<<白銀武>>
11月6日 国連横浜基地セキュリティエリア 香月夕呼執務室
「香月博士、失礼します……、? ―――居ないのか」
執務室に入ると照明は付いておらず、夕呼は留守であった。
(しばらく待たせて貰うか―――)
部屋の照明をつけ、応接用のソファに歩み寄る。
そうそう客など来ないこの部屋には不釣り合いな重厚なテーブルに持ってきた書類を放り投げ、ソファに身を投げ出すようにして座り込む。
(―――?)
普段の執務室では感じない僅かな違和感。いや、視線を感じる。
「霞か? 珍しいな、こっちに一人でいるなん……」
口にしてから気付く。霞がいると言うのに照明すらついていないとはおかしくは無いか?
そもそも、霞には気配を隠そうとする必要性が存在しないはずだ。このフロアは霞が居る事を知っている人間以外入ってはこないのだから、気配を隠スなどと言う行動に意味はない。
更に言うならば、平時の基地内部で気配を隠す必要など誰にもなく、仮にそのような人間が居るとすれば、外部からの侵入者、もしくは潜入者だけ―――。
(―――!!)
そこまで思考が至った瞬間、椅子から跳ね起き、体を捻りながら飛び退いて距離を取る。
「誰だ!?」
戦闘態勢に入り思考がクリアになるのと同時に、自責の念が湧きおこってきた。
(くそっ……! 気を抜き過ぎた……!!)
横浜基地の機密区画のセキュリティは帝国内でもトップクラスだ。基本的に自分は衛士区画と機密区画にしか居ないのだから、部外者の危険人物のことなど想定する必要は無い。
だが、だからと言って警戒を怠りすぎたのは自分のミスだ。
何事にも絶対は無い。そんな事はとうの昔に知っていたと言うのに……。
「……そこから出てきて名を名乗れ」
懐から拳銃を取り出し物陰に向ける。
相手が誰かはまだ分からないが、ここまで入り込むような不審人物に対して警戒しすぎと言う事は無い。
「―――人に名を訪ねる時はまず自分から名乗るべきだと思うがね。シロガネタケル」
物陰から現れた人物が誰か認めて、ようやく武は理解した。
何故ここまで入り込めたのか。何故視線を感じるまでその存在にまるで気付かなかったのか。
―――それは、相手がこの男だったからだ。
「……不法侵入者の言うことではないですね。帝国情報省外務二課長、鎧衣左近殿」
「おや、既に私のことも知っているのか。ふむ……、ならば話は早い。君に土産をやろう」
そう言うと左近はどこから取り出したのかトーテムポールの縮小版の様なものをこちらに差し出してきた。
「……一応聞いておきますが、これは何です?」
「サンダーバードをかたどった御守りだ」
「サンダーバード?」
瞬間、恐ろしく短い発射台から飛び出す太った輸送機が脳裏に浮かぶ。
(……なわけねえよな)
浮かんだイメージを即座に否定する。
一つ首を振って向き直ると、鎧衣課長は奇妙なものでも見るようにこちらを見つめていたが、唐突に面白いことを思いついたかのように口を開いた。
一瞬頭の上に電球が見えた様な気がしたが、流石に気のせいだろう。
「知りたいかね?」
「いえ、結構で「サンダーバードとはアメリカの先住民族に伝わる神鳥でね」……」
……この時のためだけに覚えてきたのか、それとも以前から頭の中にあったのか定かでは無いが、鎧衣課長は“サンダーバード”についての知識を披露し始めた。
それに突っ込んでもどうしようもない事は既に知っている。今までに何度も何度も、それこそうんざりするぐらいに経験してきたことだ。薀蓄語りが始まった時点で諦めている。
だからこそ、思う事はただ一つ。
(――博士早く帰ってこねえかなぁ……)
―――20分が経った。博士はまだ帰ってきていない。鎧衣課長の薀蓄はまだ続いている。つまり、真に遺憾ながら俺の願いは裏切られたわけだ。
「―――つまり、サンダーバードの姿形に関する伝承は後から作られたものである可能性が高いわけだが……、聞いているのかね、シロガネタケル」
「はいはい、聞いてますよ……」
無論嘘である。
古今東西、投げやりな返事をする人間がちゃんと話を聞いていた試しなど無い(白銀武調べ)
そもそも聞く気もない。
大体自分は博士に報告書を提出しに来たのであって、目的不明の怪しいおっさんの暇つぶしの相手をしに来たわけではない。
「む、なんだねそのぞんざいな言い方は。いいかね、そもそも人の話をちゃんと聞くと言う事は―――」
(なんでこの親子は自分の喋りたいことだけ喋って人の話聞かないんだろうなぁ……。やっぱ遺伝か?)
