「それは一言で言い表せるものではございません。例えるならば天からの愛かもしれず地上の現れた星のようなものやもしれず………」ゴクリと喉を鳴らす音がやけに大きく感じられる。男はひりつく喉を押さえながらかろうじて言葉を紡ぎだした。「そ、それほどのものにございますか………?」老人らしからぬ鋭い眼光をきらめかせてもう一人の男が頷く。「あれはこの世で最も尊い無垢そのものなのです。そしてただ愛のみを求めるこの世で最も無力な存在でもある。その無力さが問うのですよ、愛とはなんなのか?絆とはなんなのか?とね」「いまだ出会わぬ私ですら確信を持って言えます。彼の者のためなら私はこの命を投げ出すことすら厭わぬでしょう」二人の男は互いが共有する陶酔に酔いながら固く手を握り合わずにはいられなかった。「我らは孫のためによりよい世界を与えてやらなくてはなりませぬ」「孫のために!」「孫のために!」アルバニアとフランスの爺馬鹿二人が熱いタッグを組んだ瞬間であった。「………………ごめんなさい………やっぱり、生理きちゃった…………」アンジェリーナから遅れに遅れていた生理の到来を知らされ、スカンデルベグが砂の柱と化すのはまた後の話である。アンジェリーナとソマスの手兵を加えたアルバニア・フランス連合軍は総勢一万四千にのぼる。対するケルグ・アブドル率いるオスマン軍は三万、戦力比は一対二を超えるがケルグはかつてない緊張を強いられていた。なにしろ相手が相手であった。スカンデルベグはワラキア公を除けばオスマン帝国が最もその武勇を恐れる男である。ムラト二世の親征を受け、七倍の敵を相手にアルバニアの国土を守りきったその手腕は伝説的であるとさえ言えた。その男が初めて攻勢に転じたことに脅威を感じぬ武人がいるだろうか。史実においても遂にスカンデルベグが存命のうちはアルバニアがオスマンに屈服することはなかったのである。兄弟と腹心に裏切られ、十倍の敵を相手に国土を守りきったスカンデルベグの戦術的才能はおそらくはワラキア公を遥かにしのぐだろう。だが、ケルグはもうひとりの男の存在に注意を払ってはいなかった。遠い小アジアのオスマン朝の一指揮官にとって英仏の百年戦争など御伽噺の世界でしかない。しかし目の前で陣を敷くこの男は実質的に百年戦争を終結させた男なのだった。リッチモンド伯アルチュール・ド・リッシュモン、フランス王国軍大元帥……百年戦争前半の英雄がベルトラン・デュ・ゲクランであるとするなら百年戦争後半の英雄は間違いなく彼である。ジャンヌ・ダルクは確かに一時的なカンフル剤ではあったが、士気以外の面で全く貢献できず尻すぼみとなっていったのは歴史が示すとおりであった。フランス軍はリッシュモンの大戦略と卓越した戦術手腕によって勝利したのだ。なかでも砲兵火力の集中と機動を戦史上初めて機能的に運用したという事実は、後年のゴンサーロ大元帥やオラニエ公ウィレムの功績に匹敵するものだった。頑固で味方の無能を許容できず、敵が多いことと、後にブルターニュ公として王権と衝突せざるをえなかったことがなければフランス史上でも屈指の英雄に数えられて当然の人物なのである。ゆっくりと戦場の最右翼に位置したフランス軍が前進を開始した。その数わずかに二千五百名、フランス軍にわずかに遅れてアンジェリーナ率いるワラキア式の銃兵千五百名が続く。さらに遅れて副将であるマイヤー率いる五千名の兵団が続いていた。最左翼であるスカンデルベグ直率の五千名は最後尾でいまだ沈黙を守っている。右翼による敵主力の拘束と、左翼精鋭による側面突破、それはテーバイの誇るエパミノンダスが考案した斜線陣の応用に他ならなかった。「父上、右翼がフランス軍で大丈夫なのか?マイヤーではなく?」娘の懸念にスカンデルベグは軽く首を振って微笑むことで答えた。「………あのご老体はオレが本気で戦っても勝てるかどうかわからんお人だ。マイヤーごときでは相手にもなるまいよ」「………それほどのものか」「まあ、お前の愛するワラキア公には勝てまいがな」スカンデルベグほどの戦術手腕をもってしても、ワラキア公には勝てる気がしない。焦土戦術を取ろうとも、ゲリラ戦術を取ろうとも、いかに戦術の妙を尽くそうともである。ワラキア公の本質はそうした戦術的な部分を超えたところにあるように思われるのだ。それこそがスカンデルベグをして自らやリッシュモンよりワラキア公が上と言わしめるのであった。スカンデルベグが勝てるかどうかわからないと評したリッシュモンは三万のオスマン軍に突出しながらも悠然と微笑んでいた。