三日目の夜が明けた。城門はようやく半ばを崩し去っているが、ところどころに見える割れ目から、もう一段防衛線が張られているのは見てとれる。 やはり打つべき手は打っておかねばならんか。 ザワディロフが選んだとった手段は彼らしい即物的なものであった。すなわち、矢文を大量に市内へと打ち込んだのである。 ヴラドの敗北は疑いなし。貴族に味方するものに恩賞を与える。ヘレナ姫を殺した者には一万ダカットの恩賞を与え貴族に列する。 城の全周に満遍なく矢を撃ちこむと、兵にはヘレナに対する罵声を連呼させた。 魔女を殺せ!魔女を殺せ!魔女を殺せば都は助かる!魔女を殺せば褒美は思いのまま!殺せ!殺せ!魔女を殺せ! 流石のトゥラゴヴィシテ市民もこれには眉を顰めざるをえなかった。生理的嫌悪感をもよおしそうな独善自らの欲望のためには手段を選ばぬ無恥所詮自分の都合でしかものを見ることのできない輩の約束を信じるほうがどうかしていた。彼らに従った先に市民の幸福はありえない。 「ヴラド大公万歳!」「ヘレナ妃殿下万歳!」「ワラキア万歳!」「大公夫妻万歳!」 市民たちの怒号はたちまちのうちにザワディロフ軍兵の音声をかきけした。トゥルゴヴィシテを揺るがさんばかりのヴラドたちを讃える歓声は子供達までをも巻き込んで都全体に広がっていこうとしていた。嘘偽りのない市民たちの明確な意思表示にザワディロフは戸惑いを隠せない。 平民どもが………身の程知らずにもつけあがりおって……これも奴の政が悪いからだ…………。 戦の度に虐げられることを、当然のように受け入れてきた従順な羊が不遜にも主人に牙を剥こうとしている。そうザワディロフは感じていた。羊に自己の意志を持たせてはならない。主君の命令を唯唯諾諾と聞く民だけが良い民であるはずではないか。そうでなくてどうして領地が安寧に治まるだろう。ザワディロフは従順であったはずの市民たちの抵抗に義憤すら感じていたのである。 かくなるうえは総力戦だ! ことここにいたってはザワディロフも総攻撃の下知を下さざるを得なかった。ただひたすら攻め続け先に気力と体力が尽きたほうが負ける先の見えない戦い以外に事態を打開する術を見出せないからだ。双方の全軍を上げての戦いは天井知らずの被害を双方にもたらしつつ、日が暮れてもなお衰える気配を見せなかった。 トゥルゴヴィシテ市民にもザワディロフにも忘れ去られたところでわだかまる深い闇がある。かつてルーマニアにおいて商業利権を独占してきたサス人の一団がそれだった。ヴラドが即位したつい二年ほど前までは絶対的といってよい価格決定権を持ち、我が世の春を謳歌してきた彼らも、ヴラドの改革によって利権の全てを失いその力のほとんどを喪失してしまっていた。彼らにもルーマニア人と同様の保護を与えられたため、資産の取り崩しながらなんとか商人としての看板を保った者も多いが、利権に頼りすぎて真っ当な商売が出来ず、人夫にまで成り下がっている者も数多くいたのである。彼らは一様にかつての栄光の日々を懐かしみ、ヴラドに対して怨念に近い感情を抱いていた。 その彼らにとってふって湧いたような福音が訪れたのだ。一万ダカットといえば彼らが一生遊んで暮らせるだけの金額である。困窮した彼らにとっては喉から手が出るほど欲しいものだった。しかもヴラドの政権が崩壊することこそ彼らの悲願、復権への一歩、これに協力しないという選択肢はありえなかった。 「夜を待とう…………」 幸いにして戦いは夜を徹して行われている様子である。