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No.5421の一覧
[0] イ吏い魔[ドジスン](2008/12/21 23:21)
[1] 吏い魔[ドジスン](2008/12/21 23:22)
[2] い魔[ドジスン](2008/12/21 23:24)
[3] おまけ[ドジスン](2008/12/21 23:32)
[4] おまけ2[ドジスン](2008/12/21 23:33)
[5] おまけ3[ドジスン](2008/12/21 23:35)
[6] おまけ4[ドジスン](2008/12/21 23:38)
[7] おまけ5[ドジスン](2009/01/01 23:48)
[8] おまけX(本編ではなく、ネタバレを含みます)[ドジスン](2008/12/21 23:44)
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[5421] おまけ2
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/12/21 23:33


 000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 2 000






 二日後、才人は死に掛けていた。しかもどこへも行けていない。彼が倒れているのはトリスタニア郊外の森である。途方もない駄目っぷりであった。
 そこはいわゆる王室の直轄領で森番に見つかるといかにもヤバイのだが、才人はもちろんそんなことは知らないし知っていてもどうにもできなかったであろう。だって死に掛けているのだ。

「ひゅ…コフー、ひゅ、ふ……」

 げっそりとやつれた顔で才人は地に伏せている。土のにおいが鼻に近い。小川のせせらぎが耳に届く。だがそんなことは知ったことではない。空腹と衰弱と痛みが彼からあらゆる気力を残らず奪っていた。
 そして行方不明のケティ・ド・ラ・ロッタは、木の上でサンドイッチをもぐもぐほおばりながらそんな才人を興味しんしんのキラキラした目で見つめていた。

  000

 いつの間にか持ち金をすべてスられてからの才人の凋落ぶりは笑えるほどだった。唐突に文無しである。とりあえず落ち着いて腹ごしらえをしようとサンドウィッチを食べれば地面に落としただけでもう食べるのを諦めたし(あとで死ぬほど後悔した)、半泣きでどこかに落とした(と思っている)皮袋を探して町を歩いていたらいつの間にか二度目の晩鐘が鳴ってしまった。
 トリスタニアでは一度目の晩鐘が鳴った段階で市内ほとんどの仕事が終わる。例外は宿か居酒屋かアヤしいお店くらいのものだ。そして二度目の晩鐘から先は、そうしたお店も表立って営業すれば取り締まり対象になる。
 以降は町を衛兵や警備隊が練り歩きはじめる。門が閉じられても帰らない不届き者をボコって拘束するためである。才人はボコられこそしなかったが思い切りうさんくさい目で見つめられ、ほとんど犯罪者に対してするようなぞんざいな扱いで町を追い出された。
 その理不尽に彼が憤れたのもごくわずかな時間だけで、町の外に出た才人は一瞬ほかの全てを忘れるほど仰天した。
 暗いのだ。
 冗談抜きで真っ暗。
 街灯なんかあるわけがないので当然だが、それにしても限度があるだろうという暗さであった。なぜかと思えば、巨大な二つの月に雲がかかっているのだった。
 山奥でキャンプをしたことがあれば、その夜より雲間を通る月光のため多少マシな程度の暗さを想像してもらえばいい。鳥目ではないがほどよく現代的に劣化した才人の視力には、いささか荷が勝つ悪視界であった。
 実際は完全な暗闇ではなく、物見の塔や市壁の周囲には明かりがあって人の姿も見えたのだが、近づいて様子を観察した段階で才人は彼らと接触するのを諦めた。
 ガラが悪すぎる。
 才人のような貧弱なボーヤが近寄れば一瞬でカマを掘られかねないほど恐ろしげな雰囲気を放っていた。
 それならばと農村で納屋でも貸してもらって藁束で寝ればいいやと才人は考えた。
 甘かった。
 そもそも貧農の集落に馬とかいなかった。
 仮に馬がおり納屋があったとして、その寝心地は野宿と完全に一致することうけあいだ。においがないぶん野原で寝たほうがまだマシかもしれない。
 普通に収穫高を計算しているような実りある土地ならばともかく、大都市の周辺の土は基本的にすでに痩せてしまっていることが多い。また牛車だの輓馬だのを用いて生産性を高める経営体力があるなら都市にひっついて生活するようなこともない。
 しかし才人は諦めなかった。
 なら羊に囲まれて寝るのも悪くないなアハハと思って放牧場に忍び込むと、すげえ勢いで犬に吼えられた上に羊飼いはどう見ても殺す気で才人を追っかけてきた。才人はまたしても少し漏らしてしまった。
 ほうほうの態でなんとか追っ手を撒き、もう素直に民家に泊めてもらおうとしたがこれまたダメ。マルトー親方がこの世界で最上の善人としか思えないほど冷たい態度で才人はあしらわれた。というか、戸を叩いても応対してくれた家のほうが少なかった。

「どーなってんだこりゃ。渡る世間が鬼ばっかりじゃねーか」

 実のところ才人がもう少し怪しくない、せめて一般的な平民に見える格好をしていれば、まだ話は違った。常日頃都市生活者によって差別され荒んだ気持ちでいたトリスタニア周囲の人々は、どう見てもよそ者である才人に優しくできるほど心に余裕はなかった。彼らに罪はない。どちらかというと才人がアホなのが悪い。
 しかし、ここまで来てなお「今日は日が悪いのかなぁ」としか考えていない才人もさしたるもの。彼は当面雨露しのげればと、ようやく目が慣れておぼろげに輪郭が見え出した森へと足を向けた。
 ここで一連の彼の行動を外部から見た場合、どう取られるか。意訳するとこうなる。

 あぁあー俺なんだか死にてえ。

 この時代、ハルケギニアでの森といえば異界であり、まっとうなヒトが住むところではない。ハルケギニアに人間狼的な伝承や風習があるかは不明だが、古来より万国共通で森に住むのは魔と決まっている。稀に翼人も住むが、彼らは人とは相容れない。だから、結局はそこに棲むのがヒトでもケモノでも同じである。才人は自ら光と法という最大の庇護下から離れたのだった。

「マジかよ。全然見えねえ……」

 森は外界に輪をかけて暗黒の世界だ。才人は手探りで起伏に富んだ地形を歩いた。
 平地はさすがはメイジ社会ということか、ありえないほど整備された道が走っていたが森は違う。生のままの人に厳しく獣に優しい、素人が足を踏み入れれば転ばずにはいられない難儀な世界だった。
 才人は数百メイルも歩かない内に力尽き、ある大木のふもとに腰を落とした。『崩れた』といったほうが近い。手に干し肉の入った袋を、胸にどうしても思いきれないノートパソコンや教科書の入った鞄を抱いて目を閉じる。
 たった数時間の彷徨は才人から思考をあっさり奪っていた。もういいや。寝よう。とにかく寝よう。「これから」のことなど思いつきもしない。
 才人は目を閉じた。

 そして複数の、生臭い気配を感じて目を醒ます。
 周囲が若干とはいえ明るくなっていることにまず驚愕した。体感的には「たった今」目を閉じたばかりだったからだ。しかしパニックになる要素はそんなところにはない。
 野犬か、狼か。とにかくひどく痩せてそれでいて瞳に凶光を宿すイヌ科の群れ。三匹ほどのケダモノが、才人の手にある干し肉の袋を奪い取っていた。

「ばっふぐおっほう!」

 才人は恐懼のあまり素っ頓狂な声を上げる。オオカミたちは堂々たるもので、才人を見もせずガツガツと二週間分は量のあった干し肉を噛んでいた。
 ほの見える犬歯と糸を引く唾液。
 才人はもはや冷静さなど保てない。言葉の通じるメイジなどより起き抜けに出会う狂犬たちのほうが千倍も万倍も怖かった。ただ鞄だけを抱いてずるずると木の幹に体を預けながら立ち上がり、少しずつ、少しずつその場から離れようとした。その動きに気づいたオオカミが一声、
 おん!
 才人は駆け出した。
 オオカミも駆け出した。
 そんな様子を見守る寝ぼけまなこが木の上にあった。

