「逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ逃げちゃだめだ………!ていうかむしろ逃げなきゃだめだ!?」 「兄様……いったい何をしているのですか?」 思わずシ○ジくんになりきっていたオレにラドゥの冷たいツッコミが入れられている。おおむねいつもの光景なので周囲からのツッコミはなかった。…………ていうかむしろガン無視? 無駄無駄無駄無駄無駄無駄あああああ!!無理だって!どう考えたって助からないって!日を追うごとに明らかになる絶望的な環境に現代人的なノリでのたうちまわるオレはいつしかトルコ宮廷でも奇人として知られるようになっていた………。 さて説明しましょう!なぜなにワラキア!ってお前はイネスさんかってーの!某ナデ〇コの説明おばさんはともかく、要するにこの時期のオスマントルコ帝国は強すぎるのが一番の問題だった。歴史的に見てルーマニアは第一次大戦終了時までトルコ領だったわけで、トルコに占領されるまでの過渡期が今であるだけなのだ。それに対するキリスト教国の仲の悪りーことったら!お前ら本当に勝つ気あるんかい!ってなもんだ。しかもワラキア公国の西を扼するハンガリー王国なんだが、どうも西ヨーロッパへの憧憬が抜き難いらしく領土的野心はもっぱら西を向いているんでやたらと西ヨーロッパの受けが悪い。当然ハンガリー王国の影響下にあるワラキア公国も以下同文な感じだ。四面楚歌じゃねえか!かろうじて友好を結べそうなのがお隣モルダヴィア公国。ヴラドの親友であったシュテファン大公が有名だが、今は暗殺される予定の前大公の息子として平穏な生活を送っている。よく考えたらヴラドがヤノーシュに追い散らされてモルダヴィアに逃げ込まないとシュテファンフラグは立たないんじゃないのか?肝心な時に役に立たなかった親友だが、こいつがいるといないとでは地位の保全に雲泥の差が出来てしまうのだが。もっともモルダヴィア公国とてワラキア同様小国にすぎないから味方としては心細いかぎりだ。なにせ考えること考えることお手上げの状態だった。所詮オレは現代人の大学生でしかも平凡な歴史オタクだし、竜でも殺せそうなチートな勇者の力は持ってないのだ。悲しいけど、これ現実なのよね。………うんうん、そうだねスレッ〇ー中尉。 「………ここまで人の話を聞かないとは……罰が必要ですな」 ドビシィィィィ! 「んのおおおおおおおおおおおお!!」 目が!目が!今鞭の先っぽがビシッ!って目に!いでえええええええ!しみしみしみりゅううううう! 「懲りるということを知らないのですか貴方は。少しはラドゥ様を見習ってください」 ショタ親父に言われる筋合いはないわ!メムノンめ! 「今のは兄様が悪いと思います………」 「おおラドゥよ、お前もか」 この真面目っ子め、お兄さんは悲しいぞ。………ちょっぴりメムノンの親父が驚いたような目でオレを見ていたような気がするが……まあ、気のせいだろう。 ようやく地獄の勉強時間から解放され、宮廷内を散策していると何やら言い争うような声が聞こえてきた。 「よく見るがいい!これが我らに逆らう者の末路というものだ!」 「………好きにせよ。ワラキアの誇りは揺るぎはせぬ」 ………どうやらバカ親父のせいで国境沿いのワラキア騎士が捕らえられてきたようだ。騎士を嬲ろうとしているのはオプタとかいうイェニチェリ軍団の百人長だったような気がする。 「悔しいか!貴様の父が非力で情けない役立たずであることを認めれば命だけは助けてやらんこともないぞ?」 …………あ、騎士だけじゃなかったのか……… 年のころはラドゥと同じ十一・二歳というところだろうか。一人の少年が涙をこらえながら、必死に父が嬲られる様を見守っている。よく声一つ出さずに我慢できるものだ。 この時代の命は軽い。やってきてからまだ数日にしかならないが、そのことをオレは否応無く目の当たりにさせられていた。処刑に立ち会うのも教育のひとつに組み込まれていたからだ。おかげでまたラドゥの奴と同衾するはめになってしまった。………いや、喜んでなんていないぞ?喜んだら負けだからな! ……きっかけはほんの些細なことだった。メムノンがそろそろ二人に従騎士をつけなくてはならない、と言っていたのを思い出した、それだけのことだった。だが、それだけのことがオレの胸のなかでなぜか急速に大きくなっていく。失意が、憤怒が、渇望が……まるで乾いた土に地下水が染み出してくるような感覚だった。おいおいどうしたんだよ?オレのモットーは平穏無事にだろうが! 「オプタ様、お取り込み中失礼いたします」 何事か?というような目でオプタの残忍な目がオレに向けられる。温度が数度下がったような気がしたが汗だけは炎天下のように吹き出ていた。 「公子殿もお国の騎士の処刑に立ち会いたいと申されるのか?」 オプタの目には新たな獲物を品定めするような色が浮かんでいる。ここで対応を誤ろうものならオレ自身をも獲物としていたぶろうという気が見え見えだった。 「先ほどメムノン師から従騎士のあてが出来たから見てくるようにおおせつかりましてね。おそらくはそこの少年ではないかと思うのですが…………」 笑顔を浮かべながら………とはいっても本当に笑顔を出来ているかはなはだ不安だが………オレは用件を切り出した。メムノンにはあとで口裏を合わせてもらえばいい。ラドゥの口ぞえがあればそれほどの難事ではないはずだ。 「メムノン殿が………」 オプタの表情が憮然としたものに変わる。家庭教師なぞしているから実感が乏しいのだが、メムノンの宮廷での地位は存外に高いのだった。といっても位階が高いというわけではない。医者であり学者でもあるメムノンはそれだけでも十分尊敬を受けているが、スルタンの諮問を受けることもあるという豊富な知識と識見がメムノンに実際の地位以上の実権を与えているのだ。 「そういうことであればこの者を従騎士に取り立てるのはかまいませぬが……公子殿下に仕えるとはオスマンに仕えるということ。夢々忘れてはなりませぬぞ?」 「私の責任において教育いたしましょう」 言質をとって気が治まったのかオプタは再び騎士に向かって嫌らしげな笑みを見せた。 「貴様も主君のご子息に看取られるならば本望であろう!さあ!公子殿下もごろうじろ!帝国に楯突く愚かなる者の死に様を!」 どうあっても息子とオレの見ている前で騎士を処刑せずにはいられぬらしい。 大剣が振りかぶられた。オレには壮年の騎士に息子のことは任せろ!と目で訴えることしかできない。軍人の処刑をとめるような権限も理由もオレには存在しないのだから。わずかに騎士の顔が微笑んだ気がしたがそれも一瞬の気の迷いであるのかもしれない。騎士の首が、ゴトリ、と地に墜ちた。 …………ユラリ…………と オレの胸の奥で眠っていた何かが鎌首をもたげて咆哮をあげた。