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ハルケギニアがもし百人の村で、才人がイデオンだったら、そろそろ村全体が因果地平に飛ぶ。
それほどに才人は不機嫌であった。
彼は今食堂で給仕をしている。
「サイトさん、これはあっちのテーブルにお願いします!」
「おう、任せとけ」
「……あの」
「ん? なんだよシエスタ」
「大丈夫ですか……?」
「全然余裕」ぎこちなく才人は笑う。
本当は余裕じゃない。
とっくに限界を超えている。
昼寝中に現れたメイドはいみじくも名をシエスタと言った。そこで才人と彼女は改めて二三雑談を交わしたのだが、典型的現代日本人として若い身空で奉公にいそしむ少女を見てしまっては、ああそうじゃあ俺は寝るから放っておいて、とはなかなか言えない。
結果後ろ向きな動機で前向きな感じに手伝いを申し出ることになった。
恐縮するシエスタだったが、どうやら彼女の頭の中で才人の立場を掴みかねていたらしい。同じ平民でありたまたま迷い込んで不自由しているのだと告げると、快く申し出を受け入れてくれた。かといって専門的な仕事など才人には出来ない。料理は論外だし薪も割れない見事な役立たずである。素人にでもできる配膳を受け持つしかないというわけであった。
アルヴィーズと呼ばれているらしい食堂は見事なものだった。へたな大学のキャンパスよりも見ごたえはある。そこかしこに置かれたインテリアも嫌味なく空間の雰囲気に映えているし、こんな状態でもなければじっくりと見学でもしたいところだ。
もちろんそうは行かなかった。
違和感は始めからあった。才人が配膳ワゴンを引きずって食堂に入った瞬間から、ざわざわと一部の食卓からどよめきが上がったのである。あまりにも耳障りな小声が食堂全体に伝播するまでは一瞬だった。
あの平民。あいつ、例の。ヴァリエールが召喚したっていう。死神。道理で冴えない顔をしている。目も死んでる。頭も悪そう。やだー今こっち見た。えんがちょきーった。
視線も陰口も雪だるま式に遠慮がなくなっていく。才人は当然すぐに事情を了解した。そしてこの不快な反応の理由も察した。これで空気が読めないやつは脳が終わっている。彼はひきつり笑いで配膳を続ける。皿をテーブルに置くと大げさに嬌声が上がる。
「うわあ、あいつの皿だぜ、ぼく! なあ、頼むから交換してくれよ!」
「はは、運がなかったな。血を吐いて死なないように気をつけたまえ!」
才人は動じなかった。いや動じていたが、気にしないふりを懸命に努めた。
なるほど、なるほど。口中で何度も繰り返し頷いた。
どうやら自分は疫病神で、遠路はるばる異世界にまで自分を召喚してくれた女の子をとりついて殺してしまったらしい。それでその死も、この連中にとっては食事時の暇を潰すネタのひとつであるらしい。先ほど深刻に悲しんだ美しい女性を見たあとだけに、嫌悪感はひとしおだ。才人はよどんだ目で配膳を続けていく。
からかいの眼差しと喧騒はなおも続いた。才人は常に無表情を装った。彼らが本気で言っているのではないことくらい、才人にもわかっている。ただそれは才人の怒りに拍車をかけこそすれ、何の冷や水にもならなかった。ここがこういう世界なら、と彼は思った。あんがい、あの子が胃潰瘍で死んじまったっていうのも本当かもしれないな。こいつら全員くそったれだ。人が死んだのをなんだと思っていやがるんだ。それとも、これがこっちの『普通』なのか? おかしいのは俺やあの女の人のほうで、人が死ぬことなんてこの世界じゃ大したことじゃないって言うのか?
ありえそうなことに思えた。何しろ骨の髄までふざけた世界だ。
そうだとすれば――いくらか浮ついて、鮮やかに見えていた異界の彩りも、才人の内部で急激に価値を失い始めた。居並ぶ自称貴族でメイジだというおめでたい連中の頭を端から飛ばせればどれだけ爽快だろう。そして今の才人にそうしない理由などない。彼はまだ魔法の恐ろしさを知らない。その存在自体に半信半疑ですらある。
それでも、ここで暴れては好意で仕事を仲介してくれたシエスタに申し訳が立たない。才人はどうにかもっともうるさい一群をやり過ごした。その先で、キュルケとタバサ、こちら側で数少ない見知った顔が卓についている。
「なにしてるのよ、あんた」キュルケが呆れ顔でいった。「あんな連中の前に顔なんか出したら、いいカモでしょうに」
「なるべくならもう少し早く言って欲しかったな」才人は無表情で答えた。「……あの人は?」
「帰ったわ。公爵家ともなれば葬儀の準備にも色々あるでしょうからね」
「あの……なんとかって子も?」
「もちろん、ルイズの死体も一緒よ」
そうか、と才人は頷いた。わけもなく肩の荷が軽くなったように思えた。同時に舫を解かれた舟のような、当て所のない寂寞が胸に吹き込んだ。決定的な指標を永遠に失ってしまったのだというような、それは違和感だ。左手の痛みが、いつの間にか治まりつつあった。
昼食のパンをむしりながら、キュルケは「それで」と才人を流し見た。
「いくあてはできたのかしら」
「目下、考え中だ」
「ま、もう一晩くらいは泊めてあげるから、せいぜい真面目に考えなさいな」
「……さんきゅ」
