オスマン朝が兵力をコンスタンティノポリスに集中させたということは今まで外縁部で抵抗していた勢力にとって、待望の反撃の機会でもある。かつての東ローマ帝国がティムールにアンカラで敗れたオスマンを追撃できなかったように、反撃をするにはそれだけの体力と戦闘力、何より君主の決断力が必要であった。現にトレビゾント帝国は積極策を打ち出せずにいる。それも無理からぬことであるかもしれない。オスマン朝は兵を集めただけで決して敗れたわけではないのだから。もちろん、アルバニアの英雄スカンデルベグにとって勇気と決断力が不足したことなど過去にも将来においてもありうることではなかったのだが。「今こそ我らが故郷を異教徒より解放するのだ!」北部アルバニアの総力を結集した戦力一万余は怒涛の勢いでアルバニアを南へ向けて進軍を開始していた。フィエルやサランダ・コルチャといった南部の大都市で正教徒を中心に反オスマンの擾乱が起きつつあるという情報ももたらされている。その大半は正教会大主教であるワラキア公ヴラド三世の呼びかけに負うところが大きい。全くどこまでも自分の予想を超えてくれる男であった。中部の都市エルバサンの前面においてオスマン兵数千の襲撃を受けたが鎧袖一触になぎ払う。かつてオスマン兵十万に蹂躙された中南部に民衆の歓呼が木霊する。スカンデルベグ!!スカンデルベグ!!!我らが英雄!我らが希望!いまだかつてキリスト教国が攻勢にたってオスマン領を侵食することなど一度たりともなかった。それがほとんど無人の野を行くがごとくの進軍が続いている。この勢いならアルバニア全土を解放することもそう遠い先の話ではないだろう。もっともそれはワラキア公がオスマンに勝利してくれなければ砂上の楼閣でしかないのだが…………。「…………速く孫の顔を見せてくれぬものかな………?」アンジェリーナからワラキア公の寵を受けたという知らせを受けて数ヶ月が経とうとしている。どこまでも親馬鹿なスカンデルベグであった。もっとも孤独な戦いのなかではこれほどの余裕を持つことは叶わなかったであろう。たのもしい盟友の活躍を信じることができればこそ、彼も明るい未来に思いをはせることができるのである。「………全く愚かな………」ソマスは兄デメトリオスの行動に舌打ちを禁じえなかった。皇帝の後継に指名されながらオスマンに忠義立てして自分が援軍を送ろうとするのを掣肘するとは………。これでデメトリオスはオスマンに勝利してもらう以外に皇帝に登る道はなくなってしまった。人格者であり、温厚な兄とはいえ、コンスタンティノス11世が謀反人に譲位するという選択肢はありえない。スルタンにすがって皇帝になることになんの意味があるだろう。確かにワラキア公の風下に立つのは業腹だが、オスマンに屈服するより余程いい。何より彼は同じ正教徒ではないか。「デメトリオス公の軍勢、城下におよそ三千と見ました!」ソマスの慨嘆が兄に届くことはなかった。いまやモレアス専制公領はデメトリオスとソマスの両派閥に真っ二つに分断されていた。その戦力はほぼ互角であり、それがデメトリオスの苛立ちを募らせている。……………むしろ自分のほうが戦力では下かもしれない。オスマンの威光を背景に調略攻勢をかけたにもかかわらず ソマス配下の将をほとんど切り崩すことができなかった。そればかりか中立派の貴族たちがほとんど軍を動かす気配がない。そして前もって知っていたかのような万全の備え………それが表す事実はひとつだ。ソマスはオレがオスマンに通じていることを知っていた!では何故オレを討とうとしなかったのか?決まっている。兄弟相討つことが忍び難かったのだろう。…………オレは弟に情けをかけられたのか!立場上オスマン寄りの旗幟を鮮明にしなければならなかったデメトリオスだが、この瞬間その立場を超えてソマスを討つことを決意していた。前々から弟の聡明さを鼻にかけたような態度が気に入らなかった。皇位継承のおり、コンスタンティノスを支援してオレを追い落とした際に見せた政治的手腕には怒りすら覚えた。あくまで自分で皇位を継ごうとはしない覇気のない弟に生殺与奪を握られていたなど、とうてい認められたことではない。