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No.5421の一覧
[0] イ吏い魔[ドジスン](2008/12/21 23:21)
[1] 吏い魔[ドジスン](2008/12/21 23:22)
[2] い魔[ドジスン](2008/12/21 23:24)
[3] おまけ[ドジスン](2008/12/21 23:32)
[4] おまけ2[ドジスン](2008/12/21 23:33)
[5] おまけ3[ドジスン](2008/12/21 23:35)
[6] おまけ4[ドジスン](2008/12/21 23:38)
[7] おまけ5[ドジスン](2009/01/01 23:48)
[8] おまけX(本編ではなく、ネタバレを含みます)[ドジスン](2008/12/21 23:44)
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[5421] おまけ3
Name: ドジスン◆bcd22b31 ID:31a83a6e 前を表示する / 次を表示する
Date: 2008/12/21 23:35


 000 はた迷惑なフーケたち シャトー・ド・ヴォー・ル・ヴィコント 3 000




 七日目。魔法学院で本塔地下にあった入浴場が奇跡的に原型を留めていることが確認され、雨露をしのぐ即席の建造物が完成をみたころ、今日も今日とてギリギリを生きる才人は、腐葉土に寝そべっている。
 彼は目を閉じて地球のことを考えていた。正しくは、目を閉じると勝手に過去の記憶が再生されるのだった。いわゆる走馬灯である。
 いよいよ身命を侵さんとする栄養不足は、もはや主人をしりぞけ思考の牛耳を執らんとしている。虚ろな双眸が映しこむのはしかし、思い出深い情景などではなく、ぎりぎり忘却の淵に引っかかっているようなエピソードばかりだ。

 平賀の祖父は穏やかな人物であった。若い頃には従軍の経験もある老人で、それなりにやんちゃだった才人は彼によく懐き、珍しい話をねだったものだった。
「日本は情報を軽んじたせいで戦争に負けたんだ」と顧みる眼差しで語った祖父の顔には修羅が棲んでいた。
 死後、祖父の私室の床下から小銃やニトログリセリンや軍刀が発見され、親族一同を揺るがす大騒ぎとなったものだ。結局それらの物品は見なかったことにされた。今も実家の床下の地中に埋まっていることだろう。

 そんな祖父の息子である叔父は、祖父とは別の意味で親族にとっての困り者だった。いつまでも分をわきまえず一攫千金を夢見ているような男で、地道な労働とは縁がない人間だったのだ。
 子供はだいたいロクデナシに懐くもので、才人もその例外ではなかった。金の無心に来る叔父は、よく甥に「この馬はガチで来る」「このくじはガチで当たる」「今度の株はガチで上がる」などと大言を吹いたものだ。
 叔父が家に来るたび才人は喜んだが両親はとても苦い顔をしていた。才人はそれが悲しかった。
 しかし中学の頃あぶなげなところから金を借りて株に全財産突っ込んで失敗したあげく蒸発したと聞いたときは、「ああやっぱりな」と思ったものだった。さすがに中坊ともなればごく潰しとロマンチストの区別くらいはつく。こうして才人はちょっとだけ大人になった。

 次に思い浮かんだのは小学校のときの遠足だ。前日からハイテンションの才人はバスの中でゲロっちゃうようなこともなく、通路を挟んで座ったちょっと気になるあの子をちらちらと過剰に意識しては、小さな幸せを満喫していた。
 悲劇はパーキングエリアで起こった。ちょっと長めのトイレに出た才人がバスに戻ろうとすると、どこを見ても車の姿がない。半泣きになった才人はとりあえずエリアの公衆電話から自宅に電話をかけた。
 家には母しかおらず、そして車はない。結局夕方まで才人はパーキングエリアで過ごした。才人の不在には遠足が終わるまで誰も気づかなかった。

 思い出してはいけない記憶を取り出したせいで、才人はものすごく切なくなってきた。
 かように平賀の血にはデスペラードの命脈が受け継がれている。万事流されやすく血気盛ん、それでいてヌけていると評される才人も例外ではなかった。むしろ最先端である。