一応鎧衣左近を擁護しておくと、人の話を聞かないと言う点だけでみれば白銀武もまた同様なのである。
双方に異なる点があるとすれば、半ばわざとやっているか天然かの違いだけである。
そして今の武はどうでも良い思考に埋没していて左近の話を聞いていないのだが―――
「―――あんた達、一体何してるわけ?」
その下らない思考から抜け出していないが故に、部屋の主の帰還にもまるで気が付いていなかった。
一方鎧衣左近は周囲への気配りを怠るような人間ではない。
「こんばんは。香月博士」
(人の話を聞かない遺伝子……。すぐにも淘汰されそうな遺伝子だなぁ……)
「白銀、あんた何してんの?」
「え?」
<<香月夕呼>>
執務室に戻ると何故か鎧衣が白銀相手に薀蓄を垂れていた。
近付いても何の反応もない白銀がおかしいと思ったけど、声をかけた時の反応は特におかしかった。
ウンザリした様な顔が間抜け面に代わり、だんだんと陰鬱な表情に変わっていったのだから。
(こいつなんで落ち込んでんのかしら……)
白銀が現れてからそれほど経っていない。だが、短い付き合いながらもその濃度は濃かったと思う。
その濃い付き合いの仲でも、先ほどのように面を付け替える様な百面相を白銀が披露したのは今日が初めてだ。
何故そんなことになったのかは不明だが、後々からかうネタ程度には使えるだろう。
……それよりも今は目の前に立っている男の対応だ。正直まともに相手したくない。能力は確かだから相手にしないわけにもいかないのが悩ましい。
「……それにしても帝国情報省ってのは礼儀がなってないわね。面会の約束をした覚えは無いけど?」
「これは失礼。少々急ぎの用となってしまいましてね」
「急ぎの用ってだけで手順を無視していいならセキュリティなんてもんは要らないのよ」
「いや、これは手厳しい。美女に叱責されるというのもなかなか楽しいものではありますが、そのように目尻を吊り上げられては折角の美貌が台無しですぞ」
「そんな下らないこと言いに来たわけ? さっさと用件を言いなさい」
「おっと失礼。今日の目的の一つはそちらの彼なのですが……。そうだろう、シロガネタケル君?」
「……何がですか?」
さっきまで目に見えて落ち込んでいたってのに、白銀はもう復活したらしい。それとも頭が切り替わっただけか。
まあ何時までも落ち込んで居られても目障りだから復活するのを嫌がる理由は無い。
「ふむ? 既に理解していると思っていたがね。―――死んだはずの人間が何故ここに居る? 一体君は何者だね?」
「予想どおりすぎて笑えませんよ。死んでないからとしか言いようがないですし」
「それで済むと思っているのかな? 帝国、殊に斯衛において“白銀”と言う名が持つ意味は大きい。君だけでなく、おそらく博士が考えている以上にも、ね……」
「……それは家名であって俺という個人の存在ではないでしょうに」
(―――そろそろ止めた方がいいかしら……?)
