カイルバシーに上陸したワラキア公国軍は一斉に南下して史実ならばルメリ・ヒサルのあった砲台群に背後から襲い掛かった。「装填!速射!二連!撃て!」極限まで省かれた単語の羅列によってワラキアの歩兵たちは腰に巻きつけられた早合の紙を歯で噛み切りすばやく火薬を流し込むと手早く杖で突き固める。その所作は流れるように流麗で澱みない。訓練のほとんどを射撃に費やしてきた練度の高さが如実に表れた瞬間だった。十数秒という短い時間で装填を完了した数千に及ぶ銃口がその凶悪な顎をオスマン砲兵へと向けられた。轟音密度によって命中率の低さをカバーした銃兵の射撃音が響くと同時にオスマン兵がばたばたと倒れ、あるいは隣で倒れた戦友を見て恐怖に心を捕らわれたオスマン兵が算を乱したように逃げ惑うのが見て取れる。再びの轟音が響くと、もはやオスマン兵の動揺は決定的なものとなった。「突撃!」銃兵たちが一個の槍兵に姿を変じて雄たけびとともに吶喊していく。槍先を揃え統制された歩兵の突撃を阻止できるものは、同じく統制された歩兵か圧倒的な火力のみだが、そのどちらも不幸にしてオスマン兵に残されてはいない。海岸線の防御陣地はワラキア歩兵によってなすすべなく蹂躙される運命にあった。本来、海上を侵攻するワラキア・ジェノバ両艦隊を撃滅するために整備された多数の砲列はその威力を発揮することなく破壊され、あるいはワラキア軍に鹵獲されていったのである。 コンスタンティノポリス攻城が本格化したことで海峡側の防備が大陸側に対して薄かったことが災いした。「なんで後ろからワラキア兵が来るんだよ? 」オスマン兵の当惑は正当なものであろう。遠くブルガリアの北辺に至るまで全てはオスマンの大地である。その中央部にあたるこの場所にいったいどこからワラキア兵がやってきたものか彼らには想像もできない。これほど大規模な海上揚陸機動など英仏独の三王が揃った第三回十字軍ですら行っていないのだ。大陸側から海岸線に向けられた攻撃に退路はない。膝をつき、許しを乞うオスマン兵たちの上にも無慈悲な槍の一撃が突きたてられていった。「悪いが捕虜をとる余裕はない」これからオスマン本隊との戦闘を控えている以上捕虜を連れ歩く余裕などあるはずもなかった。逃げるに任せる余裕もない。それでなくとも戦力は遙かに劣勢なのである。悲鳴と怒号が飛び交うなか、オスマン兵の屍だけが積み重ねられていく。もちろん捕虜をとらぬ以上は自らも捕虜になる選択肢がないということを、その場の誰もが承知していた。「今だ!アナドル・ヒサルに全砲門を向けろ!」キャラベル船を主軸としたジェノバ艦隊が機敏な機動で小アジア側の砲台群に砲列を向ける。もともと陸上砲台と艦砲では陸上砲台が有利という原則があり、それが変わるのには二十世紀の超弩級戦艦の登場を待たなければならない。しかし数と腕で海上戦力側が大きく上回っている場合はその限りではないはずだった。黒海の覇者ジェノバの名が伊達でないことを、黒海艦隊司令官ボロディーノは実力をもって証明した。「撃て!」一斉に放たれた砲弾がアナドル・ヒサルの各所に着弾すると盛大に爆発が発生する。榴弾の爆発が起きたのであった。残念ながら精度の高い着発信管が実用化できない以上、昔ながらの導火線式を使うほかはないがその調整さえうまくいけば効果のほどは計り知れない。機敏なジェノバ艦に追随するようにワラキアの各艦もまた砲撃の火ぶたを切った。先頭を行くジェノバ船より一回り大きなキャラベル型の大型艦は、ワラキアが艦隊旗艦用に建造したルーマニア級であり片舷に積載した十門の砲門を開いてひときわ激しい弾幕を見せつけていた。対するアナドル・ヒサルからの反撃は散発的なものとなった。電撃的に対岸の砲陣地が無力化されたことにより、もしかすると小アジア側からも奇襲攻撃があるのではないか?