荒野を一人の騎士が歩いていく。ただ一人で。それは異様な光景だった。オスマン帝国を代表する使者にしては余りにもその身なりは粗末なものであり、その身体はとうてい使者の任に耐えうるものとも思われなかった。血と埃にまみれたその姿はまるで追放された罪人のような気配すら感じられる。事実、オスマンにとってその騎士は罪の忌み子にほかならなかったのだ。その忌み子の名をラドゥと言った。ここでオスマンと講和する選択肢はない。その見識で閣僚たちとの意見は一致している。現在のワラキアを取り巻く状況は、もはや一国の平和をもってよしとする状況にはないからだ。極端なことを言えばオスマン帝国がボスフォラス海峡を渡って故地であるアナトリアに逼塞するくらいの条件でなければ講和などありえないといってよい。すでにアルバニア・フランスの連合軍がトラキア地方を南部から侵食し始めており、コンスタンティノポリスから出戦したヤン・イスクラと合流するのは時間の問題であった。そうなればもはやアドリアノーポリのオスマン総軍は東欧に完全な孤立を強いられることになるだろう。…………それでも交渉に応じてしまったのはオレの弱さか。ほんの一欠けらの可能性であっても、ラドゥがワラキアに亡命してくれる可能性を捨て切れなかった。明確な敵対行為を働いた者だとしても、心のなかでは故郷を家族を慕っていると信じたかった。メムノンがなんの策もなくラドゥを送り出すはずがないとわかっていても。アドリアノーポリ北西の原野に敷いた天幕でラドゥの訪れを待っていたオレは、変わり果てたラドゥの姿に絶句した。「ジョゼフには気の毒だったな………」ネイはジョゼフの後釜として情報省からまわされてきたドールにジョゼフの面影を見出していた。くすんだ金髪に細面の顔の造詣がよく似ていたのだ。ネイにとっては片腕と呼んでも差し支えない存在だった。あのベクシタスの原野で失うには惜しすぎると考えてしまうほどに………。「貴官には期待している。兄の分まで殿下のお役に立て」ドールに託されたシエナの計画は意外なところで変更を余儀なくされようとしていた。シエナからの推薦によって近衛騎士に任じられたとはいえ、新米騎士のすることといえば雑用は歩哨と相場が決まっている。ドールとしてはそこからなんとか身体の自由を得なくてはならなかったのだが、近衛の長を務めるネイはジョゼフの弟ということでドールを非常に高く買っていたのが何よりの誤算だった。兄に負けぬ騎士に成長してほしいと期待をかけたネイは、ワラキア公の傍に控える従騎士のなかにドールを加えたのである。ドールとしては誤算も甚だしい。しかし、復讐の機会を得るという意味においてワラキア公の傍に控えるのも決して悪いわけではなかった。標的と接触することができるということにおいてこれ以上の場所はないからだ。問題の歴戦の近衛隊精鋭を出し抜いて標的を殺害できるか、という点においてドールは忙しく思考をめぐらせていた。遠目に見ても、明らかに男の姿は異常だった。左腕の肘から先がなくなっているため歩くたびにバランスが崩れるらしく、ひどく危うげな雰囲気を漂わせている。肩まで届こうかという豪奢な金髪も荒れるに任されており、鳥の巣のように無造作にからみあっていた。それはもはや美男公と呼ばれた男の残骸にしかすぎなかった。ヘレナやゲクランといった首脳たちも、このラドゥへの仕打ちには義憤を隠せなかった。確かにラドゥは憎き敵であり、ヴラドの甘さを指弾したい気持ちはある。しかし仮にも講和の使者を、ワラキア公のたったひとりの弟を、かくも惨めに放り出してよいものか!同時にそれは、この会見が所詮は茶番であり、オスマンに講和の意志など微塵もないのだということを明確に示していた。「………兵に気を緩めるなと伝えろ………」ゲクランの言葉を受けて副官のクラウスは兵の掌握へと席をはずす。すでに両軍のかけひきは始まっていたのである。「兄様」ポツリと呟かれたラドゥの言葉がオレに与えた影響は激甚だった。遠くなってしまった日に、飽きるほど聞いたはずのその言葉。寂しさを漂わせた甘えるような声音。声変わりしてはいてもいまだ変わらぬその口調に記憶はあの人質時代へと遡る。思わず飛び出して抱きしめてしまいたい欲求を抑えるのにオレは必死になっていた。見れば凄惨な姿である。左腕に巻かれた包帯は血に汚れており、ろくな手当てを受けていないことは明白だった。薄く胸にも血のにじんだ後があり、よく見れば顔にも小さな擦過の後が刻まれている。ワラキアとの戦で得た傷なのか、その後の虐待によってつけられた傷なのかはわからない。しかしもしも罰というものが必要なのだとすれば、この愛すべき弟はすでに十分すぎるほど罰を受けたのではないか?