“白銀”という名が持つ意味。
そんなモノは白銀が横浜基地に現れた時点で調べて分かっている。
白銀のことだ。ある程度、もしかしたら全て知っているのかもしれない。だが―――
(万一、白銀が事情を知らないそぶりを見せたら……)
「ふむ……、君の認識は若干間違っているな、シロガネタケル。真実問題なのは“白銀”の名でも君でもない」
「? それはどういう―――」
「(!!)白銀、そこまでよ。……鎧衣課長、そんなに白銀のことが気になるのかしら?」
「“あの”香月夕呼がデータベースの改竄をしてまで部下として引き入れた男。しかも白銀と名乗っているとあれば、一部の者は気になって仕方ないでしょうな。尤も、私もその一人ですが」
「私は改竄なんかしてないわよ。私がやったのは言うなれば“回復”ね。今までは死亡扱いの方が都合が良かったからそのままだったってだけよ」
「……ふむ、一応筋は通っていますな」
「筋が通っているかどうかじゃなくてそれが全てよ」
「博士がそうおっしゃるならば納得するしかありませんな。
……それでは次の用件です。博士が御望みのモノ、少々手間がかかりそうでしてな。何か餌とするに十分な物を頂きたいのですが」
「まだ何か欲しいっていうの? 要らないものをくれって言ってるだけでしょうに、あちらさんは欲深いわね」
「自分たちには使えない不用品であっても、他人が欲しがっているとなれば高値で売りつけたくなるのが人の性というものなのでしょうな」
「ふん。……なんか使えるネタあったかしら……」
正直に言って、今自分が持つ手札にそこまでのリターンが期待できる物は無い。脅迫に近い手段なら無いこともないが、それは最終手段だ。まだそこまでの段階じゃない。
だが、私には無くても白銀には……?
私が視線を向けると白銀は意図を理解したようで、少し考え込むような表情をした後、口を開いた。
「……鎧衣課長、博士がその提案を受けるかどうかとは別に、米国への追加要求があるんですが、伝えて頂けますか?」
「ふむ? 君は何の話か理解しているようだな。……香月博士、これはつまりそう言う事だと理解してよろしいですかな?」
「……そうねぇ。こいつも私の研究に関わってる、とだけ言っておくわ」
「ほう……。成程、分かりました。で、横浜からの要求と言うのは?」
「YF-23二機。そしてプロミネンス計画によって米国が得た全てのデータです」
「……それは中々豪勢だな、シロガネタケル」
「逆に言えば横浜はそれだけの物を用意できると言う事ですよ。米国が拒否するならそれも結構。こちらの要求した物は、また後日引き渡していただくと言うだけです」
「鎧衣課長、今の要求は別に手に入らないならそれでも構わない物よ。でも最初に依頼した仕事は、きっちりやってちょうだい」
「それは無論。ではこれにて―――」
「鎧衣課長、お話はまだあるんですよ。少し待ってもらえますか?」
「……何かね、シロガネタケル」
「博士。鎧衣課長にお土産を差し上げようと思うんですが、構いませんか?」
「……ちょっと来なさい」
―――グイッ!
近付いてきた白銀の胸倉を掴んで、頭を引き下ろす。
「ちょっと博士、苦しいですって……!」
「あんた、一体何のつもり? 自分が何言ってるか分かってるのかしら?」
「……横浜に―――香月博士の計画と俺の目的に利益を齎すことは保証しますよ」
「当然よ。まず中身を教えなさい」
「11月11日早朝、新潟に佐渡島のBETAが上陸します」
「……続けなさい」
「主な上陸地点は新潟中部沿岸、規模は旅団規模。推定目標は横浜基地です。対処が遅れれば最低でも二個大隊、下手をすれば連隊規模で機甲部隊が壊滅します」
「……」
「本当は帝国の上層部に話を通すつもりは無かったんですが、鎧衣課長が現れたとなれば、ここは帝国に恩を売る絶好の機会です。
こちらの要求は横浜基地の部隊の参加だけ。ついでに新型OSの影をちらつかせれば、あとはあちらから喰いついてくるはずです」
……成程、確かに悪くない。
白銀の言葉が真実ならば、帝国に大きな恩を売ると同時に新型OSという交渉の材料を見せておくことが出来る。
例え白銀の言葉通りにならなかったとしても、横浜には――自分には損がない。
「……悪くないわね。いいわ」
掴んでいた白銀の胸倉を離して戻らせる。
白銀が元の場所に戻るまでの間に鎧衣と目が合ったが、鎧衣はいつものにやけた様な笑みでこちらを見ていた。
(……見透かされてるかしら?)
