攻囲戦から十日が経過しようとしている。さすがにテオドシウス城壁の壁は厚く、空前の大軍を前にも小揺るぎもしないかに見える。どうもメムノンの見るところ、将軍たちの戦ぶりは城壁の突破にこだわりすぎているように思われた。確かに城塞都市の攻防は、市内へと乱入してしまえば勝敗は決するのが常であり、突破口を開こうとすることは戦理上間違ってはいない。しかし歴史上最も堅固な城壁と言われるテオドシウスの城壁を超えるためには通常とはまた違ったアプローチが必要であるはずだった。「畜生!まったく勤勉な奴らだぜ!」ヴァニエールは予想以上の消耗の激しさに舌打ちを禁じえない。オスマン軍はその大量の兵数をいかして軍団を四つに分け、半日ごとに交代することでほとんど二十四時間連続の戦闘行動を継続させていた。これには歴戦の傭兵指揮官であるヴァニエールが悲鳴をあげるのも無理からぬことであった。この時代夜戦による攻城は例外的な奇襲を除けばほとんど行われていない。それは夜戦という戦闘行動が、この時代の兵が許容する戦術行動能力の限界を超えてしまうからだ。損害のわりには得られる成果が薄すぎる。夜戦が戦術行動の重要な一部を占めるのは分隊以下のレベルまで指揮統制が行き届いた二十世紀の国家軍隊の出現を待たなければならなかったのである。しかしここまで兵数差が隔絶した場合、そうした戦術的な不利は黙認されてしかるべきでもあった。安全な後方を確保して交替による休養をとらせることが可能であれば、損害比にかかわらず敵に与える消耗は加速度的に大きくなっていくであろう事実帝国の守備兵はわずかな休憩をとる以外仮眠すらもままならなくなりつつある。現状のままで損耗が推移すれば、休憩すら危うくなるのはもうじきだ。もちろんそれをただ待っているほどメムノンはおひとよしではない。「ちっ!伏せろ!狙われてるぞ!」弩の練達を集めた狙撃兵部隊が属国からかき集められた雑兵に紛れて守備兵の漸減にあたっていた。雑兵を盾にしたこの攻撃は、立て篭もる傭兵部隊の士気に深刻な打撃を与えつつある。目に見えぬ場所から狙われていると知って旺盛な士気を維持できるほどの忠義が傭兵にあるはずもないからだ。雑兵がいくら倒れたところでオスマン軍は痛くもかゆくもないということがそれに拍車をかけていた。ヴァニエールは英仏間で争われたあの戦争こそ戦術の精髄であり、戦の進化した形態であると信じていた。リッシュモン元帥の統率を目の当たりにしたこともある自分がオスマンごときに遅れをとるはずなどあるまいと。しかしここは自分の知るいかなる戦場とも違う………。 「一ヶ月は責任を持つって言っちまったからな…………」それでも一流の傭兵には一流なりの矜持がある。不利だからといって絶望する気も自棄になる気もない。やりとげるべきことはわかっていた。あとはそれに環境を合わせてやるだけだ。「ギリシャの火をくれてやれ!燃え尽きないように回数を分けて兵どもに休息をとらせろ!」ヴァニエールは戦線を縮小し、兵にローテンションをとらせることでなんとかオスマンに対抗しようとしていた。攻囲戦は順調だ。しかし順調でないものがある。肝心なワラキア公の消息が不明であることがそれだった。可能なかぎり斥候を飛ばし情報を集めてはいるが、ヴァルナに入ってからのワラキア公国軍の動きが不明瞭であった。最後の使者の報告は再びブルガリアを南下し始めたらしいという未確定のものであったが、それにしてもその歩みは遅すぎる。最低でもそろそろトラキアを臨む地に達していなければコンスタンティノポリス陥落に間に合わないのではないか?もしやヴラドは帝国を見捨てる気なのだろうか?…………それはない、ないはずだ。メムノンは疑念を振り切るように頭を振った。