才人は素直に頭を下げる。気に入らないところは随所にあるが、キュルケに世話になっているのは事実だ。単純に異性だとか人間に認識されていないだけかもしれない。それでも恩義は感じていた。昨夜は反発心から大口を叩いたが、実際、今のところほかに頼れそうな存在などいはしないのだ。
もう一度「ありがとう」と言おうとすると、背後から声が割って入った。
「『もう一晩』? 聞き捨てならないな」
「あら、ベリッソンじゃない。ご機嫌いかが?」
ひらひらとキュルケが手を振る。その目線を追って、才人はマントを羽織った少年を見た。正確には青年の域に届きつつある、体格も顔立ちもいかにも西洋風の、恐らくは男前に分類されるであろう種類の人間だった。ついでに言えば、先ほどまで才人を笑っていた顔ぶれのひとつでもある。
キュルケとは顔見知りの気配だったので、才人は素直に身を引いた。もともと知り合いなどほとんどいない場だ。友人同士の会話に挟まれても居心地が悪いだけである。
しかし、ベリッソンと呼ばれた少年は才人を見逃さない。
「待ちたまえ、平民。きみにも聞きたいことがある。このレディの潔白に関わることだ」
「はあ」
彫りの深い造作の奥で、瞳がするどく光って才人を射抜く。
「今しがた聞いたことだよ。泊まるとかなんとかいっていたが、まさか彼女の部屋で一晩を過ごしたと?」
「まあ、うん」
やや挑発的だったかもしれない。それでも内心の苛立ちからすればずいぶん控えめに、才人は肯定した。ベリッソンの顔がわずかに歪んだ。
「キュルケ。いくら相手が平民だとはいえ、どこのものとも素性の知れない……それも、あのヴァリエールに害をなした張本人を部屋に泊めたというのか?」
「害をなしたって、ちょっと待てよ」
「サイト、あんたは黙ってて」気色ばんだ才人を制して、キュルケはあくびを噛み殺した。「なんだか誤解があるようね。『ゼロ』のルイズの死に、そこの彼は無関係よ。先生からもそのあたりきちんと報告があったはずだけど?」
「そんな建前はどうでもいい。いいかいキュルケ。きみは貴族だ。そしてこいつは平民だ。軽はずみな気持ちで名誉に傷がつくようなことはするべきじゃない」
『こいつ』呼ばわりされた才人のメーターがまたひとつ上がった。
キュルケはため息をついて答えた。
「わかったわよ。以後心がける。それで、用が済んだら戻ってくれない? なんだか目立っているみたいだし」
純粋な善意からの行動を否定されてやや硬化したのだろう、キュルケのベリッソンへの言葉は冷たい。思わぬ反応に面食らって、ややベリッソンがしり込みしはじめる。実際、物見高い貴族の少年少女たちにとって、その一隅はちょっとした注目の的になっていた。
「どうしてそんなことを言うんだ。ぼくはきみのためを思って」
「わかったってば」キュルケがうるさげに手を振った「それにわたし、昨夜あまり寝ていなくて眠いの。さっさと部屋へ戻って仮眠を取りたいのよ」
「な。なな、なんだって? 寝てない? なあ、それはどういう意味だ、おい!」
「ご自由に勘ぐったらいいのではなくて? たぶん、あなたが思ったとおりの意味よ」淑女の微笑で、キュルケが言った。
「こ、この――」ベリッソンの顔がなぜか才人の方を向いた。「平民ふぜいが!」
ハルケギニアで出会った貴族の一般例に漏れず日本では考えられないほど自尊心が強そうな少年の反応を見て、才人の冷静な部分が判断していた。あ、こいつ、引き際を間違えたな。ていうかこの女、今煽りやがった。ちらりと視線を合わせ、キュルケが舌を出すのを見て、才人は彼女の食わせ物であることを改めて知った。しかもどうやら、結構な『やり手』であるらしい。
襟首を掴まれても、才人はすぐに反応はしなかった。固められた拳が頬を打っても、ろくに動かなかった。怒る機会を一度逸してしまうとこんなものだ。ともあれ殴られて大義名分は立った。これでやり返せる。意外と好戦的な才人は、嬉々としてベリッソンを見返す。
「やりやがったな」
「なんだ。その目は。まだ足りないのか? 今度は魔法を食らいたいのか、平民! 礼儀というものを、じきじきに教育してやる!」
魔法? やってみろ。
才人は拳を握る。
ベリッソンは杖を抜く。
悠然とキュルケが割って入った。
「落ち着きなさい。こんなところで決闘の真似事? いまは昼食の時間よ。荒事ならよそで――」
彼女に誤算があったとすれば、手玉に取った男の激昂が予想以上であったことだ。そして、怒れる恋人がベリッソンひとりではなかったことも。
拍子を抜かれて拳を緩めた才人の背を、第三の男の足が襲った。衝撃に体がつんのめり、キュルケにぶつかる。
「スティックス、あなたまで」
「あいにくと、ぼくはもう食事を済ませたんでね」野趣溢れる長身の少年が、憎憎しげに才人とベリッソン、そしてキュルケをにらみつけた。「キュルケ、ああ、キュルケ。きみはとても魅力的な女性だ。それは認めよう。ほかにボーイフレンドがいたことだって知っていたさ。それでも耐えた。いつかぼくに振り向いてくれるって信じていたからね」
「あそう」才人を抱くキュルケの顔にはさすがに焦りがほのみえる。「あちゃあ。ごめんね、サイト。もてる女はつらいわ」
「謝るなら逃がしてくれよ。俺、よく考えたら関係ないぞ」と言いつつ胸の感触を楽しむ才人だった。
「乗りかかった船じゃない」キュルケは片目を閉じてみせる。
「聞けよ! キュルケ! ぼくは傷ついたんだぞ!」
