「どうであった?彼の御仁は?」 「まさに非常の人でございました、父上。彼の人はまるで我々の知らぬ第三の目をお持ちです」 「……………惚れたか?」 いたずらっぽい笑みを浮かべた遠慮のない父の視線に、さすがの女丈夫たるアンジェリーナも赤面を隠せなかった。 「………何故かは知らぬど、あの方を想うと胸が騒ぎます……これが恋というものでしょうか………」 娘の恥じらう姿にジョルジは思わず目を見張った。乙女らしい恥じらいをとうとう覚えさせることができなかった我が娘をいったいどうしたらこれほど可憐にしてしまえるものか想像もできない。 「まさしく恋というべきかな」 実のところジョルジにとってアンジェリーナの安否だけが最後の懸案事項であった。アルバニアの指揮官として最後の最後まで戦い抜く覚悟に変わりはないが、娘の幸せを願うことに関してはスカンデルベグといえども普通の父親となんら変わるところがないのである。東欧全てを見渡しても、娘を預けるに相応しい男といえばまずワラキア公あるのみだった。他の国ではオスマンに攻め滅ぼされるか、尻尾をふるのが関の山でアンジェリーナに不幸をもたらすのは確実である。それより娘が惚れた相手を快く支援してやるのがよき父親というものであろう。この際、是が非にも正室になどとは言わぬ。アンジェリーナさえ幸せであるならば。 「………なんとしてもワラキア公の心を掴むのだ、我が娘よ。彼の者をわしもはやく息子と呼びたいでな」 「もしかしたらお祖父様と呼ばれるかもしれませぬが」 アンジェリーナの切り返しに思わず莞爾とした笑みが浮かぶ。ワラキア公とアンジェリーナの娘………もちったした紅葉のような手、無垢な天使の笑み………おお!私の孫が………。自らの妄想に恍惚としながらジョルジは多幸感に身震いした。 「わしは孫の顔を見るまで絶対に死なんからな!オスマンどのなにするものぞ!」 いい感じにジジ馬鹿になったアルバニアの英雄であった。 「必ずや吉報を」 ヴラドの預かり知らぬところで勝手な未来絵図が描かれようとしていた…………。 「どうも嫌な予感がするな………」「ヘレナ様もですか?」「お主もか?何やらあのお転婆の高笑いが聞こえたような気がしての」「………これ以上側室が増えるのは得策とは思えませぬが」「それに関してだけはお主に同感じゃ」 …………女たちの戦いも熾烈を極めようとしているようだ。 今やワラキアは東欧一の繁栄を誇っていた。その影響からかトレビゾント帝国や旧ブルガリアからも亡命者が相次いでいる。イタリアの各都市からワラキアの新産業に興味をひかれてやってくる職人の数も少なくない。当然そうした職人や亡命者のなかでも有能な人間は国から補助金を出す制度も整えていたのだが。 それもこれも第一期の大学卒業者を中心として再編された新官僚団の辣腕によるところが大きい。税収の効率的な配分と消化、流通管理体制の組織化などは個人の手に負うには大きすぎる。ようやくにしてデュラムを頂点に省庁割りと権限委譲ができるまでになってきたのだ。また、リスクは承知で二つの新制度も導入している。 一つ目は国家憲兵の導入である。移民の増加により、労働供給が円滑化したことは喜ばしいが、それで治安が悪化しては本末転倒というものであった。そのためルーマニア法典の守護者としての警察権力拡充が要請されたのである。国家憲兵の指揮官にはシエナの片腕であったベルカが就任した。構成員は大学で法律を学んだ者や没落貴族の子弟を中心に八百名であった。彼らには法を遵守させるためなら貴族であっても拘束する権限が与えられていた。濃紺の制服と専用の拳銃を貸与された彼らはいざというときには戦闘行動も行えるよう訓練が義務付けられていた。平民でも強権が揮える権限と斬新な制服のデザインが相まってたちまち人気の職種として注目を集めている。見る人が見ればAL○OKかよ!と某警備会社の名前を出して突っ込んだかもしれないが。 二つ目はカントン制度の導入である。ドイツのフリードリヒ大王に倣ったこの制度は言うなれば地方割り徴兵制度とでもいうべきものであった。各行政区画ごとに一定の基準に基づいて兵士を拠出させ、連帯責任を負わせるというものである。初期の徴兵制度は徴兵した兵士が逃亡することが後を絶たず、また兵士の拠出を要請すれば共同体の厄介者を押し付けられるという悪循環に陥っていた。そこで地域に逃亡者が出たときの穴埋めと逃亡者を処罰する責任を負わせたのである。これにより、一定の兵員数と質を確保することができたのだ。また、生まれを同じくする者同士で部隊編成を行うことにより、地方間の競争や同志的結合による士気の向上も期待できた。徴兵された兵士は三年間の兵役が終わると除隊か継続かを選択することができ、活躍によっては恩給が支給されることになっている。