たちの悪い詐欺にひっかかったような気分であった。否、これほどたちの悪い詐術にひっかかったことはない。当代を代表する君主と君主がその総力をあげて戦ったあげく、それが詐術の手妻であったなどということがあってよいものか。メフメト二世は怒りに震えていた。あの小人には英雄たるの資格がない。余の好敵手たる資格すら認められない。そうである以上、こうしてしてやられたままの自分を許容することはできなかった。…………この報い……必ずやその身で購わせてくれる!メムノンの受けた衝撃は、ある意味でメフメト二世を遥かに上回るものであった。…………全てにおいて上をいかれた………メムノンにとってヴラドとの戦いは己の人生を賭けた智が、決してヴラドに劣るものではないということを証明するためのものだ。ヴラドの小細工を粉砕し、勝利したと信じた瞬間には歓喜すら覚えた。それが全てはヴラドの手のひらの上であったと知ったときの絶望はおそらくメムノン以外には理解できぬほどに深く険しいものだった。だが、メムノンもまた期せずしてメフメト二世と同じことを誓っていた。それはヴラドに対する報復を達成するまで、敗北を認めるつもりはないということだった。オスマン軍の選択肢はおおまかにいって三つある。ひとつはこのままコンスタンティノポリスの攻城を続けることだ。しかしヤン・イスクラ率いる傭兵部隊の戦闘力を勘案した場合早急な落城が望めないのは明らかだった。先日ワラキア軍が多用していた手榴弾や火炎瓶を大量に装備している以上、疲弊の激しいオスマン軍にはその損害に耐え切れぬ可能性すらある。海峡を封鎖していた砲台群が壊滅して、ボスフォラス海峡の制海権が完全とはいえないのも大きい。オスマン艦隊はいまだ八割以上が健在だが、海峡の封鎖を継続するためにそのほぼ全力が拘束されており、物資輸送に深刻な船舶の不足をもたらしていた。ふたつめはワラキア軍の後をたどり追撃することだ。しかしこれにはいまだワラキア軍がどこへ逃げたか定かでないという致命的な欠点がある。もう少し情報を集めれば判明するのかもしれないが、仮にブカレスト要塞あたりに篭られてしまってはもはや追撃どころではない。現状では実現可能性の低い選択肢であった。みっつめはワラキアと講和を結ぶことである。これは今のところメフメト二世とメムノンが継戦の意志を明らかにしている以上考慮する余地のないものだ。スルタンの直系がメフメト二世以外に存在しないため本国貴族がいきなり離反することはないであろうが、服属させた属国や辺境はオスマンの力が弱体化すればいつ叛旗を翻してもおかしくない。一応ワラキア公を戦場で破ったという名分が立たないではないのだが、このままなんの成果もあげられずに講和するようなことがあればアルバニアやブルガリアの失陥は確実である。というよりワラキア公が支援を受けたアルバニアとブルガリアの解放を条件にしてくるのは間違いないのだ。仮にそうなれば首都であるトラキアのアドリアノーポリが直接危機に晒される。とうてい呑める条件ではなかった。もっとも、オスマン帝国の存続という観点からは、たとえ国土が縮小しようともここで和平するべきなのかもしれなかったが。「息災か、我が義妹よ」「殿下の御情を持ちまして」フリデリカはわずかな近臣とともに母国ポーランドを訪れていた。義兄たる国王カジェミェシュ四世に謁見するためであった。正直なところカジェミェシュ四世は目を疑っていた。最初はワラキア亡国の危機に逃げ帰ってきたのではないかとさえ疑っていたのだ。それほどにこの義妹は気の弱い平凡な娘にすぎなかった。ところがこうして相まみえればその堂々たる威風はまるで一国の王妃であるかのようである。たった二年足らずで何があれば人をここまで変えてしまえるものか、カジェミェシュ四世には想像もつかなかった。「単刀直入に申します、陛下にはワラキアへ早急な援軍をお出し頂きたいのです。それもできるかぎり目に見えるような規模で」意気込みは立派だがそれだけで一国を動かしうるものではない。義妹の成長に嬉しさとわずかばかりの失望も感じつつカジェミェシュ四世は苦笑した。とうにその問題は答えが出たはずのものであったからだ。「フリデリカ、無茶を言うものではない。