「ハックシュン!」「おや、シェフどのも鬼の霍乱ですかな?」「馬鹿言え、女が噂してるに決まってるだろ!」アレクサンドル=デュ=ゲクランは哄笑した。その豪快な笑いをたのもしげに見つめる兵たちの姿がある。彼らにとってこれから迎えるオスマンとの戦いは決して恵まれた状況にはない。ましてカントン制度で集められた青年の大半は初陣なのだ。その青年たちが自分を見てほっとため息をついていることに、もちろんゲクランは気づいていた。指揮官の陽気は兵に伝わるものだ。もちろん陰気はさらに伝わるのが早いので注意が必要だが。思えば自分が十六歳で旗揚げした傭兵団の初陣も似たような緊張を抱いていたことを思い出しながらゲクランは久しぶりの前線指揮に血を滾らせていた。ここで時系列はオスマン朝の軍がコンスタンティノポリスへとアドリアノーポリから南下を始めたころに遡る。すでにコンスタンティノポリスからは悲鳴と焦燥の入り混じった悲壮な便りがヴラドのもとに送られてきていた。一刻も早い援軍を!そのあられもない懇願の様子がなによりコンスタンティノポリスの窮状を物語っていた。皇帝の浅慮に端を発したこの戦いはあまりに猶予期間が短すぎたのだ。慌てて兵を募り援軍を要請するも、西欧の軍はロードス島に釘つけであり傭兵の価格も高騰の一途を辿っている。ようやく持ち直し始めた経済力を総動員しても雇えた傭兵はわずかに二千。コンスタンティノポリスに集結させた騎士団と従兵を合わせて総数七千が帝都防衛の全兵力であった。これとは別にガラタ地区には傭兵隊長ジュスティニアーニを筆頭に二千名のジェノバ兵が立てこもっている。かつて繁栄を極めた帝国の総力が一万の兵にも満たないのが悲しくも厳しい現実なのだった。対するオスマン軍は第一波としてスルタン直卒のトラキア方面軍六万がコンスタンティノポリスを包囲していた。その後アナトリアから第二波、第三派が送られる手はずになっており最終的には軍属を含めて二十万の大兵になることが予想されていた。ウルバンの巨砲こそないものの、確実に増した大砲の数と、オスマンが世界に誇る坑道戦術の進歩はコンスタンティノポリスにとってあまりに大きな重圧となってのしかかっていたのである。今にワラキア公国軍が援軍に来てくれる!コンスタンティノポリスの貴族も市民もそれだけを支えに徹底抗戦の構えを崩していない。だがそれはワラキア軍が援軍を遣さなかったりワラキア軍がオスマン軍に敗れるようなことがあればたちまち壊乱する危険と隣り合わせのものであったのだった。「………ワラキア公が駆けつけるまで我らは耐え抜かねばなりません」宰相ノタラスは防衛会議の冒頭でそう告げた。帝都防衛の根幹をどう捉えているか、その最大公約数的なものをよく表現していると言えよう。さすがに二十万に達しようとするオスマン軍を相手に単独で撃退が可能であるなどという夢想を共有しているものはいなかったのである。「問題はそのワラキア軍がいつごろ到着するかということですな………」続いて発言したのは傭兵隊長ヴァニエールであった。いまだ三十代後半の精力的な若さを保ったこのフィレンツェ出身の傭兵はちょうど一段落した百年戦争からの流れ者であり、豊富な実戦経験を持っていたのである。「オスマンがトラキアにどれほど兵を残しているかによるだろう…………」難しげな顔で思案に首をかしげたのは騎士団を取りまとめるサーマルド伯爵である。おそるべきはオスマン朝の底力であった。二十万(五万は軍属であるにせよ)の大兵を催したからといって首都アドリアノーポリやその周辺が無防備になったとは考えられない。おそらくは数万の守備兵とさらに数万の遊撃兵が残されているはずだった。これらの軍を南下するワラキア軍の拘置に当てたならワラキア軍の到着は相当遅れることになるだろう。だが、オスマンの予備兵力を正確に知るものが会議の席上にいない以上明確な答えが出るはずもない。「………一ヶ月は私も責任を持ちますがね、二ヶ月となると責任は持てませんよ………」篭城戦とは消耗戦であることをヴァニエールはよく承知していた。