休暇を終えたオレを仕事の山が待ち受けていた。ひとつには神聖ローマ帝国への対応である。ボヘミアへの領土的野心も露わにドイツ諸侯たちを煽って武力干渉に及ぼうとしていたのだ。イジーへの援助は行っていたものの、フス派の戦闘集団が壊滅した今その戦力は激減している。 「同盟を結ぶ以外にないか」 神聖ローマ帝国の後押しがなければ傭兵部隊を派遣するだけで防衛を全うすることは可能だ。今一度フス派十字軍を立ち上げられるほどもはや教皇庁に威信はないし、ウィーンが危険にさらされると知ればあからさまな介入は控えるだろう。 「イワン、ボヘミアのイジーに使者を立てておいてくれ。それとキャラベル船でウィーンにも使者を立てておけ。いらぬお節介はするなとな」 「御意」 ドナウ制河権を制覇すべく河川海軍を発足させたことで、ワラキアの戦略機動力は飛躍的に向上していた。いまだ外洋型のガレオン船は完成をみないが、キャラベル船とスクーナー船は既に商船用も含め数十隻が就役している。軽砲や重砲を装備したこれらの船に、ワラキア常備軍の誇る銃兵部隊が乗り組めばドナウの流域の都市にはいつでも攻撃が可能だ。その脅威を見せ付けてなおフリードリヒ三世が挑戦してくるはずがなかった。 またハンガリー王国という東欧の重しがはずれた影響は大きく、北部への軍事圧力を解消したオスマン帝国は今年に入ってカラマン君侯国を攻撃していた。滅亡寸前に追い込まれているカラマン君侯国だが、これに対応する術はない。援護するにはカラマン君侯国は遠すぎる。むしろトレビゾント帝国に矛先が向かなかったことをよしとするほかはなかった。トレビゾント帝国とグルジア王国は対オスマンの東の要であり、失うわけにはいかないのだ。白羊朝やマムルーク朝とも交易の手を伸ばすとともに外交ルートを構築中ではあるが、まだまだその信頼性は低く重要な交渉を持ち出せるような状態ではない。さしあたりトレビゾント帝国に軍事援助を増強する必要があろう。 国内では好調を維持する経済のもと石炭鉱山の開発や公立病院の普及を急いでいた。人的資源の不足しがちなワラキアにとって医療技術の進歩は死活問題である。現にブルジーマムルーク朝は首都カイロで大規模なペストが流行し、一気にオスマン朝に対して劣勢に立たされていた。煮沸消毒やアルコール消毒はいまだ国家機密だがいずれは民間普及も考えねばならないだろう。ハンガリー領では温泉たまごやフォアグラやトリュフなど新開発の食材と貴腐ワインの販売が好調で、対立するウィーンの都ですらヴェネツィア商人の前に行列ができる有様だった。 またイタリアの精密加工技術者を招いて少数だがライフル銃の製作に乗りだしてもいる。狙撃兵の抑止効果は指揮官が後世の近代軍より遥かに少ない中世型の軍には絶大であるといえるからだ。中隊以上に全て指揮官を配置しているワラキアは別として、ひどい例になると数千の軍の指揮官がたったひとりであったりするのだから当然である。また胸甲抜刀騎兵用の拳銃の量産も急務であった。打撃力の激減した騎兵を再び戦場の華とするために火力の向上は必須なのである。砲兵火力もストークブランのデッドコピーである迫撃砲と焼夷多連装ロケットの量産で大幅に向上されていた。焼夷油脂を装填したロケットの弾道安定にはウルバンの親父が見事な手腕を発揮した。なにせジャイロ効果に独力で気づきやがったからこの親父ただ者じゃない。相変わらず巨砲主義なのは困りものだが。 「これが対要塞用決戦武器、名づけて雷神の槌(トールハンマー)!これさえあればウィーンの城塞ごとき一撃ですぞ!」 とかいって全長六メートルはありそうな臼砲の化け物を作ってきたときには本気で首にしてやろうかと思った。役に立つところもあるから首にはしないけど増長させたら何作り始めるかわかったもんじゃないな。 「ウルバンの技術は世界一~~~~~!!!!」 ……………やっぱり首にしておくか。 それにしても欧州の識字率の低さは異常である。仮に農民であれば99%は文字が読めない。日本の農民は寺子屋で文字を習うばかりか俳句を詠むことすらしたのにえらい差であった。これも統治技術のひとつとして教会がぐるになって愚民化政策を推進したせいである。中世から欧州がアジアの新興国に押され始めるのはこの愚民政策と無縁ではないとオレは考えていた。大主教の権限で、出来うるかぎり庶民に文字を教えるよう指示を出しては見たものの成果のほどは不明である。あるいは義務教育制度でも制定しないかぎり識字率の向上は難しいのかもしれなかった。 しかも学校の教師となれる人材がいない。数少ない学識者は主要都市で富裕層向けに開設した大学の需要を満たすだけで精一杯なのだ。 「殿下」 どこから手をつけてよいかもわからぬ激務の最中、ベルドがなんとも微妙な顔をして現れた。 …………嫌な予感がする。 ベルドがこうしたいかにも言いずらそうな仕草をした後には、たいがい難題がふりかかるものなのだ。 「………聞く気が進まないが……どうした?ベルド」 「スカンデルベグのもとに派遣したソロンが戻ってまいりました。殿下への目どおりを願っております」 「………なんだ、驚かせるな。