そして、全ての兵力がザワディロフとの戦闘にかかりきりになっている現在、ヘレナが住まうワラキア宮殿にはただひとりの兵士すらいないはずであった。 深夜 七十に達しようかという老執事は寝ずの番を行っていた。従軍経験のある彼は戦闘が継続中である以上、万が一に備えて寝るなどということができなかったのだ。その彼の心がけは無駄ではなかった。数十人に及ぶサス人の一団が鎌やナイフを手に宮廷の塀を乗り越える様子を見逃さずにすんだのだから。 「起きろ!敵襲だ!姫様を逃がせ!!」 「くそ!邪魔しやがって!」 大声をあげて警鐘を鳴らした執事にサス人たちの怒りが集中した。 「死ね!」 数え切れない刃物で膾のように切り刻まれて、執事はたちまち絶命した。それでもなお、執事は刃物を体内深く埋没させ、わずかでも主人のための時間を稼いだ。 「姫様!どうか急いでお逃げください!」 息も絶え絶えの様子で侍女がヘレナの寝室に飛び込んできたとき、既に宮廷内は地獄と化していた。雑用に使われる使用人の男以外に男手はなく、ただ侍女たちだけが住まう宮廷に暴徒と争う力のあるわけもなかったのだ。 「…………無理だな。回廊の中に入り込まれればこちらは袋の鼠だ」 ヘレナの寝室は宮殿の奥に位置している。中央回廊を通らずして外部に出ることは不可能なのだ。 「……といって黙って死ぬつもりもない。手伝え、この部屋を封鎖するぞ」 口で言うほどにヘレナが動揺していなかったわけではない。本当は大声で泣き喚きたかった。ヴラドに会いたい。そしてヴラドの花嫁になるまで死ぬわけにはいかないのだと。 駆けつけた二人の侍女とともに大理石のテーブルを動かし、扉に閂をかけて室内を閉鎖する。あとは箪笥も椅子もシーツも、およそ考え付く限りのものを扉の前に積み上げた。男たちの荒々しい怒声がすぐそこまで迫っている。いつまで待てば助けが現れるのか…………。 「………ん?開かねえぞ!……ここだ!おーい!魔女がいたぞ!」 「斧だ!斧をもって来い!」 鈍い衝撃とともに扉に亀裂が走っていく。そのあまりの暴虐的な事態に喉がカラカラに乾いてひりつくように痛い。 ヘレナの震える手には護身用の弩が握られていた。最後の最後まで抵抗することを諦めない。それがヘレナのヴラドの妻たるの誓いなのだった。 バリバリ 扉の上部が割り裂かれ悪鬼のごとき男たちの顔が垣間見えるとヘレナは迷わず引き金を引いた。 「がっ!」 「くそ!やりやがったな魔女め!」 どうやら一人の男に命中したらしい。早く次ぎの矢を番えなければ……………! しかし非力なヘレナが矢を番える前に、扉は破られた。 興奮した男たちが力任せに障害物を除けるまでそれほどの時間はかからなかった。男たちの暴挙を止めようと力及ばぬながらも果敢に向かっていった侍女たちも既に倒れ伏している。 それでもなお、ヘレナは矢を番えるのをやめようとはしなかった。あきらめられないのだ。生きて再びヴラドに会うというそれだけのことが。 「嘗めたまねしてんじゃねえ!」 激昂した男がヘレナの弩を力任せに殴りつけた。今度こそヘレナに抵抗する術はなかった。 「…………妾は認めぬ」 自分こそがヴラドの隣に立つに相応しい人間のはずだ。立ち塞がる全てを跳ね除け超然と歩む者。妻たるこの身もまたそうあらねばならぬ。 「ガキが………手間かけさせやがって……死ね!」 ………すまぬ、我が夫よ。留守を預かることも出来ぬ妻を許してくれ。 ………いや、違う。妾は夫に相応しい妻になろうとしたわけではない。夫が、ヴラドが好きだから夫に近づこうとしたにすぎない。……好きなのだ。どうしようもなくヴラドが好きなのだ。なのに妾はその欠片たりともヴラドに伝えていない。 