生命だけではなく、体力的にも精神力的にも、寡兵での篭城は加速度的な消耗を強いるものなのである。それでなくともコンスタンティノポリスの城壁は長大にすぎるのだ。ある程度の兵員が損耗した時点でどこかが破綻をきたすのは目に見えていた。「ワラキア公には一月を超えぬよう余が改めて書状を認めるとしよう………」コンスタンティノス11世は己の無力さをかみしめていた。全ては自分の政治的な識見の甘さが引き起こしたというのに誰も責めようとはしないことが逆に皇帝の肺腑を痛めつけている。そして後継に指名したデメトリオスには背かれ、体よく利用しようとしたワラキアの援軍が唯一の頼みの綱とはなんとも皮肉なことであった。デメトリオスに足止めされたソマスもオスマンの包囲網が完成した今となってはたとえ脱出したとしても間に合わない。…………自分は皇帝の座には相応しくないのかもしれない…………よくよく考えれば即位以降コンスタンティノスが挙げた明確な成果といえば、ワラキア公を皇族に取り込んだことぐらいである。兄から引き継いだ東西教会の合同は破綻し、十字軍を呼び込むことも出来ず奪われた国土も一寸たりと奪回してはいない。帝都の復興もワラキア公の力添えがあったればこそのものであった。しかし、そのコンスタンティノスの懊悩こそ彼の誠実さの証であり、政教が一致したコンスタンティノポリスにおいて誠実と公正において比類ない皇帝が忠誠に値する人物であることも間違いのない事実であったのである。そのころワラキア軍はオスマン朝に対して正式に宣戦を布告し、ブカレストに集結させた国軍二万八千を一気に南下させていた。その後たちまちのうちにラズグラドやシュメンの北部都市を制圧したワラキア軍だが、ここで一旦南下を停止し軍を東に向けてブルガリア最大の港湾都市ヴァルナを占拠するにいたっている。このワラキア軍の侵攻は多くのブルガリア国民にとって福音として受け入れられていた。もちろん正教徒の多い国柄もあるだろうが、シエナが手配したワラキア公の宣伝工作やジプシーの民が奏でる音曲で表されたワラキア公の英雄譚の影響も無視できるものではない。戦に起てば必ず勝ち、政ではワラキアを未曾有の繁栄に導いた生ける伝説を繰り返し聞かされれば、オスマンに搾取されるよりワラキア公に国を治めてもらいたいと願うのは民にとって本能のようなものであるのであった。アドリアノ-ポリの北部に位置するスリプエンとスタラザゴラでも旧ブルガリア王国貴族が反乱の狼煙をあげており、半世紀に及ぶ支配に自信を抱いていたオスマンにとっては全く予想外の抵抗が広がっている。緩やかに搾取され続けてきた東欧の正教徒国家、ブルガリア・セルビア・トラキア・ボスニアなどの諸国でも武装した市民による抵抗が明確な形をとり始めていた。首都近郊まで迫りつつある抵抗運動の広がりに流石のスルタン、メフメト二世も動揺を隠せなかった。「…………ありもせぬ救済に目が眩みおって………ただではおかぬ」己の権威を絶対視するメフメト二世にとって、東欧の民衆がヴラドに将来を託して反抗することは、すなわちヴラドが自分に勝利すると民衆が信じているということであり、それは自らのプライドをズタズタに引き裂くものであった。メムノンがいなければ実際に兵を率いて虐殺にむかっていたかもしれない。「一万だけでもまわすわけにはいかぬのか?先生(ラーラ)よ」「元を断たねば同じことが繰り返されるだけ、兵を無駄にするのみにございます」「しかしあの男はいつになったらやってくるのだ?」そう、問題はいつヴラドが訪れるのかということにあったのだった。ヴァルナを占領して以来、小規模な派兵はあったが本隊が南下したという知らせもない。中部都市の懐柔に当たっているとも言われヴラドの狙いはコンスタンティノポリスではなくアドリアノ-ポリの占領にあるという風聞も囁かれていた。しかしメムノンは絶対の自信をもって言い放った。