10月28日 1300 シミュレーターデッキ
シミュレーターデッキには、強化装備に着替えたヴァルキリーズが集合していた。
武が現れないので皆雑談に興じてはいるが、会話の内容は一様に新型OSについてだ。
彼女たちの声色や態度には、期待の色が見てとれる。
新型と言う点で不安はあるが、“あの”白銀大尉が開発を主導しているのだ。期待の方が勝るのは当然だろう。
何と言っても、彼女たちは白銀武の戦術機戦闘能力がどれほど凄まじいか、身を以って知っているのだから。
「すまん、待たせたな」
「敬礼!!」
強化装備で現れた武はヴァルキリーズの敬礼に軽く答礼すると、早々に用件について話し始めた。
「既に副司令の方から話は聞いてると思うが、以前言っていたOSのβ版が出来上がった。ついては、皆にもOS完成の手伝いをして貰いたい、と言うわけだ。
OSについての資料も受け取っていると思うが、もう一度特性について簡単に説明しておくぞ。
まず“キャンセル”についてだが、これは動作実行中に別の入力を行う事で動作を中断して別の動作を実行可能にする機能だ。キャンセル実行に必要な操作を覚えていない者は申し出ろ。訓練開始前に確認する時間をやる。
次に先行入力。読んで字の如く、動作入力を先行して入力しておける機能だな。これについては説明はいらないと思う。
この先行入力だが、先に入力した動作を実行中、または実行前にキャンセルして別の動作を入力することも勿論可能だ。キャンセルと先行入力を活用することで戦場での対応能力の幅が格段に広がる。当面はこの二つのマスターを目標にして貰う事になる。
最後に“コンボ”だが、資料にも記載したとおり複雑な動作を単純な入力で実行可能とする機能だ。まあこう言うと素晴らしい機能のように聞こえるが、その“複雑な動作”を先に覚えさせないと駄目で、今の所あまり意味がない機能になっている。応急的に俺が設定したコンボが登録されてるが、一度使ってみて合わないと感じたら、コンボの設定を解除してくれ」
武はそこで話を切ると、ぐるりとヴァルキリーズを見渡した。
「―――皆楽しみにしてもらえているようだし、早速実物に触って貰おう。
今日の所はOSに慣れることが第一だが、可能なら先行入力をキャンセルするところまでを目標にしてほしい。これが出来るようになれば、今までとは全く違った世界が見えるはずだ。―――全員、シミュレーターに搭乗!」
『はい!』
<<白銀武>>
(飲み込みが早いのは・・・、やっぱり速瀬中尉か)
感覚的に動けるようにするOSだ。元々感性で動かしている面が強い水月の慣熟が速いのは納得できる。
ついで速いのは最先任であるみちるを筆頭とした上位メンバー。そして、従来型OSに触れてからまだ日が浅い茜や多恵、晴子といった新任組の慣熟もそれなりの速さと言えるだろう。
一方、新任組の高原少尉と麻倉少尉や、祷子の後に入隊した片桐少尉と楯山少尉の慣熟が遅い。新任二人の慣熟が遅いのは単純に即応するだけの技量が無いと言うことだろうが、先任二人が遅いのは何故だろうか・・・?
(・・・ああ、そういうことか?)