 樹上で一夜を明かした、徐々に人生を間違えつつあるケティである。なぜ彼女がこんなところにいるのか。そのいきさつは少々込み合っている。
 あの平民が、自分が持ち物を盗んだことを周囲の人間にばらさないよう学院からずっと尾行していたのだった。
 例の道具を返したら意外とあっさり受け取られ、しかも「ありがとう」なんて言われたが、ケティは油断していない。もしあの平民が軽々しく貴族の汚点をばらしたら、ばらしたら……。
 どうしようかしら?
 具体的にどうするかは考えていなかったが、とにかく監視の必要ありとケティは認めた。
 もちろん学院にいてギーシュと顔を合わせたくないというのも大きな理由のひとつである。運良く破壊を免れた自室からお小遣いを持ちだし、おめかしをして、ケティはのんびりと先行する平民の一団に続いたのだった。
 町へついてすぐ目当ての平民は見つかった。ケティはとりあえず注文していた仕立て屋へ向かい服を買い取る。そうこうしている内に目的をすっかり忘れ、彼女はブルドンネ街をおおいに満喫した。辺鄙なラ・ロッタ領からのおのぼりさんである彼女は都会に憧れていたのである。
 夕べを告げる鐘が鳴り、あー楽しかったわーさて帰りましょーと門を出かけたところで思い出した。
 そうだあの平民さん。
 もう残ってはいないか宿にいるだろうと思いきや、あっさりと彼は見つかった。しかも一人で、なんだか非常に情けない顔で路面ばかり見下ろしながら歩いている。なんだなんだ。と訝るケティはピンと来る。さては、お金を掏られたんじゃないかしらあの平民さんったら!
 彼女には心あたりがあった。野良メイジによる軽犯罪はトリステインで社会問題化するほどメジャーなテーマである。事実ケティは昼間、一度それらしき野卑な男に目をつけられかけたのだ。ガンをくれてやったらすごすごと退散したが、もしかしたら同じ相手にあの平民も狙われたのかもしれない。
 ほとんど正解に近い推理を展開するケティの脳裏に神算鬼謀が閃いた。

「これは、汚名挽回するチャンスですわ、すわ!」(※類義語:名誉返上)

 でももう暗かったので、宿を取ることにした。
 そのあとでこっそり覚えたての『フライ』を使って、夜の町へ繰り出す。さすがにあの平民も諦めて外に出ただろうかと飛びながら街を見下ろしていると、なんとまだ街路を未練がましくうろついているではないか。
 案の定衛兵に見咎められて街を追い出された彼の後を、ケティはふわふわ飛んで追った。もちろん市壁の物見に袖の下を送って融通させることも忘れない。いかにも上品なケティが逢引でもするのだろうと思ったのか、ケティと同じくらいの年頃の少年衛兵は「がんばってください、貴族さま!」とエールまで送ってくれた。
 門から叩き出された平民は、その後何やら目的が見えない遍路をたどる。とっくに明日に備えて寝に入ってる民家をいきなり強襲したり、羊を囲う柵に忍び込んで羊飼いとその犬に追いかけられたり。
 彼が森へ踏み入る段になると、さすがにケティも「おいおい」と思った。
 結局考えがあるどころか森の中で野宿を始めたのだが、ケティも樹上でぼんやりする内にうたたねしてしまったらしい。騒がしい物音に目を醒ますと、平民がオオカミに襲われていたというわけだった。

「一体なにがしたいのかしら、あのひと……」

『レビテーション』を使って地上に降り立つ。食事を邪魔された残り二頭のオオカミが、剣呑な唸り声を上げてケティをにらむ。彼女はやや眠気を引きずった顔でふにゃっと笑った。

「なに見てるんですか燃やしますよウル・カーノ」

 言い終えない内に杖を振った。そこは『火』属性の女である。舐めた真似をされればたとえ上級生だろうとビンタをかますくらいの胆力はあるのだ。『心に闇を持て』。父、ラ・ロッタ卿の言葉である。
 発動した『発火』の魔法がオオカミのツヤのない尻尾に火をつける。痛々しい悲鳴を残して、二頭のケダモノが森の奥へ走り去っていく。平民の悲鳴も遠くで聞こえた。悲鳴を上げられるあたり、まだ余裕があるのだろう。
 ケティはどうしたものかと首を傾げた。
 おなかがぐーぐーと空腹を主張する。

「まあまあ、はしたないわ、はしたないわ。わたくしったら」

 用事もある。街に帰ってちゃんと一眠りしてから、また平民の様子を見に戻ってこよう。ケティはあくびをしながら飛び上がり、トリスタニアへの帰途についた。
 その頃才人は大立ち回りである。案の定あっさり追いつかれ、灰色の牙が彼ののど笛を狙う。才人は咄嗟に持って逃げていた鞄を楯にする。
 目の前に迫り来る危険。
 鈍化した灰色の時間で、才人の脳細胞が唸りを上げて稼動する。
 ジョジョ一部のパパやキートン先生の教えを思い出した。
 逆に考えるんだ――
 噛ませてから舌を掴むんだ――
 才人はゲロロロと唸る敵に凄んでみせる。来るか。あ? 来るか。来るなら来い。俺は昨日魔法使いどもをぶちのめした男だぜ。犬ッコロの一匹くらいなんでもねえ。さあ来い!
 オオカミが飛翔した。
 才人はごろごろ転げまわって逃げた。

「無理でしたぁ!」

 結局逃げ切るまで一時間くらいかかった。

  000

 宿へ戻りベッドで一眠りしたケティは、起きざまの習慣である杖を用いた整理体操を始める。ロッタ家に伝わる美容・健康にたいへんよろしく体内の『水』の流れにも作用するという由緒正しい民間療法である。

「はっほっふっ。わんもあせっ」

 三十分ほどで1セットを終えて一汗を流すと、宿の使用人に沸かしたお湯と布、石鹸を用意させ、体を清めた。メイジとて新陳代謝はする。これで香水をふりまけば完璧。ニューケティである。
 しかし香水の段で、ケティは嫌な気分になった。理由はいわずもがなだ。

「うう……」

 なんだかんだでまだ吹っ切れていない自分を自覚して、少し欝になった。
 やさぐれた気分で宿を出ると、彼女は市場へ向かう。目的は食料。そして大量の挽かれたライ麦である。この日、仕入れに遅れたトリスタニアのあるパン屋さんは、翌日休業をやむなくされたという。貴族の女の子が、それほどたくさんの粉を買っていってしまったからだ。
 必要な道具をそろえたケティは再び宿の自室へ戻る。
 これなるはド・ラ・ロッタ家秘伝の調合である。
 用意するものは炭水化物系の粉。小麦粉でも構わないが、高価なので今回は倹約のためライ麦で代用した。そしてエプロンと手ぬぐいは必需品。何より口元を覆うマスクが欠かせない。さらには、買い込んだライ麦粉を移すための木製ボウル。以上である。
 ケティはボウルを熾した火にかけて、粉の水分を飛ばしはじめる。勘の良い人はこの時点で彼女がなにをやるつもりか気づいたかもしれない。本当は『水』の魔法が使えればよいのだが、彼女は主に『火』と『土』、そして少しだけ『風』が使えるだけだ。ないものねだりはできない。
 続けて擂粉木で粉が張り付かないよう丹念にまぜる。このときつい独り言を漏らしてしまうのが、同級生などに笑われる彼女の癖だった。こねこね、こねこね……。キャベツーは、どーお、したぁ。良くも悪くも彼女は夢見がちで、作詩もたしなんでしまう乙女である。

