…………トゥルゴヴィシテが………危ない………。オレは使者の言葉を呆然と聞いていた。 ………ヘレナが……… 「必ず勝って帰ってこい。汝は我が誇りだ」 ………ヘレナが……… 「……だから……早く妾のもとに戻ってきてくれ、我が夫よ」 ………ヘレナが危ない!? そう考えたらもういてもたってもいられなかった。 「ベルド、あとを任せる!」 気がついたときにはもう駈け出していた。 君主として失格かもしれない。大主教として背教ですらあるかもしれない。しかしそれ以上に大切なことがある。 それは異邦人たるオレにとって………おそらくは家族という存在なのだった。 ベルドは君主の命に否やはなかった。 「ゲクラン殿、精鋭の中隊を率いて殿下を追って下さい。残りの者は私とともにブダへと向かいます」 「承知した、殿下の手法を誰よりも真近で見てきた貴殿だ。きっとやれる」 「私もそう信じています」 「マルティン!フーバー!グレッグ!オレの後に続け!」 ゲクラン率いる常備軍の精鋭が疾風のようにヴラドを追った。不平貴族の戦力など知れている。全ては時との勝負だった。裸同然のトゥルゴヴィシテ城が陥落する前に間に合うかどうか。ヘレナ姫が無事であるうちに到着できるかどうか。近臣としていつもヴラドの傍に仕えていたベルドは知っていた。半ば神がかった敬愛する万能の主君が、あの小さな少女に、いかに心のもっとも柔らかな部分を委ねていたかということを。 ヘレナはこのところ毎日西の空を眺めるのが日課になっていた。ヴラドの先鋭的な政治センスを思い出しては何度も頷き、ヴラドの優しい笑顔を思い出しては頬を朱に染め、ヴラドのキスの甘さを思い出してはだらしなく笑みくずれているその様は誰が見ても典型的な恋煩いであった。 「…………ヴラドの馬鹿………」 言ってみてからヘレナは沸き立った釜のように赤面した。慣用句の如く我が夫などと呼んでいたが、初めて名前で呼んでみればまるで心臓を鈍器で殴られるが如き衝撃がある。 …………こ、これでは言えぬ………っ! あまりに心臓に悪すぎる。ま、まさか名前で呼ぶのがこんなに気力を必要とするものだとは………! 人間離れした造形美を誇る美少女が赤面する顔を手で押さえてのたうちまわる情景は一種異様なものであった。侍女はもはや現実逃避することに決めたようでヘレナを断固として視界にいれぬよう頑なにバルコニーへ立ち入るのをこばんでいるのもむべなるかな。そんな微笑ましくも恐ろしいヘレナの発作はこの日ばかりはそう続かなかった。 「…………なんだ?あれは………?」 トゥルゴヴィシテへ一直線に駆けてくる軍馬の群れ。馬蹄が砂塵をかきあげる様子がバルコニーのヘレナからはよく見えた。 ザワリ と全身の毛肌が粟立つのがわかる。妾の予想が正しければ奴らは…………… ヴラドに贈られた望遠鏡を手に取り迫りくるその者の紋章を確認する。赤地に白い騎士の紋章かつてヴラドに与するをよしとしなかった中立派最大の貴族ザワディロフ伯爵の軍勢だった。 「誰がある!」 ヘレナの怒声に慌てて侍女が駆けつけた。 「謀反人どもがやってくるぞ!城門を決して開けさせるな!使えるだけの兵を全て集めて城壁に並べろ!それと……街の顔役に連絡をつけろ、妾が直々に面会する」 ギリリ……と唇を噛みしめるとヘレナは何かを決意した表情でバルコニーを飛び出していった。 「開門!!」 大音声で呼ばわるザワディロフ伯爵に声を返したのは小鳥が唄うような少女の美声だった。 「先触れもない突然の来訪、何故をもってのことか?ザワディロフ」 その無礼な言い様にザワディロフは思わず激昂した。 「貴様ごとき下賤ものと聞く口などもたぬわ!とっとと城門を開ければよいのだ!」 「………下賤は貴様だ、愚か者」 「な、なにを…………?」 「ローマ帝国皇帝の姪にしてワラキア公国大公の婚約者たるこのヘレナ・パレオロゴスが下賤とあってはこの世に貴賤などおらぬようなってしまうわ!分をわきまえよ!」 ザワディロフは愕然と絶句する以外に術がなかった。まさか帝国の皇女が城門で待ち構えているなどいったい誰に想像できよう。ザワディロフは自らの目論見が初手から躓いたのも認めぬわけにはいかなかった。 「こ、これは不逞の輩が公都へ向かっているとの報を受けたゆえご助力に参ったのでございます……」 「そうか、その不逞の輩とやらはいったい誰でいかほどの戦力をもっているのだ?」 これが一介の門番ならば権威と弁舌に任せて論破することも可能であったかもしれないが、ヘレナを納得させるのは至難の技だ。 …………ならばやるか? もとより難解な思案には向かぬ男であった。ザワディロフはその凶暴な本性をむき出しに、ヘレナに対して言い放った。 「異端づれに忠義立てするのも愚かなことよ。今降るならば命だけは助けてやるぞ、姫よ」 当人にとっては可能な限りの凄みを聞かせた台詞であったが、その台詞はヘレナになんの感銘ももたらさなかった。 「異端はうぬじゃ、この身の程知らずめが。大主教に歯向かって主が許す道理があろうか。地獄で主に詫びるがよい。私は裏切ってはならぬものを全て裏切ってしまいました、とな」 近視眼で気位ばかりが高いザワディロフにとってそこまでが限界だった。 「この生意気な餓鬼め!思い知らせてくれる!」 「頭の悪い男らしいなんの捻りもない台詞じゃな。そんなことでは妾のような童すら口説けぬわ」 激発したザワディロフが怒りに逸るままに総攻撃を開始した。 もちろんそれこそがヘレナの思惑通りであった。 トゥルゴヴィシテに残存する兵力はわずか五十余人に過ぎなかった。これではとうてい城壁の全てを防御しきれない。ヘレナとしては自分を囮に敵を一ケ所に集中させる必要があったのだ。ザワディロフとそれに同心する貴族軍およそ八百名。戦力比十六対一はあまりに絶望的な数字である。しかし救いはある。ヘレナが愛する未来の夫たるヴラド三世は常識の通用する男ではないことが何よりの救いだった。 とはいえヘレナとて十一歳の少女であることには変わりはない。舌戦の間はなんの怖気も見せなかったが戦闘が始まってみれば膝の震えが止まらなかった。 ………あの男にもう一度会うまでは死ねぬ……… ヘレナの心を占める最も強い欲望はそれだった。ワラキアの未来でもない。帝国の血統の誇りでもない。ヴラドの傍らにいる日常を手にすることだけが、ヘレナの戦う理由なのだった。 「妾は負けぬ………汝が迎えに来てくれるまではな」 ヴラドが十字軍に敗北すると考えている輩は他にもいるやもしれない。しかしヘレナはヴラドの勝利を確信している。問題はその確信を他の貴族が共有してくれるかということだ。 「腕木通信の報を見逃すな。味方の勝利を何よりも優先して伝達するのだ」 十字軍との戦いが勝利に終われば傍観していた貴族はたちまち味方へと変わるだろう。功名稼ぎにザワディロフを討伐しようとすることも決してありえない話ではない。 しかし味方の勝利までの時間を稼ぐのにはここの兵士だけでは不可能だ。 「殿下………トゥルゴヴィシテの有力者たちが参っております………」 「うむ、通せ」 まずは人手がいる。それも自らの意思で行動を共にする同士が。