トランシルヴァニアとハンガリーの国境の街、オレディアを西に向かうとフォルデスという小さな町がある。緩やかな丘と平野に囲まれたそこは平時であればのどかで豊穣な大地に他ならなかったろう。しかし、今そこは東欧における戦乱の中心であり、東西のキリスト教徒が血で血を洗う闘争を繰り広げる運命の場でもあった。後の世にフォルデスの戦いと呼ばれる一連の戦いは近代にいたるまでの数百年を別の名で呼ばれていた。………………煉獄の戦い、と。 「さてずいぶんとまた気張ったものだな」 「およそ四万というところでございましょう」 ベルドが傍らで答える。その目に怯えはない。ただ、主君ヴラドへの信頼と忠誠があるだけだ。だが現実はベルドが無条件に信を寄せられるほど楽観できるものではなかった。 十字軍四万、軽騎兵を中心としたオーソドックスなスタイルの王国軍主力を傭兵中心の歩兵が補完している。修道騎士団の一部は重装騎兵となっておりその突撃衝力はつとに有名だった。対するワラキア軍は長槍兵・銃兵・砲兵・歩兵・軽騎兵を全て合わせても七千余人に過ぎない。攻者三倍の法則という言葉を遥かに超えた戦力比である。 突如戦場に喇叭とドラムがなり響いた。ワラキア軍が世界ではじめて導入した軍楽隊のものであった。戦場に調べが流れるという異様な光景に十字軍兵士が目を瞠る。 -天地讃えよ--御恵み溢れる--主の愛語りて--真実心に宿れかし--AMEN- 「忠勇なる同士同胞諸君、主の寛容が彼らをお導きになりますように………AMEN」 「「「「AMEN!!」」」」 ああ、そうとも。貴様らが死して天に昇れるよう祈ってやる。正しき信仰に殉じたと信じてこの豊穣の大地に貴様らの腸をぶちまけろ。そしてただ安らかなまどろみに沈むがいい。 ………………………黙示録の日まで。 戦いの火蓋は切って落とされた。 砲兵のぶどう弾が十字軍陣地に紅蓮の華を咲かせると、悪い夢から覚めたかのように十字軍側も動き出した。 「おのれ!異端め、姑息な真似を!」 不覚にも見惚れた…………戦場に響き渡る賛美歌のメロディー戦士たちの決意と信仰を込めた荘厳な歌声そんな自分は認められない、そんな自分を許すわけにはいかないのだ! 雄叫びをあげながら長槍の方陣目掛けて突進する騎兵を前に、進み出る一団の兵がいた。一様に大きな体躯をし、漆黒の帽子に彩られた彼らは流れるような所作で手にした棒の導火線に着火する。 「放て」 棒の先端にくくりつけられたものは陶器で出来た爆弾。それは一見すれば旧ドイツ軍で使用したポテトマッシャー型の手榴弾に他ならなかった。轟音と閃光が騎兵たちの鼻先に炸裂する。突撃に移った騎兵にそれを避けるすべは無い。ある者は吹き飛びまたある者は落馬して戦闘力を失う。 そして突進を鈍らせた騎兵たちに銃兵からの射撃が容赦なく浴びせられた。 またか!また貴様はオレの知らぬ戦をこの戦場に持ち込むというのか! 「ひるむな!迂回して側面から突き崩せ!」 しかしお前の軍はわずかにこちらの二割以下にすぎない。はなからワラキアを下回る損害で勝てるなど考えてもいない。悪魔(ドラクル)め!いかに貴様が目を眩まそうとも、障害物のない平野では数こそが力になる。たとえ貴様が本物の悪魔であろうとも変わらぬ、それが絶対の真実なのだ! ワラキアの騎兵も阻止行動に出るが千騎に満たぬ数では牽制にしか使えない。側背を衝く騎兵のさらに側背に回り込んで弩による漸減をしかけるのが精一杯の様子であった。ハンガリーの誇る軽騎兵部隊が両翼のワラキア陣に肉薄していく。前線の両翼に展開していたワラキア銃兵がこれに対応すべく左右に射列を形成するが、そんなもので騎兵の突撃はとまらない。 「…………どうやら勝ったな」 ヤーノシュは余裕の笑みをもらした。火縄銃は確かに有用な武器だが、まだ主戦武器足りえぬのには理由がある。ひとつには射撃速度が遅いこと、そしてもうひとつは肉薄されてしまうと反撃手段がないこと。弾幕を突破した騎兵が馬蹄に踏みにじらんとワラキア銃兵に肉薄する。次の瞬間ヤーノシュは言葉を失った。 ワラキア銃兵の前列が膝をつき、銃を一斉に突き上げたのである。