手足が芯から凍てついたかのような痺れを訴えていた。ラドゥがメフメト二世との繋ぎ役だと…………?それは恐るべき予想の発現でもあった。 どうしてラドゥが繋ぎ役に起用されているのか?それはワラキアの離間工作が行われた時真っ先に犠牲になるのがラドゥになるということを表している。実際にムラト二世の急死に備えてメフメト二世の毒殺を匂わせる準備は整っていた。しかし、これではメフメト二世への嫌疑がラドゥにも向いてしまうことに………。 道理でラドゥの召還要請にスルタンが応じてくれなかったわけだ。おそらくメムノンあたりがラドゥの召還に待ったをかけていたのだろう。もしそれが事実ならオレはメムノンかメフメト二世のどちらか、あるいは両方に相当前から目をつけられていることになる。この策はオレがメフメト二世に対して工作を仕掛けることを前提としているからだ。彼らはオレがムラト二世の治世が長続きすることを望んでいるのを知っている!どこだ?いったいどこで気付かれた?自分が何か策を弄しているとき、相手もまた同じように策を弄している、ということを忘れていたわけではないが…………。 「………おそらくはメムノンという男がラドゥ様から情報を汲みあげたものかと」 オレの疑問にシエナが答えた。 なるほど、オレがラドゥに漏らしてしまった未来情報で警戒を呼んでしまったか。人質時代は今の状況を予期してなかったからな………迂闊といえば迂闊だった。 「カリル・パシャと側近にラドゥの帰国を頼みこめ。いくら金がかかっても構わん」 「…………メフメト二世の謀反の噂はどうなさいますか……? 「………直接的な流言は控えろ。メフメト二世の器量に疑問を呈する程度に留めておけ」 「………御意」 ラドゥ、すまん。オレにできることは………オレの力はこの程度だ。悪魔公とか磔公とか大した名でよばれちゃいるが、弟一人も救い出せやしない名なんざ…………。 「………必ずやすぐに戻って参りますぞ。父上の許可が取れ次第すぐに………!」 「戻ってくるでないわ!スカンデルベグが泣くぞ!」 「………今少しお父上に甘えているのが娘の勤めかと存じますが………」 オレの左右から腕に抱きついているヘレナとフリデリカはアンジェリーナの決意表明に難色の様子であった。再びアルバニアへと送る支援物資と合わせて、アンジェリーナの帰国が決まっていたのである。そもそもスカンデルベグの息女が滞在していたこと自体異例のことではあったのだが………ばれてないだろうな?ばれてたら下手をうつと全面戦争に突入しかねないのだが………。 「ではヴラド殿、しばしの別れじゃ!」 一瞬の隙をついて唇を奪われてしまいました。 「「ああああああああああああああ!!」」 ヘレナもフリデリカも耳元で叫ばないで! 「必ずやヴラド殿のお心を掴み取ってみせるぞ!私はスカンデルベグの娘、どんな戦にも勝って当然なのだから!」 ………言葉の意味はよくわからんがとにかくすごい自信だ! 「我が君は渡さぬ!」「殿下は私のものです!」 スカンデルベグが冷静な対応をとってくれることを祈らずにはいられない。今この調子でワラキア宮廷に乗り込んでこられたら絶対にどこかでばれるし、オレの胃も持たない。確かにあの美乳は惜しいけれど。 「……今邪まなことを考えなかったか?我が君」 「滅相も無い…………」 「先生(ラーラ)の言ったとおりあの男も弟には甘いのですな」相変わらず白面をかぶったメフメト二世は面白そうに嗤った。冷酷非情、残酷無比をもってなるワラキアの磔公が、実は弟に目がないなどいった誰が考えるだろう。これは僥倖であったといっていい。現にスルタン、ムラト二世の暗殺計画はあの男の想定内であり、その対応策も練られていたであろうからだ。 「敵となるものには徹底的に非情になりますが、味方に対しては存外に甘い………それが良くも悪くもあの男の本質です。ハンガリー戦線を放り投げてヘレナ姫を助けに戻ったのがいい例でしょう。ラドゥ殿は私や陛下の命には逆らいますまいが、兄への思慕をなくしたわけではありません。