「全くこいつは骨だぜ………」 ゲクランはカントン制度で集まってきた新兵一万の教育に頭を悩ませていた。これまでの常備軍八千と屯田工兵五千を合わせると二万三千の大兵となるが実情はお寒い限りである。実戦経験を積んでいる常備軍の中核は五千がいいところであったし、工兵は前線で使えるほどの練度もないからだ。逃亡兵の対策も練らなくてはならない。救いは精強をもってなるクロアチア歩兵が数多く見受けられることくらいか。 この時代の兵士の忠誠心のレベルは概ね低いといってよい。フリードリヒ大王の時代でも軽騎兵によって味方の逃亡を監視させたり訓練中は柵の中で缶詰状態にするのは日常茶飯事であったという。しかし、フリードリヒ大王に比べ、ワラキア公が圧倒的に勝っていることがある。君主の権威と名声がそれであった。即位わずか四年にしてワラキアを東欧の一等国に成長させた手腕、十字軍四万を寡兵で壊滅させた実績、しかも正教会大主教を兼任するという万能ぶりである。国民の畏怖も当然であろう。それにワラキア公の偉大さはそれだけにとどまらない。 「いったいどうしたらあんな訓練を思いつくんだか」 苦笑とともに射撃場を見つめるのはゲクランの副官のクラウスであった。クラウスはゲクランが指揮していた傭兵団のかつての仲間のひとりである。クラウスの他にもゲクランを慕って数人の傭兵仲間が集まり、今ではゲクランを補佐する幕僚団を構成していた。対立する傭兵団の裏切りによりオスマン帝国に捕捉されるまで、ゲクラン率いる傭兵団「紅の鋼」はその精強をもって東欧中に名を知られた傭兵団であったのだ。その配下が優秀であるのも当然であった。 熟練の傭兵達者たるゲクランたちにして、ヴラドの発想には驚きを禁じ得ない。眼下で繰り返される射撃訓練などはまさにその典型であった。 造り自体はそれほど目新しいものではない。人型をした板が合図とともに起き上がり、それを狙って銃を撃つだけだ。現代ではごく当たり前に射撃場で見ることができる人を象った標的だが、この時代においてはまさに革命的な効果を発揮した。 この時代の小銃の命中率が低いのは、主に火薬や銃の性能の不足によるものだが、それだけというわけではない。人に向って撃つという行為に抵抗を感じる兵士の意識的、無意識的なサボタージュもまた無視しえない要因の一つであるのだ。人型に向って撃つという訓練は、この抵抗を軽減する効果を持つし、またパタリと起き上がる板を狙い撃つのは反射的に引き金を引くきっかけにもなるだろう。そればかりか、人型には得点が明記されていて、兵士たちはその得点に応じて特別休暇や食糧の配布あるいは罰としての掃除当番などを受けるのである。訓練に対する集中力が桁違いに増したのをゲクランたちは実感していた。 「人造硝石の量産で遠慮なくぶっぱなせるのはありがたいな。おかげで新兵でもどうにか形にはもっていける」 「新兵は基本的には貧農出身だからな。下士官は今の常備軍から選抜するしかないだろう。クラウス、新たな小隊長のリストを作っておいてくれ」 「………シェフ殿は相変わらず人使いが荒いことで………」 傭兵団の隊長時代の呼び名で呼ばれたゲクランはニヤリと獰猛な笑みを浮かべた。 「うちの殿下ほどじゃない。なにせ一介の傭兵あがりのオレに全軍の統帥を任せやがるんだからな!」 「…………ごもっともで」 ぐるるるるるる………低いうなり声をあげて威嚇の体勢をとるクーバースの迫力は十分である。 「ジョリー構わん、あれはオレの妻だ」 寝室に入ってきたヘレナもまた一頭のクーバースを連れていた。名前はもちろんカールである。そして心を盗んでいった心優しき泥棒さんはオレ。 「貴族の守護者」 それが大型犬クーバースの名の由来である。史実ではハンガリー王マーチャーシュが暗殺回避のために愛用したことで知られている。 軍用犬を手配してくれたのは意外にもスカンデルベグであった。くれぐれも暗殺などされてくれるな、と言伝まで添えられていた。アンジェリーナを非公式にワラキアへ送り出してからやたらと頻繁にこうした手紙がやってくるのだ。どんだけ親馬鹿なのだろうか…………。 送られてきたクーバースは全部で四頭、オレとヘレナとフリデリカとアンジェリーナに一頭ずつつけられている。警察犬や盲導犬の知識はあったオレだが、この時代の護衛犬の存在は想像の埒外にいた。護衛犬の役割は実に多岐に渡っている。部屋に断りなく侵入しようとする者に対し吠えかかるのは当然として、主人が入室を許可すればおとなしくなり、許可しなければ喉笛を狙って踊りかかるのだから恐ろしい。