「………始まりましたな…………」「ああ、余の歴史の始まりだ……もはや誰にも邪魔立てはさせぬ」オスマン帝国新スルタン、メフメト二世の親政はまず粛清の嵐から始まった。イェニチェリ軍団を創設した大宰相カリル・パシャとその一族が族滅され、さらにカリル・パシャとは盟友関係にあったイザク・パシャもまた族滅の憂き目を見たのである。文武の両雄が粛清されたことで帝国は動揺したものの新宰相メムノン・パシャは黒羊朝の皇女とスルタンの結婚を発表することで一時的な鎮静に成功していた。黒羊朝としてはティムール朝の混乱に乗じてジャハーン・シャーのもと着々と領土を広げている途上にあり、オスマン帝国との軍事的緊張の緩和は渡りに船であったのだ。ワラキアも黒羊朝の支援にあたってはいたが、さすがに最新武器を供給するわけにもいかず、相互の利益差分が明暗を分けた形となった。さらにブルジーマムルーク朝のザーヒル・ジャクマクとも修好し、彼の野望であるロードス島遠征を後押しすることで同盟を締結することに成功する。この一連の外交成果はメムノンが長い年月の間に研究のため各国を渡り歩いて築いた人脈が大いに貢献していた。ペストの流行以来国威が疲弊しているとはいえ、マムルーク朝は南地中海の雄であり、わけても肝心なことはアレクサンドリアに貿易拠点を置くヴェネツィアに対して牽制ができるということである。ヴェネツィア共和国は実のところコンスタンティノポリスからオリエント貿易の拠点をアレクサンドリアに移しており、これを失うことは地中海貿易でしのぎを削るライバルたちに対して著しく劣勢にたつことにほかならなかった。「ヴェネツィアに不可侵条約を申し入れよ」さすがにこれにはワラキアも静観することはできなかった。すぐさま元老院に使者をおくり、地中海の未来のためにオスマンと手を結ぶべきではないことを説く。マムルーク朝とオスマン朝が手を結んだ後の東地中海の勢力図についての危険性も。しかしオスマンと戦中というわけではない以上ヴェネツィアにとってアレクサンドリアの確保の優先は当然でもある。ましてオスマンは危険な相手とはいえ、ワラキアと並ぶ貿易相手国でもあった。その結果オスマンとの間に限定的ながら不可侵条約を結ぶことにしぶしぶ同意することとなった。ワラキアの面子を立てるため、オスマンが今後ヴェネツィアの国益を損なう行動を取ったときには条約は破棄される旨の但し書きがつけられているが、戦闘予備行動が掣肘されるのは避けられない。ワラキアの外交は黒羊朝に続いてオスマン帝国に敗れたのだった。「やってくれる」カリル・パシャを粛清したと聞いたときにはメフメト二世はその激情に物を言わせて、すぐにも攻めかかってくるのではないかと心配していたが、こうも搦め手を固めてくるとは思わなかった。これでオスマン帝国は心置きなく全軍を集中させることができる。おそらくはコンスタンティノポリスにであろうが………あるいは一気にブカレストという選択肢もないではない。メフメト二世の即位式典に参加するよう要請がきたがこれは断る以外に方法がなかった。現に父ヴラド二世はオスマンに訪問中捕らえられて虜囚の身になっているのだ。祝い品を持たせて使者を派遣はしたが、内心は見透かされているだろう。ワラキアは心底からオスマンに従ってはいないということを。それにしてもこれほどのオスマンの外交攻勢は予想外だった。長年の根回しが力技でひっくり返された気分である。いまだオスマンの外交攻勢は留まることを知らず、ポーランド王国にも不可侵条約締結を打診しているという。こちらもカリル・パシャの親派だった貴族に調略を仕掛けているが、疑わしきは殺すという恐怖政治がまかりとおるだけに成果をあげるのは難しかった。もっともカリル・パシャとイザク・パシャを粛清したことでイェニチェリ軍団の士気に低下が見られるという有難い情報もある。長年オスマン朝を支えてきた両雄を殺されては流石に意趣を覚えずにはいられないらしい。この期に離間を進めるつもりではあるがどうなるものか。しかしオスマンの誇る官僚組織がほとんど機能を失わなかったのが最大の誤算だった。思い返せばメムノンは有望な異教徒の子弟に対する教師を長年勤めていた。そのなかにはイスラム教に改宗し、今では優秀な官僚として現場で活躍しているものも少なくなかったのだ。「こうなると、頼みはアルバニアとジェノバのみになるやも知れませぬ」ベルドの声もいつもの張りを失っていた。ヴェネツィアの政治工作に失敗してからどうも気に病むことが多くなっているようだ。「………教皇庁も動きそうにないか?」「またぞろ東西合同に未練がありますようで………」フィレンツェと関係を結んだことにより、教皇庁との和解に向けた話し合いが水面下で進んでいたのだがワラキア健在なかぎり東西教会が合同することはできないというのが多数派を占めているらしい。ハンガリー王国滅ぼして棺桶に片足をつっこんだ正教会を復興させ教皇の面目丸つぶれにしたからしょうがないのかもしれないが、せめてイスラムに対抗するときくらい目をつぶってくれよ……………。もっとも明るい材料もないわけではない。まずボヘミアのイジー・ポシュブラトゥとの間で正式な相互同盟条約を結ぶことに成功している。条件は互いの信仰の尊重と、神聖ローマ帝国やドイツ諸侯およびオスマン朝に対抗するための軍事支援の遵守。