アンジェリーナはそのあまりの早さに驚きを隠せなかった。動員からキリアへの上陸までわずかに四日しか経っていない。これが故地アルバニアであれば少なくとも1ケ月を要したであろう。常備軍がいるから動員にかかる時間が少ない。そして各駐屯地への情報伝達が異様に早かった。後でヘレナ姫に聞いたところでは腕木というものを使って通信しているせいだそうだ。僻地へは伝書鳩まで活躍していると聞く。いったいどんな発想からそんな奇略が生まれるものか………その発案者が全てワラキア公だというのだから開いた口が塞がらないとはこのことだった。またドナウを走る艦隊の速度も陸上での進軍速度を考えれば呆れるほどの速さである。陸においては人が歩く速度を基本として、食事、野営準備。睡眠と移動以外に存外時間をとられてしまうのだが、艦隊にはそれがない。ワラキア公が言っていたことは全くの事実であった。戦いは始まる前に既に決していたのだ。 結果の見えた戦に興味はない。気がかりなのは行方のしれないシュテファンの安否とこの先のモルダヴィアの扱いかただけだ。黒海の玄関口でもあるモルダヴィアの治安が悪化するのはワラキアにとっても好ましくない事態である。この際併合してしまうべきだろうか。………いまだハンガリー国内で貴族たちの反発を受けている現状ではそれも難しいだろう。出来る限りモルダヴィア貴族の反発を買いにくい手法をもちいるべきだった。そのためにはシュテファンが生きて助かることがもっとも望ましいのだが…………。 元日本人であるオレはようやくにして勘違いに気づき始めていた。武士道と騎士道は似て非なるものであり、御恩と奉公も日本と欧州では意味合いが異なる。武士道の根幹は家であるが騎士道の根幹は個人にある。家を背負う責任が薄いから個人的な名誉のために、あっさり自らを投げ出すことができるのだ。長年続いた名家ですらそれは例外ではなかった。君は一代家は末代という考え方は欧州にはない。労働集約的な米作が日本人に集団主義をもたらし、作付面積あたりの収穫率が低い欧州では個人主義が発展したと大学の教授に聞いたような気がするがそのとおりなのかもしれない。また、御恩と奉公についても日本では家臣に領土の保障を与えることに価値はあったが欧州では日本ほどの価値はない。それは日本が朝廷と幕府の二重権力体制にあり、朝廷の枠組みのなかで武士の土地所有が禁じられていたからである。故にこそ日本では将軍という新たな権威への服従というステージが確立したが、欧州では君主が領土の保障をするのは当然のことであって、保障できない君主には仕える必要がないのであった。まして日本には天皇家という古い権威が滅びることなく継続していたが欧州では栄枯盛衰が激しすぎ、君主に対して確固たる権威が構築できずにいたのである。である以上、忠誠というものは打算か義侠のうえにしか期待できないと考えたほうがよいのだろう。当座はそれでしのぐとして、従来の価値観を教育によって塗り替えることが絶対に必要であった。現在トゥルゴヴィシテ・ブダ・シギショアラに設置した大学をキリアやスチャバにも新設しなければなるまい。 この時代ならレオン・バッティスタ・アルベルティが存命なはずであった。ロレンツォ・ヴァッラもまだ死んでいなかったはず。ルネサンスを代表するこれらの人文主義者を招くことも検討しなくては。特にアルベルティは数学者でもあり、科学者でもあるから是非とも欲しい人材だ。難点をいうならどちらも教皇庁の息のかかった人間ということなのだが…………。錬金術師たちも相変わらず頑張ってくれているのだが、今は石炭鉱山の開発とコークスの製造で森林資源を木炭から建築資材へと転用している矢先であるしどうにも連中が人に物を教えるということに向いているとは思えないのだった。 「難しい顔をしておるの、わが君」 気がつくとヘレナがオレの隣にちょこんと座っていた。 「全く、世の中ままならぬことだらけさ」 おどけて肩をすくめるオレをなぐさめるようにヘレナは優しくオレの頭を抱え込んだ。 「全てを思うままにできるのは神だけだ。我が君はそれをよく知っていたはずだぞ?」 ちょうど額のあたりに、最近自己主張を始めたヘレナの胸のふくらみがあたってかなり照れる。照れるシチュエーションではあるがヘレナの気遣いがうれしかった。神ならぬこの身には何かを犠牲にしなくては前に進むことはできない。