帝都コンスタンティノポリスに訪れた使者は、帝国に忘れかけていた亡国の恐怖を思い出させていた。「我がスルタンに朝貢する身でありながら、同じく属国たる身のワラキア公に王位を送ろうと企むとは許しがたい思い上がりである。この驕慢に満ちた愚行に対し、スルタンは寛大にも二つの選択肢を与える。ひとつ、ワラキア公との一切の外交関係を断絶しヘレナ姫をスルタンの側室に差し出すこと。また皇帝は直ちに退位して弟デメトリウスに譲位すること。ふたつ、コンスタンティノポリスを明け渡しモレアス専制公領に遷都すること。いずれでも好きなほうを選ぶがよい」迂闊にもここにきて初めてコンスタンティノスは自分がやりすぎたことを知った。どちらの条件もとうてい呑めるものではない。ヘレナを差し出すなどワラキア公が認めるわけがなかったし、全面的にワラキア公を敵に回すことなどできようはずもない。帝都の復興の立役者でもあるワラキア公を裏切るような真似でもすれば、コンスタンティノポリスに暮らす市民たちの反感を買うことは確実である。またワラキアの先進性に影響された官僚団も、宰相ノタラスを筆頭に抵抗するのも間違いなかった。そしてデメトリオスに帝位を譲位することも論外である。デメトリオスはオスマンに心情が近すぎる。いずれメフメト二世に帝位を譲位しかねないという疑いを禁じえない。今後時間をかけて帝国の重圧を身に染み込ませるつもりでいたが、現在のデメトリオスはコンスタンティノスから見て政治家として未成熟でありすぎた。だからといって帝都を放棄することもできない。コンスタンティノポリスこそは東ローマ帝国の魂である。この地なくしてローマの精神はない。モレアスだろうとどこだろうとそれは同じであった。帝都をなくしてまで生きながらえる気はコンスタンティノスにはなかった。「…………使者殿には悪いがどちらを選択する気もない。スルタン殿には貢納金を増額するゆえご容赦願いたいとお伝えいただきたい」使者は蔑みに顔を歪めながら皇帝の懇願を嘲笑った。「汝らの収めることのできる貢納金など、我がオスマンの富に比べれば何ほどのことがあろうか。選べぬならばこう申せとスルタン様は仰せになられた。もはや夢の覚める時が来たと知れ。本来のものでないとうに失われた権威を、真の持ち主へと返すがよい。ローマの歴史と遺産は余が継いでやる、と」1451年12月………風に冬の冷気が混じり始めたころ、ギャラルホルンの角笛は高らかに吹き鳴らされた。数々の破滅を約束しながらも訪れた戦を避ける術はない。結局のところ望むと望まないとに関わらず災厄は人の上に降りかかるものなのだ。覚悟していたとはいえ、東ローマ帝国へのオスマン朝の宣戦布告はワラキアに深刻な影響を投げかけずにはいられなかった。すでに正教会大主教としても、帝国の縁戚としてもコンスタンティノポリスを見捨てるという選択肢はない。そんなことをすればワラキアが被占領地域に対して有していた権威など紙くず同然に成り下がるであろうし、貴族に代わって力をつけ始めた市民層に見限られるのは確実である。「…………来るなら来い!ワラキアはあと十年は戦える…………とは言えんわな…………」開戦がオレの予想よりあまりに早すぎる。ってかコンスタンティノープルの陥落って1453年の5月だろう?それよかルメリ・ヒサルはどうなったのよ??「全く伯父上も下手な手をうったものだ…………」ヘレナもまた呆れた顔で首を振っていた。聡明な瞳からはいつもの精彩が感じられないようにも見える。だが、それを見守る近臣の表情は危惧よりむしろほっとした安堵の念を隠せなかった。実のところ昨日見せたワラキア公の激怒は公を知る近臣すら怯えさせるほどに深かったのだ。「………ヘレナを側妾に差し出せと言ったのか」「御意」「…………そうか………ヘレナを、我が妻を、オレの家族を、家具か置物のように差し出せと……貴様はそういうのか!ラドゥだけでは飽き足らずヘレナまで奪おうと…………」「………で、殿下…………?」低く呻くように俯くヴラドに近臣たちが心配して声をかけようとするが、彼らは一様に驚愕とともに凍りつくことになる。………………嗤っていた。極大の愉悦に浸りきったような幸せそうな顔で、ヴラドはくつくつと嗤っていた。夢見るような陶然とした目で肩を震わせ、喉を鳴らしながらさも可笑しそうに嗤っていた。「わははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」狂笑哄笑邪笑嘲笑耐え切れぬ、といった風情で腹を抱えてヴラドは嗤い続けた。うれしそうに楽しそうに瞳に涙させ滲ませて「…………オレは生まれて初めて喜んで人を殺そう。