「生きる」

 ひび割れたくちびるから空へ向けて、単なる言葉が吐かれ、すぐにしなびて顔に落ちる。
 鈍色の雲を切り分ける梢に鳥が止まる。
 川のせせらぎに感覚が浸る。
 少年は夜郎自大な自分を悟った。都会から離れ、身ひとつで大自然と向かい合う。なるほど生活とは険しい。ただ食べるだけのことがこんなに厳しいだなんて思わなかった。それはわかった。わかったからそろそろ……勘弁してくれ。でないと死ぬ。マジでしんじゃう。
 うめきながら大地をにょろにょと這って、才人は最近食べられることを確認した野草を優しい手つきで掘り出した。都会っ子なのですぐには思い付きが至らなかったのが悔やまれる。草だって食べられるんだ。軽い意識改革が、ここ数日の才人に訪れていた。
 しかしなにぶん葉っぱは苦い。そりゃ生の葉っぱを食って美味く感じるようなら今すぐ人間を辞めて牛にでもなったほうがよい。ぺっぺと噛んでみた子房を吐き出した才人だが、今度は根っこに注目した。根菜とか……イケるんじゃねえの?
 川で洗って食べてみた。
 意外とイケる。
 才人は図に乗って、さらなる食物を探した。もう気分はサバイバーだった。元の世界に帰ろうという考えすらわかない。
 今を生きる。
 刹那的かつ永遠のテーマだった。
 このとき彼が手にしたのは、フキにも似た新芽。洋風に呼ぶとスコルピアというナス科の多年草である。ハルケギニア産なので厳密には全然違う花だが似たようなものだと考えればよい。しかし才人は細かいことは気にしない。むしろこれはフキだ、と彼は確信していた。世に言う確証バイアスである。
 このスコルピア、開花時期は春から初夏にかけての植物で、見た感じは健気で鑑賞にも堪えうる。

「食えるかな。食えるよな」

 才人には「花」というより「野菜」にしか見えていない。かなり末期であった。
 この花は和名をハシリドコロという。
 さらにわかりやすい別名をキチガイナスビという。
 テレビでは放送できないネーミングであった。
 毒草である。
 ハルケギニアではこの根や根茎を乾燥させて煎じたものを、水の秘薬として用いている。
 全身にアトロピンやスコポラミンを含む。ばっちり副交感神経を麻痺させる成分である。なのでふつう食べると食中毒を起こす。症状は嘔吐や散瞳や呼吸困難。ならびに異常興奮による幻覚、譫妄、転じて昏睡。そこから由来して、「食うと走り出す」という命名にちなんだわけである。あと運が悪いと死ぬ。
 が、毒を以って薬を為すとあるとおり、一概に毒草とも言い切れない。瞳孔の散大効果があるので、正しい処方に基づけば、実はあの有名なロートエキスもこの草から抽出できるのである。またヨーロッパでは瞳を美しく見せたい婦人方が、実際にこの草のエキスを点眼していたこともあった。
 一方才人の食べ方は当然のごとく間違っていた。
 ケティはその様子を一から十まで見ていたが、まさか平民が毒草をむさぼり食っているなどという事実には思い当たらない。実は彼女は、八歳の折ヒカゲシビレタケ・トリスタニカ(マジックマッシュルームともいう)を生で食べて半日トリップしまくった経験があるが、そのときの記憶を持っていない。パッパラパーになった人やラリパッパになっちゃう理由などお嬢さまなケティが知るわけもないのだった。

「おお。うめえうめえ」

 と才人は思っているが、実際は美味しいはずもない。普通に野草の根を食べればこうだろうな、という土臭い味である。しかしそうでも言わなければ彼もやってられなかった。いわば自己暗示である。
 ひさびさの水っぽい食物を、彼は丹念にしゃぶりつくした。もう後にはひけない。

「…………あ?」

 のどの渇きを川の水で潤し、つけあわせに保存しておいた木の実も食べた、そのときである。
 才人の眼は虎眼先生のごとく瞳孔を散大させた。
 同時に全身をえもいわれぬ悪寒と痺れが走りぬける。ついで大きな熱のかたまりが彼の体内に生じた。才人は丹田からこみ上げて輝くその光を確かに見た。普通に幻覚だった。

