メフメト二世の決断は早かった。即日、ヤン・イスクラの逆撃に備えて一万の兵を陣城に残してコンスタンティノポリスからの転進を下令したのである。西方でアルバニア・フランス連合軍を牽制するためにケルグ・アブドル率いる兵団三万が分派したため、北上する総兵力は八万にも満たぬものであった。半減した兵力をもってワラキア公にあたる将兵の戸惑いは隠せないが、アドリアノーポリに駐留する三万余と合流できることを考えればやはりそれは尋常な兵力ではありえない。オスマンが誇る国力はこの情勢にあってなお巨大なものであったのである。それにしても、とメムノンは思う。ワラキア軍が姿を見せるのが早すぎはしないだろうか?ヤン・イスクラとスカンデルベグたちをアテにしているのならば、今しばらくはオスマンの消耗を待つのが妥当なように思われる。コンスタンティノポリスの守備力に不安があるというのならわからなくはないが、ヤン・イスクラの用兵術は口惜しいが見事の一語に尽きた。時の流れを速められてしまったかのような違和感がメムノンの脳裏に棘のように突き刺さって抜けない。何を急ぐ?それともこれも罠のうちか?ヴラドよ!実のところヴラドの作戦がそれほど完璧に進んでいたわけではない。むしろ錯誤の連続であったと言ってもよいほどだ。その典型がベルドの戦死であり、近衛兵団の壊滅であった。しかし、それ以上に時を追うにしたがって如実に明らかになるものがあった。戦費の際限ない増大である。他国の追随を許さない優秀な補給システムを整備しているワラキアだが、だからこそその維持には莫大な費用を必要とする。火薬や焼夷油脂などの消費量の増大はもはや深刻なレベルに達しようとしていた。いまや東欧随一の経済大国であるワラキアではあったが、その経済の破綻は間近に迫っていたのだ。対オスマン戦を主導する国家として、主に経済面でアルバニアや白羊朝やコンスタンティノポリスという複数の国家を支えてきたことがことのほか大きな負担になろうとしている。ジェノバ海軍とともに実施した海上機動やブルガリア・トラキアなどの旧正教徒国家に対する工作資金も莫大なものにのぼっていた。貯め込んだ国庫を空にし、メヴィチ銀行からの借財に手を付けている今、これ以上の戦争の長期化は絶対に避けなければならなかった。これがオスマン朝であれば、被占領地域から餓死者を出すほどに搾り取るという非常手段が可能であるかもしれない。しかし己の支持基盤を貴族から国民へシフトさせつつあるヴラドにその手段はとれなかった。また、ハンガリーを始めとする被占領地域も統治からの年月が浅く、ちょっとした不満が大きな動乱を呼び込みかねないという不安もある。今は牙を抜かれたかに見える貴族たちも、己の領民の支持すらえられぬということで泣く泣くしたがっているものも多いのだ。仮に自領に閉じこもるとしても、それはスカンデルベグやリッシュモン大元帥を見捨てることにもなりかねない。むしろここで一戦して決着をつけたいのはヴラドのほうであるのかもしれなかった。ブルガリア民衆の歓呼に迎えられるヴラドの表情は冴えない。それはこの歓呼の声が、ヴラドが圧政者としてふるまった瞬間に怨嗟の声に早変わりするのを知っているからでもあるが、ベルドの不在 がいまだ大きな影を落しているのだった。「我が君…………」ここにきてヘレナもヴラドをなぐさめる言葉を見つけられないでいる。ベルドの死を政治的見地からあっさり許容してみせたことへの後ろめたさがそうさせるのだ。あの判断に間違いがあったとは思わない。そもそもヴラド自身も、ベルドを犠牲にすることを選択したことは正しいと思っている。ただ、己の無力さが、己の矮小さがどうしても許容することができないでいるのをヘレナは知っていた。だが、それをなぐさめることができるのは政治で感情を割り切ることができる自分ではない。あるいはフリデリカのような凡庸な女性がただ抱きしめてやることこそ、ヴラドにとっての救いなのかもしれなかった。ヴラドの心を理解することと、救うことは全く別のものなのだ。そんな自分が呪わしい、呪わしくてたまらない。「………そんなつらそうな顔をするな」ヘレナにそんな顔をさせてしまっていることが情けなかった。だが、オレはベルドの死をよしとした己の政治的決断をいまだに感情の面では許すことが出来ないでいた。…………これでは君主失格だな。ラドゥが督戦隊を率いて攻めてきたときもそうだった。君主として、指揮官としてやるべきこととは別にそれを認めようとはしない自分がいた。他人であればこうはならない。どうやら己にとって近しい者、それもごく限られた者は自分が考えている以上に特別な何かであるらしい。そんな弱さがまたどうしようもなく情けなかった。氷のような、史実のヴラドのような冷徹な決断力があれば、また違う結果があっただろうか。 「従兄様!よくぞご無事で!」オレのそんな黙考を破ったのはワラキアで留守居をしていたシュテファンの声だった。今のシュテファンの立場は存外貴重なものだ。何よりオレにもしものことがあった場合ラドゥを除けば第一公位継承者となるのは間違いない。だからこそ本国に残置したはずなのだが…………。「ベルドが死んだと聞きました」シュテファンの言葉にオレは思わず瞠目した。思えばシュテファンもベルドとは親しかったはずだ。オレの補佐役を任じる者同士、互いに学び合っていく様は見ていて微笑ましいかぎりのものがあった。もっともそのほとんどはベルドによるシュテファンの教育という形ではあったが。「…………すまん」それ以外に言葉が見つからなかった。どう言い訳しようとも、オレのためにベルドが犠牲になったことは確かなのだから。