恐怖をもって統治にあてる政治的理由を誰よりもよく理解してくれるヘレナだからこその気遣いであった。このモルダヴィアでも恐怖をもって語られるであろう断罪の時がもはや目前に迫っていたのである。 スチャバに立て籠もる貴族軍は二千余りであった。対するワラキア軍は行軍中さらに兵を増やして七千名に達している。うち四千名がモルダヴィア諸侯であることは不安要素のひとつでもあったが、不安が顕在化するほど戦闘を長期化させるつもりはオレにはなかった。 「罪を悔いて降伏せよ。今なら貴殿の命ひとつで済ませてやる」 「ふざけるな!ワラキアの田舎者ごときなにほどやあらん。立てよ同胞たち!敵は目の前にあるぞ!」 ワラキア軍と行動をともにしたモルダヴィア貴族に向けたランバルドの煽動は彼らになんの感銘ももたらさなかった。もともとランバルドは数ある諸侯の一人に過ぎずモルダヴィアを統治する資格がないうえ、かくも軍事指揮官としての格の違いを見せつけられてはもはや呆れるほかない。思わずもれた失笑にランバルドは激怒した。 「おのれ!売国奴め!必ずやその報いを受けさせてやるぞ!」 「売国奴はお前だ、愚か者」 ……もう限界だ。こんな男になんの慈悲が必要だろうか。 「………最後にひとつだけ聞く。シュテファンをどうした?」 「あの腰抜けは父親を殺されてから行方を眩ましておるわ!今頃どこかで野たれ死んでいるだろうよ!」 不幸中の幸いだな。シュテファンはこいつらに殺されてはいないらしい。 「………忠実なる神の使徒ボグダン二世殿下を正統な理由なく殺した汝の罪は重い。ここにランバルド・マシュディーを背教者に認定し破門とする。死後永遠の煉獄のなかで己の為した罪の重さを噛みしめるがいい」 「な……!いったいなんの権限があってそんな………!あっ!!」 ここにいたって参集した全てのものがヴラドのもうひとつの顔を思い出していた。ワラキア公ヴラド三世は同時に正教会大主教でもあるのであった。 「背教者に味方しようとする者はいるか?」 敵も味方もヴラドの声にただ呑まれるばかりであった。逆らえない。逆らえるわけがない。地上の民と天上の神を同時に代弁するこの男には。 「よろしい、ならば背教者に死を」 ワラキア軍の牽引砲の射撃とともに攻城が始まった。 カトリック世界でも破門の及ぼす効果は大きい。カノッサの屈辱で皇帝ハインリヒ四世がグレゴリウス七世に屈服したのもその一例である。しかし教会の分裂や破門の乱発でその後破門の権威は薄れていたが、正教会世界ではそんなことはない。カトリックほど世俗に交わらず、カトリックほど非寛容な組織ではなかったからだ。それにオスマン帝国というれっきとした異教徒との対峙を強いられ同胞同士でいがみあう余裕もなかった。ゆえに破門がもたらした精神的衝撃は計り知れぬほどに大きかったのである。 戦闘が始まってたちまちのうちに叛徒の末端の兵士から裏切るものが続出していった。城門は砲兵の一斉射撃で瞬く間に瓦礫と化し、敗北を悟った反乱貴族同士が各所で熾烈な同士討ちを開始する有様だった。 「待て!待ってくれ!私はゆえなく背いたのではない!私は義によって起ったのだ!」 名誉の死ならば受け入れよう。モルダヴィアの貴族の誇りにかけて自分は不当な圧力と戦ったのだ。しかし背教の徒として、秘蹟も与えられず地獄へ落とされることは耐えられない。なぜだ?どうしてこんなことになってしまったのだ? 「殺さないでくれ!」 ランバルドの悲鳴もむなしく、彼に剣を振り上げたのは、共に決起に加担した叔父のマルドであった。 こんなものは戦ではない。アンジェリーナは己が見てきたいかなる戦とも異なる成り行きに戸惑いを隠せなかった。言ってみればこれは獅子が己を虎と勘違いしている猫に全力で殴りかかったようなものだ。そもそも戦の形にすらなっていなかった。あるのはただただ一方的な掃討である。 恐ろしいただひたすらヴラドが恐ろしかった。父ジョルジのような武人とは違う。明らかに何かが決定的に異なった人間である。アンジェリーナはその何かが恐ろしくて仕方がなかったのだ。 …………悪魔(ドラクル)……… 背教の汚名を着た叛徒より、大主教のヴラドのほうがよほどその言葉に似合っているような気がした。まるで世界を天上から見下ろしたかのようなヴラドのやり口に、ドナウの船上で感じたような畏敬を感じることはできなかった。 