「太陽! 太陽すげえ! すっげー! 太陽! おっほー!!」

 もはや誰が見ても危険なレベルまで、才人はアロンソより早く駆け抜ける。後生大事にしていたパーカーを脱ぎ捨て、デニムジーンズも脱ぎ捨て、それでも下着だけは脱がず、肌寒い四月の風に狂喜乱舞して川へ飛び込む。手にはいつの間にか鎖分銅があった。

「よしこい! かかってこい! 俺はここだぁ!」

 錯乱しつつも左手のルーンは百ワットの電球くらい輝いていた。ひそかに円形脱毛症になっていた桃色の手毛もファッサファッサと風に泳ぎ、水に濡れてはしぶきを散らす。美しいがどこまでも変態的な光景であった。

『なにこれ……』

 と。
 心底頭が痛そうに囁く声がある。
 才人は動きを止めぬまま、意識の片隅で思い出した。聞き覚えがあるなこの声。どこで聞いたんだっけ。
 そうだ。あのときだ。
 大暴れして、あのキザったらしい貴族の魔法使いのゴーレムと戦ったときも、これと同じ声が聞こえていた。そして、そのあとも……。だが才人はもはやそんな些細なことは気にしない。
 幻聴だ幻聴。
 そう決め込んだ。明らかに左手のルーンをスピーカーにして声が聞こえても、彼はそれを夢幻の類と思いこんだ。

『幻覚じゃないわよ。いい。あんた。この犬。わたしの使い魔なんでしょ? ねえ。聞いてよ。聞け平民。おい。無視するな!』

 才人は末梢神経的なケイレンで応じる。

『それ、返事? まあいいわ。とにかくなんとなくわかってきたことがあんのよ。このルーン、あんたが武器を持つたびに機能してる。それでそのときだけ、わたしの声を聞けるようになるのね。いったいどうなってんの? ねえ』

 よほどの寂寞と見詰め合うときを過ごしたのか、その声は一週間前耳にした癇癪めいた性質より、いくぶん柔らかだった。もっとも今回は才人がとち狂っているのであまり意味がない。

『……わかるわけないわね。平民なんかに』

 才人は心の赴くまま、左手を水面に叩きつけ、生えている毛を一房ひっぱった。

『いったい! ああ、あんたききき、貴族の髪を引っ張るなんて! なに考えてるの! こら! やめなさい! いたーッ!』
「なんだコラ! 俺は負けねえ! 生き延びてやる!」
『わかった、わかったから。とにかく聞きなさい。ええい、この……』

 声が一瞬静まったと見えた瞬間、才人の脳裏に刹那だけ女性のものと思われる面影がよぎった。
 桃色の髪で、優しそうな顔をして、スタイルもよい。この世のものとも思えぬほど美しい女性の姿だ。
 ――あら。また泣いているの? しかたのない子ね。
 彼女は微笑して才人の頭を寄せると、その胸のなかで抱擁した。暖かい体温が錯覚ではなく才人に伝わってくる。涙が出そうなほどの安らぎが生まれた。

「……」

 狂態が一瞬だけ停止して、彼はそのイメージをまぶたの裏に探した。何もかも忘れるほど胸がときめいていた。
 これが……恋? 
 素で気持ち悪いモノローグを吐きかけたところで、

『あ、今のね。わたしだから。わたしの姿。ちょっと見えたでしょ』

 何か違うし騙されている気がする。
 しかしそんなことはどうでもいい。才人は釘宮声を黙殺した。
 水面が波紋を幾重も描く。そのすべてを打ち消すほどの波を蹴立てて、呟いた。

「今の」
『え?』
「誰?」
『……わたしよ。すす、すごいでしょ。なんていうかもう、非の打ち所のない感じでしょ! 特にむ、む胸とか!』
「嘘つけ」本能が即座に虚言を見抜いていた。
『なんでわかるのよーッ! 人の名前も覚えてない癖にッ!』