「そしてできあがったものがここにあります。……ってあるんですか! ここまでの前フリはなんだったんですか!」独り言もノリ突っ込みを駆使するほど盛り上がってきた。

 すっかり乾燥した粉に、今度は自前の炭塵を4:1ほどの割合で混ぜ込んだ。優れた『土』のメイジならばこんな小細工は必要ないが、ハナマル一年生でかつ『ドット』のケティにはまだ秘薬の補助が必要なのだ。
 そして、ライ麦を『錬金』の魔法でせっせと炭の粉に替えていく。乾燥させた穀物はなぜか炭との相性がよい。家伝の極意の一部であった。もちろん炭塵はこのための媒介である。

「ふうっ。できたっ」

 紙袋いっぱいの黒い粉。ケティは満足げな笑みでそれを眺めた。

「よし、準備おーけー」

 袋の口に封をして、彼女は街に出かける。
 すでに昼を過ぎ、春の日差しは暑いほどになっていた。
 もっとも人通りの多いブルドンネの通りの物陰で、彼女はじいっと目を皿のようにして行きかう人間の行動に注視する。とにかく、不自然な動きを見逃してはならない……。そうする彼女自身もかなり目立っていたのは愛嬌である。
 退屈の極みに達した一時間後、ケティはついに怪しげなそぶりで貴族に近づき、すぐに離れていく男を見つけた。
 年恰好は意外に若く、そして平民同然である。だが確かにどこか、世をすねたような目をしている。ケティは立ち上がると、ちょっと通してください、とおしてー、と声をあげて男の背を追った。
 男は二度三度と進路を折って入り組んだ路地を行く。まだ街になれないケティはついていくのが精一杯だった。やがて、人通りがほとんどない道に出てしまう。ケティはささっと道ばたに積まれた木箱の陰に隠れつつ、追跡を続けた。
 男が足を止めたのは、いかにも『裏』といった感じの建物の前だった。わざとらしく周囲をうかがって扉を開けようとする彼の背に、ケティは声をかける。

「あのう、もし」
「え!? ここでそっちから話かけてくるのかよ!」

 男が拍子抜けを通り越した驚愕の面持ちでケティを見る。胡乱で無礼な眼差しでじろじろ舐められて、ケティは少し怖くなってきた。

「もしかして、あなた、メイジでは?」
「へえ」男がいやらしく笑った。「よく気づいたな。なんでへったくそな尾行なんかしてくるのかと思ったら、そういうことか。そんでどうするんだい貴族さんよ。あんたが、俺になにか文句でも?」
「いえ……。その、もしよろしければ、昨日あなたが平民さんから掏ったお金を返していただきたいのです」
「はあ?」

 戸惑いの視線がさまよう。判断に迷ったそぶりの男に向かって、ケティの背後から「いいじゃねえか」という声がかかった。
 ケティはビクリと震え、ゆっくりと背後を見た。そこには正面の男に輪をかけて人相の悪い男性が立って、ケティを値踏みするような目で見ていた。

「貴族さまがせっかくこんなところまでいらっしゃったんだ。もてなさないわけにはいかねえだろ。なあ?」
「それは恐縮です」ケティは頭を下げないまでも、にこりと笑った。

 男たちが顔を見合わせる。こいつ、頭おかしいんじゃねえのか? 魔法学院の生徒だろ? 虚無の曜日でもないのになんでこんなところに。まあいいや。見た感じ貴族なのは間違いねえ。金になるぜ。そしてあれよあれよという間に、ケティは男たちのあじとへ連れ込まれた。
 中は薄暗く、光が差しておらず、みごとにこもった空間であった。まあすてき、とケティは呟いた。
 男たちが声をあげて笑った。

「聞いたかおい! ここが『すてき』だってよ。こいつはとんだあばずれ貴族だ!」
「まったくだ! きょうびこんなマヌケは平民にだっていやしねえ!」
「それで、お金はどこでしょうか」

 ケティは笑みを崩さず訊ねた。すでにマントの下で袋の封は切っている。さらさらと、粉状の炭塵が床に撒かれ始めていた。

「そいつを知る必要はないのさ。お嬢ちゃん」
「きゃあ! きゃあきゃあ!」

 顔に向かって伸ばされた手を、ケティは強かに杖で払う。男の顔がきつく歪んだ。

「なにしやがる」
「いえ、あの、すいません。だけどもうちょっと待ってほしいんです。ちょっと準備が……」ごにょごにょと呪文を唱える。
「おっと、待ちな。そいつは詠唱だろう」横合いから目前に杖が突き出された。「俺たちだってメイジのはしくれだ。気づかないと思ってるのか?」

 口上の途中でケティは詠唱を完成させる。同時に袋の中身を部屋の容積と比較して、きっちり高濃度になるぶんだけ落としきる。
 そして『エア・ハンマー』を足元にたたきつけた。
 散じた風が密室で荒れ狂う。ケティはとうに呼吸を止めて、次の呪文の詠唱に移っていた。ただし、頭からマントをかぶり、屈むことも忘れていない。小柄なケティの体は、そうするとすっぽり覆い隠されてしまった。

「うお!?」
「なにしてやがるこのガキ!……ぺっ、なんだこりゃ、ほこりか!?」

 杖を振った。

「ウル・カーノ」

 爆発が起きた。
 漫画などではお馴染み、粉塵爆弾である。条件が合致すれば普通に死者が出るほどの威力を発揮する現象だが、実のところ単に小麦粉や砂糖を散布しただけであっさり起こる事故ではない。空気と空間との比率や燃焼のタイミングが意外にシビアなのである。そしてなかなかやんちゃなケティは、幼少時代から幾度もの失敗を経てこの使いどころのない知識に精通しているのだった。

「……」

 マントをかぶったまま、立ち上がる。出口と自分の位置関係は把握していた。
 粉塵だけあって燃焼は一瞬で終わる。もちろん延焼する場合はあるが、とにかくケティは入り口の戸を開けることを優先した。むかし同じことをやって、酸欠でぶっ倒れた経験があったのだった。
 室内に光が射す。ようやくマントを脱いで、ケティは戦果を確認した。
 延焼ナシ。討ち漏らしナシ。香ばしい臭いが食欲を誘う。
 肺を火で焼かれ声も出せずにいる男たちを見下ろして、にこやかに告げる。

「では返してもらいますわ」

 ケティ・ド・ラ・ロッタ。やるときはやる少女である。
 とりあえず家捜しをして、それらしき隠し場所をあらためる。平民の隠し財産を見つけるスキルは強欲領主に必須のスキルだ。厳正かつ敏腕な美人役人を目指すケティにも当然備わっていた。
 花瓶の中ハズレ。床の裏ハズレ。かまどの中アタリ。ケティはにんまりする。木箱の中には金貨や銀貨、銅貨がぎっしり詰め込まれている。大雑把な勘定でも相当な量に上るだろう。そういえばあの平民さんいくら盗まれたのかしら。わたくしったらうっかり。てへっとばかりに舌を出し、ケティは杖を持った。

「ボッシュート」

 男たちが声もなく泣いていた。泣く余裕があるのだ。威力を抑えすぎたかもしれない。反省するケティである。
 長居は無用とばかりに家を出ようとした、そのとき。

「ま、待て……」面影もなくかすれた声で、男のひとりがケティを睨んでいた。憎悪のこもった目である。「てて、てめえ、名前は……どこの貴族だ……」

 ケティはにこーっと笑い、名乗りをあげた。

「『香水』のモンモランシー。モンモランシー・マルガリタ・ラ・フェール・ド・モンモランシ」
「ド・モンモランシ……覚えたぜ……」
「ふ。ふふ。よくってよ」

 ちょっとした私怨も兼ねた悪戯心であった。優雅に手を振って、場を後にする。

「ごきげんよろしゅう」

 ケティは合計約1535エキューを得た!
 相当の金額である。よほどあくせく掏りに精を出したのだろう。他の悪事にも手を出していたかもしれない。ゲルマニアにでも高飛びして、貴族に返り咲こうとでも思ったか。それとも盗んだ金で悠々自適の暮らしを送ろうとでも? ふ、悪銭身につかず、ですわ。ケティは正義を働いてたいへんにいい気分であった。
 その後、もちろん木箱を宿に置いたあと匿名で衛士へ通報することも忘れなかった。野良メイジとはいえ貴族からの盗みは死刑。もう二度と会うこともあるまい。ケティはほくほく顔で仕立て屋に寄って、新しい服を注文したのだった。着服? これは報酬だ。
 向こう見ずなこの行動がやはり後々の騒動に繋がる事を彼女は知る由もない。
 そしてケティがふたたび森へ訪れたとき、平民は死にそうになっていた。