という疑心を晴らすことができなかったためである。指揮統制を回復しようにも手数も威力も艦隊側が有利で、城塞の各所に雨あられと砲弾が降り注ぐ現状では不可能に等しかった。「うろたえるな!アナドル・ヒサルは落ちはせぬ!」守将ケマルは声のかぎりに叫んだが、その効果は付近の手勢を激励するにとどまっていた。もとより要塞としてのアナドル・ヒサルの防御力は本格的な西洋城塞に比べて著しく劣るのである。それは兵力において圧倒するオスマン領内に大軍勢による侵攻が不可能であると考えられていたことが大きかった。アナドル・ヒサルはただボスフォラス海峡に睨みを利かせているだけで良い存在だったのだ。もしもケマルにいつもの冷静さがあれば、艦隊の攻撃が砲台に集中していることに気付いただろう。敵の目的が占領ではなく、アナドル・ヒサルの一時的な無力化にあることがわかれば戦力温存の手段はあったのだが。だが、対岸の占領で危機感を煽られたケマルにその状況を見抜く余裕はない。なんとなれば、ほとんどの戦力をコンスタンティノポリスに集中したオスマンにとって小アジアに残された戦力は頭数にしかならない輜重部隊ばかりなのである。一部将にすぎぬケマルがアナドル・ヒサルの死守に思考のすべてを傾注させたとしても無理からぬことというほかはないのだった。「撃ち返せ!相手は一発当たれば沈むほかない船なのだぞ!」これまで軽快に航行してきたジェノバの戦艦が直撃を受け、頭から波間に突っ込むようにして急速に沈んでいくのを見てケマルと幕僚たちは思わず歓声をあげた。しかし全体として火力の差は覆しがたく次々と味方の砲声が沈黙していくのをケマルは暗澹とした思いで認めるほかはなかった。「……………スルタンからの援軍はまだか………?」反撃の力が失われた今、救いはほんの五・六キロ先にいるはずのコンスタンティノポリス包囲軍を頼る以外に道はない。それまでたとえ身体は死してもアナドル・ヒサルを守り抜く悲愴な覚悟をケマルは心に固めていたそのころコンスタンティノポリスの攻防はひとつの頂点を迎えてようとしていた。間断のない射撃、後から後から湧いて出るがごとき歩兵の波状攻撃の前にさすがのヴァニエールも集中力を欠き始めていたのである。弩兵の位置を割りだし砲撃によってそれをまとめて粉砕しようとヴァニエールが指揮棒を振り上げたそのとき事件は起きた。的確で隙のない指揮を執るヴァニエールはここ数日にわたってオスマン狙撃兵部隊の最重点目標であった。移動を繰り返し、遮蔽物をうまく利用することによって難を逃れてきたヴァニエールに、とうとう凶刃の矢が突き立ったのである。「……………オレとしたことが」ヴァニエールは嗤った。狙撃兵がいる場所は掴んでいた。戦場を見渡すヴァニエールの眼力はまだいささかも衰えてはいない。しかし注意を払うのを忘れ結果的に狙撃を受けてしまっては何の意味もないではないか。矢の一本はヴァニエールの左足の膝下からふくらはぎを貫いている。もう一本は脇腹に深々と突き立っていた。鮮血が噴き出る様子から見るに足のほうはどうやら動脈を傷つけているらしい。どちらも早急な手当を必要としていることは明白であった。「シェフ殿、ここは任せて下がってください」「一時やそこらオレらがもたして見せまさあ!」「あっしらはあの黒太子とやりあった 黒珊瑚団 ですぜ!」歴戦の傭兵仲間が口々にヴァニエールの戦線離脱を促していた。それほどにヴァニエールの傷は深いのだ。そんなことはヴァニエール自身が一番よくわかっていた。そして、指揮官の負傷を知ったオスマン軍がより一層の苛烈な攻撃を仕掛けてくるであろうことも。仲間のことは信頼しているが、ヴァニエールに任せられた戦力が傭兵仲間のみでないことを考えれば今戦線離脱などするわけにはいかなかった。「この程度の傷が怖くて漢が張れるかよっ!」手早く止血を済ませつつヴァニエールは砲撃の指示を下した。