動作を見ていると、どうも動きと動きの間に“間”が空くようだ。つまり、即応性の向上によって“入力と入力の間に出来る時間”が無くなっていることがまだ理解しきれていないと言うことだろう。
まあその程度なら問題は無い。指摘してやれば後は時間が解決してくれるだろう。
「・・・あー、片桐少尉と楯山少尉。入力してから次の入力するまでに間を空けてないか? 最初の動作と次の動作の間に変な“間”が出来てるから多分そうだと思うんだが。もしそうなら、入力を若干早めに繋げてみてくれ。それで動作も問題なく繋がるはずだ」
『はい!』『分かりました!』
(キャンセルと先行入力を全員にってのは難しそうだな・・・。今日の所は全員が違和感なく動かせるようになれば御の字かな・・・。―――っと)
「宮城中尉、今のは―――」
今後のことは後回しにして、今は目の前の教導に集中することにしよう―――
そうと決めると、武は教導の予定を頭から締め出し、ヴァルキリーズの機動に対して指摘を行っていった。
10月29日 深夜 白銀武自室
昼間にヴァルキリーズ、夜にはまりもの教導を行った武は、自室で資料を眺めていた。
別に今しなければならない作業ではない。それどころか作業ですらなく、単なる暇つぶしに近い。
現状では出来る事が少ないこともあり、昼間と夜の教導を終えてしまうともうすることがないのだ。帝国側にアプローチをかける事も考えたが、現状では夕呼が許可を出す可能性は低い。かと言って許可なしで実行すると、それがばれた時に夕呼からの信用をなくすことになる。
そんなわけで、武は鎧衣美琴訓練兵が退院したと言う報告書と207隊の資料を並べて、何をするでもなくぼんやりと眺めているのである。
昼間に美琴と顔合わせをした時、美琴の体調にも特に問題は無いようだった。総戦技演習を前倒ししたことで体力面で不安が出るかと思ったが、さほどの問題はないようで安心した。
が、それとは別に、美琴は何やら気になることを言っていた。―――『以前に会ったことは無いか?』と・・・。
少なくとも“自分”は初対面の筈だが・・・。
今までにない出来事に、武の心には僅かばかりの不安が芽生え始めていた・・・
<<鎧衣美琴>>
病院から戻ってすぐ、僕は神宮司教官に連れられて、白銀大尉という新任の教官と顔合わせをした。
話を聞くと、僕の退院を早めたのは大尉らしい。病院に居る間は退屈すぎて体を動かして堪らなかったから、退院が早まったのは僕にとってとても有難く、大尉にはお礼したいくらいだ。
まあそんなことは良いんだよね。僕が気にしてるのは全然別のことだし。
大尉に会った時、その顔をどうもどこかで見たことがあるような気がした。
だから不思議に思って聞いたんだ。「何処かでお会いしたことないですか?」って。
でも大尉は「初対面の筈だ。少なくとも俺には記憶がない」って言った。何処かで会った気がするんだけどなぁ・・・?
・・・まあいっか。考えても分かんないし。
総戦技演習も早まるって聞いたし、みんなの足を引っ張らないように頑張らなきゃね。
でもやっぱり気になるなぁ・・・。最近見る夢と何か関係あるのかな?
<<白銀武>>
11月1日 1300 ブリーフィングルーム
昨日、漸く新型OS『XM3』が完成した。
β版の時はOSに慣れさせることを念頭に置いていたが、これからが本当の“教導”となる。
本来なら実機で直接相手をして訓練したいところだ。しかし、自分の機体の搬入予定はまだ一週間近く先であり、現在この基地にある不知火は全てヴァルキリーズが使用している。
今のヴァルキリーズの実力を考えると、撃震や陽炎でも小隊単位なら相手に出来るが・・・。
(・・・そうだな。そうしよう。その方が楽だし)
幸い、横浜基地には撃震や陽炎の余剰機が山ほど、とまではいかないが相当な数で存在する。負けん気が強いヴァルキリーズの面々なら、性能的に劣る撃震や陽炎で自分たちと同等以上のことをやられる方が精進する気になるだろう。
後は夕呼の許可だけだが、ヴァルキリーズ用の余剰機にもXM3は搭載する予定なのだ。渋る理由がない。
シミュレーターばかりでは実戦の勘が鈍る。“11月11日”の為にも、早めに実機の感覚を取り戻しておかなければならない。
だがまあそれはそれだ。今日の所はシミュレーターでやるしかないのだから、頭を切り替えていこう。
「―――皆まだXM3に慣れ切っていないと思う。だが、今後の教導ではそれは一切考慮しない。
実戦で慣れろとは言わない。だからシミュレーターで慣れろ。自分たちが何故ここに居るか、頭に刻み込んで訓練に取り組んでほしい。・・・全員、搭乗!」
『了解!!』
武の号令で、皆一斉にシミュレーターポッドに乗り込んでいく。
武は全員が搭乗したことを確認すると、管制をしている遙に声をかけた。
「涼宮中尉、C-13を頼む」
『分かりました。シミュレーションプログラムC-13をロードします』
「プログラムの終了条件はBETAの殲滅だ。今日の所はまだ様子見だが、最終的には一人も脱落することなく殲滅してもらう」
『『『了解!!』』』
「結構。―――じゃあ始めよう」
<<宗像美冴>>
小休憩を挟みながら五時間にわたって行われたシミュレーター訓練は、私たちの心身を疲れ果てさせるのに充分なものだった。
新型OS“XM3”の慣熟を兼ねた戦術機機動訓練という名目であるが、実際の所、それは普段から行っている対BETA戦闘訓練と何も変わらない。むしろまだ慣熟していないOSを使用している分、疲労はより濃いと言えるだろう。
シミュレーターから降りると、疲労のあまりへたり込んでしまう者もいた。伊隅大尉ですら疲労を隠しきれていない。それほど過酷なものだった。―――だが、白銀大尉はまるで平然としている。
(―――疲労を隠し通しているだけなのでは?)