  000

 さて、ケティとどっちが現代人かわからないほど惨めな才人である。彼は強烈な吐気と腹痛に喘ぎっぱなしであった。
 理由は水だ。
 早朝、オオカミとの死闘を経た彼は現在地を見失い、森に迷っていた。食料もなく、疲弊しきり、さすがに顔色冴えない彼はあてどなく鞄をひきずりさまよって、小川のせせらぎを聞いたのだ。
 天啓だ。そう思った。俺はまだ生きられる!
 水をがぶ飲みした。
 そしたら下痢Pになった。
 もう下事情はうんざりなので詳細は省くが、とんでもないことになった。上は洪水下も洪水、なーんだ? 平賀才人! ピンポーン! というくらいひどかった。

「な、なんでだ……毒か……ええ、ちち、ちくしょう、毒か、環境破壊か」

 違う。確かに場所によっては川は不潔だが、ことはもっと根本的な問題である。
 水には硬度が存在しており、その度合いによって『軟水』と『硬水』に分類される。日本の水が飲用に耐え、かつ炊飯に適しているのは『軟らかい水』であるためだ。具体的な硬水との差を知りたければ、ためしにエヴィ○ンで米を炊いてみればいい。炊き上がったご飯を前に途方に暮れること請け合いだ。
「だがそれがいい」と言う人もいるかもしれない。それでも構わない。人はしょせん分かり合えないものだ。
 要するに、ハルケギニアの水は基本的に硬水なのだった。硬水にも色々と分類があり含有成分の大小があり、一概に飲むと腹を下すと言い切れるわけではない。才人の運も悪かった。
 しかしもとより体力が低下していただけに、これはたいへんな痛手となった。全身からすべてを出し切って、才人はもうミイラにでもなったような気分だ。痛みの余韻を体が引きずって、ひどく億劫になっていた。
 乾燥した唇。
 虚無をたたえた目。
 毛の生えた左手。
 思春期まっさかりの少年にはあまりにも酷な現実である。

「なんで、俺が、こんな目に」

 真理をつく疑問だった。

 行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは…

 中学校のころ古典の時間に強制的に暗記させられた『方丈記』の一節が浮かぶ。川を見て連想したわけではなく、そのとき感じた理不尽さを才人は思い出している。なんの役に立つんだコレと彼は思ったものだった。そして今に至るまで役には立っていない。今後も役立ちはしないと思う。
 目尻から涙が溢れ、頬を伝い土に落ちた。
 それでも彼は生を諦めてはいない。
 ようよう立ち上がると、水辺へ向かう。
 たとえ腹が下ろうと、手元に食物のない今、水は貴重な生命線だ。がぶ飲みしなければ大丈夫だよな。そう自分に言い聞かせ、川面で顔を湿した。
 ケティは生水を煮沸もせずに飲みだした平民を見てぽかーんとしていた。おなかが丈夫なのかしら…などと考えている。今すぐ姿を見せて彼にとっての女神さまになることは容易だったが、なんだか面白いのでもう少し見守ってみよう、と決めたのであった。
 その後才人は丸一日を動けずに過ごした。夕方近くになるとそれでもあまりの空腹に目眩を覚え、なにか食べるものはないかと周囲を散策したが、無駄であった。かわりに見つけたものがあった。
 木に縄で縛り付けられた白骨である。
 しかも体格からしてまだ子供だった。恐らく間引かれた命のなれの果て。

「……」

 ドン引きした。
 ようやく才人の中でリアルな未来としての『死』が現れたのがこの瞬間だ。吐気を覚えたが、もう出すものは残っていない。ただ貧血にも似た目眩に、尻餅をつく。
 ケティは街で買ったジャーマンサンドをむしゃむしゃ食べながらその様子を見ている。むむむ、ゲルマニア侮りがたし。そんな批評までしていた。やがてまた町に戻らなくてはならない時間になる。ちょうどぶっ倒れた平民のもとに、一匹のオオカミがやってきていた。
 才人は寝転んだまま、無気力な瞳でそのオオカミを見た。ひょっとしたら朝やりあったやつかもな。見分けなんてつかねーけど。俺を食べに来たのか? そうはいかねえぞ。勝てなくたって、道連れくらいにはしてやる…。透明な目にかろうじて光をたぎらせる。オオカミはしかし、ぷいっとそっぽを向くとまた森に消えてしまった。……なにしにきたんだあいつ。
 その日の深夜、小ぶりの雨が降った。この状況で風邪にでもかかれば冗談抜きで死にかねない。才人は空腹に耐え落ち葉と枝を集めて即席の屋根をつくる。それでも足りず、木の根元を掘り返し、体を隠せる程度の穴も用意した。少しでも眠ろうと努力したが、胃を苛む飢餓感は痛みを伴うほどで、彼は空が白むまでまんじりともせず木の皮を噛んで過ごした。朝になると同時に動かねばならない。そして可能ならば森を出る。街に行けばなにかしら道はあるはずだ。そう信じた。
 ケティは金に飽かせてトリスタニアでいちばん高級な宿に移り、暖かいベッドでぐーぐー眠っていた。朝の鐘とともにぱちっと目を醒まし体操を始める。非常に健康的な生活習慣であった。
 その頃魔法学院では、

「ケティ。おうい、ケティやあい」

 ギーシュのみならず、彼女を心配した多くの生徒たちが周囲を探索していた。

 魔法学院を出て三日目。
 才人はすぐに森を出ることを諦めた。本当に、無理をすれば倒れかねない。なにはなくとも食べ物を探さないと。どうやら今は春らしいし、なんかあるだろ。あってくれ。そんな心境であちこちを歩く。
 しかし散漫になった意識では何も見つからない。
 だいたい彼は食べられる野草や木の実など知らないし、知っていてもハルケギニアで役に立つはずがなかった。
 ようやく見つけたのはどんぐりに似た固い木の実が五つ。むりやり齧った。石のような歯ごたえにでんぷんの塊を噛み砕いたかのような味。あまりにも不味い。才人は絶対に吐き出すまいと、川の水といっしょにそれらを飲み込んだ。またおなかがくだった。
 ケティはお弁当をつくったあと、おやつのためのお菓子としてスフレを焼いていた。そういえばギーシュさまとも……。無垢だったあのころを思い出して胸がせつなくなる。振り払うように頭を振った。気を取り直し、スフレが焼きあがるのを待つ間に宿の主人に頼んで羊皮紙とペンを買ってきてもらい、『平民さん観察日記』なるものを書いてみようと思い立つ。
 これがのちに国境なき共産党内で聖典とされる『同志サイト・ヒラガ苦衷の時代』の原稿になるとは、現時点で誰一人として予想できないことだ。ていうか予想できたら頭がおかしい。

 午後になる。こころなしか空腹も収まった。
 ここで才人はようやくマルトー親方たちに贈られた鎖分銅の存在に思い至る。
 これを使ってなにかできないかな?
 真っ先に思いついたのはマンガ知識であるガチンコ漁だった。川の岩を石で叩き、衝撃で魚を気絶させるという大雑把な漁猟である。だいたいの河川でこれは禁止されているが、ハルケギニアでそんなことを気にしてもしょうがない。
 希望が見えて欣喜雀躍とした才人は、意気揚々と川面に岩の姿を探した。
 なかった。
 日本は特に石が多いが、外国では場所によってはほとんど見かけないこともある。よく欧州での原始宗教で信仰対象として用いられたのも、そうしたバックボーンがあるためだ。
 しょうがないので、手で取ってやる! と才人は無駄なあがきを試みた。当然できるはずもない。

