オレは泥のように眠っていた。なにせ四十八時間以上眠っていない。予算の人員の都合から夜間は通信していないとはいえ、腕木通信より早く到着したのだから如何に無茶な速度だったかわかるだろう。途中でほとんど山賊まがいに馬を奪い、七頭近い馬をつぶしているから、後で補償してやらないといかんな。 ところで、さも当然のようにオレのベッドに潜りこんでいるこのお子様をどうしたものか。可愛いじゃねえか!こんちくしょー! 今回のザワディロフの謀反は貴族の衰退を決定づけたといってよい。草木がなびくかのような気安さで裏切りと陰謀を繰り返してきた貴族たちだが、ザワディロフの煽動に応えた貴族はわずかにひとにぎりであった。これは君主の力と貴族の力が隔絶し、容易には逆らえなくなったことの証左でもある。副次的な効果ではあるが、反抗的な空気の拭えないトランシルヴァニア貴族たちが十字軍壊滅の報とも相まって非常に協力的になってきていた。おかげでトランシルヴァニアから抽出した援軍二千をモルダヴィア救援に差し向けることができ、ポーランド軍は短期的に勝利できる見込みを失い本国へと撤退した。フォルデスで失われた一万の損害が回復するまで、しばらくはおとなしくしていてくれるだろう。 ブダに進駐したベルドだが、オレが行くまでの間を大過なくまとめてくれていた。こいつもそろそろ独り立ちできるまでに成長したようだ。ハンガリー貴族の分断を図り大貴族と中小貴族の対立を煽ってお互いの自滅を誘う。またヤン・イスクラとの良好な関係をことさらに喧伝して少ないワラキア軍を実数以上に権威づけた手腕は見事といってもいい。案の定ハプスブルグ家がハンガリー王国に対する正統な権利を主張してきたが、戦にまで持ち込む気概はあの国にはない以上一蹴しても何も問題はないであろう。 1ケ月後、軌道に乗り始めたワラキア・トランシルヴァニアの経営をデュラムに任せてオレはブダでハンガリーの経営に没頭していた。まずはワラキアを手始めに施行を開始した東ローマ帝国から輸入したローマ法大全のマイナーチェンジ版ルーマニア法典をハンガリーにも施行して法治の浸透を図っている。これをやると経験則的に横暴な貴族には恨まれ民衆には歓迎されるのだがこの際はやむをえない。幸いにして貴族の戦力は激減しているし、将来的に貴族軍の連合体としての軍制度は廃止するつもりでいるからだ。少なくとも軍役の負担はともかく士官学校を出た士官の指揮系統に納まるようとりはからうつもりだった。 フォルデスの戦いで家名が断絶した貴族の領地は当然没収となりかなりの領地がオレの直轄地に編入されることとなったので恩賞のあてには不自由していない。忠誠心を期待できそうな人間が数少ないのは難点だが、まずは人材を登用して組織造りから始めなくてはならなかった。 ……………ところで誰か目の前の可愛い生き物をどうにかしてくれないだろうか? 「妾は金輪際汝から離れぬ!」 そう宣言したとおりにヘレナはブダに同行してきている。常備軍の精鋭を進駐させてはいるが、国民も貴族も心から心服したとはとうてい云い難い国にいくのだからと、一応説得は試みたが全くの徒労に終わっていた。 「…………妾が傍におるのは嫌か………?」 とか涙目で訴えられてオレにどうしろっつーの! それから片時も離れずオレにまとわりついている。政務の相談ができるのはありがたいが、お風呂(これだけは風呂好き日本人の端くれとして死守している)にも就寝にもとなると精神的疲労が馬鹿にならなかった。これが今までのように無垢な甘えだけにとどまっていればまだいい。 ヘレナにどんな変化があったのかはわからないが、照れを覚えた少女の萌え力はいっそ暴虐的であった。 トゥルゴヴィシテの解放時に市長から祝辞を受け取ったときのことである。 「それにしても殿下はまこと最良の伴侶を得られました。夫にもう一度会うまでは死ねぬと啖呵を切られた姫様のなんと凛々しく感じられたことか………」 「わわわわ……何を言っておる!いい、言っておらぬぞ?妾はそんな恥ずかしい台詞を言った覚えはない!……ううっ、どうしてそこで笑うのじゃ!もう知らぬううう!」 顔を首筋まで真っ赤に染めてまくしたてるヘレナの様子に萌えぬ男がいるだろうか!いや、いないね! 「………………………それでも会いたかったのは本当じゃぞ?」 もういっそ殺して下さい。 入浴時もタオルを体に巻きつけているとはいえ、濡れたタオルが浮き立たせる未成熟ではあるがようやくにして曲線を描きだした身体のラインのなんと美しいことか! 「…………ここ、こちらを見るでない!もう少し胸が育ったら好きなだけ見せてやるゆえ………」 もしかして毎日生殺しですか? 既に恒例となった感のある就寝。 「…………そう言えば我が夫に報告しなければならないことがある」 「…………どうしたんだい?」 ヘレナは基本的に歯にきぬを着せぬ性質である。こうして改まることは珍しい。 「…………初潮がきた」 ぐはああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!! 「そそ、それでだな、我が夫が望むのであれば妾もそれに応えてやらんこともないというか………とと、とにかく妾も大人の女になったということじゃ!」 