銃の先端に鈍く輝く光があった。…………馬鹿な!銃を槍に仕立て上げたというのか!思わぬ逆襲に戸惑った騎兵に向けて二列目以降の銃兵が近距離から発砲する。味方の危機に駆けつけようとした後続の騎兵に向け、再び擲弾兵が手榴弾を投擲すると両翼の騎兵部隊は壊乱状態に陥った。 どこまで戦を変えるつもりなのだ?お前はいったい何者だ?悪魔め! しかし兵数に圧倒的に劣るワラキア軍には追撃に移るだけの余力はなかった。かろうじて軽騎兵による漸減が行われただけである。いや、少しずつではあるが後退しつつあるではないか! ………やはりお前のしていることは目くらましにすぎぬ。一定の戦果をあげることで勝利を喧伝するつもりなのだろうが逃がしはしない。この戦いはつまるところオレかお前の命がなくなるまで終わりはしないのだから。 「攻撃の手を休めるな!背後に回って退路を絶て!決して逃がすな!」 戦いは激化する一方であった。ワラキア本隊の背後へ機動しようとしたハンガリー騎兵は森に隠されていたワラキア別働隊の奇襲を受けその任を果たせずにいたが、正面と両翼からの波状攻撃は確実にワラキア軍に消耗を強いていた。戦列の幾分かは既に失われており、本陣の予備は出し尽くしている。対する十字軍側の損害も甚大と表現するほかはないが、戦力比が違う以上ワラキアにとっての危機的状況に変わりはないのだった。 「あと少し……あと少しでワラキアの戦列が崩れる!皆のもの!功名は目の前ぞ!」 もはや誰の目にもワラキアのジリ貧は確実であるかに思われた。いや、むしろここまで優勢に戦いを進められただけでもワラキア兵の精強さは驚くべきものである。野戦で五倍以上の敵と正面から戦って味方に数倍する損害を与えたという一事をもってしても戦史に残る勇戦といえるだろう。 功名稼ぎをけしかけるヤーノシュの言葉に勇躍して十字軍が攻勢に移らんとしたその時だった。 ワラキア公国軍の後方でむくりむくりと立ち上がる伏兵その数二千。後方に控えていたワラキア公国軍工兵部隊の面々だった。本格的な戦闘力を持たない彼らは、ゆっくりと後退を続ける味方の後方で弩を手に伏してその姿を隠匿し続けていたのである。ほとんど狙いもつけずに斉射された弩の矢は豪雨となって十字軍兵士の頭上に降り注いだ。怯んだ兵士に向けて擲弾兵が最後の手榴弾を投擲する。 …………おのれ、悪あがきをしおって………! 歴戦のヤーノシュには解っていた。伏兵として出現した兵士が戦慣れした本職の兵士ではないということを。ここでわずかばかり時間を稼いだところで破滅のときをほんの少し引き伸ばすにすぎないだろうということを。そう思い爆煙の晴れた戦場を見渡したヤーノシュは再び絶句した。 ワラキア軍が逃げ出していた。十字軍に背を向け、駆け足全力で遁走に移っている。ここまであれほど頑強に抵抗し、いまだ組織だった戦力を失ってはいないワラキア軍が、戦列を乱し、壊走にも等しい様子で後方へと駆けて行く。 …………何を愚かな……歩兵が主力のワラキア軍が走って逃げたからといって何ほどのことやある………! 「逃がすな!追え!追えー!」 なだらかな坂の上に逃げ込んだワラキア軍を追って、混乱から立ち直った軽騎兵が駆け出していく。 そうして坂の上へワラキア軍を追った騎士たちの前に有刺鉄線と塹壕に囲まれた野戦陣地がその凶暴な顎を向けていた。 ………………やられた! 陣地に拠ったワラキア軍は既にあらかじめ定められていたかのような配置を終え、有刺鉄線に戸惑う十字軍兵士へ向けて一斉射撃を開始した。手持ちを失っていた擲弾兵もまた、手榴弾の補給を受け、再び前線へと投擲を開始する。十字軍の突撃衝力はここに完全に停止した。 …………ここで終わるわけにはいかない。 四万を数えた兵のうち、なお実戦稼動に耐えうるものは二万に満たない。戦意に薄い傭兵から逃亡が相次ぎ、もともと銃撃に弱い騎兵を中心に一万名以上が死傷して戦闘力を失っている。ここで兵を退くようなことがあればヤーノシュの采配に対する責任問題になることは必至だ。仮にそれを押さえ込むことが出来たにせよ、もう一度大兵を集めることなどできるかどうか…………。