「すまぬ、ヴラド………妾はやはり愚か者だ………」 …………いまごろになってそんなことに気づくなんて。 ゾブリ という鈍い音が、刃が肉と骨の奥深くに達したことを知らせた。 「誰に断って人の女に剣を向けている?」 ……妾は夢でも見ているのだろうか。死ぬ間際になって愛しいあの男の幻聴を聞いているのやもしれぬ。 「怪我はないか?ヘレナ?」 もしかして幻聴ではないのか?固く閉じられた瞳を開けたとき、ヘレナの翡翠の瞳に写ったのは心配気にヘレナの顔を覗き込む愛しい男の顔であった。 「うわああああああああああああああああああああ!!!!」 身も世もなくヘレナは哭いた。 会えた会えた会えた!! それは帝国の皇女でもなく、公国の公妃でもなく、ヘレナという一人の少女がようやく辿りついた恋の始まりなのだった。 胸にしがみついて泣きじゃくるヘレナの頭を優しく撫でながら、オレは心底胸を撫で下ろしていた。 …………危なかった。本当にコンマ一秒遅れたらこの再会はなかった。連れて来た兵力が少なすぎたので汚水口から城内に潜入したのが結果的に大正解だった。せっかくの感動の再会なのだからこんな異臭の漂う格好は遠慮したかったのだが、間に合ったのだから文句は言うまい。 不眠不休で駆けてきたオレの手勢は四十名ほどまで減っている。しかし、オレの大事な妻を泣かせた仇をとるのには十分だ。泣きつかれて眠り込んだヘレナをベッドに横たえるとオレは宮殿を出て城門へと向かった。 城壁に配された兵士たちの攻撃がハタと止んだことでザワディロフ軍は城門の破壊に遂に成功した。どうやら城内でなにかあったようだ。やはり神は私をよみしたもうたか。望外の幸運にザワディロフは勇み立ったが、それも城門をくぐるまでの話だった。 「………た、大公殿下………」 「どうした?ザワディロフ、そんな幽霊でも見るような目をして」ヴラドの姿を見た瞬間に勝負は決していた。銃兵や弩兵に包囲されていたこともあるが、大公本人に真っ向から立ち向かう勇気など彼らにあるわけもなかったのだ。 そんなことはありえない。どうやってこの男は城の中に入ったのだ。まさか本当に空を飛んできたとでも言うのか? 「貴様はオレにとっての禁忌に触れた」 信じられない事象に対する恐怖で思うように舌が回らない。ようやくザワディロフも目の前の男の一面を思い出していたのだ。啓蒙君主にして発明家であり稀代の戦略家でもある。だがそれ以上に恐るべきはこの男が磔公の異名をとる大量殺人者であるということだった。 「太古の王が言った言葉に、目には目を歯には歯をという言葉がある。ここは余も王のひそみに倣うとしよう………」 磔公の宣告に誰もが固唾を呑んで見守っている。 オレは宣告を下した。 「ザワディロフとその血統を引く者を殺した者には恩賞を与える」 ザワディロフを取り囲む兵士たちの気配が変わった。彼らにとっては逃れえぬ死地が転じて恩賞の機会となった瞬間だった。たちまちザワディロフの弟が息子が魂切る悲鳴をあげて兵士たちに首を刈り取られていく。 「よせ!一族のものにまで手は出さないでくれ!こんな非道を天が許すと思うか?」 ザワディロフの絶叫にも地獄絵図が治まることはない。悪魔こそが地獄の絶対者であり、彼はただの地獄に落ちた亡者にすぎないのだから。 「おのれ悪魔(ドラクル)!許さん!貴様の所業、決して許しはせぬぞ!」 絶望・悔恨・悲哀・憤怒………一族の破滅に負の全てを背負ったザワディロフの表情を存分に眺めたあとでオレは引き金を引いた。 「……………その顔が見たかった」