オスマンとしては四つの兵団に攻城の指揮を分けていたことが幸いした。機敏な反撃を取るにはオスマンの兵はあまりに巨大にすぎたが、少なくとも初動において最も東に展開していた兵団を急行させることはかないそうであった。不幸にもワラキア軍に近い位置にいたのはオスマンのガレエル・パシャ率いる兵四万である。もとよりオスマンの実働戦力全てを投入できるほど戦場は広くない。まずはワラキアの鋭鋒を図り、その消耗を引きだすのがガレエルの役目であった。「全くとんだ貧乏くじだぜ………」ガレエルとしては舌打ちを禁じえない事態であった。ようやく攻城から退避して休息をとれるかと思ったら今度は野戦のよりにもよって先鋒である。しかも軍議のなかで先鋒に与えられていた熾烈な任務をガレエルは知っている。すなわちイェニチェリの突撃までにワラキアの火力を消耗させることが求められていたのであった。もちろん火力を失わせるものは兵員と弾薬の損耗であり、ワラキア軍兵の漸減が図れない場合、その命を盾に弾薬を消耗させなければならない、いわば人身御供のお鉢が回ってきたとあればガレエルでなくとも愚痴のひとつも零れるものであろう。だが、万難を排して軍を動かさなくてはならない、それも出来るかぎり速く。ガレエルの瞳にはいち早くコンスタンティノポリスから後陣に展開しつつある督戦隊の黒衣が写っていた。それは敵よりも無慈悲に振り下ろされる死神の刃なのであった。あまりに想定外の出来事に鈍っていたメムノンの頭脳もようやく回復しつつある。どうやらしてやられたようだが、ワラキア軍の総数三万弱という数字は変えられない、それがわかってさえいればいくらでもやりようはあるのだ。信じがたいことだがワラキア軍は海からやってきたに違いないだろう。アドリアノーポリを伺うワラキア軍はおそらく擬兵だ。そうでなければ偽の情報操作であるはずだった。ブラショフ攻略戦においてヴラドは一度この偽報の計を使っている。「待っていたぞ………ヴラド……!」もちろんしてやられた悔しさがないわけではない。しかしメムノンの胸にはただ歓喜があった。あれほど憎悪し、その破滅を願った相手を目の前にして震えがくるほどの歓喜の高ぶりをメムノンは押さえきれずにいた。ヴラドの小賢しい知恵を自らの力で圧倒する瞬間を、まるで恋人の逢瀬であるかのようにメムノンは待ち続けた。オスマン軍の戦術構想は単純なものである。もとより雑兵が大半を占めるオスマン軍に高度な機動性は望むべくもない。ワラキア軍の頼みは火力の高さにあり、火力が失われれば兵数の差は絶対的な意味を持つ。ならばワラキア軍の火力を消耗させることが出来れば問題の解決は容易いのではないか。雑兵を弾除けと割り切って突撃させ、向上したオスマン軍の火力をもってワラキア軍の漸減を図る。その非情な戦術を運用するための切り札が督戦隊の存在であった。ヴラドは弟ラドゥの脅威によって滅びを迎えるべきなのである。ワラキア公国軍は全軍をほぼ四つに分けて編成されていた。本隊としてゲクランの統率する常備軍主力が一万五千、タンブル率いる砲兵部隊が三千、ネイが率いる公国近衛部隊が三千、総予備として五千の兵力をベルドが預かっている。残念なことに騎兵はいない。海上揚陸をするためには馬の輸送は負担があまりに巨大すぎたのだった。ほぼ欠けることなく布陣を終えた二万六千にも及ぶ兵力は掛け値なしワラキア公国軍の全力であった。この戦のためにヴラドは国庫の貯蓄を完全に干上がらせることを決意していた。それほどにワラキア公国軍の火力戦は経費を浪費するものであり、また公国以外の国に対する支援にも手を抜くことは許されなかったのだ。母なるワラキアとハンガリーに残してきた兵力は老兵や若年兵が五千に満たぬものでしかない。「公国の興廃はこの一戦にあり、各員一層奮励努力せよってとこだな」オスマンはともかくワラキアにとって敗北は滅亡と同義に等しい。もちろんオレは自分の愛する者たちのために必ず勝つつもりであったし、戦の敗北が戦争の敗北に繋がらないだけの手配りを整えたつもりでもあった。それでも破滅への危機感はいささかも拭えるものではない。