ほとんど生気の感じられぬ茫洋とした瞳がそれを裏付けているように感じられた。「久しいな、ラドゥ」震える声でどうにかそれだけを搾り出すように言うのが精一杯だった。「兄様………どうかスルタン様にお降りください」一瞬にしてオレの両脇に控えたヘレナやゲクランと近衛騎士たちの間に殺気が走る。ただでさえベクシタスの敗戦の直接的な原因であったラドゥに対するワラキア宮廷の心象は悪いのにこの発言は致命的だった。「兄様がスルタン様に降ってくだされば、またあの日のようにいっしょに暮らすことができる………スルタン様も私を愛してくださるのです、どうか兄様………」ラドゥは瞳に狂的な色をたたえながら、一歩また一歩と歩を進めていく。口元はだらしなく開き、一歩踏み出すごとに大きく身体を揺らしながら。もうすでに………ラドゥは壊されていた。人としての決定的ななにかを永久に失ってしまっていた。そして間接的とはいえラドゥを壊したのは…………。グラリ、と大きくバランスを崩して片ひざをつくラドゥに、一人の近衛騎士が歩み寄っていくのがオレの目に写った。嫌な予感がする。何故かはわからないがとてつもなく嫌な予感が…………。新米の騎士がするすると進み出るのを誰もとがめようとはしなかった。膝をつき倒れかけたラドゥに手を貸すそぶりを見せていたからだ。しかし、ラドゥの右手をひいて立たせた瞬間、ドールは空いていた右手で己の剣をラドゥの腹に深々と突きたてていた。「兄上の恨み思い知ったか!」「この慮外者め!」一瞬遅れて同僚の騎士がドールを取り押さえたものの、ラドゥの傷がもはや致命傷であることは誰の目にも明らかだった。「また、私を捨てるのですか?兄様!」また、と言った言葉がオレの胸に透明な刃を突き立てた。万能の人などと呼ばれていながら、オレにできたのは幼子のように首をふることだけだった。違う、違うんだ。見捨てるつもりなどなかった。オレが望んでいたのはこんな結末ではなかったんだ…………。「ラドゥ…………」よろよろと歩み寄ろうとしたそのとき、腹から剣をはやしたラドゥが瀕死の人間とは思えぬすばやさで踊りかかった。あまりに意表をつかれた反応に、ネイもゲクランも対応できない。近衛騎士たちもドールを取り押さえたことでその陣容を薄くしてしまっていた。ほとんど吸い込まれるようにして、ラドゥはオレの胸に飛び込んだのだった。まるでやけ火箸でも押し当てられたかのように灼熱感をわき腹に感じて見下ろせば、ラドゥの失われた左手からなにか尖ったものがオレの腹に突き刺さっていた。その正体に気づいてオレは胸がつぶれるような悲しみに身を震わせた。鋭く尖ったその凶器は、ラドゥ自身の骨に他ならなかったのだ。気づいてしかるべきだった。督戦隊に麻薬が使用されてラドゥに使われていないはずがないではないか。おそらくは左手を壊死させて暗器にしたてあげたものだろう。もちろん生きてかえってくることなど最初から望んでもいないのだからいくらでも好きにできようというものだ。「兄様、許して下さい。兄様許して下さい。僕は………僕はもう一人でいることに耐えられないのです。父上に見捨てられ……兄様に見捨てられ……スルタン様に見捨てられて……この世界にただひとりで在ることはもういやなのです。ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様………もう、もう僕を一人にしないでください…………」自らの骨をさらに押し込みながら謝り続けるラドゥの姿に、脳が破裂しそうなほどの怒りがこみあげる。ラドゥにではない。メムノンとメフメト二世に対してだ。いったいどれほどの絶望を与えたら人をここまで壊すことができるというのか。これまでどれほど酷薄な孤独のなかでラドゥは生きてきたというのだろうか。怒りが許容を超えて腹の奥底にわだかまる怨念が、永い眠りから再び鎌首をもたげていくのを感じる。憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒憤怒悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨悔恨自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲自嘲狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気狂気感情をもはや制御できない。ブレーカーが落ちるような衝撃音とともに、オレの意識は圧倒的なまでの闇に飲まれた。