「お主らに問う」 開口一番ヘレナは居並ぶトゥルゴヴィシテを代表する有力者たちに言い放った。 「先代大公の時代に戻りたい者はいるか?」 有力者たちはお互いに顔を身合わせる。返事などひとつしかないに決まっていた。 「………このトゥルゴヴィシテに住まうもので先代の治世へ戻ることを願うもの、ただの一人もおりはしませぬ。我らの主君はヴラド殿下以外にはおらぬものと」 現在トゥルゴヴィシテは空前の繁栄を誇っていた。躍進を続けるワラキアの政治の中心として、トランシルヴァニアとモルダヴィアの中心に位置する経済の扇の要として。人口はどんどん増加し、サス人による支配から脱したルーマニア人商人たちがようやく自立した商業圏を構成しつつある。この数年で推し進められた街道の整備によって流通量は増える一方であり、商品価値の高いワラキア商品は多大な利益をトゥルゴヴィシテにもたらしていた。 ………かつてサス人・マジャル人に虐げられ、同じ国民扱いさせされなかった過去に戻りたいなど誰が考えるだろう。 「よろしい、しかしここに大公殿下の治世を覆そうとする愚か者がいる。お主たちはそれでよいのか?己が幸せを暴虐な貴族に覆され、それをやむを得ないとがんじ得るのか?」 ヘレナが促している意図は明白だった。 「…………私たちにも戦え………と?」 「戦うのが必ずしも騎士である必要があろうか?人はみな己の大切なもののために戦う権利があるのだ。妾は夫のために戦うぞ?あの男にもういちど逢うまで死ぬ気はさらさらないからな!」 たった十一歳の少女が主張するなんともおおらかな愛の告白に思わず男たちは微笑んだ。愛する者のために戦うことを厭う男はいない。しかしそれ以前に子供を守ってやる事こそ大人の責任というものではないか。 「手前の手代に傭兵あがりのものがおります。すぐに御前に参らせましょう」「力自慢の若者には不自由しておりませぬぞ。なんなりとお申し付けくださいませ」「女達にも介助と治療にあたらせましょう。こうした人手はいくらあっても困りませんからな」 ザワディロフたち貴族軍が乱入すれば略奪と暴行が繰り広げられ公都が荒廃するのは火を見るよりも明らかだ。かつては抗う術も力もなく、嵐が過ぎるのを待つように身を潜めるしかなかったが…………。 「お主たちの協力、頼もしく思うぞ。なに、褒美は期待しておくがよい。我が夫は太っ腹であるゆえな」 この少女にかかっては貴族の力など塵芥にも等しく思えてしまう。それがなんとも快くてならなかった。 「おうらやましい。姫君はヴラド殿下によほど惚れこんでいると見えまする」 ちょっとした揶揄であったが、それが少女に与えた影響は甚大だった。 「あ、や、ここ、これはだな、妻として当然の役割なのであって……いやいや妾が夫を愛していないわけではないのだが……はは恥ずかしいことを申すでないわ!」 大公殿下は幸せものだ。かくも愛らしく、かくも聡明で、かくも勇気ある妻を得ようとしているのだから。 「ええい!これしきの手勢が何故抜けん!」 城門を前にした攻防は膠着状態に陥っていた。もともと攻城兵器の持ち合わせのないザワディロフ軍はかろうじて破城槌だけを持ち込んでいたが、破城槌に固執するあまり城壁から弩で狙撃され、いたずらに損害を重ねていたのである。ようやく遊兵をつくる愚に気づいたころには、既に太陽は西に大きく傾きかけていた。もっとも夜になれば戦いはこちらのものだ、という余裕があったためそれほどの焦りはない。闇に隠れて城の内部に潜入させできれば勝負は決まりなのだ。そうしたザワディロフの思惑が見事にはずされたことに気づくまでそれほど時間はかからなかった。 遠目には城壁が炎上しているように見えるだろう。それほど莫大な数の油が燃やされ、夜になってなお、トゥルゴヴィシテはまるで昼のような明るさを保っていた。商人たちが備蓄の油を提供した結果であった。城壁の見張りにも市民から志願した者たちが笛と弩を手に巡回して回ってくれている。鉤縄で城壁をよじ登ろうとした貴族兵士たちは各所で発見され矢や油の洗礼を浴びることとなったのだった。 また城門前には廃材が積み上げられ、破城槌で城門が破壊されても容易には侵入できないように様々な工作がなされている。ヘレナがヴラドに聞いた野戦築城の知識がそこには如何なく生かされていた。