今行く」 「…………こう申し上げるのは大変恐縮なのですが……スカンデルベグの娘が同行して参っております」 ギラリ オレの隣で政務を手伝っていたヘレナが抜き身の刀のような視線を向けてくる。誰か!弁護士を呼んでくれ!早く! 「………このところ随分ともてておるようだな、我が君………」 「もててなんていませんよ………私はヘレナ一筋ですヨ………」 「……嘘だ!!」 助けて!ヘレナがL5です! 「余はワラキア公ヴラドである。わざわざのお運び、痛み入る」 そういって姿を現したワラキア公に私は内心失望を隠せなかった。父ジョルジのような威風を纏っている様子もなく、確かに長身で恵まれた体躯をしているが武で鍛え上げたものではないことは自分の目には一目瞭然だった。 戦悪魔の異名を持つからどれほどの武人かと期待してきてみたが………… 偉大な父を持つ者の宿命としてアンジェリーナもご他聞にもれずファザコンであった。父以上の武人をいまだアンジェリーナは見たことがない。あるいはワラキア公ならと期待していたのだが、ワラキア公の本質は武人のそれとは異なる様子であった。それではアンジェリーナとしては食指は動かなかった。 どこから噂を聞きつけたものかフリデリカもまた謁見の間に姿を見せている。いまや完全にヴラドに心を奪われてしまったフリデリカにとってヘレナ以外の強敵の出現は死活問題なのだった。 「ジョルジ・カストリオティより感謝の言葉を預かってきております。ワラキア公のご好意に感謝を。そしていつの日か轡を並べて戦いたい、と」 「スカンデルベグとともに戦うことは余も名誉とするところだ。必ずやいつの日にかと伝えて欲しい」 「お言葉かたじけなく」 ………この国にきた目的のひとつは終わった。あとはフス派との戦いの様子や軍団の状況を見せてもらって帰るとしよう。アンジェリーナは興味を失ったヴラドから新たな目標へと思考を切り替え始めたとき、その使者は訪れた。 「殿下!モルダヴィアでボグダン二世殿下が暗殺されました!シュテファン公子も行方がしれず不平貴族たちはポーランドに援軍を求めています。どうかお急ぎを!」 ゾワリ…………と 空気が一変したのをアンジェリーナは感じ取っていた。 いったい何が……… ヴラドの表情はあくまでも涼やかで動揺の欠片も見られない。なのに身に纏われた威風は父ジョルジすら軽々と凌ぐほどのものだった。ワラキア公が人の身にはありえぬほど巨大に見える。これほどの鬼気を隠し持っていたとは、私の目は節穴か!青白く凍りついた空間でヴラドの声だけが白々と響き渡った。 「キリアの駐留軍を叛徒どもに差し向けろ。イワン、ポーランドのカジミェシュ四世に伝えろ。手出し無用、もし余計な手出しあらば全力を持ってこれを討つとな」 「御意」 ヴラドの静かな、しかし圧倒的な意思の前に誰一人しわぶきひとつすることができない。わかっている。わかっているのだ。ヴラドのなかの死神を目覚めさせてしまったのだということを。 「常備軍二千を連れて今すぐドナウを下るぞ。ネイ、マルティン、余に続け!」 「御意」 ネイは先頃からヴラド直属の近衛兵団の指揮官に就任している。マルティンはネイの副官であった。その数五百、選抜を重ねた精鋭中の精鋭が集められていた。たちまち慌ただしく出兵の準備が始まる中で思わずアンジェリーナは叫んでいた。 「私も!どうか私もお連れください!」 ……私は見誤っていた。ワラキア公の器量はおそらく父上を遥かに凌ぐ。それを見極めずしては来た甲斐がないではないか。 アンジェリーナの嘆願にもヴラドはわずかに眉を顰めただけだった。 「………好きにされるがよい」 「では妾が預かろう。さすがにアルバニアの姫君を前線に出すわけには参らんからな」 「頼む」 そういい捨てるとヴラドは謁見の間を去った。 「まさか貴女も同行するというのか?」 見たところようやく十歳を過ぎたばかりのような幼女である。そんな幼女を戦場に連れて行くなど聞いたことがない。 「妾はいついかなるときも我が君と共にある。それが妾の誓いゆえな」 ほとんどなんの気負いの感じさせず、淡々と幼女は言った。 おそらくはこの娘が東ローマ帝国の皇女ヘレナなのだろう。ただのわがままで言っているのではない。行動に見合っただけの覚悟をしていることがアンジェリーナの目にも見て取れる。 「………さすがだな………貴女もヴラド殿下も……この危急の時にかくも落ち着いておられるとは……」 ヴラドの鬼気を感じたときからずっと身体の震えが止まらない。取り乱し立場もわきまえず同行を申し出たが、冷静に考えれば本来そんなことが許されるはずがなかった。それを容れてもらえたのはひとえにヴラドの度量の大きさゆえであろう。 「…………落ち着いているだと………?」 幼女らしからぬ大人びた表情でヘレナが嗤った。 「そなたもこの先我が君と関わる覚悟があるのなら覚えておくがよい。我が君が怒りの色を露わにしているのならまだ救いはある。我が君は怒りの深いときほど怒りを外には表さぬゆえな。しかし青白く空気が凍りついた時は…………………もはや死以外の決着はないと思え」