「たぶん、そんな風に自分を責めておられるのではないかと思っておりました………」シュテファンはほんの少し会わない間にひどく大人っぽい苦い笑みを浮かべて言った。「悲しむなとは言いませぬ、が、あまりご自分を責めてはベルドが報われませぬ」………それは逆だ。簡単に受容してはそれこそベルドが報われない。「ベルドが命をかけて守ったのは何も従兄上が君主であるからだけではありません。従兄上が好きだからこそ、その幸せを守りたかったのです。従兄上が不幸になることがもっともベルドを冒涜しております」シュテファンの声は震えていた。「だから従兄上、悲しむなとは言いません。その代わり幸せになってください、それだけがベルドの望むすべてなのですから………」そう言われた時、オレの中の何かがストンと胸の中に納まったような気がした。…………ああ、そうか……オレは悲しかった、ベルドを失ったことが悲しくてならなかった………だから己を責めて責任に逃げていたのだな………シュテファンはいつしか溢れる涙を抑えることが出来ずにいた。「ベルドの決意を否定する気はありません。私がそこにいれば同じことをしようとしたかもしれない………ベルドが満足して死んでいったことも間違いないでしょう………でも今は泣いてもいいですよね?従兄上……ベルドのしたことを受け入れらるとしても、哀しいのは変わるわけではないのですから………」ベルドが本懐を遂げたのだとしても、それを嘆くのは別の問題なのは当然だ。嗚咽を漏らして慟哭するシュテファンがオレにはひどくうらやましいものに感じられてならなかった。「我が君………妾の胸ではものたりないかもしれないが……泣いても誰も責めはしないぞ」ヘレナの言葉にオレは頭を振った。「オレの分までシュテファンが泣いてくれている。………だからオレは大丈夫だ」ベルドを失ったこの悲しみを永久に忘れることはない。そしてヘレナやシュテファンという愛すべき家族の無償の愛情もまた。今はそれらの思いをまるごと受け入れて前を向くことがベルドの信頼にこたえることなのだろう。そしてオスマンを打ち破りこの地に新たな平和と秩序を築き上げて見せるのだ。オレの家族たちの幸せを守るために。アドリアノーポリへの途上にあるオスマンの本営には続々と凶報が舞い込んでいた。まずポーランド王国が遂にオスマン戦に本格介入することを決断し、精鋭五千をブルガリアへ向けて進発させていた。不干渉条約を結んでいたはずのこの隣国の裏切りにメムノンも怒りを禁じえない。なによりオスマンが敗北するかのように見定められていることが承服できなかった。戦場でワラキアを打ち破ったのはオスマン側であり、ワラキアはコンスタンティノポリスの延命に成功したにすぎないのである。それもさし当たってはのことに過ぎぬ。………そして最後に勝つのは我々だ。我々でなくてはならない。特に強兵であるわけでもないポーランド兵が五千ばかり増えたところで戦況に変化はない。しかしブルガリアやセルビアなどの国民や、神聖ローマ帝国をはじめとする中立諸外国がそれをどう見るかは別問題であった。そうした外交的な意味でポーランド参戦の傷口は大きいと言わざるを得ない。また、ブルガリアに集結していた旧貴族たちの反乱兵が遊軍として各地に支配領域を拡大させていた。ブルガリアはほぼその全土がオスマンの支配を脱し、セルビアやボスニアでも反乱勢力が次第に優位に立ちつつある。ここでもし、再びワラキア軍に撤退されるようなことがあれば戦況の悪化は避けられないところであった。特にスカンデルベグとリッシュモン連合軍が大人しく傍観に徹しているわけがないことを考えれば尚更である。最低限オスマンの勝利という体裁だけでも整えなければならぬ。コンスタンティノポリスでの戦いは、ヤン・イスクラのあまりに劇的な救援ぶりもあって、ワラキア軍の撤退は敗北ではなく既定の転進であるように受け止められている。オスマンとしては諸外国に勝利を喧伝できるだけのはっきりとした勝利の形が喉から手が出るほどに欲しいところであった。今は甘い夢を見ているブルガリアやセルビアの叛徒どもも、ワラキアが敗北すれば根を失った木のように朽ち果てるだろう。何が何でもヴラドを戦場に引きとめなくてはならない。戦う前に引き上げられるようなことだけはあってはならない………。「先生(ラーラ)よ」メフメト二世は青白く血の気を失った肌に目だけを血走らせながら呟くように言った。「………二度目はない」「御意」メフメト二世の瞳にもはや寵臣を見る甘さは欠片も感じられない。あるのは憤怒と焦燥と勝利への渇望だけだ。もちろん次の機会などありえぬことをメムノンも承知していた。唯一の君主たるスルタンに責任を取らせることが出来ない以上、敗戦の責めを負うべきは宰相たる自分以外にはいない。もっとも、この戦いに万が一にも敗れるようなことがあればオスマン朝は国家そのものが存亡の危機に立たされるであろうが。「まずは講和のための使者を発てましょう」「なんだと?」講和という言葉を聞いた瞬間、メフメト二世の表情に狂的な怒りの色が浮かぶのを見て慌ててメムノンは先を続けた。「もちろんこれは形だけのこと、講和する気などもとよりございませぬ」「…………足止めというわけか」一度冷静になってしまえばメフメト二世の理解は早かった。講和の交渉というテーブルに着かせてしまえばワラキア軍に逃げられることもないはずだからだ。「………しかしあの男が簡単に交渉にのるものか?」メムノンは満面に邪笑を浮かべてくつくつと嗤った。この男どれほどのものか、と思わせるほどに幸せそうな笑みだった。「………講和交渉の全権大使がラドゥだといえば、あの甘い男が断ることはありえませぬ」