スティックスは震える声で続けた。感情が高まるあまり、彼の肌は赤黒く変色している。
「だが! まさか平民なんぞと! キュルケ・アウグスタ・フレデリカ! ぼくはきみを買いかぶりすぎていたようだ!」
謎の平民、キュルケ・フォン・ツェルプストー。それに学院の色男二人を加えた修羅場である。もはや注目するなというほうが無茶な状態になっていた。
しかし一方、このアルヴィーズの食堂では例のイベントもひそかに深く進行している。当事者でありながら目の前の出来事に嫌気がさしていた才人だけは、そちらにも気づいていた。
「なあ、可愛いぼくのケティ。いったいどうしたんだい? 黙っていないでなにか話して、そして花咲くようなきみのあの笑顔を見せてくれ。ねえ、ぼくがなにかきみの気に障るようなことをしたのなら、謝るからさ」
ケティ・ド・ラ・ロッタは、先ほどからしきりに話かけてくるギーシュ・ド・グラモンに対して沈黙を貫き通していた。まわりの気遣わしげな視線を振り切り、黙々と食事を続ける。
時おり隣のテーブルで起きる騒動にも視線を投げる。渦中に彼女がパチったケイタイの持ち主と思しき平民がなぜかいるのだ。ギーシュとは別の意味で気になってしょうがなかった。半分は自業自得である。
「あの、ミスタ。ミスタ・グラモン? こちら、落し物を……」
そして必死にケティのご機嫌を取るギーシュもまた、彼が先刻床に落とした香水を拾ったシエスタを無視し続けている。
シエスタは才人がなにやら揉め事に巻き込まれているようで気が気でないのだが、ここでギーシュの落し物を放って置くことも奉公人としてあるまじき対応である。どうにか受け取ってもらって誰か人を呼んでこようと、多少礼を失した態度でギーシュに何度も話かける。
ケティはそのメイドが持つ香水の瓶をじっとりとした目で見つめた。間違いない。あれは昨夜の女、ミス・モンモランシ手製の香水に違いない。女子寮では、彼女の作る香水はちょっとした名物なのである。見間違うはずなどない。
ますます沈黙を頑ななものにして、ケティはさっきから剣呑な視線を寄越している金髪巻き毛の上級生を見やる。あらあらミス・モンモランシ。あなたもわたくしのことを知らなかったクチですか? もう少し歯噛みしてください。昨夜のわたくしのように。ほほ。ほ。
がじがじとスプーンを噛んで、ケティは一晩のあいだ溜めに溜めたものを発散するタイミングを今か今かと待つ。なにかきっかけがあれば、平手と言わず魔法のひとつもギーシュの顔にブチ込む覚悟である。
同時進行中の修羅場も佳境だった。スティックスがあまりにもやばい言葉をこぼしたのだ。
「平民なんぞと! キュルケ! 貴族たるものが、まるで安淫売のように軽薄なことをしでかしたな!」
「――――――なんですって」
ビッチと売女とアンリエッタ。ツェルプストーの女に対する禁句であった。
彼女らは、恋多き人生を送る。
しかし金のために体も魂も売ったことはない。
「もう一度いってごらんなさいスティックス。そのどうしようもない品性ごと焼いてあげる」
食堂の気温が二度上がった。
もう誰も引き下がれない。
遊びでは済まない。
生徒たちは、ことここに至り、自分たちが火薬庫のど真ん中にいることを悟る。
遅すぎる理解だった。
「……」
我関せずを貫きサラダを平らげていたタバサが、卓上の食器を抱え込んで椅子を降りる。身を伏せて大過をやりすごす準備を整えた。
そして焦りまくるシエスタ。ギーシュをどうにか振り向かせようと、ついに彼の袖に手をかけた。ほんの軽く。
「さっきからうるさいぞ平民のメイドごときが!」
余裕を失ったギーシュが、その手ももろともに、シエスタの体を払う。「きゃっ」と声をあげて、なすすべもなくシエスタは顛倒した。
「ぼくはそんなもの知らないって言ったんだったら言ってるれ言って……へぇ?」
そのとき、ギーシュは見た。
飛んだ才人の靴の裏を。
見事なドロップキックであった。シエスタの体が弾かれた瞬間、放たれた矢のように才人の体は動いた。一ニ三ジャンプ。大理石の床を蹴って到達した頂点は実に百八十八サント。テーブルひとつを飛び越えて下降線上にいたギーシュの顔面を、才人のスニーカーは見事に捉えた。
もんどりうってテーブルを巻き込み、冗談みたいに転がっていくギーシュ。ガッツポーズを取った女の子が場に三人いたが、たいていの生徒たちは唖然として今の受け入れがたい光景を見送った。
食器が床を叩いて割れる。盛大な不協和音と裏腹に、喧噪はぴたりと止んだ。才人はそれに満足する。ゆらりと立ち上がり、
「はあ」
と、息を吐いた。
誰もが、固唾を呑んでこの平民を見守っていた。タバサさえ予想だにしない展開にサラダを食べる手が鈍っている。
平民が。
貴族に。
ドロップキック。
トリステイン史上類を見ない出来事だった。
トリステイン史など知らない才人でも、封建制で身分の違いがひどく重要らしいこの世界の雰囲気は漠然とつかめる。
やばいかな、と思う。
やばいんだろうな、と思う。
しかし、マヌケ面をさらす連中を見れば、ずいぶん溜飲は下がった。まあいいや。後のことは後で考えよう。それより今はこの煮えくり返ったはらわたをどうにかすることが先だ。絶対にそうだ。「はーあ」と才人はけだるげに唸る。
それから爆笑した。
「アハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ」
全員「こいつ狂った」と思った。
才人も自分でちょっとそう思っている。まったく笑える気分じゃないのに体は笑えるのだ。これは狂ったとしか思えない。脅えるシエスタの手を取ってとりあえず立たせると、彼は笑い続けたままキュルケのもとに向かう。
「さ、サイト? ど、どうかしちゃった?」
才人は笑って答えない。脳裏に昨日からの色々な出来事や光景が閃き過ぎって消えていく。まるでメリーゴーラウンド。行きたくもない予備校。手に持った鞄の重さ。秋葉原を歩いていたら突然目の前に鏡。それをくぐったのが運の尽きだ。景色は電気街から突然異世界の草原に変わった。そうだ思い出してきたぞ。そこに桃色の髪のすげえ可愛い子がいたんだっけ。なにかいったかと思ったら、その子は俺にキスをした。そこから全部おかしくなった。女の子が突然倒れて血を吐いた。俺は放置された。なんの説明もなかった。おまけに左手は死ぬほど痛かった。正直ちょっと、いやいっぱいちびるほど痛かった。で、ようやく建物に行ってみればここは魔法使いのいる世界だと? 魔法学院だと? なんだそれデキわりー。だいたい魔法の学校ってハリーポッターかよ。しかも俺を召喚した女の子は勝手に死んじまったときた。わけがわからない。セオリー無視にもほどがある。俺はどうすればいいんだ。いきなり放り出されたぞ。右も左もわからない、この世界で。
独りで。
そういうこともあるのか。
あるんだろうな。
あるんだから。
才人はぴたりと笑いを止めて、キュルケの目を見た。
「ストッキング脱いで。貸して」
「え、え、え?」
混乱するキュルケは意外と素直だった。ブーツをズルリと脱がせ、右足を覆うストッキングを奪う。思ったとおり弾性に富んだ素材だった。化繊がないであろうこの世界でどうやってこんなものを作るんだろう。まあそんなことはどうでもいい。
才人は手近に詰め込みやすくて硬いものを探す。見当たらない。フォークやスプーンではだめだ。皿も大きすぎる。しょうがないかと、ポケットの硬貨入れからすべてのコインをストッキングの中に詰め込んだ。思ったよりも量があった。そういえばゲーセン行こうと思ってたんだよな。せつない気分に一瞬ひたり、袋状になったストッキングの口を縛り、手に持った。
いい感じだった。
おまけに、なぜか不思議な力まで湧いてくる。体が熱くて軽い。手中にある即席の錘を、どう扱うべきかも驚くほどよくわかる。たった今触れたキュルケのソックス・ストッキングが、まるで十年来の友人のように親しく感じられる。嫌な親近感だ。
準備が整った。
「おい、おまえら」
才人はベリッソンとスティックスのみならず、長いテーブルにつく男子生徒の顔をまとめて指差した。
「さっき俺を笑ったおまえら。全員ぶっ飛ばす。女の子は許す。みんな可愛いから」
やっぱり気が狂ったとしか思えない平民の言葉に、小太りの少年が色めきだって立ち上がった。
「お、おまえ! 平民のくせによくもギーシュをぶぁふぅぉぱぁっ」
顔面に錘の直撃を受けて、少年はテーブルに沈んだ。
あとは鴨撃ちだった。座ったままの少年たちは呆気に取られたまま、なすすべもなく才人による公開殺戮ショーの犠牲となる。才人はなんだかそういうゲームでもするような気分で貴族をひとりひとり血に沈めていった。
六人目からようやく反撃が始まる。杖を振ると火の玉が飛んできたのだ。さすがに才人は度肝を抜かれたが、なぜか普通にかわせた上にカウンターでやはりあっけなく仕留めることができたので、「魔法恐るるに足らず」と結論づけた。
七、八、九。
十、十一十二十三。
リズミカルにストッキング錘は生徒の顔を吹っ飛ばしていく。
血しぶきがあがる。
悲鳴もあがる。
たまに歯も飛ぶ。
才人もだんだん手際が良くなっていく。あっという間に二十人めが倒れた。逃げようとしたところで後頭部をもろに打たれたのだ。
いよいよそのテーブル最後の男子にたどりつく。彼は顔を引きつらせて杖を振る。風の刃が首筋を狙って飛んできたが、すんでのところで才人はそれをかわした。ストッキングを振り上げる。
その男子は首を何度も横に振った。
「俺、俺は笑ってない……」
「そうだっけ。でもいいんだ。俺、いますげえむしゃくしゃしてるんだ。悪いな」
ぐしゃり。ずるずる。べたり。おぞましいオノマトペの乱舞である。
誰かが囁いた。
「人殺し……」
「え、死んではねえだろ」才人が心外そうに抗弁する。顔には返り血がついている。すごく説得力がない。
「人殺しィ――――――っ!!」
食堂が怒号と悲鳴に包まれる。腕に自信のない下級生は我先にと駆け出した。最初に宣言されたおかげで意外と余裕の女生徒たちも、流れにつられて絶叫し始める。食堂は一瞬で恐怖の処刑場から混乱の坩堝と化した。テーブルがひっくり返される。豪勢な食事が床に落ちる。シエスタが気絶したギーシュの頭にトレイを落とす。ケティが気絶したギーシュの脇腹につま先を叩き込む。モンモランシーが気絶したギーシュの股間を踏んづける。入り口近くで人のなだれが起きた。なんだおいふざけんなこら。おさないかけないしゃべらないだろ。守れよ! いやー犯されるぅー誰か助けてせんせぇー。うわあの女扉にロックかけていきやがった! しかも解けないしこれ! どうなってんの!?
