シエナはじっと瞑目して報告に聞き入っていた。このところのオスマンとの諜報戦は熾烈を極めている。ラドゥの調査に赴いた間諜が消息を絶ったのをはじめとして、送り込んでいた間諜が次々と摘発されていた。もちろんワラキアも黙って見過ごしていたわけではない。防諜にも少なからぬ労力を割き、特に技術系の流出には相当な効果を発揮している。むしろ失う間諜の数を比較すればオスマンの方が圧倒的に多数なのだ。しかしオスマンには服属した多くの東欧人がおり、犠牲にこだわる必要がないのもまた事実であった。「デメトリオスに調略が及んでいるのはわかった。引き続きソマスに情報が渡るよう工作しろ」シエナの司るワラキア情報省はオスマン帝国のそれとは違い、正式な行政機関として機能している。もちろん後ろ暗い工作が表面に出ることはないが特筆すべきはその組織力であった。ロマやユダヤ人との間に協定を結ぶことにより他国に追随を許さないその情報収集力はワラキアの国策決定にすら重大な影響を及ぼす。それを一身に任されたシエナの才腕と信頼は並大抵のものではない。彼が率いる間諜の中にはスルタンが軍を発した時にかぎり起動するスリーパーすら存在するのである。暗殺や破壊工作を抜きにすればワラキア情報省の力はスルタンの私兵機関にすぎないオスマンの諜報組織を大きく上回っているのだ。シエナが現在重要視しているのはラドゥとメムノンに関する情報だった。ラドゥはヴラドにとってのアキレス腱になりかねない存在であったが、どうやらもはや抜き差しならぬ泥沼にはまってしまったようであった。スルタンの処刑人にして督戦隊の指揮官とあっては敵味方の両方から恨みをかうだけのようなものだ。遠からず恨みを抱く何者かによってその身を滅ぼされることとなるであろう。あるいは自分の差し向けた刺客によって。残るひとりのメムノンに関しての情報はいささか深刻であった。メムノンが押しすすめる政治改革はドラスティックな人材登用を柱にすでに効果をあげつつある。イスラム教徒にかぎってのことではあるが、人種にとらわれぬ能力主義の採用によって、官僚組織ばかりか軍事指揮官の質的向上まで果たしつつあった。メフメト二世の後押しなくばとっくに貴族たちの反発によって墓穴に埋まっていてもおかしくないのだが、カリル・パシャ・イザク・パシャ両雄の死が貴族たちに無形の楔を打ち込んでいるようだった。学者らしい彼の割り切りによって改革されつつある軍の在り方はそれ以上に危険である。銃の装備率の向上と機動には向かないとはいえ、大砲の量産は明らかにワラキアの戦訓を取り入れた気配がうかがえるのだ。いまだフリントロック式の銃は製造にいたってはいないが、それを模倣する意志があるのは明白だった。今後ワラキアの機密情報はさらに徹底して漏洩を防ぐ必要があろう。これは時間との競争だ。ワラキア公国は国内のさらなる支配と国民兵の質的向上にどうしても時間がほしい。オスマン帝国もまたワラキアの新戦術の消化と新スルタンの国内掌握にはいましばしの時間が必要であった。自らが政治的命題を解決し、他国がいまだ解決にいたらぬそのときこそ勝機となる。そしてワラキアがオスマンに先んじるためには自分の力が絶対に必要だ。「ブルガリアとトラキアでの宣伝員を増員しろ。解放者の訪れは近いと」情報収集、暗殺、破壊工作、流言…………どれもオスマンとの間で攻防を繰り広げている間諜の任務だが、ワラキアだけが政略に込みこんでいる工作がこれだった。正教会の守護者にして東ローマ帝国の精神を継ぐもの。あるものは詩に託し、またあるものはようやく流通をはじめた書籍によってヴラドの英雄譚を紡いでいく。ヴラドに対する噂は噂を呼び、東欧全体に緩やかな、しかし確実に大きな波紋を広げようとしていた。シエナにとって主の価値は欧州に並ぶものがないものだ。たとえそれが東ローマ帝国皇帝であったとしても。コンスタンティノスは間諜からもたらされた弟の叛意に胸を痛めていた。