そして一斉に放たれた複数の砲弾はこれまで狙撃兵部隊のいた大地に赤黒い染みを吸わせることに成功したのだった。無論死ぬ気など微塵もない。何よりも生き残るために、今はオスマンの攻撃をはねのけねばならないのだ。「…………あまり待たせすぎると客が逃げるぜ、ヴラドさんよお………」自分が指揮を執れるのはこの攻撃をしのぐまでのわずかな間にすぎない。だが代りを探そうにも矢玉に身を晒しながら指揮を執れる人間はごくわずかである。皇帝にしろ宰相にしろ最前線にはとてもつけられないからだ。現実主義的なヴァニエールの観測からしてあと一日が、このコンスタンティノポリスを巡る攻防の山場になりそうであった。存外に頑強な抵抗にメフメト二世は苛立ちを隠せない。ワラキアの援軍が望めそうにないことを繰り返し喧伝しているが、コンスタンティノポリスの士気はいまだ軒昂を保っていた。なかでも傭兵あがりの指揮官が目に見えて手ごわい。彼の統率する兵の粘り強さはその他の守備兵とは明らかに違う異彩を放っている。このまま戦いが推移すればあの指揮官は後世にその功名を残すだろう。それがメフメト二世には許せなかったのだ。「弩の射手が討ち取ることでしょう。永遠に集中できるものなどいません。いずれにせよ時間の問題かと」落ちついた声で諌めたメムノンも声ほどに落ち着いていたわけではない。もし万が一コンスタンティノポリスが陥落しないようなことがあれば自分の政治的立場の失墜は確実だからである。ヴラドの来寇を予想しながらそれをはずしたことですでにメフメト二世には少なからず不興を買ってしまっていた。このうえ二十万の大軍で帝都が落とせないとなればオスマンは全世界に恥をさらすようなものだ。誇り高いメフメト二世が作戦の主立案者である自分を放っておくはずがなかった。とはいえ理性の部分はコンスタンティノポリスの陥落は間近であると告げている。すでに敵の消耗は限界に近づきつつあることは反撃の砲声がまばらになっていることからも伺えた。あと少し、あと少しなのだ。これで上級指揮官が戦死するようなことがあれば表面張力で保っていた水がコップからこぼれるように崩壊が始まるであろう。「……弩兵が敵の傭兵指揮官の狙撃に成功しました!」待望の報告にメムノンは戦機が熟したことを悟った。損害を省みず総攻撃をかければ今度こそ勝利は目前であろう。やはり自分の計算に狂いはなかった。損害も許容の範囲内であり、コンスタンティノポリス占領後ヴラドを叩き潰すべき戦力は十分である。全てはただ順番が変わっただけのことに過ぎない。だが報告は吉報ばかりではなかった。「ワラキア公国軍およそ三万が海岸砲陣地を襲撃しています!一刻も早く来援を願います!」「馬鹿な!」メフメト二世とメムノンは期せずしてともに後方の彼方に目を凝らした。………確かに砲煙らしきものが上がっていた。いったいどんな魔術を使ったらブルガリアにいたワラキア軍がコンスタンティノポリスに出現できるのだ?ヴラドよ、お前はいったい何者なのだ?まさか本物の悪魔だとでもいうのか?耳を澄ませば砲声の轟きが微かに聞こえてくる。どうやら味方の砲撃の轟音に今までかき消されていたようだ。まさか戦線の後方から万余の軍が出現するなど誰も考えていない以上発見するのが遅れたのも当然だった。あまりにも想定の範囲外のできごとにしばし呆然とするメムノンとは対照的にメフメト二世が下した判断は明快なものであった。「どうやって来たかはしれぬが余の方針は変わらぬ。ワラキア公を戦場で撃滅する時が来たのだ」もとよりコンスタンティノポリスを餌にワラキア公を討ち取るために練られたのが今回の作戦である。この期に及んで作戦を変更する理由は何もない。メムノンは自分の醜態を深く恥じながら主君の命令を復唱した。「…………全軍をワラキア公国軍へ向けよ。決戦の秋は来た!」