あの男を躊躇させるには十分でしょうな」 ニコリともせずにそう呟いたのはメムノンであった。 「…………その甘さがあの男の決定的な弱点となるよう手はずを整えなくてはなりません。信じた味方を見捨てられない……その甘さを衝くのです」 「具体的にどうするというのだ?先生(ラーラ)よ」 「…………コンスタンティノポリスへおびき出して殲滅します」 白面の奥で大いなる歓喜の笑みを浮かべているであろうことが気配でわかる。それほどにメフメト二世の激情は激しいものなのだ。 「コンスタンティノポリス!千年の栄華の都をあの男の墓所にするとは!なんたる快事!なんたる壮挙!先生よ!余はその日が待ち遠しいぞ!」 後世の歴史家は語るだろう。東欧に現れた一代の英傑も、コンスタンティノポリスの新たなる支配者たるメフメト二世には遠く力量及ばなかった、と。偉大なるアレキサンダー大王の名声を超えんとする少年にとって、メムノンの描く未来図はあまりに魅力に溢れていた。 「…………前から先生に聞きたかったことが二つある」 「なんなりと」 「先生はなぜ落ちぶれた余に味方してくれるのか、そしてどうしてあの男を敵視しておるのか………?」 メムノンは苦い笑みを浮かべて首を振った。 「…………嫉妬です」 「いかなる意味じゃ?わけがわからんぞ先生」 「陛下は木の切り株に輪のような模様があるのをご存知か?」 突然の質問にいささか面食らいながらメフメト二世は答える。 「あの縞模様なら見たことがあるがそれがどうした?」 「……あの模様は年輪と申します。毎年ひとつの輪が刻まれるため、輪の数を数えればその木の年齢がわかります。また太陽の光が多くあたるため南側のほうが発育がよくて年輪の目が広く、北側は狭いため、切り株を見れば方角がわかるともいうそうです」 「なるほど先生は物知りであられるが………それがどうした?」 「私がこの話を教えられたのはわずか十四歳のヴラド公子からでした………」 メムノンの目がつらそうに細められた。 「………月の光は厳密には月が光っているのではなく、太陽の光を反射しているにすぎないのだそうです。天空に輝く星々のなかには自ら輝くものと輝きを反射するだけのものがあるそうな……………そんな知識は知らなかった!このオスマン世界でもっとも天文学に詳しいと自負しているこの私が!おそらくあの男のいうことが正しいのは理解できる。私がもう少し若ければ地に頭をこすり付けてでも恥も外聞もなく教えを乞うたでしょう。しかし私にはできなかった………」 メムノンの年齢はじきに七十に届こうとしている。とうにこの時代の平均寿命を超えていた。 「私は別に世に出ようなどと考えたことはない…………しかし私が全生涯を賭けて獲得した知識が十四歳の若造に劣ることなど認めるわけにはいかない………どれほど卑小に見えようと、大人気ないと言われようと、それが私の偽らざる本音です」 「では余に味方してくれる理由は?」 「ムラト二世陛下の進める融和政策ではあの男を私の生きているうちに仕留められるかわかりませんでしたゆえ………」 現に今の時点でもあの男に相当な力を蓄えさせてしまっていた。あの男の危険さは本当の意味においては自分にしかわかることができないのだ。オスマン帝国最初の万能の人たる自分にしか。 「フフフ………よい、実に良いぞ、先生。人にはそれぞれ果たさなくてはならぬ大望がある。余とともに歴史に名を刻み、そしてあの男を歴史の表舞台から消し去ろう。それが余と先生の共通する願いなのだから。それに………なぜか余もあの男が憎いゆえな」 若さとカリスマと何より強固な意志を所有する若き君主と老練でオスマン最高の頭脳の持ち主でもあるメムノンが、お互いの野心を確かめ合い真の意味でパートナーとなった瞬間であった。サガノス・パシャ以外に確たるブレーンを持たなかったメフメト二世がメムノンの忠誠を得た意味は巨大なものである。ヴラドに突きつけられた害意が明確な形をとるまで残された時間はそれほど多くはなかった。