000 マギカ・スカパラダイス・オーケストラ 後編 000
恐るべき怪現象に悩まされ朝方まで眠れぬ夜を過ごしたキュルケ。反して間借り人の才人はたっぷり寝たが、どちらもが起きて一番最初にしたことは大きなため息だった。爽やかな朝に似つかわしくない開幕である。
「おはようサイト。朝から不景気ね」
「おまえこそな……やっぱり夢じゃなかったか」
諦め混じりに立ち上がると、平民はごきりごきりと関節を鳴らして無礼にも大口開けて欠伸する。キュルケは淑女らしく口元を覆う。その目が一瞬才人の体の真ん中あたりでとまった。
鼻で笑う。
「朝だからってちょっとは隠しなさい。レディの前よ」
「はあ?……あ、ばっ、バカ! 何見てるんだよエッチ!」
才人は赤面して毛布で体の前を隠す。普通に気持ち悪い反応であった。
「うう、なあ、トイレどこだよ」
「そんなものは存在しないわ」
突如として能面のような顔で、キュルケは言い切った。才人は当惑して眉根を寄せる。
「意地悪するなよ。おまえだってここで漏らされたら困るだろ」
「そんなものは存在しないわ」
旅立ちの町にいる住人Aのように頑ななキュルケである。ファンタジー世界の住人は食べても決して出したりしないのだ。特に女性はそうなのだ。これは夢を守るための戦いだった。
もちろん現実的にそんなわけはないのでキュルケの部屋にはちゃんと処理のための道具がある。ハルケギニアで個人用トイレといえばこれ。
おまるである。
総銀製の高級品であった。
「うおお……」
暗に示されたオブジェクトに才人は戦慄し、一時は青少年としての誇りのため使用を拒否しようとまで考える。しかし結局背に腹は変えられず、こそこそとまたがる羽目になるのであった。
無言の空間に放尿のSEがつづく。
「なんか喋れよ! 聞耳立てるなよ!」
「照れなくたっていいじゃない」
排泄と衛生観念については現代でこそ一緒くたにされているが、時代や文化によってはかなりずれが生じる。その危険性は今でこそつまびらかだが、一説によれば過去には排泄物を温床にして増えまくる病原菌が都市どころか文明を滅ぼすことさえあったという。河の上流に汚物ぶち込みまくってたら下流の村が疫病で地図から消えるなんてことも日常茶飯事だった。
しかし病気の原因と放置されたブツがイコールで繋がるまでにさえ相当の犠牲が払われたのである。無理からぬことであった。
といっても古くは中国、篭城戦をしかけた敵に対して化学兵器としてブツや死体を敵の陣地に投げ込んで伝染病の発生をあおった例もある。水源や井戸に汚物をぶちこんで使えないようにしてしまうのも常套手段である。そのあたりからして、菌といった具体的な存在には気づかずとも、「放っておいたらマズイことになる」という程度の認識はあったのだ。これは東洋では比較的衛生に関する意識が高かったことにも関係があるのかもしれない。特に史上に名高きパックス・トクガワのエドなどは当時では世界有数の大都市であり稀に見る清潔な都市でもあった。
それでもなお西洋文化における排泄に関する意識はなかなか変化しなかった。ひとつにその筋では文字通りかなり進んだ価値観を持っていた西ローマ帝国が綺麗さっぱり衰退してしまったせいもある。
もうひとつが、実はキリスト教の存在だ。信仰とは基本的にマゾヒスティックなものである。あと、支配者的にもそうしておいた都合がよい。というわけで質素で粗末であることが美徳とされた価値観が中世では横行していたのだが、これに加えて「身奇麗にするのはぜいたくなことだ」という観念も広く人口に膾炙していた。
これがまずかった。
というか、臭かった。
一応「トイレは個人的にネ」という旨の教えもあるにはある。だがそれはあくまで羞恥、意識に関する問題である。実際的に街路や河川にぶちまけられたモノをどうにかしてくれるわけではない。だって汚いし、汚れ仕事を進んでやるような奇特な人は今も昔も少数派だった。
そういうわけで比較的最近まで糞尿は街の景観の一部であったのだ。人とスカトロジーとは切っても切り離せない関係なのである。