「……………息の根を止めるまでオレは止まらん」ソマスは今となってはモレアスを投げ出してでもコンスタンティノポリスを救援に行きたいだろう。もしもコンスタンティノポリスが落ち、オスマン軍がモレアスにやって来たら挟撃されて敗北は必至だからだ。逆にモレアスをオレに奪われてもコンスタンティノポリスさえ無事なら奪回の機会はある。オスマン軍が敗れるようなことがあればなおさらそれは容易だ。つまるところ今やモレアスの死守に拘る必要はないとソマスは考えているだろう。だが逃がさん!モレアスを脱出することさえ許すつもりはない。お前はここでオレの手によって討ち滅ぼされるべきなのだから。黒羊朝の戦いは順調である。もはや斜陽のティムール朝を支える名臣も存在しない。あるのはかつての大国としてのプライドだけであり、それが組織化され統率されたものでないかぎり、恐れるべきなにものもないのは自明であった。現代ではアフガニスタンの北辺に位置するマザルシャリフにおいてアブーサイードと対峙するジャハーン・シャーはこの機会にサマルカンドまでをも征服するつもりでいた。守勢に回っているとはいえ、ティムール朝の兵力は自軍の半数に満たない。スルタンに乞われて兵一万を送っていたが、もう一万増やしていても良かったかも知れぬ。もしもサマルカンドを征服し、中央アジアに覇を唱えればオスマンはいずれ決着をつけねばならぬ雄敵へと変わる。恩を売っておくのにこしたことはないはずだった。…………今ごろはアナトリアの国境を超えたか?オスマンが火力戦を指向しているという情報は受けている。それが今度の戦でどのような働きを為すのかによって、黒羊朝もまた戦略を変更する必要に迫られるだろう。派遣軍の主将ジェリド・ギィムシェは学者でもあり、よく戦の真実を見抜くに違いない。暗愚とは程遠い位置にいるジャハーン・シャーは近い将来におけるさらに大きな大戦へと思いをはせていた。もっともその思いのなかに年若い小国の君主が入り込む余地は今のところないようであった。「ずいぶんと暢気なものだな」ウズン・ハサンは薄く嗤った。獲物として一万は少ないように感じるが、労せずして黒羊朝から奪える戦力としては決して低くものではない。もうじきオスマンの領域に入るとあって、まったく警戒の色を見せない敵を眼下に見やってウズン・ハサンは手を振って指示を下す。両岸の砂丘から、ウズン・ハサンの合図に呼応するようにして騎兵が黒羊朝兵を半包囲するように近づいていった。行き足のついた騎馬の進軍は敵襲を想定していない黒羊朝軍に見る間に肉薄した。果たして砂丘の上からの伏撃に黒羊朝兵は全く備えを欠いていた。気がついたときには白羊朝の騎兵部隊が歩兵の背後をとっており、騎兵もまた側背に喰らいつかれていた。「馬鹿な………裏切りか………?」ジェリドはかすれた声で呟くことしかできなかった。白羊朝がなぜ黒羊朝に歯向かうのか全く理解できなかったからだ。強大なオスマン朝と黒羊朝を敵に回すのがどれほどの愚挙かわかっているのかと絶叫したい気分である。ここで一万の兵が残らず骸と化そうとも、黒羊朝の兵力はまだまだ白羊朝の数倍は優に超えるのだ。ましてオスマンは今回の戦でコンスタンティノポリスを落として東欧に覇を為すのは確実であった。弱小である白羊朝が生き残る確率を見込むのは不可能なようにジェリドには思えた。それはあくまでも黒羊朝臣下ジェリド・ギィムシェの思考にすぎない。当然ウズン・ハサンには別の思惑が存在する。黒羊朝への臣従をよしとしない自尊自立の民の長として、このまま黒羊朝がティムール朝を併呑することを容認することは断じてできない。戦うなら、勝機を見出すならティムールと狭隘なマザルシャリフで対峙に陥っている今しかなかった。「ここでオレに食われて糧となれ」弓騎兵とピストル騎兵で構成された白羊朝の軽騎兵部隊は数の力と乱戦で遺憾なく発揮されるピストルの威力を生かし、見る間に黒羊朝の兵を減らしていった。乱戦の中では白羊朝と同じく軽騎兵を主力とする黒羊朝の槍騎兵部隊は全く役に立たない。逆にピストル騎兵はピストルの射程は短いが馬上槍よりは確実に長く、とりまわしが容易な分乱戦では予想以上の力を発揮していた。