これによりボヘミアの優秀な職工たちが使用可能になった。長年フス戦争の武器供給を担ってきた彼らの製作技術はワラキアにとってもおおいに有益なものとなるだろう。それについ先日ハンガリーにおいて小規模な貴族の反乱が発生したがこれが見事な失敗に終わっていた。反乱した貴族は、それなりに大領をもった有力貴族であったのだがまず軍勢の動員からして失敗している。カントン制度の導入により、国民は貴族の無法な徴兵から解放されていたので、一族郎党以外思うように兵が集まらなかったのだ。仕方なく近在の貴族に支援を求めたのだが、支援の貴族が集まるより早く住民からの通報を受けた常備軍に殲滅されてしまっていた。この事件は国内における貴族の戦力の衰退を確たるものとした。カントン制度の浸透は貴族から動員兵力を奪うことに成功している。国民の間で大公>貴族>国民という不等式が成立し、領主たる貴族に盲目的に従うばかりでないことも明らかになった。そして情報伝達力において貴族が伝令しか手段をもたないのに対し、ワラキア公は諜報員、腕木通信、狼煙などの手段によって常備軍を速やかに派遣することができた。もはや武力においてワラキア公に抗すべくもないことが衆目の前で明らかとなったのだ。この事実が示すところは大きい。ようやくにして貴族の影響力を廃した絶対王政の片鱗が姿を現した証左であるからだ。今後は貴族も官僚組織内での出世によってその名誉を購うようになっていくだろう。少なくとも国内で武力反抗に及ぶ貴族はほぼあらわれまい。王権が強化されていくなかで、数々の大貴族が処分されていることもその理由のひとつである。彼らは国家憲兵の摘発を受け、あるいは展望もなく叛旗を翻してこの一年の間にその多くが自滅していった。隠忍自重して機会を待たれたら厄介な勢力になっていただけに今回のような早期の激発はありがたい。これによってハンガリー内の治安が格段に向上したので久しぶりにトゥルゴヴィシテに帰還することができた。さらにドナウ河貿易の中継基地の名目で、数か月前からブカレストに城塞都市を築き始めている。ワラキア公国は北部と東部には天嶮があって攻めるに難く守るに易いが南部にはドナウ河があるのみだ。だからこそ史実のヴラドは焦土戦術によって敵の疲労を待たなければならなかった。だが、オレはワラキアの国土を戦火に晒す気は毛頭ない。要塞と河川艦隊によってドナウ防御線を死守するつもりであった。とはいえカントン制度で新たに加入した国民兵が実戦に投入できる練度になるのはまだしばらく先のことであり、相変わらずワラキア軍の主力は常備軍の精鋭五千名のみであることに変わりはない。いまだ動かぬオスマンの動向に注視する以外に手がないのもまた冷厳な事実であった。今アドリアノーポリでスルタンの次に恐れられている男がいる。「スルタンの処刑人」それが彼に与えられた綽名であった。スルタンの命により、反対派貴族、官僚を粛清するのが彼の役割であったからだ。メムノンの目指す効率的な官僚組織と人材登用は、旧来の階級社会を根底から覆しかねないものであり、これに反発する貴族たちは数多かったのである。しかし、彼らの反発がスルタンの心を揺らすことはついぞなく失意にくれる彼らの前には処刑人の来訪が待っていた。 「………ベイレルベイ、ノウラトの断罪滞りなく済みましてございます」今日もまた、イザク・パシャの傍系を匿っていたとして州知事の一人が彼の手にかかっていた。拳銃と長剣で武装した男は氷のような美貌を微塵にも揺るがさず優雅にスルタンに平伏する。「ごくろうであった、ラドゥ・ドラクリヤよ」メフメト二世は満足気に嗤った。純真で美しかった少年が、人として壊れていく様が面白くてならなかった。初めて人を殺した少年の絶望に歪んだ顔がなんとも言えず美しかったのを今も鮮明に覚えている。あまりにも多くの人間を殺しすぎ、月のように冴え冴えとした無表情になった今の美貌もまたそれに劣らず美しかった。心を殺してしまわなくてはならぬほどに、この少年は優しすぎたのだ。その健気な様子がまたメフメト二世の加虐心をそそらせるのである。そのうえヴラド三世の弟であるというのがまた良かった。躍進を続け、いまや東ローマ帝国の精神的支柱となった感すらあるあの男を汚しつくし、あの男の大事なものを全て踏みにじったうえであの男を殺す。その日を思い描けば甘い疼きが背筋を駆け昇るほどだ。「褒美をとらせるとしよう。湯浴みを済ませて余の寝室に参るがよい」「御意」性技のかけらも心得ぬ男ではあるが、心を殺して何の感情も見せなくなった男に官能の嗚咽を漏らさせるのもひどく征服感をそそられる快事であった。いつもであればお気に入りの気の利く小姓に務めさせているが、心の猛った夜の閨を務めるのはこのところラドゥに決まっている。…………あの男はラドゥほどに容易く思い通りにはできない。いまだオスマン朝のスルタンになりながらワラキアに対して宣戦できないのがよい証拠であった。欧州諸国、アジア諸国の間諜が工作と情報収集を終了して戻るまで、おそらく一年近くの時がかかるだろう。その間は政治と外交によってワラキアの勢力を削ぐことに努めるしかない。歴史に名を残す夢は変わらずメフメト二世の胸にある。しかし、ヴラドに勝つということもまた、メフメト二世の中で重要な夢になろうとしていた。