いよいよカオスな様相を呈しつつある食堂。
ただでは済まないやつらもいる。
最初からクライマックスだったベリッソンにスティックスを始めとする、腕に覚えのあるメイジたちである。いまやどう考えてもただの賊と化した才人を見事捕らえんと欲する猛者たちだ。
キュルケもまたビッチ呼ばわりされたことを忘れたわけではない。じりじりとスティックスと間合いを取っている。
タバサはようやくサラダを食べ終えたが、人がすし詰めになっている出入り口を見て退室を諦めた。
無言で、発端となった平民に視線を移す。
才人はへらへらと笑っていた。ただし暴力と状況に酔って引っ込みがつかなくなったもの特有の、接地感のないふわふわとした笑顔である。彼もばっちり酩酊していた。しかしふと左手を見下ろすとただちにきりりと表情を引き締め、今にも魔法をぶつける気概でいるメイジたちを一望し、破顔一笑、
「おい。おい。俺に礼儀を教えてくれるんじゃなかったのか? てめーらの血は何色だ?」
あほだ。
タバサは思った。あれはもう死ぬしかない。どうやら意外に使えるようだが、呑んでかかれた雑魚ならともかく、『やる気』になったトライアングルクラスを含むメイジに平民が太刀打ちできるはずはない。
自分の死が冷静に計算されているとも知らず、才人が気勢をあげる。
「かかってこいやァ―――――ッ!!」
叫びを皮切りに、土石が床を突き破って飛び出す。とうとう建物にまで被害が出たわけだ。突き出た石杭によって才人の姿が隠れた瞬間、タバサは考えを変えた。こっちにもすごいあほがいた。これはひょっとするとひょっとするかも。
群舞する火の玉氷の矢を縫い才人は間隙に踊る。瞠目すべき身体能力だ。彼が即席でつくりあげた武器を一振りするたび、誰かの足が払われる。そして倒れたメイジの頭にもう一度一撃が落ちればそいつは動かなくなる。先端速度が馬鹿みたいに速い上に得物自体が弾性を持っているのでひどく軌道を捉えづらいのだ。しかも体に当たればそれが頭でもなくても砕ける威力。メイジたちはまず武器を奪うべく火系統の者を前衛に立たせた。なにしろ材料はストッキングなので、火をつけてしまえば一瞬で燃え尽きる。連携が致命的にへたくそであることを除けば、彼らは賢明だった。問題は、どさくさにまぎれてキュルケが才人の援護をしたことにある。
「ぎゃああああっづぅっ」
スティックスが火達磨になって転げまわった。慌てて水系統のメイジが級友の惨状を消火する。その隙に錘の一撃が彼のこめかみを打って昏倒させた。
何事につけ無関心を通すタバサにも、さすがにそろそろ事態に収拾をつけるべきだという思慮はあった。要はあの平民を殺すか無力化すればそれでよく、そのためには自分ひとりいればよい。キュルケが手伝うならばより万全だろう。もしくは、すぐに壁なり扉なりをぶち抜いて教師を呼び立てるのだ。
物陰からすっくと立ち上がる。
その顔面を風で舞い上がった椅子が直撃した。
シュヴァリエの称号さえ持つ彼女の不意をつく、奇跡のような偶然である。
タバサは無言でうずくまった。
「…………」
洒落にならないほど痛い。おまけに眼鏡にひびが入った。鼻筋がじんじんと傷む。意思と関係なく涙が目じりを濡らした。これはノーカンこれはノーカン。タバサは頑なに繰り返す。だってほら、タバサ人形だし。
しかし――
ぽたり。ぽたぽた。ぽたり。
床に垂れる雫を見て、タバサは静かに息を呑む。
「鼻血」
鼻血であった。
瞬間、ガリア時代におひいさまとして生きてきた輝かしき日々がフラッシュバックした。
鼻血。
鼻血。
鼻血ですお母様。あなたのシャルロットが、鼻血? これはちょっと、いやかなり、ありえないことではないのか? 許していいのか、こんなことを?