ハルケギニアの下事情に戻る。
これはなかなか由々しき問題である。魔法学院には浴場などもあることから、そのあたりの文化は日本に近いのかもしれない。だが基本路線はやはりヨーロッパ中世的ファンタジーなのだ。キュルケもタバサも日常会話の行間で垂れ流しというケースも否定しきれない。
だからといって断定するのは早計に過ぎる。この世界で価値観の基底となっているのはいわばプリミル教。メイジ中心主義的な思想が根元にあるのだ。だから彼女たちはちゃんとトイレ対策をしていることにする。
その折衷案がおまるである。
もちろんメイジが総出でかかれば下水の整備なんかすぐさま終わる。だが上水道に汲み水を使っている現状ではそこまで発達した文明は望めない。というよりも、メイジの精神力をタネ銭にする魔法は長期的な運用に絶望的に向かないのだ。上下水道の配備はある程度以上オートメーション化が必須の技術だから、中途半端に便利な魔法が存在するこの世界ではあまり発達していない。
だからおまるの中身は寮や学院の要所に設けられたダストシュートによって地下に放り込まれることになっている。
かといって、そのまま放置したらパンドラの箱となるのは明らかだ。よって水属性と土属性のメイジは教員学生問わず持ち回りで大量の汚物の処理をせねばならないのだった。
こういうヨゴレ仕事こそ平民の仕事のはずだが、いかんせん平民には魔法が使えない。魔法が使えない汚物処理は甚だ非効率である。
具体的にどうするのかというと、まず天上から降ってきて堆積した夢いっぱいのそれらを、水のメイジが凍らせることから始める。彼ら彼女らは擬似的になら水洗トイレの再現だってできる。そのくらいはお手の物である。
あとは氷結させたそれらをこっそり外部に持ち出し、土属性のメイジが一致団結して掘った穴に投擲。さらに埋めておしまい。
この問題に関しては取り分け女性陣が絶対に(自分たちのぶんは)男性陣にはやらせたがらないので、今のところ男女別の作業だ。不経済だがこれも人のサガであった。
トリステインスカトロジー史においてこの合理的な処理メソッドに至るまでは様々な紆余曲折があった。長い歴史の末、人口増加による糞尿の悪臭悪景観が無視できなくなってきたころ、メイジが最初に取った対応策は現代の先駆けともいえる「糞尿の燃料利用」であった。
要は火のメイジが集めた汚物を燃やすだけのことだった。
好奇心豊かな人には心当たりがあるだろう。
うんこは燃やすと煙がすげえ出る。
「狼煙」という言葉がある。その語源は狼の糞を燃やすと黒煙が真直ぐと高く上がることにある。その特性が、通信網が未発達だった時代には信号として用いられた。
あといわずもがな、燃やすと死ぬほど臭う。ギリギリ公害レベルである。
結果、もちろんとんでもないことになった。
そのときの事実を記してあるという、トリステイン宮中史書にはこんな一節がある。
『霜降りし月紅蓮の火が人の業を焼き払い、天隠さぬばかりの暗雲出でたり。これ始祖の怒りとぞ余人言いけり。我ら大地に伏してただ許しを乞うばかりなり。神威を治めんとして数多霊草霊香の類焼奉す』
何があったかはニュアンスで感じ取ってほしい。
それほど容易ならざる相手だということだ。
伏線終わり。
謎の悪寒に身震いして、キュルケがうんざりした顔で提案した。
「とりあえず、顔洗いにいきましょ」
「賛成」
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「だから、あなた本当に聞こえなかったの? 昨日の夜ずっと誰かが泣いてたんだってば」
「だーかーらー、そんなこと言ってびびらせようったって無駄だってーの。魔法があるから幽霊もいるだなんて信じると思ったら大間違いだかんな」
「わたしだって幽霊の声なんて始めて聞いたわよ! あらタバサおはよう。なんでそんな逃げるようにどこかへ行こうとしてるの」
「急用」
「寝巻きのまま急用もないでしょう。ちょっと聞いていきなさいよ、あのね、昨日の夜……」
太陽が黄色い。
そしてなぜ朝っぱらから男が女子寮にいる。