……だがそれでも構わないだろう。
鎧衣が動く時、彼は必ず一石二鳥どころか三鳥四鳥と何羽もの鳥をたたき落とす。
それは日本が滅亡の瀬戸際にある国家であるが故に、一つの石で一羽の鳥しか手に入らないようでは状況の変化に追いつかない可能性があることが大きな理由となっている。状況を大きく動かし、その中で生き残る道を探る。そのために研ぎ澄まされた能力だ。
しかし、たった一つの石で複数の鳥を手に入れるその手腕が故に、今のような状況では逆にそれを利用することが出来る。
つまり彼には、単に“白銀武を殺す”という、単一の結果しか導き出せない選択肢はあり得ない。
白銀を消すならば、それによって複数の利益が得られるタイミングを狙う筈だ。少なくとも今は、白銀を殺すことは誰にとっても不利益しか齎さない。
「お話はお済みですかな、香月博士」
「ええ、終わったわ」
「ではその土産、というものの内容を是非ご教授願いたいですな」
「白銀」
「はい。―――11月11日早朝、佐渡島を発したBETA群が新潟に上陸する、という予測が香月博士によってなされました」
「……これは驚きましたな。それは真ですかな?」
「真実かどうか聞かれても私にも分からないわ。あくまで予測だから」
「ふむ……」
「規模は旅団規模。推定目標は横浜基地。現在の新潟周辺の防衛戦力では支えきれないと思われます。事前に戦力の増強や連絡体制の徹底などをしていれば別ですが。
横浜がこの件に関して鎧衣課長に望むのは一つ。実際にBETAの襲来の可能性が濃厚になった場合、防衛に横浜基地部隊の参加を認めるよう取り計らって頂くことだけです」
本来、オルタネイティブ第四計画直属部隊であるA-01の出撃に、帝国からの許可など必要ない。
更に言えば、横浜基地に危険が迫っているとなれば基地の全部隊の出撃さえもこちらの裁量で実行可能となるため、今回のような事態ではなおさらである。
「……A-01ならば、独自出撃が国連・帝国の双方から許されているはずですが?」
「新型のOSのデモを兼ねてるからね。おおっぴらに出撃させたいのよ。何かと言うと成果を見せろって馬鹿が多くてね~」
「……なるほど、香月博士も色々と大変ですな。使われる身の悲哀とでも申しましょうか。そうそう、使われると言えばこんな話はご存知ですかな? ある種の動物には―――」
「御託は結構。用件が済んだならさっさと帰りなさい」
「おお、これは怖い……。やれやれ、忙しくなりそうですな。では、今日の所はこれにてお暇いたしましょう」
「……ピアティフ、鎧衣課長がお帰りよ。門までお送りして差し上げなさい」
「いやいや、おかまいなく。送迎などと言うお手間をお掛けするのは心苦しいですからな」
「勝手にうろつかれたら迷惑だって言ってんのよ。次からは面会予約をしてから来て下さるようにお願いしますわ、鎧衣課長」
鎧衣はピアティフに送られていった。
……帝国に対する要求は、バランスを考えれば通るのはほぼ確実だろう。
問題は米国に対する要求だ。
鎧衣が指摘し、白銀自身が理解しているように、こちらが要求したことは相当なものだ。
確かにYF-23なら手に入れられるかもしれない。幾らYF-23が世界最強クラスの戦術機であると言っても、制式採用機からも外れ、正直に言えば米軍すら持て余しているような物だ。今後も必要となる保存費用、ノースロック社の思惑なども考えれば、手放すことをそこまで惜しみはしない、と思う。
だが“プロミネンス計画”で得られた全データとなれば話は別だ。
半ば放棄された計画であるとは言え、そのデータはF-22の改良や新型機開発に使う為に米国にとってなくてはならないものだ。
所詮データである。それを渡したからと言って自国の開発で困るわけではない。見返り次第では渡してしまって構わないと言う者もいるだろう。だが米国の戦後ドクトリンを考えた場合、データの提供は大きな問題となる。
米国の最新鋭機F-22はもとより、F-15ACTVやF-18E、F-14Eと言った最新の強化型、各国で使われるF-16ファミリーの新型試験機、ソ連が使用する試験機。それらの様々なデータを利用して生み出された戦術機が米国製戦術機を上回る性能を有さないとは限らない。
勿論それは国連、ひいては世界共通の財産となるべき戦術機だ。しかし、横浜基地は国連基地であると言っても独立した立場にあり、国連・米国の双方からあまり歓迎されていない。実際の所、横浜基地は日本帝国の外部研究機関である、とする見方の方が多数派なのである。データを利用して生み出された戦術機でなく、データそのものが帝国にわたることを危惧するのは当然だ。
結局、米国上層部を納得させるだけのものを提供しないことにはデータもYF-23も手に入らない。
それを目の前の男はどう解決するつもりなのか?