 絶叫するルーン。
 呼応して乱心する才人。鎖分銅を操るその動きだけは常人どころか達人の域を軽々逸脱して入神している。もはや分銅を投げたという殺気だけで獲物を射落とした。
 掌中に極意がある。
 追えば逃げる。
 触れば消える。
 狐狸鳥獣は霞と同じだ。寄せた指には決して触れない。痩せこけた体躯に鋭利な気が充溢し、今や才人は触れれば切れるガラスの十代キザキザハートだった。薬物の助けを借りて開眼した奥義を教示するのは彼が子供のころ見た『ベスト・キッド』のミヤジさんだった。脳内師匠は語る。

 ライトサークル、レーフトサークル。アップ、ダウンねダニエルさん。

 ダニエルはそうした。
 才人もそうした。

「フンハァッ!」

 吃と眼光閃いて、馬手がしなって錘が飛ぶ。とたんに森がさんざめき、頭上からはボッタボッタとカラスだのハトだのが落ちてくるわ野をゆく兎はこてんとショック死するわオオカミたちは理由もなく遠吠えを上げ始めるわと、一帯の森はすごいことになっていた。
 それを見ているケティも大変なことになっていた。

「 エフッ エフッ エフッ エフッ 」

 笑いすぎてひきつけを起こしている。
 淑女なのに鼻水まで出ちゃうほどウケていた。
 なに? いったいどうしたのあの平民さん。わたくしを殺してしまう気なの! ばんばんと地面を叩く彼女は「ググリ」という罠で捕らえたウサギを堂々しりごみせずにかっさばいている真っ最中であった。おかげで鮮血が顔を汚してしまっている。

  000

 ところで、局所的な魔界となった森の近くを通るグループはこのときみっつあった。ひとつはキュルケ、ギーシュ、モンモランシーの三人組である。実質分解状態の学院には見切りをつけた生徒たちだ。
 示し合わせてトリスタニアに向かうわけではない。同道したのは偶然である。キュルケは単なる買い物で、あとの二人は行方不明のケティ・ド・ラ・ロッタを探そうという目的が主な遠出になっている。
 馬を器用に操りながら、キュルケは背後で暗い顔を引きずるカップルを流し見た。

「それにしても、その一年生の子を見つけだしてどうしようって言うの? 単に恥をかかされたって思って家に帰っちゃったのかもしれないじゃない。それを何十人も徒党を組んで探しちゃって……まあ他にやることもないんだろうけどね」
「ひとりで?……ありえないわ」モンモランシーが忌々しげにギーシュを尻目した。「何かあったって考えるのが妥当でしょ。ねえ、ギーシュ・ド・グラモン?」
「うん」

 さすがに苦い顔で、ギーシュは頷く。そこには使命感と悲壮感と罪悪感と、あと一片のめんどくさい感があった。

「あなたたちって変わった恋人だわ。特にモンモランシ。どうして恋敵を探してあげようなんて思うのかしらね」
「恋敵じゃないわ。もうこいつとはなんでもないもの」

 モンモランシーはきっぱりと言い放つ。とたんにギーシュが眉を下げて、

「そんな、モンモランシー。だからそのことは誤解だって言ってるじゃないか……」
「知らない。つーん」
「ああ! モンモランシー!」

 と叫んだところで、彼女たちのまたがる馬が突然興奮しはじめた。襲歩する駒たちをどうにか落ち着けることには成功したが、一斉に鳥が飛び立つ横手の森を見て、一同は首を傾げる。

 ここでギーシュの『モンモランシー』という呼びかけを聞いていたのがもうひとつのグループ、くだんの野良メイジ連合であった。道端の草むらに身を潜めている彼らだが、こんなところにいるのには理由がある。
「最近城下で豪遊する貴族の少女がいるらしい」といううわさを聞きつけ、ケティに目をつけたのであった。このあたりはさすがに地域密着型の集団である。情報が早い。
 しかし宿帳を見れば宿泊している女の子は確かにメイジだが、名前は『モンモランシ』ではなく『ロッタ』であった。だいたい例の義賊が本名を名乗ったという根拠もないので、迷いどころである。しかし迷う暇は彼らにはない。とりあえず即日ガラをさらうことが決定した。
 話によればミス・ロッタは毎日町を抜け出しては夕刻門が閉まるギリギリに帰ってくるらしい。町の外でならば実質法権は働かないも同然だ。野良メイジたちは今まさに、どういうわけかお上が管理する森林へ忍び込んでいるケティの身柄を虎視眈々と狙わんとしていた。
 しかし――
 さていざというところで、『モンモランシー』と呼ばれる貴族の女の子が現れたのだった。あまりにもタイミングが良すぎる。
 一同、合計八人の手勢を率いるボスメイジは、臍を噛んだ。