ワラキア公が祖国を守ろうとしているように、余にもポーランドを守るという責務がある。一国の命運を博打に賭けるような真似はできんのだよ」ましてカジェミェシュ四世にとってワラキアは必ずしも友好国というわけではない。むしろ仮想敵国に位置するといっても過言ではなかった。義妹には決して言えないことだがカジェミェシュ四世はもし戦いがオスマンの圧勝に終わった場合、モルダヴィアを手中にせんと決意していたのだから。「ヴラド殿下は勝ちます。勝ってこの東欧の覇者となるでしょう。そのときポーランド王国が手をつかねて傍観していた場合、それはポーランドにいかなる将来をもたらすでしょうか?」フリデリカの発言は無視できぬ要素を含んでいるようにカジェミェシュ四世には感じられた。その迷いのない確信が惚れた弱みであるものか、もしそうでないとしたら由々しい事態を招きかねない。「…………なぜワラキア公が勝つと言える?戦とはお前が考えるほどに甘いものではないぞ?」「少し言葉に語弊がありましたわ。勝つのではありません。すでに勝ちつつあるのです。カッファの港では今頃はその話題で持ちきりでしょう」カジェミェシュ四世は自らの顔が驚愕に支配されていくのを抑えることができなかった。………カッファに情報が入るということは……ジェノバの艦隊がオスマンの艦隊を打ち破ったということか!その可能性は考慮していた。なんといっても黒海に港を持つポーランドとしてもジェノバ艦隊の精強ぶりは熟知するところであるからだ。ボスフォラス海峡を砲台で封鎖したと聞き及んだときにはジェノバ艦隊もこれまでかと思ったものだが………現実は予想を裏切ったということだろうか。「ジェノバ艦隊が勝利したからといってワラキア公が勝利するとかぎったものではないのだぞ?」この場合、ワラキア公の勝利だけが問題なのだった。ジェノバは結局のところ一枚岩ではないし、オスマンにとって海軍力は戦の最重要要素ではないからだ。いくらジェノバが快哉を叫んでも、ワラキア公が陸戦で敗北し、あるいはコンスタンティノポリスが陥落してしまえば最終的な勝利はオスマンで動かない。「オスマンがまんまと殿下の陽動にかかり、コンスタンティノポリスへヤン・イスクラの入城を許したこと、カッファでは幼子ですら知っておりましょうに………」薄く笑いながらフリデリカのこぼした言葉が与えた影響は甚大だった。上部ハンガリーの雄、ヤン・イスクラの名はカジェミェシュ四世も承知している。もし彼が配下とともにコンスタンティノポリスへ入城したというのなら、もはや生半なことでは落ちまい。だが、いったいどんな魔術を使えば重囲にあるコンスタンティノポリスへ増援を送り込めるものか。「……………その話、確かめさせてもらうがよいか?」「お急ぎなされませ、陛下。ワラキアを支援しようとする国は何もポーランドばかりではありませぬ。遅れをとればポーランドの将来に禍根を残しかねませぬぞ」援軍を乞うていながら、むしろそれがポーランドのためであるがごとき言いようにカジェミェシュ四世は胸騒ぎを覚えずにはいられなかった。さらにフリデリカから語られる恐るべき世界の変転ぶりに、カジェミェシュ四世は完全に絶句した。「アハー!上出来ですよ。姫様!」慣れない演技にぐったりと長いすにもたれかかったフリデリカにまるで向日葵のような爛漫の笑顔を向けているメイドがいた。いや、東欧に向日葵はないのだが。フリデリカが疲労困憊するのも無理はない。カッファがワラキア勝利の報に沸いているなどというのはハッタリもいいところだったからだ。もちろんヴラドの成し遂げた戦略的勝利は確実なものであり、問題はそれがいつカッファにもたらされるかということであった。ジェノバの快速船ならばすでに入港しているであろうという憶測をまるで見てきたかのように語って見せたフリデリカの演技力は見事というほかはない。「私は殿下のお役に立てましたか?アンバー」「たてましたとも!これは殿下がお帰りの暁にはたっぷり閨でご褒美をいただかなくてはいけませんね~」「っっっ!!!」真っ赤になって俯くフリデリカに優しい視線を投げながらフリデリカに長く仕える古参メイドアンバーは 計算どおり! とでも言いた気な会心の笑みを浮かべていた。