オスマン軍の主力は軽騎兵であり、歩兵の防御力が著しく向上した今、時代遅れになりつつある兵科である。軍事的な洗練度では遠くイギリス軍に及ばない。恐れる理由はなにひとつも感じられなかった。まして盟友たるスカンデルベグの戦術能力は、長年戦場に立ち続けたリッシュモンでも比肩する記憶がないほどのものだ。「時代が変わったということを教えてやるとしようか、せめてもの餞に華々しく」リッシュモンのフランス歩兵の前にオスマン騎兵の群れが雄たけびをあげて迫ろうとしていた。ケルグにとって敵の動きは奇異にしか見えないものであった。わざわざフランス軍を生贄の犠牲に捧げているようにも感じられる。わずか二千五百程度の小勢を突出させてなんの利があるというのであろうか?あるいはフランス軍とアルバニア軍との間で意見の相違があったのかもしれない。古来より多国籍軍というものは統率のとり難いものなのだ。そうであるとすればこれは好機であるはずだった。しかも目の前の相手はあのスカンデルベグではなく、遠い地の果てからやってきたフランスの蛮族にすぎない。「突撃せよ!勇敢なるオスマンの戦士たちよ!神の名の元に敵を蹴散らせ!」砂塵を蹴立てて軽騎兵たちが突進していく。その数はフランス軍の五倍を上回る。いかな精強な軍であってもとうていこらえることなどできないかに思われる情景であった。それはまるで無数の蛇がからみついていく様にも似ている。だが、決して統制がとれたとは言えない騎兵の突撃はリッシュモンにとってなんら感銘をもたらすものではありえなかった。「釘玉を喰らわせろ!」最前列に列を敷いていた大砲のなかに装填されていたのは数万を超えようかという釘や鉄片である。一斉に放たれたそれは無数の散弾となってオスマン兵たちに襲いかかった。元来大砲とは近接されては役に立たないと信じられてきた。砲弾の莫大な運動エネルギーは個々の兵を狙うのには向かないからだ。それは榴弾が初めて実戦に投入されたフス戦争以降でも変わりは見られない。至近で爆発してしまえば味方への損害の避けられない以上、榴弾もまた敵との間にある程度の距離を必要としたのである。だが、実際には大砲に釘をつめて水平射撃をすればその散弾効果は計り知れないものがあるのであった。殺傷能力こそ低いがたとえ釘による負傷でも馬にとっては致命的である。人間とて身体に釘をいくつも撃ちこまれて無事ではいられない。フランス軍の前面に人馬の悲鳴が交錯する地獄絵図が現出した。「砲兵後退!銃兵前へ!」負傷者がひしめきあい、突撃の衝力を完全に失ったオスマン軍へ向けて情け容赦のない銃撃が浴びせられる。正面の突破を諦めたオスマン軍は左右の両翼からフランス軍を挟撃しようと試みたが、リッシュモンがこれに備えていないわけがなかった。右翼は槍兵の横隊が銃兵とともに完璧な防御姿勢をとっていたし、左翼のフランス軍の横腹は………「敵は腹を見せたぞ!躍進射撃開始!」アンジェリーナは正しくスカンデルベグの血をひいていることを証明した。ワラキア流の交互射撃でオスマン軍左翼の騎兵部隊の側面を痛撃すると、たちまち騎兵部隊は統制を失って壊乱する。側面から射撃を継続しながら迫ってくる銃兵部隊は、オスマン騎兵の心に深刻な心理的衝撃を叩き込んだのだった。オスマン軍としては、この完璧な相互支援を前にしてはさらに包囲の輪を広げる以外に方法がない。アンジェリーナの銃兵部隊の側面迂回を試みたオスマン騎兵部隊は、すぐにマイヤー率いるアルバニア槍歩兵部隊の阻止行動を受けることになる。いまやオスマンの全軍がアルバニア・フランス軍の敷いた斜線陣に完全に拘束を余儀なくされていた。もしも大空を舞う鳥の目があったならば、オスマンの戦列が斜めに伸びきってケルグの統制が行き届かなくなりつつあるのがわかっただろう。左翼は突出しており、そこを突破されればその後ろには剥き出しの無防備な後方が晒されていた。スカンデルベグことジョルジ・カストリオティの軍配が振るわれたのはまさにその瞬間であった。「吶喊!!」おそらくはスカンデルベグだけがなし得る苛烈さで、アルバニア軍五千が行動を開始した。およそ三千を最左翼で拘束にあて、スカンデルベグはアルバニア王国最精鋭部隊二千とともにオスマン軍の外縁部を神速の勢いで蹂躙する。まさに鎧袖一触とはこのことであろうか。完璧な集団戦を展開するアルバニア軍のまえに、オスマンの誇る軽騎兵も軽歩兵もその機動を阻止するどころか遅滞させることすらかなわない。