「……で、撒き餌には何を用意するつもりなのかしら?」
「幾つか候補を見繕ってくるので、一応見て頂けますか? 流石に手札を全部開くわけにもいかないでしょうし」
「……あんた、あんなデータよこした上でまだまだあるっての? 一体どれだけ隠し玉持ってんのよ」
「さあ……? 少しずつ思い出してるんでその度に記録してるんですけど、正直俺にもあと幾つってのははっきり分かりません」
「あ、そ……。で、報告書は?」
「ああ、それはこっちに」
「はい、御苦労さん。データは早めに持ってきなさいよ」
「それは勿論。じゃあ今日はこれで」
(さて、どうなるもんかしらね……)
11月7日 国連横浜基地 基地司令執務室
この日、基地司令であるパウル・ラダビノッド准将の執務室には、非常に珍しい事に来客が――帝国から新たに派遣された人間を来客と言って良いのならばであるが――訪れていた。
そもそも、横浜基地に訪れる客人は香月夕呼博士に用がある人間の方が圧倒的に多い。帝国や国連の上層部に属する人間が来た時に対応するのみであるが、それもそうそうあることではない。
従って、今回のようにまず関係を持たないであろう人間の相手をするのは非常に珍しいことなのだ。
「ふむ……、君が、今回新たにこの横浜基地に派遣された斯衛の中尉かね」
「は。不破恭也中尉です、ラダビノッド准将閣下」
斯衛の中尉――不破恭也中尉はラダビノッドの確認を肯定した。
現在この執務室には彼ら二人の他に、更に二人の女性がいる。
「はじめまして。この基地の副司令をしている、香月夕呼よ」
「はじめまして。お噂はかねがね伺ってます」
「あらどんな噂かしら? 不破の人間って言うからどんな厳ついのが来るのかと思ってたけど、来てみたらとんだ優男ね」
一人は横浜基地副司令香月夕呼。そしてもう一人、夕呼の傍に立っている女性は―――
「……光栄です、と言えばよろしいですか? そう言ったことを言われた経験があまりないので複雑な心境です」
「あら、律儀ね。……一応紹介しておくわ。私の秘書の氷室よ」
「氷室と申します。顔を合わせる機会は少ないかと思いますが、よろしくお願いいたします」
そう言うと氷室と名乗った女性は頭を下げた。
左反面を垂らした前髪で隠しているためそちらの表情は伺えないが、見えている右半面は非常に美しい。
「こちらこそ、よろしく」
「……不破中尉。君の部屋はその資料の中の地図を参照してくれたまえ。荷物も既に部屋に届いているはずだ」
「地図…………。確かに、確認しました。それでは失礼します」
資料を確認した中尉は、一礼すると部屋を出て行った。
少しの間、恭也が出て行った扉を見つめていたラダビノッドだが、不意に夕呼に対して口を開いた。
「……香月博士、少し、いいかな?」
「なんでしょう、司令」
「この時期の帝国からの人員増派……、白銀大尉と関係しているとみてよいものかな……?」
「……おそらくそうだと思いますわ。帝国――いえ、斯衛がここまで反応するとは思ってはいませんでしたけど」
「…………そうか。いや、すまない。職務に戻ってくれたまえ」
ラダビノッドは両肘を執務机の上に乗せて掌を組むと、祈りを捧げるかのように目を閉じた。
彼が何を思ったのか。それは夕呼にとって大した問題ではない。
夕呼はラダビノッドがどういう人間か理解している。彼は信念を曲げるような男ではない。そして、彼の信念はオルタネイティブ4の完遂を望んでいる。
「では司令、失礼しますわ。―――氷室、きなさい」
「了解です」
夕呼は氷室を伴って基地司令執務室を退出した。
香月夕呼の半歩後ろ歩く氷室と呼ばれた女性。
彼女が一体どのような役割を与えられてここにいるのか知る人間は少ない。そもそも彼女が誰であるのか知る者も少ない。
基地中を探せば彼女の顔と名前を一致させる者もいるだろうが、そういった者はこの区域には居ない。
故に彼女が誰か知る者はいない。
彼女が誰であるか、過去に何をしたのか、これから何をするのか。その答えを知る者は香月夕呼とパウル・ラダビノッド以外存在しない。少なくとも、今はまだ―――