血の涙を流すということはこういうものか………そんな期待に満ちた目で見られてもオレにも踏み越えられぬ一線というものがある。頼むからオレをそこまで外道に落とさないでくれ! というか同い年の娘に比べて小柄なヘレナではまず物理的に無理というものであった。日本人であったときには丸〇ソーセージであったマイマグナムは今やジョー〇アコーヒーのロング缶である。これで天使の如く愛らしいヘレナに手を出せる人間は本物の鬼畜と断言していい。 Q.オレはそんな鬼畜じゃないよね? A.男はみんな狼です。 ………狼ってなあなあ……狼ってなあ誇り高い生き物なんだよおぅ!! 「…………………優しくせねば許さぬぞ?」 ぬおおおおおおおっ!人として、人としてオレはああああああああああ!!クォ・ヴァディスー! そんな毎日の苦悩を余所に難問は山積するばかりである。ようやくヴェネツィアと国境を接したことで商業流通がさらに円滑にいくことはありがたいが、ポーランドと神聖ローマ帝国とも国境を接した以上、国境防備の手を抜くわけにはいかない。ようやくにしてアドリア海に得た港の整備も急務であった。ヴェネツィアでは十字軍に味方した有力商家がいくつも没落し、親ワラキア派が完全に元老院の実権を握っている。おかげでナポリ王国やフィレンツェとの関係が悪化しかけているほどだ。身体がいくつあっても足りない忙しさにワラキアの大学から成績の優秀なものを送るよう命じてはみたがどれほど役に立つものだろうか。とりあえず今はヘレナを膝の上に抱いて一服の清涼を得ているオレがいた。 トゥルゴヴィシテの危機に際してオスマン朝の介入がされずに一息つけたと思っていたのもつかの間、1449年8月オスマン朝軍の大軍十万余は突如としてセルビア王国及びアルヴァニア王国へと侵攻を開始した。ハンガリー王国というキリスト教圏の重しがはずれた以上いつかはあるものと考えてはいたが、こうも早いと対応は困難であった。何しろハンガリー王国は占領維持に兵員を取られこそすれとうてい戦力化を図ることなどできないし、ワラキアとて少なからぬ損害を蒙って損害の回復に手一杯の有様である。援軍など思いもよらない。港を持てた事でアルヴァニアには武器や食料と幾許かの資金を供与することができたが、セルビアはもはや救えなかった。厳密に言えば、救おうと努力はしたが、スメデレヴォに立てこもるジュラジ・ブランコヴィッチの命運のほうが先に尽きてしまっていた。外交手腕と内政への識見には富んでいたジュラジだが、戦に関しては凡庸の域を出ることはなく、篭城からわずか一月弱で味方貴族の裏切りによりあっさりとその命を絶たれてしまったのである。これに対し、アルヴァニアの抵抗は見事だった。スカンデルベグの名が伊達でないことを証明する戦ぶりであったといえるだろう。主攻方面に位置し、スルタンムラト二世の親征を受けながら遂にアルヴァニアの北半を守りきったのである。目新しい戦術や戦略の妙を駆使したわけではない。ただ本人の武勇とカリスマ、そして戦場での臨機の運用術だけで十倍近いオスマンの軍を退けたその手腕は後世流石に民族の英雄とされるだけのものであった。ヴェネツィア商人を仲介とした今回の援助でその彼とパイプを繋げたのは不幸中の幸いである。もっともこんな利敵行為がオスマンにばれたら討伐は必至だから内心肝を冷やしていたりしたが。 ハンガリー王国の消滅は東欧世界に深刻なパワーバランスの激変をもたらさずにはおかなかった。今後ますますオレの知る歴史とはかけ離れた出来事が起きるのだろう。ハンガリー国内にまだ在住していたウルバンを召しだすことに成功したように。セルビア王国を占領したオスマンはその余勢を駆って属国として扱っていたボスニアのスチェバン・トマシェビチを廃して直轄化を成し遂げてしまった。史実以上にオスマンの国力が増してきている。しかもその原因の幾分かはオレにあるのだ。この劣勢をはねのけるのは容易なことではない…………。メフメト二世の即位まであと二年、オレは為すべきことの大きさと困難に天を仰いで嘆息するほかなかった。 「…………殿下」 ワラキア本国からやってきた外交官のソロンはいかにも言いずらそうにしきりとヘレナを気にしていた。正直に言って内心面白くない。ヘレナの識見は並みの大人がたばになっても敵わないほどのものだ。政治顧問としてこれほど頼りになる存在もいなかった。確かに十一歳の幼女に頼る君主というのも見た目がどうかという問題があるにせよ。 「……かまわぬ。余はヘレナに隠すべきことは何もない」 ヘレナの顔が後光が差したかのようにほころぶのを見て決断の正しさをかみ締めていたオレだったが、それもソロンが口を開くまでだった。 「……では申し上げます。先日ポーランド王カジェミェシュ4世陛下よりご使者がございました。この度の不幸な戦いを糧に未来に向かって両国の平和を願う証として先々代ヴワディスワフ二世陛下の庶子でミェルドゥ侯爵家に養子となっておられたフリデリカ様との婚姻を要請しておられます」 …………すまん、ソロン。オレが悪かったから何もなかったことにしてくれまいか?