莫大な戦費そして予想だにせぬ大損害それでもなお、諸侯が協力してワラキアへ立ち向かってくれることなどありえないではないか。 勝つしかない。今ここでいかなる犠牲を払おうとも、ヴラドの首を上げる以外に自分が生き残る術はない。 「全軍を集結させよ」 もはや区々たる損害など考慮するに値せず。味方の屍の山を踏み越えてただ怨敵にあたるのみ! オレはヤーノシュが全軍を集めその集団密度を高めていくのを見つめていた。 …………ヤーノシュ、お前の考えは正しい。 日が西に傾きつつある今、戦いを放棄できないヤーノシュが今日中の決着を望むなら味方の損害を省みぬ一斉飽和攻撃以外にない。陣地に拠ったとはいえ兵数で圧倒的にワラキアが劣るのは事実。ならばワラキア兵が対応不能な数と密度で一気に陣地を突破してしまうのが最良の戦術だ。有刺鉄線を軍馬の死体で乗り壊し、塹壕を味方の死体で埋めてワラキア兵の死命を制する。肉を切らせて骨を絶つ……そんな意味の言葉があるいはこの東欧にもあるのかもしれなかった。 「………お前は正しい、だが正しいがゆえにお前の負けだ、ヤーノシュ」 悪いがヤーノシュ、お前がここに至るまでにオレを殺せなかった時点でお前の敗北は決まっていたんだ。 再編を終え最後の突撃に移らんとする十字軍の前に、オレの手が振り下ろされた。 ワラキア軍の陣地から突如吹き上がった火柱にヤーノシュは目を疑った。見れば塹壕に流し込まれた油のようなものが燃え上がっている様子である。 …………これでは突撃できぬ………! どこまでも姑息な手段を用いる男だ。そう思ったときにはもう遅かった。塹壕の両端から見る見るうちに炎の川が十字軍の両翼に伸び始めたのだ。 …………それはまさに炎の川だった。幅一メートル、深さわずか二十センチ。溝らしきものがあるのに気づいてはいても誰も気に留めるものもいなかった。なんら戦闘の障害になりうるものでもないからだ。そのわずかな溝の上で、輸送兵団が全力をあげて運んできた大量のナフサがおそるべき高温で燃え盛りながら、たちまちのうちに十字軍を炎の壁のなかに閉じ込めようとしていた。 今や十字軍の大半は一辺を六百メートルとした炎の壁に押し包まれていた。炎を避け中央に固まり始めた兵士たちに向かって投石機から焼夷弾が投げ込まれる。内も外も灼熱の地獄に炙られ、一人また一人と炎の川に身を投げる兵士が続出した。しかし、高温で燃焼するナフサに炙られた人間が無事ですむはずもない。全身火傷で死んでいく運命に変わりは無いのだ……………。 これが戦?これでも戦?こんなものが戦?否!否!否!断じてこれが戦でなどあるものか!戦とは騎士たるの名誉であるべきものだ!これは戦などではなく………邪神の生贄の儀式にほかならぬ。戦をかくも貶めるとは………やはりお前は悪魔(ドラクル)であったのだな!悪魔!悪魔!悪魔!今は勝ち誇るがいい。しかし今にきっと神罰が貴様の頭上に下されよう。暗黒地下で主のお裁きを受けるのは誓って貴様なのだ。そのときこそオレは永遠の煉獄に落ちる貴様を存分に嬲り嘲り嗤ってくれる。その日を楽しみに待っているぞ! …………………黙示録の日まで 「……………火あぶりはお前たちの十八番だったな…………」 十字軍は完全に壊滅した。その死亡率は実に七割近くに達し、参戦した四万人のうち約三万人が命を落としたのである。戦いの容赦の無い情景はたちまちのうちにローマを震撼させ、教皇はヴラド三世の異端指定を撤回することになった。戦史に特筆されるこの殲滅戦を誰がいうともなく、煉獄の戦いと呼んだ。 「このままブダを占領するぞ。バルドル公の縁者を召しだして宮廷工作を図れ。」 「御意」 ハンガリー王国は完全に戦力を失った。ここでワラキアが占領しなければ他国の草刈場と化すことは必定である。それはワラキアの安全保障にとっても得策ではない。 ハンガリーの領国化についてその方策を検討しているオレに信じられない報が飛び込んできた。 「殿下!お急ぎお戻りください!先ほどの腕木通信によれば不平貴族の一部がトゥルゴヴィシテに侵攻いたしました!」 「なんだと!?」