「ワラキア公が救援にこの地を訪れること、大地を打つ槌がはずれぬのと同様決してはずれることはありませぬ。コンスタンティノポリスが落ちればワラキア公の命運も尽き、ワラキア公の命運尽きればコンスタンティノポリスの命運も尽きる。このふたつは離れられぬ運命上の双子のようなもの。それに気づかぬあの男ではありますまい」アドリアノーポリの危機を囁く風聞はおそらくワラキアの手になるものであろうとメムノンは見当をつけている。それにしても全く予想外に背筋の凍るチキンレースになったものだった。実のところここまでの危機的状況をメムノンは最初から想定していたわけではない。偶発的に始まってしまったとはいえ、ワラキア以外の援軍はことごとく政治的に封殺したつもりであったしコンスタンティノポリスのように敵中深い場所ではたびたびワラキア軍の勝利に貢献してきた工兵が運用できないはずである。そうした戦場ではやはり数がものをいう。いかに精鋭の評判高いワラキア常備軍とはいえ、こちらの常備軍も練度では決してひけをとるものではない。兵力差を考えれば負けるはずがなかった。もちろんコンスタンティノポリスを見捨てればワラキア公の政治的威信は根底から失われる。アルバニアやジェノバといった同盟国もワラキアを見放すのは疑うべくもない。そうである以上ワラキア公としては出戦せざるをえないのだが、その困難さは尋常なものではなかった。まずワラキアはブルガリア・トラキアという敵国の間を突破しなくてはならないのだ。戦力の大半をコンスタンティノポリスに集中したとはいえ、首都アドリアノ-ポリ周辺に展開する兵力は数万を超える。仮に交戦しなくともこれらの軍は放っておけばワラキア軍の退路を遮断し、あるいはワラキア本土を伺うことのできる戦力だ。それが与える重圧はワラキア公が戦略家であればこそ余計に大きいものだった。おそらく時間の猶予のないワラキア公はアドリアノーポリを素通りしてくるであろうが、そのときは挟撃することも可能だ。退くも地獄、進むも地獄とはこのことか。メムノンは己の構築した戦略的環境の優位に疑いを抱いてはいなかった。誤算は予想以上にワラキア公の声望が東欧の諸国に浸透していたことである。度重なる正教徒の反乱は戦後の統治に打撃を与えることは必定だ。一国の宰相として忸怩たるものがあるが、それも全てはワラキア公を討ち取れば解決する話でもあった。しかしもうひとつの誤算はさらに切実なものであった。ワラキア流の火力戦を指向した火縄銃と大砲の大量供給は国家財政にあまりに大きな負担をかけすぎていた。マムルーク朝に供給した大砲と焔硝の量も莫大なものであり、兵員数に見合った銃砲を揃えていては国家財政が破綻することは明らかであったのである。ワラキアが国家規模の割には兵員数が少ないのも道理と言えよう。これではもし万が一長期戦になれば補給は国庫が耐えられない。また同じような大動員を行うには今後数年以上にわたって経費を節減して蓄財に励む必要がありそうであった。つまりたとえ引き分けであってもオスマン朝は致命的な打撃を受ける可能性があるのだ。なればこそ、ワラキア公を生かしては返さん!大砲の大量配備にワラキアの戦訓を取り入れた野戦築城まで加えた迎撃の準備は万全である。遠征の疲労と消耗を拭えないワラキア軍がどうあがこうがオスマンの勝ちは揺るがない。このままコンスタンティノポリスを落としてもヴラドの破滅は確実だが、やはりこの手でヴラドを叩きのめし、コンスタンティノポリスに篭城する東ローマ帝国の末裔たちに凱歌を叫びたかった。早く姿を現せヴラド公子よ。そして兄弟もろとも煉獄に焼かれて我がイスラムの歴史の一部となれ!メムノンの心象風景はいつしか過去のヴラドがいまだ公子であった時代に戻っていた。あの時に感じた嫉妬と羨望と憎悪をどうやってヴラドへ伝えればよいものか………。その答えをメムノンは知っている。今や守るべき数多くのものを背負ったヴラドの前で、彼の後生大事にしてきたものすべてを奪いつくして見せることこそが、心の飢えを満たす術なのだということを。