「動きを悟られたか? ……それはないか。だがどういうことだ」
「どうします」
「とりあえずこっち行っときますか? モンモランシーって呼ばれてるし」
「そうだな、いや、待て」ボスメイジは学院生徒たちの会話に耳をそばだてる。

 モンモランシーと思われる金髪巻き毛の少女と、同伴するいかにも貴族然とした奢侈な身なりの少年。この二人は誰かを探すためにトリスタニアへ赴いているらしい。しかし、今日は『虚無の曜日』ではない。
 学院とは、果たしてそれほど軽々と生徒を自由にさせる場所だっただろうか――気がかりがいくつか生まれ、いずれも無視できない。ボスは愚策と知りつつ、配下のメイジたちに改めて指示を下した。

「三人と五人にわかれろ。三人のチームは予定通り森へ入って小娘をつかまえる。僕を含めた五人はあっちの三人に探りをいれよう。学生とはいえメイジ三人を相手にするなら、万全を期しておきたい。……余裕があればさらうがな」
「オーケーボス」
「そのボスっていうのやめないか?」ボスは顔を歪めて、「まあいい。しくじるなよ。我々には後がない。早晩王都も出なくてはならないだろうからな。――行くぞ」

 号令一下、無法者のチームは妙に統率の取れた動きで散開した。

  000

 そして、第三のグループ。先行する二組からはいくぶん遠い箇所を歩くのは、『土くれ』のフーケを護送する魔法学院職員たちであった。内わけはコルベール先生、シュヴルーズ先生とその他二人の計四人。
 彼らは護送隊でもあると同時に、とうとうしびれをきらし学院長に無断で学院消滅の報を届けるべし、と腰を上げた有志でもあった。
 あの忌まわしき『グラウンド・ゼロ』から明日で一週間(八日)。意外と野外生活に順応しつつある学院メイジたちではあったが、さすがに皆が皆浮動的な状況をよしとするはずもない。いいかげん近場に実家のある生徒の姿がチラホラと消えつつあるのだ。彼らの親御から学院の頭越しに王室へ通報されては、翻意ありと疑われてもいいわけができなくなってしまう。未練がましいオールド・オスマンには付き合いきれんと、現実的な対処を始めることにしたのである。