「川遊び、たのしそう」

 とそんな才人を遠目にしながら、ケティ適当に折った枝に自分の髪を結び、もう片方の先端に鋭い木端と安物のビーズを取り付け、水に垂らした。のんびりと待っていると引きがあり、ひょいっと竿をあげると小ぶりなマスが釣れていた。ここで焼くとにおいでバレてしまうから宿で香草といっしょにパイ包みにして明日のごはんにしよう。にこにこ笑って草で編んだびくにマスを放り込むと、そろそろおやつの時間だった。
 才人は魚をあきらめ地上の動物を狙うことにした。そのための道具は、鎖分銅を使えばよい。そなえのために初めてその武器を手に持って見ると、体が信じられないほど軽くなって、素早くしかも的確に操ることができた。
 だがそれだけだった。
 動物はまったく寄ってこない。いなければ武器なんて振り回しても体力を消耗するだけだ。そうこうしている内に日が暮れて、才人は結局また木の実で飢えをしのいだ。
 ケティの日記の末尾には『平民さんはきょうも楽しそうにがんばっていました』と書かれた。

  000

 さらに二日が過ぎると才人の飢えはますます末期的になり、ケティもようやく彼がふざけているわけではないことがわかってきた。ちなみに魔法学院ではその頃、「ミス・ロッタが誘拐された!」と大騒ぎになって、有志を募った彼女の捜索隊が編成された。

「トリステイン魔法学院が見当たらないんだけど」という噂がようやくあちこちでささやかれ始めたのもこの頃だ。

 しかしマザリーニ枢機卿が不在の王宮では、こんな馬鹿げた噂は一顧だにされない。いや正確には、あまりにも馬鹿げている上に本当だったら誰の手にも負えない噂、と言うべきかもしれない。それよりも城下でますます活躍する『土くれ』のフーケのほうへと、貴族たちの意識は向いていた。
 なんでも先週某所でまた。なんと。こちらでもフーケが。まったく衛士はいったい何を。これはそろそろ本腰をいれねばなりませんな。ええ。それよりも今夜いっぱいどうでしょう。そんな具合である。
 なぜ本体であるかつてロングビルであった女性が捕まっているのに、また彼女は二ヶ月前から学院の仕事に従事していたのに、城下でフーケの噂がこうまで高まっているのか?
 それはカタリが存在するためだ。
 当人が縛に付いたことなど知らぬこの組織的野良メイジたちは、汚名のすべてをはしゃぎ回る正体不明のメイジが引き受けてくれることを利用して、このごろかなり好き勝手に暴れていた。貴族を狙えば何をしてもフーケのせいになるし、逃走中も「フーケだ」と名乗れば馬鹿な平民どもは英雄でも見るような目で彼らをかくまってくれる。まったくフーケさまさまだぜという状態であった。本人もこういう動きを知った上で放置していたのだが、さすがにここまでネームバリューが一人歩きするとは思わなかっただろう。
『土くれ』のフーケ団は絶好調。しかし、そんななかで城下町にある彼らのアジトのひとつが襲撃される。
 すわ当局の手入れかと思いきや違う。
 すんでのところで衛士の追撃をかわしたひとりの仲間の証言で、それが元はといえば義侠きどりの子供メイジがしでかしたことだと明らかになった。
 あとは上へ下への大騒ぎである。金を盗まれたのはまだいい。しかし横領されたと思しき木箱の中には、金銭に混じって決して見逃してはならないものまで含まれていた。
 本来横のつながりなどあるはずもない彼らを結びつける、絆であり牽制のためのライフライン。
 いっきとか自由民権運動で頻繁に用いられたあれ。
 連名血判状である。
 これがもし役人の目に触れたら大変なことになる。下手をすれば彼らの頭越しに、活動を援助していたおっかない上役にまで手が届きかねない。そうなれば待っているのは法の裁きではなくパトロン自らの手による圧倒的な私刑だ。誰一人として逃れられないだろう。あるかどうか知らないが、トリステイン海溝に沈められるくらいならばまだ優しい。アルビオン浮遊大陸を命綱なしでロッククライミングするのもまだまだ。ロマリア本国で「わたしはブリミルがケツを舐めるべきだと思います」という旨のプラカードを掲げて練り歩くくらいのことを思い浮かべてもらえればだいたい適当であろう。
 そして、これは彼らの内でも一部しか知らないことだが、さらに重要な、とある『計画』の重要なカギもまた例の宝箱には収められていた。最悪血判状は諦めても、こちらは是が非にでも取り戻さなくてはならない。

 そんな裏事情から、野良メイジたちは今や人生の岐路に立たされていた。連日連夜、やたら従業員の露出が多い酒場で自棄酒会議である。

「やばいよやばいよ」
「これマジで死ぬよなあ」
「ていうかなんでまだ捕まってないんだろうね、俺ら」
「木箱の奥のほうに仕込んでたし、まだ見つかってないんじゃないかなあ」
「一応助かったってことか」
「むしろこの生殺しの感じがイヤ」
「じゃあいっそ自首しちゃう? 監獄なら大丈夫じゃね?」
「いやそれ死ぬことに代わりないじゃん」
「うう。なんでみんなそんなにのんきなのよ……」
「そりゃおれたち基本アウトローだし。キレっとマジなにすっかわかんねえし」
「ところでジェシカちゃんって俺に惚れてるよね。今また目があったし」
「黙れ。ジェシカ俺の女だし。たまに谷間見せてくれるし」
「おれ一瞬おっぱい触ったことあるもん。手の甲で。あれは誘えばオッケーっつう顔だった」
「マジで? ちょっと手に頬擦りさせて!」
「おまえら商売女になに熱あげてんだよ……仕事だろ、しごと。割り切れよ。でないと、死ぬぜ?」
「童貞はだまれ」
「素人童貞もだまれ」
「貴様らは人としていってはいけないことを言った。表に出ろ」椅子を蹴立てる音。
「じょじょじょ上等だコラァ!」

 何人かが椅子を持って店の外へ出て行く。

「はあ…や、やっぱり死ぬしかないのかなぁ」
「まあ落ち着け。みんな前向きに考えようぜ」
「無理」
「無理無理」
「スカロン死ね。誰かあいつにモザイクかけろ」
「は? ミ・マドモワゼルを馬鹿にするなら俺がおまえの相手になるぞコラ。ケツだせ」
「アンリエッタ姫おれの嫁にしてえ」

 混沌の様相を呈するテーブルで、一応まとめ役のような位置にいる名もなき野良メイジがひとつの提案をした。

「いや無理じゃない。要は血判状を取り返せばいいんだ。そうだろう」

 オー、と一同が賛同の声を上げる。

「ボスがいいこといった!」
「そうだそうだ。取り戻せば良い」
「……で、でも、どうやって?」
「それをこれから考えるんだ」
「そうだ。夢はかなう! 努力すればいつかアンリエッタ姫が俺の嫁にもなる」
「それは無理だろ」
「無理無理」
「無理だな」
「死ね」
「おまえらひどくね?」
「で、突っ込んできたそのいかれたガキの名前はなんていったっけ? モンタナ?」
「たしか女だろ。モンタナはねえよ」
「じゃあアンリエッタ」
「おまえしつけえよ!」
「間を取ってジェシカ」
「ぜんぜん間を取ってねーだろ! 好きな子告白大会じゃねーんだよ! 外で争奪戦エントリーして来い!」
「女にやられたのかよ。だせえな……。名前は、えーともも、モンモン」
「主人公の癖に最終巻で死んだサルじゃねえかよ!」
「いやそんな感じだった。突っ込めばいいってものじゃないぞおまえ。……そうだ、思い出したぞ。モンモランシーだ」
「おお」
「狂ったネーミングだな」
「てか家名じゃね?」
「いや、そっちはド・モンモランシだったはず。伸びない」
「モンモランシー・ド・モンモランシ?」
「富野キャラみてえな名前だな」
「モンモランシー。よしおぼえたぜ。この響き」
「テーブルに書いてじっと見つめてたら異常な速さでゲシュタルト崩壊する名前だな」
「モラモランンシー」
「さっそく間違えてるじゃねえかよ!」

