「どうやら勝ったな」 ヤーノシュが撤退を決断したことを見てとって、オレは安堵の溜息をついていた。これで少しは死亡フラグから遠ざかったろうか?いや、残念ながらその道のりは遥かに遠い。 「シエナはいるか?」 「御前に」 気配を全く感じさせぬ佇まいに何ともいえぬ居心地の悪さを感じるが、まあオーベ〇シュタインだからしょうがないか。 「ハンガリー王国にヤーノシュの敗戦を報せよ。加えてヤーノシュの責任を追及する種を蒔け」 すでにハンガリー宮廷はヤーノシュの支配下だが反対勢力はどこにでもいるものだ。しばらくはヤーノシュも自分の地歩を固めるのに専念するだろう。もとより彼の領土的野心は西に向いており、目指すところはハンガリー国王位、あわよくば神聖ローマ帝国皇帝位なのだから。 「御意」 既にシエナは諜報網を隣国にまで広げている。情報というものは必ずしも人を選ばねばならないものではない、ということをこの男はよくわかっていた。その気になればどこにでもいるその辺の大工からでも有用な情報は取れるものなのだ。そのあたりのことがわかっていないとやり手のスパイを送り込むというような手段しかとれなくなる。情報を分析する人間については流石に誰でもいいということはないが。 再びオレは戦場に目を向けた。ネイが軽騎兵の先頭をきって追撃の指揮を揮っている。長身で目立つ格好をしているからすぐにわかる。前線指揮官にはやはり見栄えも必要だな。 思えば今回の戦は当初の予想を上回る善戦だったと言っていい。後年、大スペインの名将ゴンサーロ・フェルナンデス・デ・コルドバが運用するまで、ヨーロッパ世界で野戦築城はまったくといっていいほど注目されていなかった。チョリニョーラの戦いでフランス軍を相手に初めて塹壕を使用し、一気にヨーロッパに広まったため塹壕の父とも呼ばれている人物である。練度において圧倒的に劣る我が軍としては、彼の方法論にのっとり野戦築城で敵主力である軽騎兵の衝力を遮断することが絶対に必要であった。ただでさえ練度の低い部隊が軽騎兵の機動につきあわされれば壊乱は必至だからだ。そのための柵でありそのための壕である。しかしそれだけでは足りない。騎兵はその速力と突進力が目につき易いが、実のところ心理的効果が存外に大きい。馬蹄けたたましく突進してくる騎馬の群れを前に歩兵が平静を保つのは難しいのである。そのために二つめの防壁として堡塁車両を用意した。フス戦争において不敗のままに死亡した隻眼の将軍(後盲目)ヤン・ジシュカが、主に信者で構成された軍隊ともいえぬ部隊を運用するために使用した装甲車両である。オーク材の両側を鉄板で挟み、銃眼を備えたこの車両は車両同士を鉄鎖で連結すると難攻不落の城塞として機能した。練度の低い信者たちでも安心して狙撃できるので火力戦においては無類の強さを発揮している。急遽編成した農民兵を機能させるにはもってこいの車両であった。 そこまでしても実戦の場に新兵を投入するリスクは消えるものではない。戦とは常に流動するものであり、ヤーノシュがこちらの弱点を衝く可能性は決して低くはなかったのである。 なんといっても別動隊を派遣されていたら対応は難しかった。ワラキア軍は正面から野戦でやりあったら勝機はないのである。ならばこそ、是が非にも陣地正面に敵を誘引しなければならなかった。薄く広く斥候部隊を配置し、各所に替え馬まで用意して敵をつかず離れず本陣に誘引するよう指示を出していたのはそのためだ。この役目を完璧に果たしたベルドの功績は大きい。もっともヤーノシュがワラキアを侮りきっていたことが一番の敗因であることは言を待たないだろう。 見れば殿につかされたワラキア貴族たちが一斉に剣を投げ出し降伏の意を示していた。おかげで歩兵の追撃が停滞を余儀なくされている。放っておくわけにもいかない以上、武装解除と監視に人手を割かねばならないからだ。 「連中………オレの言った言葉覚えてるんかな?」 捕虜になるのはいい。しかし捕虜になった後の彼らの運命について情をかけるつもりはオレには微塵もなかった。 自分は変わってしまっただろうか?気楽な大学生柿沼正志であった自分からは考えられぬ精神の有り方にふっとそんな疑問が頭をかすめる。変わってしまったのは確かだ。しかしそれはこの世界で暮らした二年という月日がそうさせたのか、それともいまだ胸を疼かせるヴラドの意思なのか………現代に生きた記憶はいまだ色あせることなく心にある。しかし現代では感じることのできなかった原初的な衝動を抑えることができない。 ただ生きるだけでは足りない。このワラキアにオレの望む新しい秩序を築き上げてみせる。オレが生きやすいオレの王国をこの地上に打ち立ててみせる。オレの生きた決して消せない爪あとを、この歴史に刻んでみせる。そんな夢想があとからあとから溢れて止まらずにいた。 「デュラムはいるか?」 「これに」 「今回日和見を決め込んだ連中どもに布告を出せ。十日以内にトゥラゴヴィシテに参集せよ。もはや如何なる理由も認めぬ。参集に間に合わぬものは余を敵にするものと覚悟せよ」 普段は陽気な商人あがりのデュラムが顔色を蒼白にしつ、唸るように首肯した。 「御意」 もはやただ生きるだけでは足りない、足りないのだ。 命令はかつて無い迅速さで執行された。もはやヴラド三世の治世を妨げる障害は見当たらない。日和見の貴族たちも決断の時がやってきたことを感じていた。 しかし、命令にはひとつだけ不審な指示がある。公都トゥラゴヴィシテを訪れるものバラゴの丘を通るべし、というのがそれであった。トゥラゴヴィシテの西部に位置するこの丘にいったいなにがあるというのか。疑念を抱きつつも遠回りになるのを承知で貴族たちは列をなしてバラゴへと向かう…………。 草しか生えていなかったはずの丘に林ができているのを一人の貴族が気づいた。東洋の珍しい木々でも植林したのかも知れぬ。そんな埒もないことを考えていたものの、空の上には不自然な数の鳥たちが舞っているのがなんとも不審であった。 近づくほどに吐き気を催す異臭が立ち込めていく。 認めたくない。認めたくはないがあの木々はもしや樹木などでなく…………。 貴族たちの願いは叶えられることはなかった。 林に見紛うばかりに林立していたのは磔の柱。数千に及ぶかつての僚友が無惨な屍を鳥の餌にしていた。 目がえぐれ腸が大地に垂れ下がり、身体の半ば以上が腐れ落ちたその光景は貴族たちに原初的な恐怖を呼び起こした。 ………かつて古代ローマでは国家に対する反逆に対して磔が課されていたという。貴族のひとりが誰に言うともなく呟いた。 「磔公…………………」