ケティ・ド・ラ・ロッタは少しならず不快であった。
昨夜の件についてはとりあえずもういい。いやよくはないが、心の整理はついた。泣いて暴れて眠ったら、乙女は大抵の出来事を乗り越えられるものである。
それでもまぶたは腫れぼったいし、すっきり爽やかな目覚めとはいいがたかった。そんな矢先に持ち前のボディをぶいぶいいわせて男を侍らせるキュルケ・フォン・ツェルプストーが、いかにも「睡眠不足でござい」という眠たげな顔で男といれば、彼女のささくれ立つ気持ちもいや増そうというものだった。
なんて世界は無情なのだろう。昨日自分が失意に溺れていたまさにそのとき、シーツの海で溺れる男女が身近にいたというのだ。ケティはやさぐれた気分の命ずるまま淑女らしからぬ仕草で地面を蹴った。
「いたっ」
柔皮のブーツのつま先が何かに当たる。つんと指を抜ける痛みに、ケティはひどく憤った。路傍の石ころまでもが自分を馬鹿にしているように思えたのだ。
だが蹴ったのは石ではなかった。もっと大ぶりで、きらきらしている。なにかしら。眉間に似合わない皺を寄せたまま、地面に転がっている銀色の物体を拾い上げる。
妙につるつるとした手触りのそれは、やはり石には見えない。かといって金属でもない。知的好奇心の旺盛なケティは、寸前の怒りも忘れ物体を四方八方から観察した。よく見るとそれは折りたたみ式の板のようであった。中心に軸が通されており、そこから板を開閉して二つ折りできるようになっている。そこからすると収納性が求められる道具のようだ。中身を見てケティは今度こそ驚いた。
「絵? わあ……」
見たこともないほど細かくて精緻な絵が、開いた盤面の上半分に描かれている。下半分はチェスボードのような升目で区切られており、何のための道具かなどさっぱり検討もつかない代物であった。
誰かの落し物かしら。なら届けなきゃいけないんだろうけど……。
ちょうどそのとき、先ほど水場を離れたはずのツェルプストーの連れの男が戻ってきた。意味もなく緊張状態になって、ケティは空々しく彼から距離を取る。よく見るとその少年は妙な格好をしていた。立ち居振る舞いにも気品といったものが感じられない。そもそもローブを着ていないのだ。いやだわ、まさか平民なのかしら……。
ケティの心にツェルプストーに対する軽蔑にも似た思いが生まれた。恋多き生き様には憧れないでもないが、相手が平民となれば別だ。ケティは実家でおひいさんをしていたころから、父に耳にタコができるほど平民のずるさを聞かされていたのだった。いわく、彼らは隙あらば仕事をさぼることばかり考える。教養はないくせに悪知恵ばかり頭が回る。とにかくどうにかして他人を貶め、自分が楽をするかしか考えていない。
そうこうしている内に少年はきょろきょろと視線をさまよわせて、ついにケティに近づいてきた。
あまつさえ声までかけてきた。
「あのう」
「ひぎぃ!」
「いやひぎぃって」
思わず変な悲鳴をあげたケティを、少年は苦笑して見つめた。ケティは精一杯の虚勢を張って堂々と彼に応対する。
「ななな、なんでしょう? わたくしに、ななにかごよう?」
「ああ、うん。このへんでさ、俺の携帯見なかった?」
「ケイタイ?」なにそれ。
少年、しまったという顔で、
「えーと、このくらいの大きさで、ちょっと見光ってて、中を開くと映像……絵が見える機械、じゃなくて、道具、なんだけど。俺のなんだ。このへんで落としたと思うんだけど」
知っている。それなら知っている。
今まさに手の中にあるではないか。
なんだ、とケティは思った。この少年のものだったのか。ならば返してあげればよい。それで終わりだ。
しかし、
「知りませんわ、そんなの」
ケティは答えていた。台詞を終えてから、あれ、と自分で訝った。なんでこんなことを言っているのだろう。これじゃあ、まるで、いやしい盗人ではないか。
そっか、と少年は頷き、笑った。
「ありがとう。変なこと聞いてごめんな」
横柄な態度ではあるが、謝りさえして、もと来た道を戻っていく。