 会議は踊り、やいのやいのと収束に向かう。
 下手人は『香水』のモンモランシーを名乗るメイジの女の子。
 そしておそらくは魔法学院に所属している。
 少ないうえに不確実な情報だけが頼りであった。
 やる? やるか。やるしかねえだろ。死にたくねーしなあ。そもそもなんで血判状なんかつくったんだよ。つくらないとイモ引くからだろ。あと持ち逃げとかよ。実際今回もその寸前だったわけだし。まあなあ……。とにかくやるぞ。絶望の晩餐に、火がともりつつあった。
 追うべき標的。そしてまだかすかに隙間を残す生への道に、一同は希望を見出した。

 頼むぞ……血判状と『あれ』が見つかったら、わずかにあった起死回生の目も消えるんだ……。

 内心で歯噛みしつつ、ボスメイジはどんと力強くテーブルを叩き、クズどもに発破をかけた。

「まだ間に合うかもしれない。一度は諦めかけた命だ。なんとしてもこいつの所在をつかむぞ。地の果てまでも追ってやる」

 話がまとまる。新たな火種である。そして彼らを利用してトリステインの治安悪化をもくろむ悪の組織の名こそ、いま『白の国』アルビオンで革命的闘争まっさいちゅうの『レコン・キスタ』である。

  000 

 才人は鎖分銅の扱いに無駄に熟練し始めていた。しかし的はせいぜい木や葉っぱだ。時折うさぎやオオカミを見かけはするが、生き物を撲殺することには抵抗があり、どうしても武器を振るえない。
 ケティはそんな才人の行動パターンを熟知し始めている。あの平民さんはどうやらかなり興味深い人間みたいと、彼女も認めざるをえなかった。
 いや、『平民』と呼ぶことさえおこがましい。ケティはあんなに弱い生き物を見たことがない。独力では火も熾せず、魚も獲れず、そこらじゅうに生えてる山菜も見逃し、武器の腕前はすごそうなのになぜか動物は殺さない。口にするのは落ちている木の実くらいで、毎度水をナマで飲んではおなかを壊している。ケティの常識では、こんなによわっちい平民なんているはずなかった。彼らは、魔法が使えるメイジよりもある意味したたかなのだ。
 すごい……。
 才人を見ていると、ぞくぞくーっとしたものが、ケティの背を這うのだった。それがなんなのか、まだわからない。しかし眼が離せないと強く感じる。彼の観察日記をつけているときだけは、常に胸をちくりと痛ませる失恋の棘の存在を、忘れることができた。

 六日目、ふいに才人は限界に達した。目覚めた瞬間、四肢に力が入らなくなっていた。さらに、突拍子もない孤独感やさびしさが彼の内部を占領した。
 考えてみれば当然だ。貧相な食生活や自分がすでに五日も人と話しておらず、そもそも言葉も発していないことに気づいたのだった。
 俺、野生にかえりかけてる。才人は青ざめる。このままじゃブランカになってしまう。たまらず叫び声を上げるのだが、それがいっそう彼の姿態を動物っぽく見せていた。

「ぶふっ」
「……?」

 謎の音に首を傾げるが、もとより森の中は雑音でいっぱいだ。才人は特に気にも留めない。
 出所はいわずもがな、ケティである。突如として奇声を発した才人がつぼに入って笑ってしまったのだった。彼女も彼に引きずられて徐々におかしくなりつつあった。
 人恋しさもきわまって、才人はとうとうなんとしても森を出ようという決意を固める。怪物の影のように仰々しい森の木々が梢を揺らし、ひとときの間借り人の旅立ちを祝福した。しかし、この先には更なる苦難がスタッフを待ち受けていたのである。
 ケティが十五分で踏破する道のりに二時間をかけて、昼、才人はとうとう森を抜け街道に復帰した。

「やった。俺はやったんだ」

 遠くには、いまや懐かしくさえ感じるトリスタニアの市壁も見える。道行くまばらな人影に感涙して、才人は町へ歩みを進めた。
 予期せぬ障害は門をくぐろうとした、まさにそのとき起きた。数日間のサバイバルですっかり薄汚れた才人を見た衛兵が、うさんくさげな目で彼を見、話しかけて来たのだった。

「ずいぶんな風体だな。夜盗にでも襲われたか?」
「あ。ああ。うあ。か……はう」

 なんとでも話してうまく切り抜ければよかったのに、才人の口も喉も舌も、思うとおりに動いてはくれない。度重なる酷使に痛んだ喉もむろん原因であった。しかし何よりも重いのは、精神を苛んだ沈黙の病である。
 あれ。なんで声が出ないんだろう。おかしいな。はは。いくらずっと喋らなかったからって忘れたりはしねえよ。ほら、おっさんが変な目で見てる。なんかしゃべれ、俺。
 才人の風体が子供であることも手伝ってか、衛兵はとたんに心配そうな顔をする。

「お、おい。大丈夫か。怪我でもしてるのか?」
「う。うう」

 いっそもっと強く当たってくれた方がよかったのかもしれない。急に人情に触れた才人は胸が詰まり、ますます何も言えなくなる。言葉を出そうとすればするほど焦りがつのった。汗がふつふつと湧き出して額をぬらす。集まりつつある視線に身がすくむ。なにか。なにか言おう。
 意を決して面をあげ、渾身のひとことを発した。

「うぐぅ!」

 体当たりしてきそうなうめきにしかならなかった。

「あ、おい!」

 身を翻し脱兎のごとく逃げる。門前の人々はあっけに取られておかしな少年を見送るしかなかった。
 それを観ていたケティは悪いとは思いつつ今年一番かもしれないというくらい爆笑していた。

「あー。あー。ちくしょうなんだよ。喋れるじゃねーか」

 思い切り走り回って人心地つくと、才人は丹念に発声練習をしてなんとか人語を取り戻した。いくら話し相手がいなくても、声を出さないのはまずい。ひきこもりのようなことを異世界まで来て学習する有様だった。

「けど、今戻ったらまるっきり変なやつだしな……」

 門が一箇所のはずもないのでぐるりと壁伝いに廻ればいいのだが、さすがに現代の感覚で狭いといってもトリスタニアは王都である。外周を歩くのはなかなか骨だった。結局、才人は街道の路傍にいすわり、マンウォッチングやときたま話しかけてくる酔狂な人間の相手をして、夕方までを過ごした。
 普通ならエアパッチンを潰して過ごすくらい無為な時間だが、才人にとっては自分を見つめ直す時間になった。四葉のクローバーを探しながら、なんでまた俺はこんな辛い目にあってるんだろうという疑問がむくむくと湧いてくる。冷静に考えてみれば、やっぱりあの学校にいたほうがよかったんじゃないか?
 遅すぎる後悔である。

「はあ……」

『平民さんは、ためいきとともに、とぼとぼと森へ帰っていきました』

 その夜、宿にて才人の行動を書きつづるケティの胸はキュンキュンきている。惚れたはれたという種の感情とはまた違う。どちらかというとわざわざ売れないアイドルを見つけて一方的に応援しようと決め、悦に入る感覚だ。