そうだ、そうに違いない。私たちに比べれば疲労の度合いがマシだとしても、平気なはずがない・・・。
だが次の瞬間、白銀大尉の言葉によって、私が思いこもうとしていた考えは無残にも打ち砕かれた。
「いつまでもへばってるともう一回行くぞー。なけなしの体力更に削られたいかー? 俺が平気なのに、俺より動けてないお前らがへばってていいのかー?」
―――もう一度数個連隊規模のBETA群の相手をする
考えただけでもうんざりする。今の私たちの体力では、出撃早々に撃墜判定を受けることだろう。
「・・・化け物」
・・・あんまりと言えばあんまりな呟きだ。だが、その感想には同意せざるを得ない。大尉の体力はまさに化け物じみている。
凄まじい機動制御を行い、レーザーを掻い潜ってレーザー属種を排除するというお手本を何度となく見せ、最後には援護もなしに大量のBETAの殲滅までして見せた。大尉は参加していなかった最初の一回以外、全てのシミュレーションに参加している。並の体力では途中で倒れてしまっているだろう。更に言えば、私たちは“戦死”で終わることもあったが、白銀大尉だけは毎回最後まで残っていた。段々少なくなっていく味方の中で常に最後まで残り続けるのがどれほど疲労を蓄積させるか。それが分からないほど私は馬鹿ではない。
(一体どれほど鍛えればあの域まで・・・)
隊の殆どがへたり込んでいるのは無視して、当の白銀大尉自身は伊隅大尉と何事か話しこんでいる。
「ええ、ですんで・・・。明日は・・・」
「ん、そうか・・・。分かった」
聞き取れた断片から推測するに、どうやら明日以降の予定の話のようだが、明日からも今日と同じ内容なのだろうか・・・?
私や速瀬中尉、宮城中尉などはともかく、体力的についてこれない者もいるのではないかと思うが・・・。
「それじゃあ伊隅大尉、後はよろしくお願いします」
「ああ、了解した」
白銀大尉は伊隅大尉に申し送りをするとシミュレーターデッキを出て行った。
「―――つっ・・・・かれた~」
白銀大尉が出て行った途端に速瀬中尉が盛大に溜息をついた。
確かに疲れた。β版の時は、ある程度の慣熟が済むと大尉は「各々おさらいしておくように」とだけ言い含めて去ってしまっていたので、早々に訓練は終わっていたのだ。
一日の搭乗時間を合わせれば今日と同じくらいの時間搭乗していた筈だ。それでも疲労度が違うのは常に大尉に見られていたせいだろうか。
白銀大尉の教導には、訓練兵時代に神宮司教官から感じた様な恐ろしさは感じない。
動きを見て、欠点を指摘する。時にお手本として自分の動きを見せる。
要するに、各々に自分で考えて修正させるという、非常にシンプルな方法だ。
だがそれ故に、私は大尉に恐ろしさを感じている。
問題点を指摘する際の大尉の声には、感情が全く感じられない。新任連中が同じ間違いを繰り返している時も、その声に感情は無かった。軍において同じ間違いを繰り返す人間は、地獄の刑吏を彷彿とさせるような恐ろしい声で罵倒されるのが常だ。
だが、それでも大尉は声色に何の感情も含ませない。
失敗しても怒鳴られることがないのだから、何度でも失敗すればいいではないか、と思うだろう。
だが、私の考えは違う。
失敗した時に怒鳴られるということは、教官が本気で自分たちを育てようとしていることの裏返しだ。
ところが白銀大尉は怒鳴らない。侮蔑や罵倒もしない。ただ淡々と指摘するだけの指導は、教官の本気を示すものではない。
私の考えでは、この教導は教えられる側―――つまり私たちの本気が試されているのだと思う。
本気を出さない、出せないような者は要らない。本気になって向上心を見せない者は容赦なく切り捨てられるだろう。ヴァルキリーズが香月副司令直属の特殊部隊だと言っても、軍の一部であることに変わりがない。補充兵が余所から引っ張ってこられることもあり得るのだ。
むしろ、副司令直属だからこそ可能性は高いと言えるだろう。副司令に会う機会などそうそう無いが、その少ない経験からでも、香月副司令は容赦のない人物だということくらいは分かっている。
