったいどういうことか!」 コンスタンティノス11世は激昂していた。あまりに明らかな背反だった。東ローマ帝国の皇帝として、帝国の存続のためには手段を選ばず奮闘してきた自分を、この老獪な総主教は理解してくれているとそう信じていたのに幼い日から知る聡明を持ってなるこの老人にかくも手ひどい裏切りを受けるとは! 「………陛下はご存じなかったのです。………ならばご存分の御処分を」 ヨセフ二世の言葉に皇帝は低く呻かざるを得なかった。この老人は独断でしたワラキア公への大主教授与の責任を一身に背負うつもりでいるのだ。だからこそ、皇帝には一言も漏らさずにいたのだと。 それにしてもことここにいたっては老人の首ひとつで収まる問題ではない。教皇自ら異端の烙印を押した背教者をこともあろうに大主教の座に据えたのだ。これでは皇帝の考えていた、可能な限り対等な形での東西教会の合併など夢のまた夢でしかない。 「猊下が信仰を守ろうとするお気持ちは理解している。………しかし私はこの国を守らねばならぬのです…………」 皇帝は孤独だった。兄の死から帝国千年の歴史を背負う重責を必死になって果たしてきた。なのに本当の意味で皇帝と志を同じくする者は誰もいない。歴史と伝統が変わらずにあることは尊い。変わるくらいなら滅びを選ぶ潔さも個人としては尊いだろう。しかし、国を保つためには時として恥を忍び泥を啜らねばならないこともある。帝国の歴史と誇りを次代につなぐため、下げたくもない頭を下げ、かつて帝都を業火の海に叩き込んだヴェネツィアにさえ工作を依頼したのだ。 「………陛下はお父上に似て知略に長け王者の貫禄をお持ちのお方です………しかしこと知略に関する限りヘレナ姫にはかないませぬ」 皇帝コンスタンティノス11世は耳を疑った。今この老人は何と言った……………?この私の知略がまだ十一歳になったばかりの姪子に劣ると………? 「信じられぬのも無理はないが、あの娘は帝国千年の年月が作り上げた怪物じゃ………天才と言ってもいい。そのヘレナが選んだ男をどうか信じてやって下されぬか?」 あまりの言葉にすっかり毒気を抜かれた様子で皇帝は笑った。 「信じるもなにも今となっては見守る以外に手がございませんしな………しかし万一彼が敗れることあらば責任は免れぬと思し召せ」 「御意」 トゥルゴヴィシテ城のバルコニーでヘレナはヴラドのいる西の彼方を見つめていた。あの男を選んだことは正解だった。生まれて初めて出会う己を超える才能そして女の知恵を迷わず採用する識見帝国の皇女であることを全く気にかける様子のないとても柔らかな優しさどれをとってもヘレナが望む以上の伴侶に違いなかった。 だから寂しいだから切ないだから会いたい ヴラドがいなくなってしまってからのヘレナの生活は色を無くしたかのように空ろで虚しい。いつの間にか彼のいる生活がヘレナにとっての当たり前になってしまっていた。この城の一人たりともヘレナと対等の話などできない。ヘレナを感嘆させる見識などもたない。退屈だ。こんなことならヴラドに無理をいっても戦場にまでついていくのだった。 会いたい会いたい会いたい どうしてこんな胸が締め付けられるように痛いのだ。妾は夫の勝利を一片たりとも疑ってなどいない。あの男は勝つ。たとえ誰が見ても敗北しかありえぬ窮地にあろうとも、あの男はあの男にしか気づけぬ理をもって勝つべくして勝つ。常人とあの男は見ている世界が違うのだ。そして妾を迎えに来てくれる………勝利を携えて。なのに胸が苦しい。会いたくて我慢がならない。こんなことは今までになかった。早く帰ってきてくれ、我が夫よ。妾は………妾はおかしい。……おかしくなってしまった………。 天才をほしいままにする少女にもわからぬことがある。まして帝国の皇女たる少女に誰が教えようはずもなかった。 ……………………恋すれば人がどうなるかなど。