「いいわあ。あの平民。いいですわあ……」

 突然だが。
 ケティはだめんずうぉーかーである。
 ギーシュに転ぶんだからそうに決まってる。
 そして尽くす女でもある。駄目なヤツでもがんばればそれなりに養うだけの器量を持ってしまっているのだ。男で一生を棒に振るあまりに典型的なタイプの少女であった。
 そんな彼女にとって、そこらの子犬より貧弱なサイトという平民はなんだか見てるだけで楽しい存在になりつつあった。貴族の中ではあまり蔑視がひどくない性質であるのも影響している。が、同棲相手を失った部屋の主のような物寂しい心のスキマを、この趣味の悪い観察の日々は少しならず癒していたのだった。
 それだけならば構わない。才人がひとりの女の子の心を救うという、なんだかまともな主人公のような出来事だ。
 問題は癒す方向性にある。
 折れた骨をきちんと接いで固定しなければ、おかしなくっつきかたをしてしまうように。
 ケティも才人も、だんだんぶっ飛び始めていた。

  000

 エレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ラ・ブロワ・ド・ラ・ヴァリエールはヴァリエール家の長姉で、きっとルイズ・フランソワーズは彼女のことがあまり好きではなかった。いや好きだったかもしれないが、苦手としていた。故ルイズの苦手な人ランキングを開催すれば、きっとベスト3には入賞しただろう。むしろ一位母親二位エレオノールのワンツーフィニッシュを決めただろう。
 当のエレオノールは、そんなことはとっくに知っていた。彼女は自分をしてほとんど瑕疵のない女であると自負している。そんなエレオノールが、もし「自分のいけないところはどこだと思いますか?」と聞かれたとする。
 無言でそんな質問をしてきた相手の尊厳を粉砕するという選択肢は除外する。その上で、彼女が「ほんの少し、玉に瑕だけど完璧すぎてもそれはそれであれだから欠点のひとつもあるほうがいいかしら」的な譲歩で認めるのであれば、さんざん素面で迷ったあとで「ちょっと意地っ張りで素直になれないところ」をあげるだろう。
 要するに、好きな子を構うあまり嫌われてしまう典型的なタイプの拡大・発展・サイコフレーム搭載型の人格を積んだのがエレオノール・アルベルティーヌ・ル・ブラン・ド・ナントカだと思えばいい。
 彼女は十以上も年の離れた妹が、可愛くて可愛くてしかたなかったということだ。
 結果として上手く想いは伝わらなかった。しかしいつも心配していた。魔法が使えず、いじめられていないか。気にしすぎてはいないか。ためにエレオノールは幼い頃から逃げ癖のついていた彼女によくいい聞かせていたものだった。

「いい? ルイズ。ちびルイズ。あなたはまだちびなんだから、魔法が使えないくらいでいちいち泣くんじゃありません」
「はい、おでえだま」頬をつねられながら、幼き日のルイズは半泣きで頷く。カトレアや婚約者の子爵にははにかんで笑うくせに、自分を前にすると妙に緊張しいになる妹だ。そこがまた可愛い。泣かせたくなる。
「あなたは貴族なんだから、ヴァリエールの名に恥じぬよう振舞いなさい」
「あい」ルイズは鼻をすすりながら頷いて、「でも、おねえさま、あたし、まほうがつかえないの。ほんとはきぞくじゃないのかもしれない」
「ばかね! ルイズ」エレオノールはつんと末妹の額を指でつついた。「魔法を使えるものを貴族と呼ぶんじゃないわ!」
「……え? うそ」
「うそじゃないわ。よくお聞きなさい。わたしのちびルイズ」エレオノールは微笑んだ。たぶん、ルイズにもちょっとそうとはわからないくらいかすかに。「あなたを苛めるすべてのこと。困難や不幸や障害や、あるいはほかの何か。そういう敵に、背を向けないもの。その精神! それが貴族よ! わかって?」
「てきに、せを、むけない」

 本当は言い回しが難しくてわかっていなかったろうに、ルイズはこくこくとエレオノールの顔を見て何度も頷いたものだった。
 そして、今。ルイズ・ド・ラ・ヴァリエールが不慮の死を遂げて数日後。

「ルイズ」

 トリスタニアにて妹の訃報を耳にした彼女は、もうラ・ヴァリエール領にある自宅について、屋内廟に安置されたルイズの死体の前にいた。
『固定化』の魔法がかけられたルイズの体は、死亡当日から幾晩を経ても腐敗の傾向は見られない。それでも体から血の気がいっさい失われているのは相変わらずで、どれだけ大量のメイジを用意したところで彼女の顔に、もとの薄紅が色づいたような頬を取り戻すことはできないだろう。

「ルイズ。ちびルイズ……」

 エレオノールはもう丸一日、物言わぬルイズの死体のそばで、彼女の顔に手を触れては戻すことを繰り返している。いつ妹が目を醒まし、長姉に脅えた視線を向けてもいいように、エレオノールも顔を崩さない。年長者たる威厳は常に保っている。
 しかし、冷えた頬に指が届くたび、エレオノールはある衝動に耐えねばならなかった。時折横隔膜をふるわせる吐息。発作的に滲みかける視界。それらの生理機能を超然たる自制心で凍りつかせ、彼女はただルイズの亡骸を凝視する。

「ばかな子ね。あなたの心配を、これからもずっとするつもりでいたのよ。誰より先にいってしまうなんて、ほんとうに、あなたって困った娘だわ」

 一息。
 改めて妹の骸を見つめるエレオノールの瞳に、変化が生じた。

「え……?」

 思わずわが目を疑う。錯覚だ。一秒後にそう断じる。だけど…。どういうことだ? ルイズは内臓を病んで急死したと報告を受けている。水のメイズの徹底した透析によっても毒薬の類は検出されなかった。医師の見立てでも胃病で間違いないという。しかしそれは死因に限った話だ。『それ以前』のルイズに関しての精細な情報は手元にはない。授業中に突如として吐血し、意識を失い、そのまま帰らぬ人となった…そんなどうとでも取れる程度の説明だけ、父母は受けていた。
 人は死後、その身を清められる。事実、ルイズも今は身奇麗になっており、血痕の付着した衣服などまとってはいない。
 だが、その長い、よく自慢げにしていた母親譲りの美しい髪に、雑草が一片だけ付着している。場合によってはそんな紛れもあるかもしれない。しかしだ。耳の後ろにある生え際から伸びたひと房のさらに一部にある草はしかし、

「乾いた血で、塗り込められている……」

 その物証が意味するもの。
 ひとつはルイズの死が屋外で訪れたこと。ひとつは草がそんな位置に引っかかるような姿勢でルイズが地面に倒れこんだこと。
 それがどういうことになる? 外で…体を動かす授業の最中に倒れたってこと? エレオノールは息を詰めて思考する。だけどほんとうにこの子が死に瀕するほど重篤な胃の病気だったのなら、いくらなんでも自由に動き回れるほどの余力はなかったはずで……。
 仮定を二重にしていることに気づいて、エレオノールはかぶりをふる。頭が冷静ではないのだ、と自分に言い聞かせた。だからこんなどうでもいいことが気にかかる。
 そう思うのに疑念は止まらない。
 そもそも調子が悪いのならば体を休めるていどの分別が、ルイズに本当になかったの? それはわからない。カトレアにでも聞かないと。でも、だったら見学という線もあるか。講義の時間割はどうなっていたかしら。思い出せない。考えるだけ無駄ね。いえ。待つのよ。確か、魔法学院のこの時期には、『あれ』があったはず。意地っ張りのルイズが、悪い体調を押しても参加せざるを得ないような、重大なイベントが。
 二年生への進級時に行われる儀式。

「使い魔、召喚の儀式」

 魔法学院所属のメイジにとっては極めて重要な意味を持つ、伝統の儀式だ。その最中に、ルイズは前後不覚に陥った可能性がある。
 そして死んだ。
 あまりにも唐突に。
 使い魔の中には、凶暴な存在も稀にいる。召喚のゲートに応じる以上はある程度協力的な意思を持った存在が現れるが、それは主に限ったもので、ルーンを刻んでいない段階では不確定な要素は、いまだ存在するのだ。野生の幻獣というのは、決して油断して相対してよい存在ではない。だからこそ儀式には『トライアングル』以上の監督が義務付けられている。
 また、使い魔自身の意思によらず周囲のメイジに危険を及ぼすケースもある。皮膚や吐息に毒を持つ幻獣の心当たりがエレオノールにはいくつかあった。
 エレオノールの疑心が皮膜に覆われた真相に、かすかだけ触れた。