側妃フリデリカの腹心にして傀儡の魔女と後に呼ばれる彼女だが、フリデリカを見つめるその瞳はどこまでも優しく曇りのないものであった。ミストラスに構えた自身の居城の中でソマスはただ瞑目していた。当初ソマス優位にあった戦況は、数々の小競り合いがソマス側の勝利に終わったにも関わらずデメトリオスが圧倒的に優位なものに変わっていた。デメトリオスが不屈の意志をもってソマスの打倒に邁進したのに対し、ソマスはデメトリオスとの戦いがどうしても無駄な争いに見え戦意を欠いたことが今日の事態を決定づけたのである。しかもソマスはあくまでもコンスタンティノポリスの命運を主眼においていたのに対し、デメトリオスはまがりなりにもモレアス公領の将来についてオスマンの属国ではあるが、皇帝デメトリオスのもとでの平穏という明確な未来図を描いて見せたことが決定打であった。公領の貴族たちは日を追うにつれて続々とデメトリオスの軍門に下っていったのである。ソマスは冷徹な知者ではあったが、軍人には向かない男だった。…………陛下……どうか御武運を………もはや居城の陥落まで間がないことはわかっていた。味方の傭兵たちは逃亡し、主だった家臣郎党が二百ほど残るばかりであるのに対し、デメトリオスの包囲軍は三千以上を数えるのである。これほど無為に死を迎えなければならないことに忸怩たる思いはあるが今となってはそれも詮無いことであった。滅びるおそらくはコンスタンティノポリスもモレアスも全てはオスマンの蛮人たちに蹂躙されローマの栄光は永久に失われてしまうのだろう。ならばこそせめて美しく滅びなくてはならなかった。髪を整え、正装を身にまとい、化粧を施した艶姿のまま、ソマスは来るべき瞬間を待ち続けた。階下の喧噪が聞こえてくる。どうやら城内にデメトリオスの軍勢が侵入したものと思われた。家臣たちには無理せずに降るよう指示を出していた。もっとも容易く降る気がないのは明らかであったのだが。………命を無駄にするなよ、私の最後を伝えられるのはお前たちだけなのだから………ソマスの居室の扉が大きく開かれたのはその時だった。「ソマス公とお見受けするがよろしいか?」ソマスにとって意外なことに現れたのは見目美しい女将であった。肩で切りそろえられた赤毛がなんとも燃えるような光沢を帯び、わずかに釣り上がった切れ長の瞳と相まって人目を惹くことおびただしい。デメトリオス旗下にかように美しい女将がいるなど聞いたこともないが………。「確かにこの身はソマスである。我が首討って末代までの手柄とせよ」女将は闊達な笑い声をあげて首を振った。「何か勘違いをしておられるようだ。我が名はアンジェリーナ。スカンデルベグの娘にしてワラキア公の側妃たるものだ。恋敵の父君を助けるべくまかりこした」「スカンデルベグの娘だと?」ソマスは女将の言葉に耳を疑わずにはいられなかった。スカンデルベグがアルバニア全土を奪回に動いているのは聞き及んでいたが、まさかモレアスに援軍を出せるほどに勝ち進んでいようとは!「………感謝の言葉もない。それで………?父君はいずこにおられるのか………?」「………父上はここにはおらぬ。一足先に我が夫を助けにいってもらったゆえな」そういうアンジェリーナの顔は悔しそうな苦渋に満ちていた。「本当は私が赴きたいところであったのだがいまだ私の腕は父上に遠く及ばぬゆえ仕方あるまい。それよりソマス殿に異存がなければ共にコンスタンティノポリスへご同行願いたいのだが………?」どうやら目の前の少女は夫のもとへ駆けつけたくていてもたってもいられぬらしい。おそらくは自分を助けにくることも、本意ではなかったに違いなかった。そういえば最初にヘレナを恋敵呼ばわりしていたようだがなんともワラキア公は甲斐性もちな御仁であるようだ。ソマスは笑った。先ほどまでの絶望が嘘のようだった。いったい自分は何を一人でローマ千年の歴史を背負ったような気になっていたものか。その歴史を背負うに相応しい人物はほかにいるというのに。「娘の恋敵をその夫に引き合わせるのは親としては気がひけるが命の恩人の頼みとあらば否やはない。それに私も一度息子になる男に会っておきたいでな」