最初は剣と槍をピストルに持ち替えさせるのに苦労したのが嘘のような光景だった。「全くあの男を敵にするものの気が知れぬわ…………」ピストル騎兵は確かに騎兵対騎兵の戦いには有効だろう。しかし歩兵対騎兵になればどうなるかはわからない。ワラキア公ならきっとピストル騎兵など無力化してしまう戦術を既に編み出しているような気がする。こうしてピストルを惜しげもなく供給してくれることがいい証拠なのではないか?いずれにしろウズン・ハサンにとって目下のところワラキア公はオスマンや黒羊朝以上に敵に回したくない男であった。「まあよい、黒羊朝もティムール朝もオレの足元にひれ伏させてくれる!すべてはそれからだ!」そう叫ぶと、ウズン・ハサンもまた掃討戦に移り始めた戦場へと身を投げ出していった。一方、百年戦争も終盤にさしかかりノルマンディーを奪回して勢いに乗るフランスはパリにひとりの男が招かれていた。「………そうかしこまらずとも良い。ちと面白い噂を耳にしたので少し確認をしておきたかっただけなのだ」招かれた男の名はベルナルド、ブルターニュにほど近いヴァリュゼのしがない領主である。とうてい国王シャルル七世に召しだされるような位階の持ち主ではない。ベルナルドは痩せ型の長身ではあるが、両手が異様に長いのが印象的な男であった。もっとも手の長さはあるいは家系の特徴であるのかもしれない。小心さを隠そうともせずぎくしゃくとあたりを見渡せば衛兵の屈強な姿がなぜかどこにも見当たらなかった。しかもどういうわけか国軍の最高司令官であるアルチュール・ド・リッシュモン大元帥も国王の傍らにあるのが不審である。いったい如何なるわけがあって自分のような凡夫が召しだされるのかベルナルドには想像もできない。「……そなたには兄がいたはずだな、もちろん嫡出ではない。庶子のほうじゃ」無頼をもって近在に恐れられていた兄がベルナルドには確かにいた。もしかしたらあの兄が王国に対してなにか無礼を働いたとでもいうのだろうか?シャルル七世はベルナルドの考えを正確に洞察して笑った。「……今そなたが考えたようなことではない。もし噂が本当ならそなたの兄は王国に利益すらもたらしてくれるやもしれぬ。その兄の外見とその後を客観的に語ってくれればそれでよいのだ」ベルナルドは恐縮しきっていたが、どうやら罪が及ぶようなことはないとわかって話し出した。「兄、アレクサンドルは大力で近在では有名でした………猛犬アレクサンドルといえば貴族ですら避けてとおるほどの名うてのワルで………もちろんそんな男を我が家に置いておくようなわけには参りません。兄が十六歳のときに兄は父によって放逐され、領内の不貞の輩を集めて傭兵団を組織いたしました。確か紅がどうとかこうとか………その後の消息は知りません。最後の消息ではドイツから東欧に流れたということでしたが………もはや我が家の恥にしかならない男、気にも留めたことはありませんでしたので…………」リッシュモンがシャルル七世にうなづいてみせると、シャルル七世の笑みが深くなった。「………最後に外見はどうだ?何か目立った特徴はないのか?」ベルナルドは内心で疑問を隠せなかったが国王の諮問に答えるために必死で記憶を掘り起こした。「黒髪で碧眼、胴回りは太く一見肥満のように見えますが以外に敏捷でよく動きます。腕力は大の大人が三人がかりでも及ばぬほどで丸太のように太くたくましいものでした。顔立ちは鼻が大きく頬のエラが張り出たごつごつとした凹凸が印象的といいますか………お世辞にも見栄えがいいとは言えぬ顔でございます。それとおそらく二の腕に父上に折檻されたときの火傷があるものと…………」「どうやら間違いないようでございますな………」あきれたような声でリッシュモンがベルナルドの言葉を引き取るとシャルル七世は腹を抱えて爆笑した。爽快感すら感じさせる気持ちよさ気な笑いだった。「なんと……なんと冥加な家系もあったものだな。一族から二人も庶子の傭兵から元帥にまで成り上がらせるとは………!信じられるか?ベルナルド=デュ=ゲクランよ!そなたの兄は、今や東欧の雄になりおおせたあのワラキア公国軍の元帥を務めておるのだぞ!」