「考えすぎだわ。そんなこと…あるわけがない」

 呟く言葉がしらじらしい。もちろん、こんな疑惑は言いがかりに等しいものだとエレオノールは知っている。いま、わたしは自分を見失いかけている。正しく彼女は自覚していた。 
 だが止まらない。
 なにかをしていなくては、ルイズのために何かをしてやらなくては、本当にただの口うるさかった姉として、別れることになるだろう。
 それがどうしても嫌で、エレオノールは外的な要因を措定しはじめた。逃避行動の感情の矛先が、学院という特殊な空間の隠蔽体質に向かった。ただそれだけの話である。
 まさか、若干なりとも図星だろうとは。
 色んな人にとって不幸な出来事だった。

「まずは」

 本当にルイズが体調不良だったのか? 手紙などからその痕跡がつかめるかもしれない。

「カトレアに、確認しなくてはね」

 人知れず意思を固めたその直後に、エレオノールを訊ねる声があった。

「ここにいたのか」

 父のものだった。恐らくここ数日でめっきり老け込んだのであろうヴァリエール公爵が、それでもなお威厳を保った声音で告げる。

「エレオノール。アンリエッタ殿下がいらっしゃった。おまえも拝謁して挨拶なさい」
「はい。お父さま」

 短く答え、死体から目線を切る。口中で祈るように、彼女は呟いた。不思議ね。ルイズ。あなたが死んでしまったなんて気がしないのよ。今にも起きだしてきそうなんだもの。それともどこかでわたしを見てるの? ばかなことをしてるって……学院に難癖をつけようなんて。姉さまなんか自分をいじめてばっかりだったのにって、思ったりしている?
 大げさな題目などない。
 妹の死を受け入れるために、こんな無意味な行動がエレオノールには必要だった。それだけのことだ。
 いわばラブである。
 そしてここで、そのラブによってこの先エレオノールさんが失ってしまうものを列挙してみます。

1.婚約
2.職
3.常識
4.平和

「ルイズ……!」

 鼻息荒く追悼のための行動をはじめる彼女もまた、事態をややこしくすることに一役を買う。

  000

 そしてラ・ヴァリエール邸に迎え入れられたアンリエッタ王女はこれ以上ないほどがっくりきている。トリステイン小町と名高い美貌も目が死んでいてはいまいちだった。

「王女殿下におかれましてはご機嫌麗しく……」
「はあ。どうも」

 ヴァリエール家の人々への返礼もほとんど適当である。しかし謹厳で知られる公爵夫人がちょっと青筋を額に浮かべそうになると、さすがのアンリエッタも居住まいを正した。子供の頃にはルイズを通して彼女の恐ろしさをよく聞かされたものだ。

「公爵。このたびの不幸は、なんといったらよいか。ルイズ、ルイズ、あのルイズが……」

 しかしルイズのことを思うと、アンリエッタの目にはじわっと涙が浮かんでしまう。訃報を聞かされてからしばらくは茫然自失、その時点ではどこか友人の死に現実味がなく、むしろアルビオンに関する私用についての心配などが先立ったものだが、領地に入ってからのあまりの喪中っぷりを見て、ようやく意識が現実に追いついた。
 ルイズ・フランソワーズはどうやらほんとに死んでしまったのだ。
 身分や立場もあって気を許せる人間などほとんどいなかったアンリエッタにとって、ルイズという存在はまざしく竹馬の友であった。莫逆の仲であった。刎頚のつながりであった。管鮑の交わりであった。思わず重複表現に無駄に凝るほど仲良しだったのだ。比較対象がいないので彼女がそう考えるのも無理はないことである。

「ルイズは、わたくしのお友だちでした。彼女は美しく、聡明で、気高く、また忠義に篤い……」

 王女としてまっとうな弔辞を述べねばならない。しかしマザリーニが添削した文章はすっかりアンリエッタの頭から飛んでいた。さすがにいきなりダバダバ泣き出すような真似はしないが、モグモグ吐き出す言葉は非常に要領を得ないものになる。

「小さくて、あとピンクで、ああそれに魔法もからっきしでしたわね。それにピンクでした。もも。スモモもモモもモモ」

 公爵家の雰囲気が一秒ごとに「おいおい」という感じになりだして、マザリーニ枢機卿は自室に返ってから頭を抱える覚悟を決めた。
 困り者のアンリエッタとて、今の状況がおよそ上に立つ者として相応しくない醜態であることはわかっていた。だがタイミングが悪すぎた。よりによって、今や自分にはルイズくらいしか頼れる人がいないわ、と思いつめていた段階でその友だちに死なれたのである。

「ええ……いつかの晩餐会では彼女に替え玉をしてもらったこともあるくらいで……」

 お空の上で苦境に立っている従兄殿の進退はもうほぼ決まっている。

「悪いことをして、ともに叱られてしまったこともあったわ……」

 打つ手のなくなった自分が今後たどる道も連鎖的に想像できる。

「ルイズ、公爵の娘ごは、わたくしにとってほんとうの、なにものにも変えがたい、無二の友だったのです」

 そこに単純に幼少のみぎりを共有した親友をなくした哀しみ。
 アンリエッタの心中で過去と未来が虚実の別なく氾濫した。
 笑っていたルイズ。泣いていたルイズ。自分の手をとったアルビオン皇太子ウェールズ。湖のほとりで誓いを交わしたウェールズ。そんなウェールズにしたためたつたない恋文。それをアルビオンをひっくり返そうとしている貴族派に見つけられたあとの展開。ゲルマニアを怒らせたトリステインの末路。ルイズウェールズさまルイズウェールズさまわたくしウェールズさまウェールズさまわたくしウェールズさまわたくしウェールズさま国。あとまあルイズ。

「ルイズ……」呟きとともに、真珠のような涙の雫がアンリエッタの頬をつたう。
「殿下……」さすがに感に堪えたのか、率直な哀惜が周囲に伝播した。身内だけしかいない空間だからこそ作用した幸運である。
「ウェーイズさま……」ごっちゃになっていた。
「誰!?」

 倍率ドンドンドンでアンリエッタはもう自失状態であった。たとえるなら、今からバンジージャンプをしなきゃならないのに明らかに命綱が途中で切れてる、といった心境である。基本的に政治家に向いていないアンリエッタがどうにかなってしまうのは、無理からぬことなのだった。

「もったいなくも、殿下にそこまでおっしゃっていただければ、あれも満足でしょう」

 アンリエッタのたいがいな弔辞がひと段落すると、すごい無難な感じでヴァリエール公爵が綺麗にまとめる。二三事務的なやりとりを交わすと、あまり仲のよろしくない公爵と枢機卿の目と目が通じ合った。
 とりあえず細かいことは明日。
 一同はぐんにょりして、部屋に案内されるアンリエッタを見送った。

「殿下はお若くあらせられる。そしてああまで悲しんでいただけたルイズは果報者だ」

 フォローを忘れない公爵は基本的に王族に忠実である。それからため息をつくと、末席で居住まいを正していた近衛魔法衛士隊のひとりに、老いた父親の顔で話かけた。

「子爵。きみには済まないことになった」
「いえ……。彼女はきっと天に愛されすぎたのです」
「きみが近衛にいたのは幸いだったよ。それとも不幸だったのかもしれんが。ともかく、よければわが娘をともに見送ってくれたまえ」
「は」

 厳粛な面持ちで顔を伏せる彼、ルイズの婚約者ことジャン・ジャック・フランシス・ド・ワルドの内心は、舌打ちにまみれている。そして懸念でいっぱいである。
 端整な顔立ちの奥底で、ワルドは非道な計算を働かせていた。

 さて、どうやってルイズの死体を盗もうか?






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