ケティは何も言えずその背を見送った。まだ間に合う。いま言えばわたしはどろぼうじゃない。何食わぬ顔で、たった今見つけましたの、そう言って彼に渡せば、誇りは守られる。こんなつまらないものを盗むなんて貴族の名折れだ。
しかし、ついに声は出せなかった。ケティは胸に大きなしこりができるのを感じた。いつか、両親におねしょを隠そうとしたときの罪悪感にそれは似ていた。
どうせたいしたものじゃないわ。平民の持ち物だもの。ケティは自分にそう言い聞かせた。
今日、学院の授業はすべて休講だ。朝食を食べる気にもなれず、重い足取りで彼女は自室へ向かった。
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その朝、ヴァリエール公爵家からは予想外の人々が訪れた。夜を徹して彼らが旅路を急いだことも驚愕に値するが、公務で不在の長姉エレオノールを除いたすべての家人が集合したのだ。
彼らはオスマン学院長の案内でルイズの亡骸に対面し、一様に沈鬱な面持ちで言葉も発せずにいた。厳格で知られる公爵や夫人さえもが、永遠に成長を止めた娘を前にして、衆目がなければあらぬ醜態を見せかねない様子だった。
特に次女カトレアの狼狽振りは、誰もが目をそらすほどだった。生まれて以来ほとんど初めてヴァリエール領を出た目的が、よりにもよって妹の死を確認するためだったのだ。その悲嘆は推して知れる。
オスマンが気を利かせて部屋を退室したとたん、身も世もない慟哭がほとばしった。
「……ああ! ルイズ、わたしのルイズ! どうして、こんな……」
まことしやかに流れていた噂がある。
ルイズ・フランソワーズはヴァリエールの厄介者だというものだ。
今、家族の悲痛な表情を見れば、誰もそんな言葉は吐けなくなるに違いない。
「たまらないわね……」
遠巻きにルイズの家族がいる部屋を眺めていたキュルケが、重苦しい声でいった。タバサさえもが、どこか居心地悪そうに顔を伏せている。
才人だけは、感情の処し方に迷っていた。彼は最大の関係者であり、無関係者でもある。ある意味危うい立場にもいる。内心の懊悩を表すようにかみ締められた唇を横目にして、キュルケは彼に釘を刺す。
「余計なこと考えないほうがいいわよ。あの人たちの前に出て行ってごらんなさい。魔法で八つ裂きにされるくらいならまだいいわ。一瞬で死ねるのだもの。だけど、もしただ見つめられたら、あなた何が言える? 何ができるの? まさか、謝るなんて言い出しはしないでしょうね」
「わかってるよ」憮然と才人は言う。「俺がいきなり出てって何かしたって、あの人たちを困らせるだけだ」
そもそも、彼は死者と言葉さえ交わしたことはない。繋がりといえば、いまだ消えず痛熱を孕む左手のルーンのみだ。
キュルケは肩をすくめる。
「そういうこと。べつにあんたの唇に毒があったわけでもなし。気の毒だけど、ヴァリエールは病で死んでしまった。平民のくせにつまらない責任は感じないことよ。その生まれ唯一の長所は、なにごとにつけ無責任でいられることでしょう?」
「泊めてくれたことには感謝してるけど」才人はいった。「俺、貴族ってやつが大ッ嫌いになれそうだ」
「ようやく平民の自覚が出てきたみたいじゃない」
「そうかよ」
吐き捨てる才人がなおも言い募ろうとする。
それを杖で制して、タバサが呟いた。
「来る」
ルイズの姉だというカトレアが部屋から姿を見せる。覚束ない足取り。心がまるでどこかに行ってしまったかのように、瞳の焦点は合っていない。紙のような顔色は、才人たちが昨日見たルイズの肌よりも死人に近く見えた。
普段は穏和に緩められているのだろうカトリアの目じりは、寝不足のための隈に縁取られていた。廊下で立ちすくむ学生の姿を認めると、彼女はそれでも気丈な足取りで近づいてきた。
間近で彼女の顔を見た瞬間、才人の左手が激しく疼く。思わず顔をしかめるほどの痛みだ。苦労して表情を押し殺していると、カトレアが茫洋とした声でいった。
「あなたたち、ルイズのお友だち?」
「ええ。フォン・ツェルプストーの娘ですわ、ミス……」
「カトレアでいいわ」