死灰と化した空気のなかで、ようやく事態を脳が把握したネイが猛然と抜剣し、ヘレナが耳をつんざく悲鳴をあげた。硬直したまま対応のとれなかった騎士たちも次々と抜剣してラドゥへと踊りかかる。「動くな」そう言って右手で彼らを制したのは、彼らにとっての主君ヴラド三世その人にほかならなかった。「………………永く甘き夢を見た」そういってヴラドは嘆息した。傍らではラドゥが相変わらず謝罪の言葉を続けていた。「………とうてい我には望めぬはずの、なんとも甘美な夢だった。我は逃げ出すことしかできなかったというのに………」ヴラドの言葉の意味が理解できず、近衛騎士たちが困惑の表情を浮かべる。襲撃者をこのままにしておくわけにはいかないのだが、ヴラドの身体から発散される圧倒的な鬼気が彼らから行動の自由を奪ってしまっていた。 「そうして我が甘い夢に酔っている間にお前は孤独に苛まれていたのだな、ラドゥ」ヴラドの瞳から一筋の涙がこぼれて落ちる。悔恨と苦悩と愛情がないまぜになった表情でヴラドはラドゥを抱きしめた。「その責任はとらずばなるまい…………」ヴラドに抱きしめられながらも、ラドゥは壊れた機械のように謝罪を繰り返していた。「ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様、ごめんなさい兄様…………」「許しているともラドゥ、余人は許さずとも家族なら許せる、許せるのが家族だ………だからラドゥ、お前を見捨てた我をどうか許してくれ………」「兄様?」ラドゥの生気を失った瞳にわずかに正気の色が戻ろうとしていた。「もう二度とこの手を離しはしない。もう二度とお前が孤独に苛まれる事はない。これからはどこまでもいっしょだ」「よせ!汝は妾とともにあるのではなかったのか?我が君!」顔面を蒼白にしたヘレナが叫ぶように言うと、ヴラドはヘレナにむかって薄く微笑んだ。「案ずるな、ローマの姫よ。ご夫君は無事にお返し申し上げるゆえ」「…………お主………いったい誰じゃ?」姿形はヴラド以外のない者でもない。しかし中身は決してヴラドではありえなかった。ヴラドがヘレナをローマの姫などと呼ぶはずはないのだ。「………かつてヴラドであったものの残滓………ヴラド・ドラクリヤのありえたもうひとつの可能性とでも言っておこうか………」いつしかラドゥもしっかりとヴラドを抱き返していた。「ああ………兄様……なんて………あたた………かい…………」「ともにいこうラドゥ、今度こそ家族が愛し合って暮らせる場所へ………………」ヴラドの言葉にラドゥは莞爾と笑った。それは生気を失った残骸の笑いではなく、なつかしい少年の日に浮かべていた無垢で愛らしい微笑みだった。その短い生の最後に、彼はもっとも欲しがっていたものを手に入れたのだ。…………そしてふたりの魂は手を携えて天へと還った。にわかに天幕の外が激しい喧騒に包まれた。悲鳴と怒号が交錯し、銃声が轟き人馬のざわめきが空気を揺らす。「オスマン軍が来襲いたしました!」伝令の言葉にいち早く反応したのは誰あろうヴラドであった。「ゲクラン、小一時間持たせろ。ネイ、侍医を呼べ、止血が終わったら余も出るぞ」有無を言わさぬその威に打たれて二人は膝をついて頭を垂れる。「「御意」」この耐え難い喪失感をなんと表現すればよいのだろう。まるで半身を失ったような気持ちだった。事実、魂の半分が失われたようなものなのだから。この世界の住人としてヘレナをはじめとして様々な人々と交わりながら、心のどこかで夢のなかにいるような気持ちを捨て切れなかった。罪も罰も責任も、もうひとりのヴラドがいつもその半分を背負ってくれていたのだ。そのことに今更ながら気づいているオレがいた。今やオレはこの世にただひとりのヴラド・ドラクリヤであった。夢と現実の狭間は、完全に現実にとってかわり、オレの罪と罰はオレだけのものとなった。酷薄な現実がオレを待っている。夢の時は終わったのだ。手のひらにぬくもりを感じて振り向くと、ヘレナがオレの手を握っていた。「このたわけが……!妾を置いて逝ってしまうかと思ったぞ………!」潤んだ瞳で見上げてくる健気なヘレナの仕草に愛しさがこみあげてきてオレは思わずヘレナの唇を奪った。そうだ、もうひとりではない。現実は決して酷薄なばかりではない。「その手を離さないでくれヘレナ。そして家族が愛し合って暮らせる場所を守るために、戦うオレを見守ってくれ」たとえひとりになろうとも、この罪の重さから逃げることはしない。そしてその罪を背負って一生を生きていく。オレが愛する家族のいるかぎり。「夢を終わらせ現実を始めるとしようか…………なあ、メムノンよ、メフメト二世よ」