なんの罪もないオスマンの民の兵もどうなろうと知ったことではない。……かまうものか!この目に入る女が居れば犯し、この目に入る物があれば壊し、この目に入る子供が居れば嬲り、この目に入る宝があれば奪おう。この目に入る兵が居れば殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して凱歌を歌おう。乾杯を叫ぼう。誰一人生あるもののいない死者の荒野で雄叫びをあげよう。貴様の前に首を積み上げて貴様の慟哭を聴こう。貴様がいかに矮小で未熟な野心家であったか、筆を競わせ歴史に残そう。序文は貴様に書かせてやる。史上最も愚かで卑しい君主、メフメト二世とな。あははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは!!!」近臣たちにとってワラキア公は極めて温厚な人物であった。喜怒哀楽がはっきりして、表情が読みやすいおよそ政治家とは縁遠い人物であるかに見える。しかし、ひとたび事が起これば公はたちまち能面のような無表情になり、その身に青白く凍てついた空気を纏った冷酷な君主と化す。その傑出した決断力と行動力によって、完膚なきまでに敵を殲滅せずにはおかない。公が青白く凍りついた先にはその敵たるものには悲劇しか残されていないのだ。だが、こんな公は知らない。狂ったように嗤い続ける公がいったいどれほどの災厄をこの悪しき世界にもたらすものか、味方たる臣下ですら恐怖を覚えずにはいられなかった。ヘレナが公の口を吸い、強制的に黙らせるまで、公は嗤い続けた。そして失神するまでヘレナを責め抜いた結果今に至っているというわけだ。我ながら己の鬼畜ぶりに呆れてしまう。もはや幼児性愛者の名は甘んじて受けよう。うむ、この決断に一片の悔いなし!「……………やりすぎではございませんか?殿下………」ヘレナの惨状にどん引きしているフリデリカの視線が痛い……………ごめんなさい、やっぱり悔いあり。それにしてもメフメト二世も思い切った手段に出たものだ。間諜の報告を聞く限りオスマンの軍制改革と政治改革はいまだ道半ばであることは間違いない。イェニチェリの拡充と督戦隊の選抜、銃兵の登場でその魔力を失いつつある軽騎兵の再編、大砲の量産………どれをとっても一朝一夕に片付く類のものではない。本来は戦機が熟すのを待ちたいのが本音であったろう。しかし動員に時間を要するオスマンとしては、戦をするなら先制して主導権をとるのは正しい。既にアナトリアを中心に大規模な動員が開始されているが、戦時体制を構築したオスマンを相手にこれを各個撃破することは不可能であった。それでなくともワラキアの実働戦力は少ないのである。兵士の質的向上と火力優先の思想が兵力の動員を阻害するという弊害がこのところ浮き彫りになりつつあった。銃兵に射撃と戦場で必要な各種の運動を教え込むには最低でも三ヶ月以上を要する。しかもフリントロック式の銃や新式の機動砲は高価で弾薬とともに国庫に大きな負担を強いていた。末端まで銃を行き渡らせ、十分な教導を施すには莫大な資金が必要であり、自ずから養成できる兵の数には限りがあるのだ。旧来の方法なら五、六万人は動員できる国土と人口を擁するワラキアだが現在の編成を適用すればどう頑張ってみても三万人が限界であった。残念なことにライフルの試作もまた量産という壁の前に足踏みを余儀なくされている。精度が一定しないうえ、最高レベルの職人芸をもってしてもものになる銃は全体の1%に満たないからだ。百丁作ってようやく一丁が実用に足る程度ではとうてい主戦武器にはなり得なかった。それでもワラキアの火力の充実ぶりは欧州でも随一を誇る。しかしその火力がどこまで兵数差を補えるものかは未知数であり、とうてい楽観するどころではない。「くそっ!史実どおり後一年猶予があればな…………」史実を改変しまくって言えた義理ではないが、オレはそう思わずにはいられなかった。そうすれば兵員数も増やせたろうし、何より河川海軍を外洋型の海軍として生まれ変わらせることができただろう。一部の艦隊が外洋航行の訓練中であり、ガレオン船も完成が間近に迫っている。就航の暁にはボスフォラス海峡での海上勢力圏を完全にオスマンから奪ってしまうことが期待されていた。しかしそれはこの戦には間に合わない。である以上、手持ちの戦力でオスマンを撃退しなくてはならない。「殿下、お呼びにより参上仕りました」 手持ちのなかでもギリギリでこの戦に間に合った新戦力の長がこの男であった。 ロドリーゴ・フロイド………フィレンツェ出身の元医者である。間に合った戦力とは、彼が率いる医療兵部隊なのだ。