白銀大尉は副司令の直属として着任した。白銀大尉が副司令に「誰それは使えないから切った方が良い」と伝えれば、それは確実な情報として副司令に伝わるだろう。その結果待っているのは、左遷、栄転という形で別の部隊への異動。もしくは、私たちが知る機密事項が古臭いものになるまで、実戦に出る事もなく飼い殺される。そうなっては志願して軍に入隊した意味がまるで無くなってしまう。
そんなことは我慢できないし、到底許容できない・・・。
「中隊集合!」
思案に耽っていた私の耳に、伊隅大尉の号令が飛び込んできた。
今日の訓練はもう終了だろうし、明日の予定の伝達だろう。
「明日以降のスケジュールを伝える。明日は白銀大尉が多忙らしくまとまった時間が取れないそうだ。そのため、明日は大尉による慣熟訓練は無い。
明後日は今日と同じく、1300に強化装備に着替えて集合の予定だ。何か変更があれば各小隊長に伝達する。宮城、速瀬。小隊員への伝達は確実に行うように」
『了解です!』
「あとは今日のことだが、全員相当に疲れたと思う。私も予想以上に疲れたからな。今日と明日、しっかり体を休めておけ。自主訓練をするなとは言わないが、疲れが残って訓練に支障が出るようなことが無いように。・・・以上だ」
「敬礼!!」
今日の訓練は終わった。明後日以降も続くであろう過酷な訓練を思うと、今日は自主訓練に割く時間を休息に充てるのが正解だろう。
休暇に何をして過ごそうか考える私の隣では、速瀬中尉を中心として、隊の殆どのメンバーが何やら喋っている。
最初は速瀬中尉と涼宮妹だけだったと思うのだが、そこに新任連中が順に合流し、最後には楯山や片桐までもが参加して、今では正直五月蝿いくらいになっている。
全く元気なことだ。私は速瀬中尉をからかう気にもなれないほど疲れているというのに・・・。
(・・・明日の休暇は、祷子のヴァイオリンを聞いて過ごそうか)
私は、未だお喋りに興じる仲間達に退出を告げると、久方ぶりの娯楽に想いを馳せ、祷子と共にシミュレーターデッキを後にした。
<<白銀武>>
11月2日 1500 訓練グラウンド
武は、まりもと共に207隊がグラウンドで射撃訓練をしている姿を見つめていた。
「・・・大尉、本当によろしいのですか?」
「いずれは通る道だ。前にも言ったと思うが?」
「はっ・・・」
「何度も言うが、俺はどっちでもいいんだよ。戦場で死ぬ人間が少なくなるならな・・・」
―――本当にそうか?
(・・・またか)
頭の中から声が聞こえる。とうの昔に割り切ったはずだと言うのに、まだ聞こえると言うのは自分の甘さゆえだろうか。
―――彼女たちに力を貸してほしいのだろう? 死んでも良いから隣に居て欲しいのではないか?
・・・彼女たちにに力を貸してほしいと言うのは事実だ。
過去に出会い、幾度となく愛し合い、幾度となく別れてきた。
それは既に過ぎ去った事であるが、そこに偽りなど一度としてなかった。彼女たちが居たから戦えた。彼女たちとまた出会えると信じていたからこそ、絶望の淵でも死力を振り絞ることが出来た。
だが―――
(あいつらが死ぬ事を前提になど、誰がするものか・・・!)
そう、彼女たちが死んでもいいと自分が考えるなど、決して許されない。例えこの世界の他の誰が考えて、彼女たちがそれを認めたとしても、自分だけは決して考えてはいけない。そうでなければ、何のために何度も何度も諦めずに繰り返しているのか。
結果として死んでしまうのはまだ仕方がない。各々が力を尽くした結果だ。だが、最初から死ぬ事を勘定に入れることなど、今までの自分を否定することなど、許されない。
例え一瞬でも、彼女たちが死ぬ事を考慮に入れた自分が許せない。
武は怒りに震え、爪が掌に喰い込むことも気にせず、拳を握りしめていた。
<<神宮司まりも>>
―――ギリッ
沈黙が支配していた空間に音が響く。
その音は、遠間から聞こえる207隊の訓練の音に比して、異常ともいえるほどよく響いた。
(なんの音・・・、ッ!?)