「ではレイディ・カトレア。わたくしはキュルケ・アウグスタと申します。こちらはタバサ。ミス・ヴァリエールとは同窓でした」
「そう。あなたが……いつもルイズの手紙に名前が出ていました」
キュルケは苦笑した。
「悪口ばかりだったでしょう? 正直申しまして、わたくしたちあまりよい関係ではありませんでしたの。お察しいただける?」
カトレアはかぶりを振った。
「家同士のことなんて関係ないわ。あの子は気難しいところがあったから、あなたのように正面からぶつかれるお友だちがいて幸せだったと思います。それで、そちらの彼は……?」
矛先を突然向けられて、才人はとっさに口をつぐんだ。下手なことは口に出来ない。ただ無関係だと言い切ることも抵抗がある。すぐにキュルケが助け舟を出した。
「彼は学院で奉公している平民で、その、ヴァリエール嬢に憧れていたんだそうですの」
「まあ……」
病んだ瞳が、笑みに細まる。その顔を直視できず、才人は顔を伏せた。相手は勝手に悲しんでいると解釈してくれるだろう。
「きっと喜んでいるわ。あの子も」
「……いえ」
カトレアが本心で言ってくれているとわかるだけに居たたまれない。才人は今すぐこの場から逃げ出したい気分だった。一人きりになって、そして泣きたいのはこっちのほうだと吐き出したかった。どうして突然見知らぬ世界につれてこられた挙句、人の死に触れなければならないのだ。俺が何か悪いことをしたか? 理不尽だ。納得いかねえ。
かといって誰を責めることもできない。咎があるとすればそれはたった一人の少女で、彼女はもうこの世にいない。
行き場を失ったフラストレーションが堆積していく。噛んだ歯は、夢のような現実の味を伝えてこない。
「ねえ。よかったら、あの子、ルイズの部屋を見たいのだけど、いいかしら……」
「ええ、もちろん――」
頷くキュルケをよそにして、才人は無言でその場を離れた。自分がこれ以上いるのは場違いに過ぎると感じた。背中に頼りない声がかかったが、振り切って歩いていく。左手の痛みはどんどん増していく。朝食で相伴に与ったパンがまるでコールタールに化けたように、下腹部が重たい。
中庭に出た。
相変わらずの春模様だ。
陽気はなんら才人を慰めないが、そもそも慰められる立場に彼はいない。
だから、昨日少しだけ話したメイドが顔を覗き込みに来るまで、その場で不貞寝を続けたのだった。
ところでヴァリエールさんちの末娘が母校を消し飛ばすまで残り三時間を切りました。
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しょぼくれた顔で部屋に引きこもったケティは三分で罪悪感も忘れて未知の道具のトリコになった。
「すごい、これ。しゅごぉい……」
時代が重なるにつれて色々と便利になっていったり逆に不便になっていったりするのが文明だ。逆に人間が有するスペックは、大局的見地に立てば恐らく有史以来劇的な進化は遂げていない。なんとなれば経験の蓄積と継承こそが人類を調子付かせた最大の武器である。
世界は違っても同じヒト科であるハルケギニア人の、しかも知識層であるケティにかかれば、ケイタイなるあの平民の持ち物が過ごそうな仕掛けのアイテムであることは一目瞭然であった。
まず記号が印字されてる盤。
ケティはこれを押すとケイタイの上半分にある絵が反応することに気づいた。あとはちょろいもんだ。操作キーの存在と反応にたどりつくと、詳細はわからないながらもあれこれと機能を引き出せるようになるまで、さして時間はかからなかった。
まず音が鳴る。これがまず凄かった。風の魔法のなかには音を記憶させて遠くまで運んだりするものもあるが、このケイタイがするのはそんなレベルではない。小さな箱の中に奏者がいるように、さまざまな音色が響いてくるのだ。
そして震える。これはそんなに大したことはない。ちょっとだけ魔が差していけないことに使おうかとケティは思ったがすぐに諦めた。
そして、なんとこのケイタイには『目』のようなものがあることにまでケティは感づいた。カメラ機能の発見である。実際には動画も撮れるし見れる機種だったけれど、彼女がそこまでたどりつかなかったのは持ち主にとっても幸いであったろう。データには普通にエロ動画も入っていた。