否。
否である。
タバサは今度こそ立ち上がる。小柄な体に勇壮な意気を秘め。
唱えるのは必殺の呪文だった。
ひび割れ眼鏡に燃える瞳を携えて、乱戦に飛び込んでいく。
「アイスストーム」
もう泥沼だった。
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一方学院長室。こちらはヴァリエール公爵家の来訪を問題なくクリアして、すでに一仕事終えたムードであった。オスマン学院長は白髯を撫でて意味もなく頷いており、コルベール先生はなにやら苦悩の様子で、みんな知ってるとおり実は『土くれ』のフーケという盗賊である秘書ロングビルはさてどーやって破壊の杖盗むかなーとか考えている。
そこに、中年の女性教師シュヴルーズが血相を変えて飛び込んできた。何事かという勢いである。
「たた、大変です学院長!」
「なんじゃミセス・シュヴルーズ。いい大人がみっともない。貴族と平民が決闘でもしとるのかね」
「そそそ、そんなレベルではありません! ね、眠りの鐘の使用許可を――いえ、王都に騎士団の出動を要請してください!」
オスマンは眉をしかめた。
「冗談にしてはたちが悪いぞい。いったい何があった?」
「冗談などではありません」金切り声で、「暴動です! 大乱闘です! とんでもないことになってます!」
「な、なんじゃとぅ」
慌てた学院長は、すでに火砲を交わしつつ戦線が中庭に移動したことも知らず、クレアボイアンスの魔法で食堂の様子をのぞきみた。
死屍累々であった。
動く者などひとりとしていない。
もうゼロの使い魔というよりベルセルクみたいな惨状であった。
「え、えらいこっちゃァ……!」
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一寸先を死が飛び交う。
髪を揺らすのはまごうことなき魔法。
迫真の幻想。逸脱した超現実が、才人の呼吸する世界だ。
戦場は何度かのこう着状態を迎えていた。敵方はベリッソンを中心に十人一小隊のメイジが見事にまとまりつつある。いつの間にか蘇生したギーシュ(才人は彼の名前を知らないが)もあちらにおり、青銅のゴーレムを用いて逐一こちらを撹乱しようと暗躍していた。
なんだかんだでエリートの集まりなのだ。ドーピングでやたら強い才人、もともと優秀なトライアングルメイジであるキュルケ、実戦経験豊かなタバサを相手に真正面からやりあっていれば、才あるものはどんどん覚醒していくという寸法だった。ちなみにこの三人はなんとなく目に付く相手を潰していたら自然にまとまっただけのチームである。
敵はいま塹壕をつくり、隙を見て牽制の魔法を繰り返し、距離を詰めては包囲の範囲を狭めている。
こうなると、質的有利が数的不利に覆され始める。いわゆるジリ貧であった。
壁の陰から火弾を連射しながら、キュルケが荒い息をついた。さすがに消耗が激しいのだ。
「まずいわね。そろそろ押し切られそう。……っていうか、なんでこんなことしてるのわたしたち」
「不思議」
タバサが心底腑に落ちない、という風に首を傾げる。鼻には才人からもらったティッシュが詰めてあった。
「ちくしょう、これまでか」
才人がぼやく。すでにキュルケのストッキング錘は失われ、両手にはギーシュのゴーレムから奪った青銅の棒を持っていた。槍でないのはガチの殺し合いにはならないという暗黙のルールが反映された結果であろう。にもかかわらず、生身ひとつが武器の彼はすでに傷だらけだった。
キュルケがからかい混じりに才人を見た。
「あら。諦めちゃうの?」
「さあな。でもとりあえず暴れたらすっきりしたし、どうせ押し込まれるなら玉砕だ。おまえら、嫌なら降りていいんだぞ」
「それは言わないでおきましょ。まあ、たぶんわたしもここまでやったら放校でしょうし」
「いいのかよ」
「んー、まあ、いいんじゃない? ルイズがいなくて、張り合いがなくなったと思ってたのよね。あんたも面白いし、いざとなったらウチが匿ってあげる」
才人はまたかと嘆息した。
「ありがたくって涙が出るぜ」
「そうだ、もしなんだったら、タバサもうちに来なさいな。歓迎するわよ?」
「考えておく」
珍しく「そうしたいのは山々だが」という表情を見せ、タバサはお茶を濁した。キュルケもその意を酌んで、期待しているとだけ伝えるに留めた。
さてと。才人は棒を支えに立ち上がると、キュルケとタバサを見下ろした。
「じゃあ俺行くわ。短い間だけど、おまえら、悪くなかったぜ」
「それはどうも」キュルケが笑った。存外、幼い笑みだった。
「あなたも」タバサが短く答えた。
「おう」
才人は遮蔽物から躍り出る。一秒も置かず飛来した火線を横っ飛びでかわした。
その動きを読んでいたのだろう。回避した先には三体のゴーレムを従える少年が待ち受けていた。
「待っていたぞ無礼な平民め!」
「おまえも懲りないな!」
「借りは返してやる! ゆけ、ワルキューレ!」報復に燃えるギーシュが、一斉にゴーレムを駆動させる。
棒を腰だめに構え、才人は三体の敵に相対した。左手のルーンが熱い。そして心に語りかけてくるのだ。ちょっと犬、聞きなさい。棒は線と点で使うといいらしいわ。ていうかあんた、ギーシュのゴーレムなんかに負けたらマジクビだから。
なにかおかしいな、と思ったが、今は気にしているときではない。
咆哮一声、腰から体を捻転させ、才人の棒は突き出されたワルキューレの得物をからめとる。跳ね上げた腕の隙間をかいくぐり、胸部パーツを痛打。顛倒した一体に足を取られてもう一体もこける。残るは一体。才人は操り主を見据えつつ、一喝した。
「遠慮するな、俺のおごりだとっとけよ!」
「――いや、やはり返しておくことにする」
不敵なギーシュの笑み。最後の一打が、ワルキューレの首を凪いだ。思いのほかあっさりと抜けていく衝撃。そしてまた声。
『馬鹿! なんで気づかないのよそいつ中身空っぽじゃない。『錬金』で中身を全部精製油に変えられてんのよ!』
「ごちゃごちゃうるせー! てかおまえ誰だよ!」
『……っ、あ、あんたッ、よよよ、ようやく答えたわね! よくも、今まで無視してくれちゃってえ!』
「はぁッ?――うぉわ!」
ワルキューレが爆発する。焼熱が体の前面を焙る。爆風に体を吹き飛ばされながら、それでもどうにか才人は着地した。
が、それで終わりだった。一瞬熱気を吸い込んでしまった。肺が焼けて呼吸ができない。聞いたこともない音を奏でるのど笛を押さえつけ、棒を取り落とす。とたんに体にみなぎっていた力が失せた。
声もそれで聞こえなくなった。
そして、気づけば目前にベリッソンがいる。杖を眉間に突きつけた彼は、勝者の笑みで才人を見下ろした。
「終わりだな、平民」
「……」
ものも言えず、才人はメイジを睨み返す。負けだった。認めるしかない。それでも心は晴れやかだ。あれだけ好き放題やったんだからそれも当然かもしれない。
「ここまでやっておいて、まさか死なずに済むとは思ってないだろうな」
実は思っていた。才人は青ざめる。
え、え、マジで? せいぜい半殺しとかじゃなくて?