また刃物を抜き身で持った人間が主人に近付けば、その手を狙って噛みつくように訓練されていた。オレにつけられたジョリーはさらに毒の匂いを嗅ぎわける訓練を受けた名犬中の名犬だった。 王宮内に仕えるものから貴族の数は減ってはいるが、その分ワラキア以外の出身官僚が増加していることを考えれば、いくら警戒してもしすぎるということはないのである。それでもかつてのワラキア宮廷に比べれば雲泥の安全さではあるのだが。 「………いったい何を心配しておるのじゃ?我が君」 ヘレナはオレの密かな憂いに気づいていたようだ。軍制改革、国家憲兵、護衛犬……その真新しさに誰もが目を奪われているがその着手を急いでいることに気づいたのはヘレナだけであった。理由を語れようはずもない。まもなくムラト二世が死ぬおそれがあることを知っているのはオレだけなのだから。 「…………今年はオスマンと戦いになるやもしれぬ………」 メフメト二世が即位すればワラキアに対してどんな揺さぶりをかけてくるか知れたものではない。すでにラドゥを手駒においている以上、保守派貴族に対し調略の手を伸ばしてくるのは確実である。それにルメリ・ヒサルの建築を強行されれば東ローマ帝国から援軍要請がくるのは間違いなかった。史実では教皇庁やヴェネツィア・ハンガリーなどに兵を乞うたコンスタンティノス11世だが、十字軍すら退けた正教会大主教が身近にいるのだ。これに頼らぬ理由がない。 これまでオレは大主教の地位と帝国の縁戚であることを十分以上に利用してきた。ここで帝国を見捨てるという選択肢はありえない。である以上、戦端は史実の1453年春よりさらに早まる公算が強かった。 いまや輸出大国となり、自前の商船隊すら運用を始めたワラキアにとってもルメリ・ヒサルの築城は大問題である。史実のルメリ・ヒサルの砲戦力はたいしたことはないが、そんなものはいくらでも増強が可能だ。対岸のアナドール・ヒサーリとともに本腰で増強された日にはボスフォラス海峡は完全に封鎖されかねなかった。その危険性をこの二年間気長にジェノバやヴェネツィアに説いてきたことで、両国ともオスマンに対しての警戒度をあげてきている。あるいは来年夏のルメリ・ヒサル築城が開戦のきっかけになるのかもしれなかった。 「………また我が君はそうして神の声を聞きにいってしまうのだな……」 寂しそうな声でヘレナが言う。オレが史実との対比に思いを馳せているときをそういう表現で表しているようだが、こればかりは話すわけにはいかない。 「頼りにしているよ、我が妻」 国政と外交に関する限りヘレナは得がたい相談役である。それに東ローマ帝国を暴走させずに手綱をにぎるためにはヘレナの協力が欠かせない。 「………そろそろ女としても頼りにされたいものじゃが………」 アンジェリーナの加入で激化した争奪戦により、このところヘレナの誘惑が激しさを増していた。シュテファンが士官学校の寮に入ってしまったのが悔やまれる。 「妾もずいぶん育ってきたと思うのだがまだ食指は動かぬか?我が君」 そういって、この一年でBカップにまで成長した胸を摺り寄せられると流石に理性が危うかった。 「そういう悪い子にはお仕置きだ!」 「や……そんなまた……!ずるいぞ我が君………んあっ!」 そう、大人のごまかし方はずるいのだよ。……………最低だ、僕は……………なんちて。 「殿下、アドリアノーポリに派遣している間者から連絡です」 とうとうきたか…………。 「二月八日、酒席で人事不省に陥ったムラト二世はその日のうちに典医メムノンに看取られながら逝去いたしました。後継はメフメト二世で兄弟は全て粛清された模様です。また宰相カリル・パシャも粛清されました」 カリル・パシャが粛清された?おかしい、史実ではカリル・パシャが粛清されるのはコンスタンティノポリスの陥落後であったはずだ。なにが変わった?宰相がいらないと判断された理由はなんなのだ? 「新たに宰相に就任したのはメムノン・パシャ…………殿下の恩師です」 ………あの爺いか、余計な真似をしやがったのは。 メフメト二世に協力しているらしいことはわかっていたが、むしろ積極的なのはメムノンのほうであったらしい。ラドゥを引き入れたのもメムノンの差し金だろう。人畜無害な学者然とした面しやがって、とんだ誤算だ。 1451年2月、史実どおりメフメト二世が即位した。宿命の舞台の幕が上がりかくて役者は揃ったのであった。