「なにこれ、なにこれぇ!」
カシャリカシャリピンピロリンと周囲を乱写して、ケティはわめきたてた。
余談だが、カメラの原理、つまりカメラ・オブスクラと呼ばれる現象はハルケギニアでも知っている人は知っている。ピンホールカメラのスケールアップ版、暗い部屋に穴を開けると差し込んだ光が壁に逆像を映すあれである。
地球において『カメラ・オブスクラ』という光学的現象の研究は十世紀ごろすでに始められていたし、カメラ自体の発明も十六世紀と比較的早期なのだが、これは現在のような記録保存用の媒体とはかなり違う使い方をされていた。使用していたのは、主に画家や天文学者。どちらも用途は観察である。
ここハルケギニアでもその歴史を踏襲している。
それがなぜかというと、像を写す技術はあっても、それを留め置く手段、つまり写真が、かなり後期にまで時代を下らないと発明されないためだ。これは単に必要がなかったせいもある。
理由をいくつも陳列するまでもなく、写実主義画家の手によるハイエンドとも言うべき絵を一見すれば真実の一端は悟れる。記録ならば文字で足りたし、記憶も技巧を尽くした筆で足りた。ハルケギニアの思想的潮流や肖像の受容がロマン主義隆盛の西洋に追いつくまでは、というか六千年経ってもだめな以上たぶん追いつかないが、精密さにもいささか過剰の感がある写真は開発されないままだろう。
しかしそんな瑣末な事情はうっちゃって。
ケティは感激していた。
すごいものはすごい。
メモリも残余電池も気にせず、あらゆる角度から自分を激写しては自分の可愛さを確認したりしていた。ライト機能に気づいてからはもう凄かった。上目遣いかつ美白な自分を見た瞬間には「なにこれどこの絵本から抜け出してきたのこの美少女!」と思うほどであった。
瞬く間に時間が過ぎていった。しかし、
「ケティ? ミス・ロッタ?」
「あ、はい……」ノックの音に反応し、ケイタイに写る自分の顔から目を剥がす。
「もうじきお昼よ。よろしければご一緒しない?」
「は、はあ」
隣室から昼食の誘いが来ると、とたんにケティはげんなりとしてしまう。
本音は無論行きたくない。
ギーシュや、彼といた上級生と会うかもしれないからである。
直接会って、がつんとものを言わなくてはならないのは彼女もわかっていた。浮気――どころか、あの調子では自分がまさにその浮気相手かもしれない!――を咎めるにも心の準備というものが要る。できるならばそれは場の勢いで押し切ってしまうのが望ましい。愁嘆場というものは、続ければ続けるほど被害者が「かわいそう」になってしまうからだ。
ケティは確かに怒っているし、貴族にもそうした性質の子女が多いのは事実だ。
だが彼女は哀れまれたくなかった。大人しく見えても、蝶よ花よと育てられた彼女は充分以上に自尊心が強い。母親が貴族らしからぬ気丈なひとだったこともあり、めそめそと泣いて哀れを誘ったり異性の歓心を買うような真似はごめんだ。好きなら好き。嫌いなら嫌い。白黒つけたいのがケティの信条であった。
友人の声がドア越しに響く。許可もなく入ってくるような不調法はさすがにしない。
「どうかしたの? まさか、お加減でも悪いの!?」
「い、いえ。そんなことはありません!」
そう思っているのに体は動かない。
何事をなすにもエネルギーがいるのだ。一晩泣いて午前中もカメラ遊びに夢中だったケティにはもう気力が残っていなかった。
それでも行かねばならないのが付き合いというものである。ただでさえ今朝の朝食には出ていないのだ。わけもなく誘いを断ったりすれば、クラスでの孤立を招くかもしれない。
昨日死んだというかわいそうな上級生もちょうどそんな境遇であったという。
ぶるりと身震いして、ケティは身支度を整えますわと友人に返答した。
食堂には、ケイタイを持っていくことにした。盗んだものを身から離しておくのは、いかにも気が進まないのだった。
そこで、彼女は伝説を目撃する。