「ちょっとベリッソン! なにもそこまで――っと」
遮蔽物の陰からキュルケが怒鳴るが、残りの敵に牽制されて身動きとれずにいるようだった。ベリッソンは酷薄な笑みを浮かべる。また、奇妙な親しみの同居した表情でもあった。
「正直、きみを侮っていたよ。間違いなくきみは俺が会った中でいちばんの強者だ。メイジを含んでもな」
そ、そうですか……。才人は必死でなにか喋ろうとするが、声が出ない。
「だからこそ、敬意を表そう。このままではいずれ重罪人して獄中で拷問を受け残酷に殺される。そうなる前に、このベリッソンがきみに引導を渡してくれる」
要らない。ちから一杯要らない。しかしベリッソンはひとりで完全に納得している。顔に靴跡をつけたギーシュも思慮深い顔で頷いていた。どうやらその方向でもう決定らしい。
遅まきながら、才人は悟った。
本当に、洒落ではない世界なのだ。
平民が手向かえば、たやすく手折られてしまう世界。
貴族はよくても、平民は駄目なのだ。
なんて理不尽な。いや、そうでもないのか?
彼は結局一度も話したことのない主人を想った。そういえばあの子も、理不尽に死んじゃったんだな。そう思うと、やっぱり一度くらい話したかった気がする。俺をこんなところに呼んだのはむかつくけど、恨むけど、それでも、死んだ以上はもう何もいえない。それで俺も死ぬのか。死んだらどうなるんだろう。元の世界に帰れるのか。それともこれで終わりか。わからない。というより、怖すぎてそれ以上は考えたくない。
覚悟ではなく諦念から、才人は目を閉じた。
突然キスをしてきた、あの娘の面影が浮かんだ。髪が長く、胸は薄い。幼く、そして甘い声。名前はなんていっただろう。何度も聞いているのに、どうしても忘れてしまう。そう長い名前ではなかったはずだった。
その名を呼ぶなら、声も出る。
そんな気がする。
確か――
「シャナ」
『違うから』
訂正された。鼻を啜りながらの、涙交じりの声である。怪訝さに思わず、閉じた目を開いてしまった。
「あのさぁ、さっきからおまえ誰?」
呟くが、答えは聞こえない。やはり幻聴だったのだろう。なんだかやりにくそうにしているベリッソンをじっと見て、才人は首をかしげた。
「どした?」
「いや、あのな。気のせいだと思うんだが……今、君のな。その左手の」
「うん」左手を見た。
なんか……手毛? 桃色っぽい毛が、ルーンの周りにファサーッと生えていた。いつのまにか。
「うおっキモーっ!!」
「ああ、そうだな」ベリッソンがしみじみと頷く。「その気持ち悪いルーンが、いま、なにか喋ったような気がするんだよな」
「えー、しかもこれで喋るのかよ。キモいってレベルじゃねーぞ」才人は薄気味悪そうにルーンを見つめた。「なに、ルーンって普通そういうモンなのかよ」
「んなわけないだろう」ベリッソンも困惑しているようだった。
と、その背に。
「はいチェーック」
「逆転」
キュルケとタバサが、杖を突きつけ、才人に向けて親指を立てた。ちなみにギーシュは描写もされない内に無力化されている。
「……参ったな」
とかなんとかベリッソンは渋めに笑うのだが、才人はそれどころではない。いきなり左手から毛が生えたりあまつさえそれが喋るなどと言われれば気になってしょうがない。どうも本当に体毛の一部であるらしい桃毛を引っ張りながら、渾身の嫌さを込めて才人は吐き捨てた。
「なんだこれ……」
「あら。可愛い飾りね。ちょっとルイズの髪みたいじゃない」
『手』を見たキュルケがいかにものんきに言った。自分のおっぱいに謎の毛がファサーッと生えてきたら絶対こんなことは言えないはずなのに。
しかし才人は異世界にも一日で適応した男である。それに比べれば手から毛が生えたくらいでどうだというのか。世の中には生えなくて困っている人が大勢いるのだ。それに比べれば多少桃色なくらい些細なことだ。
それよりもと、彼はキュルケを見返した。
「いま言った名前。あの死んだ子の名前だよな。もっかい教えてくれないか? どうも忘れちまうんだよな」
『ルイズよ』
答えた。
キュルケではない。
タバサでもない。
もちろんベリッソンやギーシュであるはずがない。
「……ねえタバサ。今、ルーンが」
「喋った」
喋ったのだった。ルーン(毛つき)が。
「まあ、こんなこともあるサ」
才人はもう全てを受け入れる、お地蔵さまのような表情だった。
声は、癇癪を起こしたようにさらに叫んだ。
『ルイズ。ルイズ。ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール! ルイズ。ル・イ・ズ! ルー、イー、ズー! ルイズルイズルイズルイズルイズ!』
「いや何回言う気だよ」お地蔵さまも思わず突っ込むほどのしつこさであった。
キュルケは絶句して才人の手を見つめる。
「ちょっと待って。ルイズって言ったかしら、今、この毛……」
「正確にはルーン」
タバサは一気に三メイルほどバックステップしていた。
しかしルーン(毛)には耳がないだけに声が届いていないようで、ひたすらにテンションを高め続けるのだった。
『あーっ、もぉー! どぉしてえ! なんで聞こえないの!? どうしてだれもわたしに気づいてくれないの! わたしは! ここに! いるのにぃ!』
なんとも微妙な視線が集中する中、ルーン(毛)がふいに輝きだした。それもちょっと頑張ってみました、というレベルではない。目が眩むほどの光である。
「うおっまぶしっ」