考えてみれば自分は弟たちの危機感にあまりに鈍感であったように思う。いまだ再婚相手すら決まらぬ自分の後継者を心配するのは理の当然であるはずであった。だが、問題なのはワラキア公の声望の高まりである。宰相のノタラスなどは明らかにワラキア公の皇位継承を望んでいた。弟たちが健在であるにもかかわらずそうした声があることに、コンスタンティノスは不快の念を禁じえない。しかし、ワラキア公なくしてこうしてコンスタンティノポリスが活気を取り戻すこともありえなかったのだ。「…………余ははやまったやもしれぬな………」ワラキア公の器量はコンスタンティノスの想像を遥かに超えていた。わずか19歳にすぎぬ若者が帝国にこれほどの影響をもたらすなど誰が想像したろうか。将来的に帝国に益する君主に育つやもしれぬと思いはしたが、まさか四年弱で東欧に巨大な王国を築きあげてしまうとは。だが、その空前の躍進も帝国の援助があったればこそである。それで逆に帝国がワラキアに飲み込まれるようなことがあっては本末転倒というものであろう。「………やはり余は弟を裏切る気にはなれぬ」皇位継承者としてデメトリオスを指名しよう。そうすれば弟も馬鹿な真似には及ばぬはずだ。ワラキア公にはルーマニア王位を名乗ることを許そう。実質的にワラキア公はハンガリー・トランシルヴァニア・ワラキア・モルダヴィアの王だ。王号を名乗るには十分であろう。もちろん王号を称するということはヘレナの夫として帝国の藩屏たることを受け入れることにほかならない。一度は捨てた選択肢だが、ワラキア公の出方次第では再び東西合同に動くことも………。コンスタンティノスは決して暗愚な君主ではない。むしろ英邁な君主の部類に入るであろう。国民に寄せられる絶大な人気がそれを証明している。しかし頭のいい人間にありがちな見通しの甘さがあり、帝国の長い歴史を背負わされたことによる重みが時として決断を誤らせる傾向にあるのかもしれない。ワラキア公にルーマニア王位を与えることがメフメト二世にどのように受け取られるかについて、皇帝はなんら危機感を抱いてはいなかったのである。「伯父上はいったい何を考えているのか!」ルーマニア王即位の打診を受けたことにヘレナは激昂を隠せずにいた。この情勢下でオスマンを刺激すれば偶発的に双方が望まぬかたちで戦争が始まりかねない。戦のきっかけは何もそれを望んだときとは限らないのだ。確かに伯父は善人なのだろう。皇位をデメトリオスに譲る代わりにヴラドに対して好意を示したつもりに違いなかった。しかしそれは裏をかえせばワラキアを警戒しているということでもあり、さらには親オスマンのデメトリオスを次期皇位継承者にするという皇帝の決意表明でもある。デメトリオスの国民の間での人気は低いうえ、ヘレナの父ソマスとも不仲を極めていた。とうてい破局寸前の帝国を支えられる器ではない。そのうえ、今回の皇位継承にからみ反ワラキア色を鮮明にしていた。もし万が一のことがコンスタンティノスにあればワラキアは累卵の危機に立たされることになるであろう。ただそれだけならばヘレナもここまで激昂はしない。ヘレナは帝国千年の歴史が生んだ政治的怪物なのだ。対応すべき方策のひとつやふたつを考え付くのは赤子の手をひねるようなものであった。しかし今回の皇帝の策動の焦点は実のところヘレナ自身にある。皇帝がワラキアを警戒する原因のほとんどはヘレナに流れる皇帝の血筋にあるのだ。血筋ヘレナがワラキア公のものになると心に決めたときに捨て去ったはずのものが、今こうしてワラキア公を窮地に陥れていることがヘレナには辛い。理性ではむしろ当然のこととして理解している。物心ついたときから自分はそうしたものとして育てられてきたのだから。ただ帝国の血筋を未来に繋げるための道具として、生きていくことを強いられてきたのだから。しかしそれはヴラドに会って解放されたと思っていた。