コンスタンティノポリスをヴラドが見捨てるはずはない。それがどれほど勝算の立たぬものだとしても。まさか救援のふりだけをして間に合わなかったことを演出するつもりなのだろうか?いや、確かにヴラドは一代の英雄だとはいえ帝国の後ろ盾なしにオスマンと正面から争えるほどの力はないのが現実だ。そんなその場しのぎで今後を乗り切れるわけがない。座して死を待つつもりなのか?ヴラドよ…………!いささか利己的な恨みをヴラドに対して抱くメムノンの前に慌しく急使が駆け込んできた。「宰相閣下!一大事でございます!帝都アドリアノーポリの北西にワラキア公国軍およそ二万五千が集結しております!」「………ワラキアの動きはどうだ?」「今のところ模様見の段階かと」使者の言葉にメムノンは失意とともに怒りを覚えずにはいられなかった。それはつまりヴラドにとって自分は首都に敵が迫ってきたからといって二十万攻囲軍を撤収させる愚か者と認識されているといわれているに等しい。信じがたい侮辱であった。アドリアノーポリの首都としての歴史などコンスタンティノポリスが陥落した瞬間に終わるということがわからんのか!?ワラキアの動員兵力からいって国内の維持に残す戦力を考えれば二万五千という数字は妥当なものだ。アドリアノーポリを伺うワラキア軍が派兵戦力の全てと思って間違いあるまい。……………ヴラドよ、貴様には失望した。「帝都の守備隊には手はずどおり守備に専念して迂闊な手出しは控えるよう伝えろ。もしワラキア軍が南下した後には速やかにその退路を断て、とな」「はっ!」興が削がれたがやむを得まい。ヴラドの破滅を見るのは後回しにまずは地中海の宝石をこの手にいただくとしようか。再びメムノンはいまだ激戦の続くテオドシウス城壁の戦いに目を見やった。戦意の低いトラキアやセルビアのキリスト教徒からかき集められた雑兵がふりそそぐギリシャの火にどっと逃げ崩れる様子が見て取れる。「退くな!退くものは斬る!退くことを見逃すものも斬る!退くものと同郷のものも斬る!死にたくなくば敵を倒せ!」ラドゥの督戦隊が見せしめに何人かを切り殺し戦線と立て直すのを見てメムノンはニヤリと嗤った。今はラドゥの決して報われることのない奮戦ぶりを見て溜飲を下げておくべきであった。「全くヒヤヒヤもんだぜ…………」斥候がもたらした情報はアドリアノープルのオスマン兵は固守するにとどまるというものであった。それでも威力偵察がないとも限らないので迎撃の準備を怠るわけにはいかない。それにしてもワラキア公の読みは大正解だった。…………アドリアノープルの部隊は出戦してこない。さすがに帝都を陥落されては兵はともかく行政を司る役人と組織に致命的なダメージを負う可能性がある以上野戦で守備兵力を失う冒険は犯せないのだ。攻撃側と同等以上の戦力に立て篭もらせれば、まず短期に帝都を抜かれることはないはずであった。…………まあ、落とす気もないがね。落とすどころの話ではない。二万五千のワラキア公国軍の実情はその大半がブルガリア内の旧貴族や不平市民、正教徒といったおよそ軍事教練とは縁のない烏合の衆で構成されていた。攻勢に転じるどころか攻めかかられたら応戦することすら怪しいものである。ワラキア公国軍別働隊指揮官ミルチャコフ・ツポレフ子爵は鼻を鳴らして薄く笑った。よくもまあ、こんな策を思いつくものだ。まったくあの人を敵に回さずに済んだのは僥倖だな。ミルチャコフはワラキア南部のブルガリア国境付近に領地を持った弱小貴族の一人に過ぎなかったが、ヴラドの帰還以来ベルドの父と旧知であったこともあって、当初からヴラドに仕えている数少ない貴族のうちの一人だった。その後のワラキアでは貴族の地位と権力は見るも無残に衰退していったが、こうして軍で重きをなす現在の自分もそう捨てたものではない。