誰もが思わず目を覆う。しかし、光は強まりつづけ、留まることを知らない。きんきんと才人の脳に響く声と同期するように、どこまでも、無限に――
『わたしはっ、まだっ、死んでないッ!』
そして爆発した。
000
近隣住民には末永く『ピカ』と呼称されることになるその爆発は、極めて不可思議な現象を伴った。熱もあった。風もあった。当然それによる衝撃はすさまじい。実に、トリステイン魔法学院の敷地すべてを巻き込んで余りある規模の爆発だったのである。
その威力は凄まじく、爆心から半径七百メイルに渡り、およそ原型を留めていられた構造物は存在しなかった。もっとも被害の少なかった学院の図書館でさえ半壊という有様である。校舎にいたっては更地になった。寮も三分の二が消し飛んだ。地面も抉れ、舞い上がった土砂は粉塵となって降り注いだ。
そして、はい、ここで伏線を回収します。
地下に埋められたり溜められたりしていた排泄物もいっしょに降ってきた。
この時点で阿鼻叫喚の地獄絵図が展開されることになる。
しかし不幸中の幸いは、それだけの大規模な爆発事故(としかいいようがない)だったにも関わらず、死傷者が存在しなかったことだ。これは奇跡を通り越してなにかの作為を感じさせるレベルだったが、寸前までの大乱闘騒ぎのせいで「爆発での」けが人がゼロだということにほとんどの人間は気づかなかった。気づいた一部の聡い人間も、あえて押し黙っていた。というか臭いがひどくでそんなことを検討している場合ではなかったのだ。
その後は色々なことが起こった。
まずどうにか瓦礫から這い出してきたオスマン学院長が、きったねーゴミの山と化した魔法学院の姿に喪神してポックリ逝きかけた。実際に心臓は一度止まったが周囲の尽力もあってなんとか息を吹き返し、一命は取り留めた。なんだか美談のようだが、現実には彼が死んだらほかの誰かがこの事態の責任を取らなくてはいけないから、みんな一致団結してオスマンを助けたのだった。
コルベール先生はとりあえず研究施設の一部が生き残っていることに安堵の息を漏らしていた。
秘書ロングビルこと土くれのフーケは、運悪く落下してきた固形物の直撃を受けて昏倒した。命に別状はないが、いまも野外設営治療基地で悪夢にうなされている。
シエスタや料理長のマルトーといった平民の奉公人たちは、運良く瓦礫の陰でのびていたおかげで助かった。ただし当然職場は消えたし食材も全滅である。
ほか、大乱闘でけがを負った生徒たちはとりあえず治療を受けている。余力があるものは教員生徒問わず駆りだされ、汚物の洗浄と掃除に苦心していた。遠くで盛大な狼煙を上げて袋叩きにされたのは、「燃やせばいいんだよ!」と言い出したベリッソンである。
「るーるーるー」
切ない目で体育座りの姿勢で歌うのはケティ・ド・ラ・ロッタであった。彼女はすべてに疲れていた。クソまみれになっちゃったギーシュを見てゲロを吐いてしまったことも脱力感の一因だ。しかし、それを差し置いてもなにかもう途方もない無常観が彼女を苛んでいたのである。
ケティは人知れず深い懺悔をする。始祖さま、わたくしは「なかったことにしてほしい」と確かに祈りましたが、「余計ひどいことで上塗りしてほしい」なんて断じて願いませんでした。だからこれはわたしのせいではないですよね。ねえ? イエスといってよブリミル! いって。お願いだから……。
春の夜はまだ冷える。
あれに見えるかがり火を囲み、軽快な音楽に合わせて肩を組んで歌うのは、昼間平民に端からのされた生徒たちだった。
宝物庫跡から見つけたという、変わった管楽器(平民は「サックス」と呼んでいた)の演奏者は、まさしく平民である。それで「平民を讃える歌」とかうたってるのだ。あほらしい。
あんな悲惨な状況を作り上げた関係でよくもまあ和気藹々と騒げるなぁと、ケティは疲れながらも思う。とのがたって本当によくわかりませんわ。それでも楽しそうなので、ちょっと近づいてみようかという気持ちは否定できなかった。
そうしないのは、やはり胸のどこかでケイタイを盗んだことを気にしているからなのだろう。
ケティはふかぶかとため息をつく。
これからどうなるのだろう。
とりあえず少なくとも向こう一年は、魔法学院の復活は無理だろう。大規模な建築はただメイジの頭数が揃っていればいいというものではないのだ。綿密な図面を引く必要があるからである。
となると当座生徒たちは実家に帰ることになるのだろうが、あまり気は進まない。なにしろケティは今年の春意気揚々と家を出立したばかりなのである。盛大な見送りは、まだ記憶に新しい。それでどのツラ下げて帰れというのだろう。
「どうしようかしら」
その鍵も平民が握っている。
だが今日はまだ明日ではない。
ケティはしかたなく、ずっと返そうと思ってできずにいたケイタイを広げる。それからカメラの目で、歌って踊って騒いでいる人たちを捉える。
才人はサックスを適当に吹いている。
キュルケとタバサは、疲れきって眠っている。
ボタンを押す。
パシャリ。
「……よし」
今度こそ返そう。
ケティは立ち上がると、明かりのほうへ歩き出す。
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その写真を保存すれば、面白いものが見えたかもしれない。
たとえば、平民の少年の隣で地団太を踏んでいる、桃色の髪の小さな女の子とか。
しかしとりあえず、魔法学院を巡る話は、ここで終わる。