「おや。鳥が騒がしい……」

 遠い目で森を見やるコルベールは、拿捕されて以降完全に黙秘を貫いているフーケ=ミス・ロングビルを道中ずっとちらちらと意識している。
 杖を奪われ腰と両手に縄を打たれた彼女は、むっつりと前を睨み、自分を囲むメイジたちの姿など目に入らぬかのように振舞っていた。これから衛士に突き出される未来などまるで恐れていない風である。
 正直なところ、彼女が本当にフーケか否かという点には懐疑的なコルベールであった。証人のタバサと才人がさっさといなくなってしまったのも一因である。
 とはいえ事件当夜、夜っぴて番をしていたはずの教職員が揃いもそろって眠らされていたのは確かなので、なんらかの外的干渉があったことは想像にかたくない。あっさり気を失わされた教師たちはこぞって彼女が盗賊であるというタバサの言を容れたが、コルベールはそうやすやすとは納得できない。
 要は、状況証拠だけで、はたして同僚を官憲に突き出していいものか悩んでいるというわけだった。
 もちろん岡目八目には程遠い、どちらかというと判官贔屓な葛藤である。彼もまた脛に傷持つ身。若い頃にはしゃいで村ひとつ灰燼に帰したトラウマを抱えている。
 そんなコルベールだからこそ、特に気品さえ漂わせ、実際に有能だった美しい女性が盗賊などに身をやつす経緯を色々と想像し、勘ぐってしまう。メイジとしても優秀で、おそらくは高度な教育を受けていたからこそ『ミス・ロングビル』は学院長の秘書たりえた。それだけの能力を兼ね備えた人間が、どうして好んでヤクザな稼業に打ち込むというのだろう。けっこう当たっているだけにバカに出来ないコルベールの観察眼である。
 罪、罪か。果たして彼女に罪はあるのか? それを言うならわたしこそ裁かれるべきでは? などと、論点を自分で豪快にジャグリングしつつ答えの出ない思索にふけってしまう。
 さて、フーケはというと、これが意外と楽観的であった。教師クラスのメイジに周囲を固められているという点では脱出は困難だが、正規の衛兵に護送されるよりはまだ望みがある。
 とくに自分が気があるふうだったコルベールは、肌のひとつやふたつを脱いで見せれば、逃がすとまではいかなくとも隙を見せてくれそうな気が、大いにする。
 彼女は絶望しない。より大きな挫折と失意を既に経験しているからだ。しらっとした表情の裏で蓮っ葉な笑みをつくって、まあ、なんとかしてやろうじゃないの、そうでんと大きく構えている。幾度となく『土くれ』のフーケを救ってきた彼女自身の勘が、囁いていた。ここはまだわたしの結末じゃない。終幕はまだ遠い。わたしはこんなところで終わる器じゃない、と。
 この勘は当たっている。

 悪い意味で。

  000

 ひたすらに気分が悪い。げーげーと、ほとんどない胃の中身を戻して虚脱状態の才人は、今もなおルーンから響く声を拾っている。これがまた頭に響く声質でたまらない。いいからちょっと黙れと才人は言うのだが、するとその口の利き方はなによとルーンは烈火のごとく怒るのだった。ひどくたちが悪い。

『それにしても……、今も武器は握ってるとはいえ、ちょっと前まではそれだけじゃまだ足りなかったのに。どういうことかしら。あんた、まさか聞こえないフリしてたんじゃないでしょーね』
「いや、そんなことはないです、はい」

 青ざめた顔で、才人はガタガタと震える。鎖分銅を握っているとどうにか体に熱が灯るので、今やこのプレゼントは彼にとっての生命線となっていた。場合によっては最後まで正式名称が出ないかもしれない伝説の刻印の、意外な使い道であった。

『ひょっとしたら、死にかけてたりしたほうが通りがいいのかしら』

 ルーンの呟きに「携帯のアンテナじゃねえんだから」と答えたいところだが、そんな余裕はない。自らの左手を見て、才人はさめざめと泣いた。ちなみに交信のチャンネルが開きっぱなしになったのはさっき食べた毒草のおかげである。古来よりドラッグの服用はシャーマンの行う儀式と密接な関係を持っていた。だからなんかまあそんな感じで才人の感覚もより先鋭化したのだ。
 極限状態にあっても、彼はさんざんこの「左手と喋る」という現象に言い訳をつけてきた。いわく寄生獣である。しかし左手だった。いわく美鳥の日々である。しかしどう転んでもこれとラブコメはできない。いわく精神を病んだのである。これはちょっと魅力的だった。しかし毛の生えた説明がつかない。
 今まで見てみぬフリをしていた現象と、今こそ直面しなければならない。
 毛の中心が盛り上がって顔っぽいものが出来ている。
 人面疽にしか見えない。
 才人は気持ち悪いとかを通り越して痛々しくなってきた。

「おまえ…終わってるよ。存在として」
『勝手に終わらせないで! こちとら花も盛りの十六歳! ヒロイン! これから!』
「人面疽がヒロインって……。妄言もほどほどにしろ。つかメスかよおまえ。もう黙ってくれ。悲しみが止まらねえ。人面疽だぞ。この世界のブラックジャック先生はどこにいるんだよ。……しかもストレスで十円ハゲできてるじゃねーか」
『それは言わないでッ! だ、だいたいあんたも悪いのよ、わ、わたしを無視するから……』