無人の野を行くスカンデルベグの行く手には、三千ほどの手兵に守られたケルグ・アブドルの本陣が大海の小島よろしく孤立した姿をさらしていた。「こんな……こんな馬鹿な話があるか!?」スカンデルベグの手腕は承知している。だからこそ、スカンデルベグが後陣で関与しないうちに勝負を決めてしまうつもりであった。戦いは勝利への流れにのってしまったほうが圧倒的に優位に立つものなのである。先陣を突き崩され敗兵に飲み込まれてはいかにスカンデルベグといえども建て直しは至難の技のはずであった。にもかかわらず現実は完全にヘルグの希望を裏切っていた。わけてもフランス軍の精強さは想像を遥かに上回っている。わずかフランス軍二千五百名のためにほぼ同数の死傷者が量産され、なお七千余の軍勢が釘付けにされていた。いったいあのフランス人は何者なのだ?まさかスカンデルベグ以外にもこれほどの強者がいようとは…………。目に見えて兵たちが萎縮していくさまがケルグにはよくわかっていた。敵に倍する兵力を揃えながらまんまと敵の思惑にはまってしまっている事実が、必要以上に兵たちを恐怖させてしまっているのだった。古来より、そうした時に指揮官が統制を回復する手段はひとつしかない。「誇り高きイスラムの戦士たちよ!恐れるな!汝の勇気をアラーの神はよみしたもう!!」剣を高々と掲げて先頭に踊り出たケルグは、そのまま単騎でアルバニア軍へと突撃を開始した。怖気づいた兵を瞬時に立て直すことためには、怯えた兵に主将の勇気を見せつけること以外にないのである。主将を一人で敵のえさにするわけにはいかない。ケルグの見せた無謀ともいえる勇気の発露は確かに味方の士気を回復し、アルバニア軍への逆撃を可能とした。「………よい判断だが、所詮犬は獅子にはかなわぬ」するすると自らも先頭に立ったスカンデルベグは動物的ともいえる勘によってケルグの姿を捉えていた。若き日から長年の戦塵に磨かれたその武の輝きはとうてい凡人のよくするところではない。ただスカンデルベグが手首を返して騎槍をしごいたと見えたその瞬間には、ケルグの首はスカンデルベグの槍の穂先に突き立てられていた。獅子が吠え掛かる犬にその牙を剥いたかのような、圧倒的な武量の差だった。「主将と同じ運命をたどりたいものは我が前に出よ」その口調は淡々として、決して戦場に轟くような激しいものではなかった。しかし、言葉ではなく覇気が、理性ではなく本能がオスマン兵に危険を告げていた。この男に挑んで命永らえることは不可能であるということを。「兄上は気の毒だった」「………閣下にそう言っていただければ亡き兄も名誉とするでしょう」ワラキア情報省が所有する隠れ家の一室でシエナは一人の男と向かい合っていた。男の名はドール・カレルモと言う。シエナ配下の情報員の一人だが、ワラキアでも中堅貴族のカレルモ家の三男坊でもあった。ドールの兄ジョゼフは優秀な近衛士官だった。士官学校を優秀な成績で卒業し、傾きかかったカレルモ家に栄光をもたらしてくれると家族の誰もが信じて疑わなかった。もちろん、優秀な兄の背中を追い続けてきたドールもまた。だが兄はオスマンとの戦いのなかで全軍の後退を守りきり、伝説の一部となってベクシタスの露と消えた。「………ジョゼフを失ったのは近衛にとって掛け替えのない損失だ。貴君には明日より近衛士官としてジョゼフ亡き近衛隊を支えてもらいたい」シエナの言葉に思わずドールは耳を疑った。それが出来そうにないからこそ、自分はこうして情報省に勤めているのではなかったか。「………というのはあくまでも表向きの理由だ。貴君には託すべき使命が別にある」シエナの抑揚のない声にドールの背筋が凍る。この目の前の上官が、どれほどの陰謀と策動によって屍の山を積み重ねてきたかをドールはよく知っていた。「…………兄上の仇が討ちたくはないかね?」…………兄の……仇?それがひどく魅惑的な言葉に聞こえたのはシエナの誘導によりものなのか、それとも己の内なる声が叫ぶのか、それはもはや判然としない。しかしドールの胸はいつしかえもいわれぬ高揚に満たされつつあった。「貴君の兄上を討ったオスマンの指揮官が明日、殿下のもとを交渉に訪れる」苦いものを飲み込むように顔を歪ませるシエナをドールは驚きとともに見つめていた。後にも先にもこれほどシエナが感情を剥きだしにするのを見るのは初めてであったからだ。「カレルモ家の将来は私が一命にかえて保障しよう。……君がオスマンの主将を討つのだ」