音のした方向を見やると、白銀大尉が何かに耐える様な沈痛な表情で拳を震わせていた。口は微妙に開いていて、どうやら奥歯を噛み締めているようだ。その拳には相当に力が入っているのか、既に赤を通り越して白くなっている。
(一体・・・何が・・・)
一瞬、訓練兵に何か問題があったのかと思った。しかし、大尉の隣で訓練兵を見ていた私から見ても、大尉がここまで激情を露わにするような致命的な問題など何処にも見当たらなかったのだから、それは違うだろう。
そして、先ほどまでの大尉の表情も態度も、常と変らなかった。
いや、シミュレーターデッキで顔を合わせている時よりも更に冷静な―――というよりもまるで感情が含まれていないような―――声と表情だったはずだ。
話が切れてからまだ数分しか経っていない。だと言うのに大尉のこの表情は何事だろうか。
怒りと哀しみ。絶望と後悔。様々なものが入り混じったその面持ちは、一言ではとても言い表せそうにない。
(白銀大尉・・・。貴方は一体・・・)
自分よりも遥かに年下の男が、どうしてこんな悲しい表情をしなければならないのだろう。どんな経験をすればあれほどの技量を手に入れられるのだろう。
その技量も、その知識も、まるで年齢に見合っていない。これほどの能力を初めから持っていたわけがなく、これまでに経験した中で培って来た物の筈だ。私もそれなりの死線を潜ってきているが、あとどれほどの経験をすれば大尉の域に辿り着けるのか見当もつかない。
それだけの能力が培われるほどの経験をしたと言う事は、それこそ“地獄”を見てきたはずだ。
それほどに過酷な経験をしてきたのならば、もう戦うのなんて嫌になっておかしくない。
―――だと言うのに、どうして・・・
(―――どうして、この人はまだ戦おうとしているの・・・?)
「ふうぅぅ・・・・」
出口の無い迷路に迷いこもうとしていた私の思考を中断させたのは、白銀大尉の呼吸の音だった。
肺の中の空気をすべて吐き出すような、深く、長い呼気。
それが終わって顔をあげた大尉の表情は、既に常と同じものに戻っていた。
「・・・神宮司軍曹」
「は、はい!」
「今日の訓練は終わりにしよう。訓練兵に集合をかけて、明日以降の予定を伝えてくれ」
「・・・了解しました」
先ほどのまでの表情の面影も感じられない平静とした表情。だが、私の脳裏には先ほどの痛々しい表情が焼き付いて離れなかった・・・。
<<白銀武>>
集合した207隊を前にして、まりもは伝達事項を伝えている。
「―――今までよく頑張ったな。代わりと言っては何だが、褒美をやろう。明日から約一週間、南の島でバカンスだ」
『!!』
―――この時勢に南の島へ行く。それが何を意味しているのか理解していない者は居ないだろう。
現在の207隊にとって最も重大な出来事。総戦技演習の始まりを告げる鐘が鳴らされたのだ。
「皆理解しているとは思うが、これは貴様らの基礎訓練の成果を測る物だ。貴様らの日頃の訓練の成果を存分に発揮し、最高の結果を出して見せろ!」
『はい!!』
「―――白銀大尉からは、何かあるでしょうか」
まりもがこちらに振ってきたが、現状絶対に伝えておくべきことはない。あえて言うとすれば―――。
「そうだな・・・、なら一つだけ。―――戦術機教習課程で会えるのを楽しみにしている。・・・以上だ」
「敬礼!!」
確かに、絶対に伝えておかねばならないことは無い。だが正直に言えば、伝えたいこと、話たいことはまだ山ほどある。
それでも、それらを伝えることは出来ない。今伝えても単なる自己満足に終わってしまう。皆にとって決してプラスにならない。衛士として―――人間として強くあろうと思えば、結局は自分から動くしかない。
戦術機の操作法などは彼女たちにとって全く未知の分野だ。だからこそ教導もするし問題があれば指摘する。だが、207隊の成長に求められるのはそんなことではない。
(―――這い上がってこいよ)
結局のところ、今の武に出来るのは、207隊が無事に総戦技演習を終えてくれるよう祈ることしかない。
武は内心を押し隠したまま、ただ207隊がグラウンドから去るのを見つめていた。