落とし穴、塹壕、バリケード…………このとき、まさしくヘレナこそはトゥルゴヴィシテの主であり、ワラキア大公ヴラド三世の妻であった。建前が婚約者であろうと、誰もそれを気にすることなど思いもよらない。ヘレナはその行動によって国母たる地位を市民に認知されたと言っても過言ではないだろう。ザワディロフの胸中にようやく焦りと後悔が生まれようとしていた。 翌朝からザワディロフ軍は正攻法に復帰した。戦力比はすでに絶対なものであり、絶え間ない消耗を強いていけばトゥルゴヴィシテの戦闘員が消滅するまでそれほどの時を要しないであろうことは明白だったからだ。 「弩の射手!城壁の兵士を集中して狙え!弩のないものは盾をもって破城槌を守るのだ!」 身を隠す擁壁もなく弩同士が正面から打ち合えば損害は避けられない。しかし極端なことを言えば五人倒される間に一人倒すことが出来ればこの戦いに関してはこと足りる。まともな戦術指揮官なら恥ずかしさのあまり裸足で逃げ出しそうなザワディロフの命令は実のところこのうえなく有効な判断だった。 ところが確実に被害を与えているであろうにもかかわらず、トゥルゴヴィシテの反撃はなお熾烈であり衰える気配を見せない。 「何故だ?一向に城壁の兵が減らぬわけは………!?」 減らぬ理由は偽装である。あえて目立つよう露出した兵士は人形に鎧を着せた囮であった。矢を浴びた囮はいったん回収したあと矢を抜いて再び城壁に立てる。従軍経験者の加入と相まって迎撃の兵力が衰えぬ理由はそこにあったのだ。 後方で治療と介護にあたる女性たちの存在も心理的な影響は大きい。また弩は弓を引くのに力がいるが、狙いをつけ発射するのに力はいらない。弩の弓を引くことを専門にした若者の加入で兵員に数倍する速度で射撃ができることも大きかった。 こんなことはありえない。ザワディロフの肥大化した自尊心は目の前の事実を容認できなかった。ヴラドの敗北と破滅を説き、加勢を頼んだ貴族たちからの反応が乏しいことも、ザワディロフの計算にはないことだった。十字軍の兵力およそ四万、神か魔でもないかぎりわずか五千程度で抗戦できるはずがない。なのに何故それがわからぬ?我ら貴族の誇りを取り戻すための義戦に、何故手を貸そうとしないのだ? 元来軍事力こそが貴族の権力の源泉。ヴラドが推し進める常備軍の整備は君主が軍事力の一切を貴族に頼らぬという意思表明に他ならないのではないか。重すぎる軍役にいっときは歓迎したが、時を追うごとにその不安がザワディロフを苛んでいた。 その不安は半ばは的中していると言ってよいであろう。ヴラドは貴族の軍権を取り上げ、その教育水準を利用した官僚集団としての役割を貴族に対して期待しつつあった。逆に言えば、能の無い……ザワディロフのような前封建領主的な貴族は不要になろうとしていたのだ。もしも貴族が不要で平民と同じ扱いを受けるくらいなら死んだほうがましだとザワディロフは本気で考えていた。 ……………何故わしの思うように行かんのだ? 懊悩するザワディロフの前でまた一人の兵士が弩の射手に射抜かれてもの言わぬ肉の塊と成り果てる。 攻め寄せてよりはや三日。ヴラドが戻るようなことは万が一にもありえないだろうが、このままでは損害が許容を超えてしまう危険性が出てきた。ザワディロフに同心した貴族が死ぬまで行動をともにしてくれるなどとは流石のザワディロフも考えてはいない。現在のまま損害が推移すれば明日にも兵士の三割が行動不能となるだろう。ザワディロフの経験からいっても、三割という数字は兵の士気の分岐点であるはずだった。 「見事じゃ!褒美を取らせるゆえ見知りおくぞ!デュマ!」 またあの癇に障る声が聞こえる。ヘレナは律儀にも前線に出ては兵士の手柄を激賞し、後の褒美を約束して回っていた。士気を維持する手段として指揮官の大度と褒賞ほど効果的なものはない。ヘレナが意識してそれを行っているのなら、全く末恐ろしい子供だと言える。もっとも無意識であったほうが恐ろしいものであるかもしれないが……………。 …………………そうか ザワディラフは内心でひそかに手を打った。ワラキアがひとりヴラドの肩にかかっているようにトゥルゴヴィシテの命運はただひとりの少女の双肩にかかっている。ヘレナさえ害することが出来れば全てがうまくいくのだと。 もはやザワディロフの懊悩の責任はヘレナひとりに向かっていた。 …………あの異端の片割れさえいなければ正しい秩序が戻ってくるのだ---!!