 よほど話し相手に飢えていたようで、ルーンは実によく喋った。しかしこれが可愛い女の子ならまだしも、実態はルーン(人面疽。毛つき)である。ぐすんぐすんとか言い出した情緒不安定な有様を、才人はまったく意に介さない。

「聞こえねーんだもん。しょうがねーじゃん」
『ご主人さまの声が聞けない使い魔なんてどこの世界にいるのよぉ』
「さっきのひと可愛かったなぁ……あれ誰?」
『教えないわよ。誰があんたなんかに』

 才人は鎖分銅を手放そうとした。

『ちいねえさまよ! わたしのお姉さま!』

 おねえさまときたか。才人はいよいよ自分の左手を心配した。いやもう心配のレベルを通り越した異常な状態なのだが、とにかく心配した。

「人面疽にも血族関係ってあんの?」
『だから人面疽じゃないって言ってるでしょうがアッ!』

 だって……と、才人はルーンあらため人面疽をじろじろと眺める。

「似ても似つかねえし。あのひと、ちゃんと人間だったぞ」
『……わかった。あんた、どうあってもわたしを人間と認めない気ね……貴族をナメた平民がどうなるか、いずれ後悔するときが来るのを楽しみになさい』

 陰湿に含み笑う人面疽の様はさすがに不気味だった。正確には人面疽自体はなにしろ人面疽なので動きを見せているわけではない。あくまでもルーンをスピーカーにして声が聞こえてくるだけである。
 というわけで、人面疽が左手に浮かび上がる必然性が、実はないのだった。才人がこの事実にまで気が回らなかったのは幸いであろう。知ってもより欝になるだけだ。

「わーったわーった」才人はため息とともに妥協を提案した。「おまえは元人間な。それは認めるよ」
『なによぅ。エラそーに。平民のクセに。使い魔なのに』
「さっきから平民とか使い魔とかよくわかんねーけどさ」

 と断る才人は、彼を呼び出した少女と左手の人面疽の関係性にはまだ気づいていない。ちなみに現時点では、才人のことなど九割忘れかけているキュルケと、そしてガリアでまた任務に就いているタバサでさえこのトンチキな現象については「まさかね…」としか思っていない。

「そりゃ大変だと思うよ。そんなふうになっちまって。でも俺はどうなの? どっちかっていうと俺のほうがかわいそうじゃね?」
『それは』口(っぽいもの)ごもりつつ、人面疽がうめく。『悪かったわよ。あんた、遠いところから来たんだものね。右も左もわからなくて、すごく大変そうにしてたの、ずっと見てたわ』

 おお。殊勝じゃねーか。才人はちょっと気分を良くした。だいたい頭から押さえつけるような相手というのが好きではないのだ。これで人面疽がしおらしくなるのなら、どうにか付き合えるかもしれない。なんだかんだといって、会話に飢えているのは才人も同じなのだった。
『だけど』と尖った声で人面疽が反論した。

『たいへんなのはわたしも同じなのよ。というか、どっちが悲惨かっていったらそりゃわたしでしょ!? あんたなんか元々どことも知れない素性の野良犬じゃない。あんた平民。しかも貴族にいきなり喧嘩売るおばか。わたしは押しも押されぬ公爵家の貴族。それはそれは可愛らしいレディなのよ』
「へん。口……クチ? 口……じゃあなんとでも言えるわな」
『言ったわね。……さっきはついついちいねえさまを見せちゃったけど、今度はちゃんと見なさいよ、このぉ。たしかこーやって、強く思い描けば……』

 いったいどういう原理なのか、人面疽がむーんむーんと唸ると、才人の思考にノイズが走り、フラッシュのように像が瞬いた。
 桃色で……髪が生えていて……顔があり……胸がない(物理的な意味で)。
 あとは全てにモザイクがかかっていた。
 才人は気の毒そうに呟く。

「おまえ……存在自体がワイセツなんじゃねーの?」
『あれ!? なんで!? どーしてぇ!?』
「どうでもいいよ」とことん投槍に才人はいった。「どーせさっきのひとのほうが綺麗なんだろ?」