今後は貴族も何らかの官僚として政府に取り込まれたものになっていくのだろうが、才と努力次第で己の手腕を振るわせてもらえるのならミルチャコフにはなんの異存もなかった。「隊を乱すなよ。ブルガリアの騎士連中にもそれだけは徹底させろ!とりあえず見栄えだけがオレたちの生命線なんだからな!」ワラキア公から分派されたミルチャコフの配下は実際のところわずかに四千にすぎない。ヴァルナからシュメン・ドブリチ・スタラザゴラ・プレペン・スリプエンといった北部諸市の警備兵力を一掃し住民を煽動して一軍を形成後アドリアノーポリの残存兵力に圧力をかけること。それがミルチャコフの任務の全てだった。オスマンに恨みをもつ者や、出世の機会と見る者にはこと欠かないため兵を揃えるのはさほどの難事ではなかったが、なんといっても実戦能力ときたら皆無に等しいのだ。没落貴族の騎士たちを中心に、なんとか戦闘行動がとれそうなもの三千人とワラキア公国軍四千で前面集団を形成し、堅固な方陣を敷いているかに見せかけるのがミルチャコフの腕の見せ所であった。さらにシエナ配下の間諜たちによりワラキア公国軍がアドリアノーポリに手をかけたことはブルガリア全土に知らしめられている。今後はさらなる兵の増大や物資の支援が期待することも可能だ。…………さらにトラキアからも叛旗があがるようなら雑兵ばかりのオレたちにもャンスがないわけじゃない。もっともここでアドリアノーポリ軍を牽制しているだけでも、ミルチャコフの軍功が絶大なものになることは確かであったのだが。「まったく………結局ここまでついて来ちまって………」オレは胸を押し付けるように腕の中で丸くなっている伴侶に深々とため息をつくほかなかった。「妾はたとえどこなりと我が君の傍にいると言ったぞ」それがヴラドにとって迷惑であろうとも変えるつもりはない。それはヘレナにとって絶対の誓いなのであった。「…………今回ばかりは危ないんだがなあ………」目を転じれば狭いボスフォラス海峡を埋め尽くさんばかりの大艦隊が粛々と南下を続けていた。ワラキア公国軍二万四千名にジェノバ軍傭兵二千はヴァルナ港から夜陰にまぎれて人知れず海路コンスタンティノポリスを目指していたのである。ジェノバの誇る黒海艦隊の約七割と商船ガレーが多数・そして外洋に於ける艦隊戦にはまだ難があるものの、沿岸を兵員輸送する程度ならなんの問題もないワラキア河川海軍が総力をあげてこの輸送作戦に従事していた。史実においてルメリ・ヒサルが建造された場所から十数キロ北部にカイルバシーと呼ばれる小さな入り江がある。当面の目的地はそこだった。ミルチャコフがオスマンの目をアドリアノーポリにひきつけている間に揚陸を済ませ、どれだけ速く内陸へ進軍に出来るかに作戦の成否はかかっている。しかしそれが最速も極めた場合でも勝率は五割には届かないかもしれない、というのがオレの正直な分析であった。出来うることならヘレナを連れて来たくはなかったのだが…………。「妾が我が君の傍にいずしてどこにいるというのだ?」そうして莞爾と笑うヘレナをオレはどうしても突き放せずにいた。おそらく後世には戦場に幼女嫁を連れて行った軟弱者として書かれるんだろうな…………。さすがにヘレナを連れるのは人目を憚る。しかしそれも仕方のないことだろう。古来から恋愛は多く惚れたほうが負けなのだ。つまりそれはオレがヘレナに心の底からいかれているということなのであった。ならば男としてするべきことは決まっている。「我らの将来に仇なすものたちに等しく死を与えよう。奴らの屍の山がオレがヘレナに与える愛の証だ」抱き寄せ、貪るように口づけたヘレナの唇からは、生得の甘い花の香りとともに、わずかに鉄さびた血の味がした。