ワラキアという小国の主………世が世なら到底帝国の血筋を娶るような地位にはない。ましてオスマンに服属し、貴族たちは勝手に後継者を乱立させて混乱する大国にはさまれた小国など誰が評価するものか。ところがヴラドはその才覚と度量ひとつでワラキアを東欧一の大国にまで育て上げてしまった。人は血筋に頼ることなくその才によって世界を変える力がある。ヘレナがヴラドに感じたもっとも大きな喜びはそれだった。そして自らもその才によってヴラドに必要とされ、帝国の皇女ではなくただひとりのヘレナとして自立できたとも感じていた。残念ながら女として必要とされるにはいま少しの努力と時間が必要なようではあったが………。それが幻想であったと知らされて平静でいられるほどヘレナは大人ではなかったのだ。「ご機嫌斜めだな、我が妻は」「………黙ってみているとは人が悪いぞ、我が君」いつの間にか自分の私室にヴラドがやってきたのにも気づかずにいた恥かしさにヘレナは顔を赤らめた。自分が幼子に戻ってしまったようななんともいえぬ罰の悪い感覚であった。「………ヘレナの髪は綺麗だな」やさしく髪を梳かれてヘレナは戸惑ったように身体を身じろがせた。頬が熱い。「………それにとてもいい匂いだ」さらに耳元に顔を寄せられ匂いを嗅がれてはヘレナの羞恥心も限界であった。「どどどど……どうしたというのだ?我が君。これではまるで………」男女の睦みあいのよう……といいかけてヘレナは思わず俯く。もしかして自分の自意識過剰であったら恥ずかしすぎるからだ。「もしヘレナが帝国の皇女でなくてもヘレナの綺麗さは変わらない………」「我が君…………」ようやくヘレナは理解した。ヴラドがやってきてくれた本当のわけはヘレナを元気付けるためだったのだと。「帝国の血筋などヘレナが身につけた宝石とさほどの変わりはない。それはそれで美しいかもしれないが所詮はヘレナを飾る添え物のひとつにすぎない。私の愛する妻は飾りに負けるような器量ではあるまいよ」現実にはそうとばかりはいえない、とヘレナの冷徹な理性は判断するが今は何よりヴラドの気持ちがうれしかった。哀しいほどに優しい………いったいどうしたらそれほどに強く優しくあれるものか。この優しさを失いたくない、そう思ったときにヘレナは唐突に真実に気づいた。ああ………妾はつくづく我が君を愛してしまっているのだな…………。なんのことはない。ヴラドに嫌われるのが怖かった。ヴラドの不利益になることが許せなかった、ただそれだけのこと。「愛しているぞ、我が君………もしも我が君が少しでも妾を愛してくれているのなら……どうか今夜だけは妾を女にしてくれ」そう気づいたら是が非にもヴラドの女にならずには気がすまない。愛する男の証を身体に刻みこみたい。それは本能に近いものであった。「もとより今夜はそのつもりだ」愛し合うもの同士の証を得たい気持ちはヴラドとて変わりはなかった。実のところヴラドにもそれほど精神的な余裕はない。不安なのはむしろヴラドのほうといってもよいくらいだ。しかし男としての矜持がかろうじてヴラドに精一杯の見栄を張らせていた。 「………こ、今度こそは本当に本当じゃな?」首まで真っ赤に染めながらヘレナは疑りを隠さない。これまで何かと方便に騙されてきた経験からすればごく当然のことであった。「…………股に擦るだけというのはもうなしじゃぞ?」「………………あうっ」「子を生すためには子種を口から飲まねばならぬという嘘もなしじゃ」「ごめんなさい!私が悪うございましたー!」ヘレナに言われてみれば、まさに鬼畜の所業をいうほかはない。というか性犯罪者そのものである。反射的に土下座を敢行するヴラドがそこにいた。その夜、二人の間に何があったのか語るものはいない。だが、翌朝ヘレナはベッドから起き上がることすらかなわなかったという…………。「我が君の言っていたことは本当に正しかったのだな………………アイタタタタタタ!」