二十万という数の暴力はヴラドをして背筋を震わせるほどに圧倒的なものなのだ。傍らでオレの手を握りしめてくれているヘレナのおかげでかろうじて醜態をさらさずにすんでいる。この暖かな手を守るためにも敗北するわけにはいかないのだった。……………悪いがルールが変わったってことを教えてやるよメムノン、それにメフメト二世よ喉はひりつくように渇き、顔はまるで蝋人形のように血色を失っているのがわかる。まるで高地に登ったような甲高い耳鳴りが脳髄への酸素が足りぬとわめきたてているかのようだった。気がつけば息をするのも忘れていたらしい。そんな極限の緊張のなかでただ口元だけが妙な角度でつりあがっていた。嗤っているのか?オレは?喉の奥でくぐもったような笑い声が断続的に空気を震わせている。おかしい、これほどに怖くて逃げ出したいほど恐ろしいのに何故こんなに楽しくてたまらないのだ?意識の奥底で狂喜に踊る未熟な魂が叫んでいた。復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!復讐!わかっているとも、ヴラド。今こそオレたちが目指した復讐劇の晴れ舞台なのだということは。風雲急を告げていたのは何も陸上ばかりではない。海峡両岸の砲兵戦力を無力化されたためボスフォラスからマルマラ海へジェノバ・ワラキア両艦隊を遮るものはなくなっていた。外洋でジェノバ艦隊を自由を許すことはオスマン艦隊にとってはほとんど悪夢と言える。ひとたび彼らを自由にしてしまえば捕捉することが極めて困難であることを現実主義者の船乗りであるマルケルス提督は熟知していた。そうである以上現状最善の方策は海峡の出口に艦隊を急派し、敵艦隊をボスフォラス内に封じ込めることであるはずだった。「狭い海峡内なら我らの有利だ!急げ!」帆走軍艦ならではの高速機動を行うにはボスフォラス海峡は狭すぎる。いかにジェノバ海軍が歴戦の船乗りといえど沿岸での戦闘はガレー船主体のオスマン海軍が有利に戦いを進められるはずだ。にわか海軍のワラキアごときはとるに足りない。この時代の海軍指揮官としてマルケルス提督の予想は全く正当なものであった。問題は海戦のやり方そのものが根底から塗り替えられる瞬間を、己の目で確認しなくてはならないことにあるのだった。「敵さん、罠にかかったようだな」ジェノバ艦隊の司令ボロディーノ提督は潮に焼かれた赤銅色の頬を緩ませた。海峡を突破するなど思いもよらなかった。何故ならオスマン艦隊を効果的に撃滅するためには狭い海域に密集してくれることが望ましかったからだ。「我に続け!」ボロディーノの旗艦から発せられた旗流信号に全艦隊が呼応した。流れるような動きで単縦陣に艦隊を再編したジェノバ艦隊は悠々と風上に遷移するとオスマン艦隊へ向けて突撃を開始する。まずはキャラベル船で編成されたジェノバ黒海艦隊の第一陣が横帆に受けた風による高速を利して一気にオスマン艦隊への鼻面へと肉薄した。「………全艦切り込みに備えよ!」マルケルス提督はジェノバ艦隊の動き違和感を感じつつも冷静に艦隊に指示を下す。違和感の正体は帆走軍艦であるジェノバ海軍の機動にあった。この時代の海戦はほぼ衝角戦術と接舷戦闘によって行われ、その場合艦隊は風上から単横陣で突撃するのが普通である。これは衝角にしろ接舷にしろ船首を敵艦のどてっぱらに突き立てる必要がある以上当然のことだ。艦隊機動としては見事というほかないが、これではみすみす敵中に包囲されるだけではないのか?マルケルスの疑念はすぐに晴らされることとなった。「取り舵いっぱーい!」ヨーロッパ側の沿岸部を高速で突き進んでいたジェノバ艦隊がオスマン艦隊の鼻面で大きく左に転舵した。思わぬ暴挙にマルケルスは目を剥いた。ほとんど倒してくださいと言わんばかりの無謀な機動だった。敵に腹をさらすということは、戦船にとって最もしてはならない行為のひとつなのである。「突撃せよ!敵は自ら墓穴を掘ったぞ!」マルケルス以外の各艦長も思いは同じであった。せっかくの好餌を逃す手はない。