もちろん給料も支給されるが、高額な傭兵に支払う金額より遥かに安いことは確かであった。 しかしこの二つの政策には決定的なリスクが存在した。すなわち、貴族の権益と真っ向から衝突する点であった。フリードリヒ大王もそうであったが、徴兵によって貴重な成年男子を国家にとられるということは貴族の治める領地経営にとって看過しえない問題を含んでいるのである。まして貴族領内での警察権の行使ともなるともはや貴族の自治の否定にすらなりかねなかった。熾烈な反発が起こったがオレは強行することをすでに決めていた。そのために貴族たちから馬を買い上げておいたのである。 すなわち軍役の負担を軽減しているかわりに、馬を安く提供させたのであった。実際のところ馬の需要は高まるばかりであり、繁殖の奨励に乗り出してもいる。経済の発展に伴って輸送用の馬車需要は高まる一方なのだ。常備軍の輸送と通信用にも馬は欠かせぬ存在であり、またピストル騎兵の拡充も進められている。馬の提供はこれらの問題を一気に解決した。 対する貴族たちは、あまりに開いた常備軍との格差を埋めるためには貴族間の連携が不可欠だが馬の不足により戦略的機動力を著しく欠く有様であった。軽騎兵を主力としていた貴族軍にとってこれは致命的であるといえる。オレの政策に内心怒り心頭であっても反乱には及ばぬことが彼らの窮状を証明していた。 警察力が貴族領にまで及ぶようになると、数々の無法が次第に明らかになり始めた。住民を獣に見立てて猟を楽しむ者もいれば、拷問で責め殺すことを趣味にするものもいたのである。これらの貴族はルーマニア法典に基づいて領地没収や磔の刑に処されていった。副産物的にオスマンや神聖ローマ帝国と内通していたものまで見つかったのは僥倖と言えるだろう。悪逆な領主が処分されたことにより庶民の受けも上々であり、世界初のワラキア警察は国民の間に早くも定着しようとしていたのである。 「…………メトスラフ伯爵のもとにオスマンから接触がきている。次の獲物は決まりだな」 諜報員からの報告をもとにさらなる工作を口にしているのはシエナだった。 「証拠品さえ見つかるようにしてもらえれば、あとはこちらでいかようにもしておきましょう」 シエナの謀略に協力を約しているのはベルカだった。実はこのところの貴族の逮捕劇は半ばシエナとベルカが共同ででっちあげた謀略であったのだ。反体制派の中心的な大貴族に狙いをしぼって悪事を暴き、なければ捏造して彼らの失脚を演出していたのである。 「………あとはバンジェール侯爵を排除すればまずは安泰だろう。残りの貴族で大領を持っているものは限られるし、なにより彼らは距離が離れすぎている。気概のあるものも残り少ない。あとは時間がたてば彼らの子弟が勝手に官僚化してくれるだろうからな………」 「………それにしても思い切ったことをなさいましたな………ここまでうまく運んだのが夢のようです」 ベルカは初めて計画をシエナに打ち明けられたときのことを昨日のように思い出す。謀略によって貴族の力を失墜させる。それ自体はさほど目新しい策略ともいえない。しかし、それが君主たるヴラドの許可を得ず情報長官たるシエナの独断でなされているところが恐ろしかった。シエナはヴラドにとってベルドと並んで側近中の側近である。そのシエナの権力をもってしてもこれほどの独断専行は死をもって償うべきほどのものだ。なぜ、位人臣を極めたシエナがこんな危険な真似をする必要があるというのか。ベルカの当然ともいえる疑問にシエナは答えたものだった。 「殿下は優しすぎる」 シエナに言わせれば、世間でいう残虐無比なワラキア公はむしろおひとよしもいいところであった。敵に対しては容赦なく振舞うことはできても、敵対しないものにまで残酷になることができない。中立派の貴族がいまだ粛清を免れているのが良い例だった。だが、自らの君主はそれでよい、とも思っている。敵味方双方に容赦の無い君主は味方を萎縮させてしまう。また優しさの見えない為政者に国民は懐こうとはしない。たとえそれが優秀な政治家であってもである。敵に対しては一切の容赦なく、味方に対しては大慈悲心をもつヴラドは一種理想の君主であるのだった。ならば、冷酷な影を担うのは自分の役目であろう。 「…………必ずや栄光をわが主君に………」 もとよりヴラドによって救われた命である。そしてなにより才を揮うことに喜びを感じる自分にとって最高の働き場を与えてくれた。報酬も名誉もシエナにとってなんら魅力を感じるものではない。ただひたすらヴラドのために己の才を存分に揮うことだけが、シエナの無上の喜びなのだった。 …………もしも殿下にこれ以上害を為すなら……貴方と言えども容赦は出来ませんぞ、ラドゥ様………。 ヴラドが必死に心を砕くたった一人の弟といえども、兄に害なすというのなら闇から闇に葬るのがシエナの役目なのだった。