ランバルドの首を手に手柄顔で投降してきた馬鹿どもを捕らえた後、オレはシュテファンの捜索にあたっていた。どうやらボグダン二世が暗殺された時点で、スチャバにいたことは確かであるらしい。城門の門番にも気づかれずスチャバを出ることは難しいことうえに、近隣の貴族領でも一切目撃がないことを考えれば、いまだスチャバ内に隠れ潜んでいると考えるのが妥当だった。もしかすると義侠心ある市民に匿われているのかもしれないとスチャバの解放を触れて回ったが一向にシュテファンが見つかる気配はなかった。 …………従兄様! まるでラドゥのように懐いてくれた従弟だった。オレにとって数少ない無条件の信頼を寄せられる人間の一人でもある。 …………頼むから生きていてくれ………! このモルダヴィアをお前を害することのない国に造り替えてみせる。だからこの従兄を置いていくな………! …………私は従兄様を信じていますから……… 唐突にオレの脳裏に蘇る思い出があった。 二年前………まだシュテファンが十一歳だったときのことだ。ボクダン二世を訪問していたオレはシュテファンに城内を案内されていた。日ごろの教育が厳しいのかオレが贈ったルービックキューブに涙を流したり、五目ならべを教えたらえらく感激していたがよほど遊びに飢えていたと見える。そんななか、シュテファンがスチャバの城内にある鐘塔を指差して言った。 「従兄様、あの鐘の部屋から見る景色は最高なのですよ!僕だけの秘密なのです!」 「……あんだけ高ければそりゃあ見晴らしもいいだろうけど……どうやって昇るんだよ」 「機械室から鐘のロープを昇っていけばすぐですよ?」 「ってどこの曲芸師だ!お前は!」 「内緒ですよ?従兄様だからお話したんですから………絶対ですよ?」 そう気がついたらいつの間にか駆け出していた。ボクダン二世が暗殺されてから一週間………非常食でもないかぎり生きている可能性はそう高くない。おそらく、鐘塔はシュテファンの隠れ家だ。たまに城を抜け出してくつろぐために食べ物を隠しておいても不思議ではあるまい。現にオレも子供の頃に同じことをした覚えがある。太い鐘のロープをよじ登りだすとネイたちが口々に思いとどまらせようとする声が聞こえてきたが構っている余裕はない。それにロープのぼりはオレのガキのころの得意技だった。 やはりいた。鐘の周囲を囲む壁に寄りかかるようにしてやつれ果てた顔をしたシュテファンが待っていた。 「ああ………従兄様……やはり来てくれたのですね」 「もう少しましな場所を思いつけ!オレが気がつかなかったらどうするつもりだったんだ!」 「大丈夫ですよ………従兄様なら気づいてくれると思っていました………」 「………バカ野郎……」 羽のように軽くなったシュテファンを背負いながら不覚にもオレは涙が溢れるのを止められずにいた。大丈夫、オレを信じてくれる家族がいるかぎりオレは人間でいられる。たとえ立ち塞がる敵には悪魔の化身のように思われようとも。 「急いで典医を呼べ!水と重湯を用意しろ!シュテファンを寝かせるベッドの用意もだ!」 「殿下、私が替わりに背負いまする」 「よい、これはオレの仕事だ」 シュテファンがベッドに身を横たえ食事をすませて眠りにおちるまでオレはシュテファンの傍を離れるつもりはなかった。 アンジェリーナは混乱の極にいた。人の心を掌に弄ぶ悪魔のようなヴラドと、シュテファンの無事に涙を流すヴラドが全く接続しないのだ。それでいて、ひどくシュテファンをうらやましいと感じる自分がいた。いったい自分はどうしてしまったというのか?ワラキア公はいったい何者なのだ? 「………全て何もかも救えるのは神だけだ」 まるで迷子の幼子を諭すような口調でヘレナが言った。 「我が君は神ではないゆえ犠牲なしに何かを救うことはできない。しかし救うために汚名を着ることをためらわない。そういうお人だ、我が君は………」 「私は………あの方を見誤っておりました。恐ろしい方だと。人の心を弄ぶ輩だと」 まさか他人のために身を投げ出せる人だとは想像すらできなかった………。 「まあ、我が君にそこまで愛されているのはほんの一握りではあるがな」 アンジェリーナはヘレナの言葉に挑発の響きを感じ取った。げに恐ろしきは女の情念なのだった。 ………ならばよい。私もその一握りになって見せる!