瞬発力に富んだガレー船の突撃が始まろうとしたそのとき、耳をつんざく甲高い轟音が響き渡った。「なんだ?あれは?」長い棒のようなものが後部から火を噴きながら次々とジェノバ船の甲板から吐き出されていた。ジェノバ艦隊が一斉に発射したものはいわゆる原始的な対艦ロケットにあたるものである。安定尾翼をつけ後方から火を撒き散らしながら滝のように大量に落ちかかるそれはオスマン艦隊を一挙にパニックに陥れた。「慌てるな!こけおどしだ!」マルケルスは声の限りに叫ぶと突撃の続行を下令する。小アジアでこそ初見の者が多いだろうが、マルケルスは幸いにしてフランス軍が装備した対地型のロケット兵器を見たことがあった。確かに物珍しいものではあったが、その破壊力は大砲の射撃に遠く及ばない。火災の処置にさえ気を配っていればなんら問題にはならぬはずであった。ところが弾着とともに爆発的に燃え上がった強烈な火勢は、マルケルスの予想を完全に裏切るものだった。「まさか………ギリシャの火か!!」それはまずい。その事実がもたらす事態の深刻さにマルケルスは息を呑むほかなかった。東ローマ帝国の秘匿兵器といわれるギリシャの火はその性質をよく世界に知られていた。すなわち水をかけても消えない火であり、恐ろしいほどの高温で燃焼する火なのである。ただの火矢ならば海水で消すことは容易いがギリシャの火は事実上消火することは不可能なのであった。そもそも火勢があまりに高温すぎるので近づくことすらままならない。「た、退避しろ!」惜しくもオスマン船をはずしたロケットはそのまま海上で燃え続けており、さらなる被害を避けるためオスマンの軍船はさらに陣形を乱した。もはや突撃を続行するどころではないのは明らかだった。続いてワラキアのキャラベル船隊が対艦ロケットの第二射を発射する。甲板狭しと並べられたロケットは瞬間的な火力において比類ないものであった。オスマンの前衛艦隊は完全に戦力を喪失しており、後続の無傷の艦隊は前衛艦隊が統制を取り戻すまで戦線に加入することができない。いや、仮に参戦できたとしても後続の艦隊は二の舞を恐れて戦闘を控えるだろう。「………海でジェノバに挑もうなんざ百年早いわ」海峡を西から東へ横断して北上を開始したボロディーノ提督は会心の笑みを浮かべていた。後続のガレー船部隊がありったけのロケットをオスマンの鼻っ面に叩き込んだことにより、ボスフォラス海峡にまるで炎のカーテンが出現したかのようである。敵も味方もこの炎のカーテンを踏み越えていくことは出来ない。しかし、オスマンのガレー船と違いボロディーノの艦隊は炎のカーテンを超えることなく攻撃ができるのだ。「反転!砲撃用意!」遠距離射撃でオスマン艦隊を撃滅できるとは思わないが、一方的に為すすべなく叩かれることほど士気を下げるものはない。オスマンの軍船にも大砲を積んだものはあるが、そのほとんどは艦首に一門か二門装備されているのみで片舷に六門以上を備えたジェノバ・ワラキア艦隊のそれとは比較にならないのであった。…………撃ちまくっているだけで敵は崩れる。ボロディーノの読みは正しかった。わずか一航過の砲撃の後それは明らかになった。結局、ジェノバとワラキア艦隊の砲撃に乱打されたオスマン艦隊は海戦を続行する士気を維持することができなかったのである。もとよりオスマン海軍は士気の高さで知られた軍ではない。むしろ陸軍に比べれば低いものと言わざるを得ない。失った艦の数は二割に満たないとはいえ、砲撃の射程外へと逃走するオスマン艦隊が再びジェノバ・ワラキアの連合艦隊へ突撃することなどとうていできないことは艦隊司令のマルケルスが一番よく知っていた。「…………もはやわしのような老兵の出る幕ではなかったか…………」 オスマン海軍に奉職して以来積み上げてきた経験が全く通用しなかったことをマルケルスは諦念とともに受け入れた。 ルールが変わったのだ。いや、ワラキア公によって変えられたというべきか。 もはや自分が死を賜ることは避けられないだろうが、今は次代にこの海戦の経験をつなぐことが自分に課せられた使命なのだとマルケルスは確信していた。