 うぐっと人面疽が言葉に詰まった。

『反論できないじゃない……ッ。でも不愉快だわッ!』
「あぁ、あの人ならいつまでも見てたい。マジで。ガチで」
『だっ、だれがあんたみたいな平民にちいねさまのお姿をみだりにさらすもんですか! だいたいね、わたしだって大きくなればちいねえさまそっくりになる予定なんだから』

 左手から『ちいねえさま』なる女性そっくりのブツが立ち上がってくる様を想像して、才人はげんなりした。

「おい人面疽。それ以上大きくなったらマジで切り落とすぞ人面疽」
『うぅ。あのね……人面疽人面疽って連打されると本気で欝になってくるから……』

 どうにか溜飲を下げて、才人は毒草のショックからも抜け出しつつあった。 
 左手の惨状は生理的にとても不快な光景ではあるが、桃色の毛がファンシーなおかげか、ギリギリのラインで「削り取ろう」までは届かず「どうにか見えないようにしよう」という程度で踏みとどまっている気がする。
 もちろんこれは才人の持って生まれた性格と、例の後付っぽい洗脳効果のなせる業である。このふたつのどちらが欠けていても、才人はヤスリを手に入れようとしたに違いない。

「そうだなぁ。人面疽ってのも確かに自分で言ってて欝入るから、名前でも決めっか」
『いらないわよ。わたしにはちゃんとルイズ・フラ』
「『桃毛』にしよう」
『モモゲェエエエ!?』
「ああ。語呂がいいだろ。名は体をあらわす」
『あんたアタマ沸いてるんじゃないの!? 人面疽とどっこいどっこいでしょそれぇ!』
「かわいいじゃん」
『短絡的すぎるっていってんのよ!』
「それにしてもテンション高いなぁおまえ……びっくりマーク使いすぎだよ」

 よっこらしょと立ち上がる才人。体を冷す水も、どうにか地面の土や葉がぬぐってくれたようだ。ついでだから脱いだ服を洗濯するべきかもしれない。ふらつく頭と体は難ありだが、毒による症状は峠を越えたらしい。これもモモゲの恩恵か、彼の回復力は常より少しだけ促進されていた。
 周囲では墜とされた鳥が徐々に復調を始めていた。かなり薄気味が悪い。才人はヒッチコックの映画みたいな光景から距離を取る。

『自分でやったんじゃない。なんかキエーッとか言って』
「覚えてるけど、アレは俺じゃねーよ、たぶん……」ちなみにいけないタバコを吸って突然シャドウボクシングを始めた場合も、人は我に返ると似たようなことを言う。
『とりあえず、あんたは今すぐ森から出なさい。ここはやんごとなき方々の持つ森なのよ。平民なんかが入って暴れていい場所じゃないんだから。そもそもよく森番に見つからなかったわね』
「え、そうなの? なんだよ……やっちゃいけねえことばっかだな、この世界」
『御料林だからただ入っただけで罰せられるようなことはそうないと思うけど……ここの木を燃料に使う平民にとっては死活問題なんだからね。ていうか、川の水とかもね、勝手に使っちゃだめなんだから。あんた、叩き殺されても文句いえないわよ』
「マジかよ!」

 慌てて立ち上がる才人だが、やはり体力的にはもう限界だった。足腰に力が入らず、すぐその場にへたりこんでしまう。ついでに鎖分銅も手放してしまい、桃毛の声も立ち消えた。
 とたんに静まり返る森である。さっきの大暴れの影響か、いつもなら絶え間なく響いている虫や鳥の声さえないのだ。さすがに不気味さを覚えて、才人はもぞもぞと這いずり回りながら服を着た。
 袖を通し、ズボンを穿いて顔をしかめる。
 一度脱いだ服というものは、民俗学的に言えば「ケガレ」を孕んでいる。それは体と外気という境界面の役割を担っていた衣服が、完全に肉体から離れることによって機能を喪失するためである。などともっともらしいことを言うまでもなく、洗濯もまともにしていない服というのは、才人の衛生観念上かなり問題のある代物であった。具体的には、あちこちがかゆくなってくる。
 それでもまさか野人よろしくパンツ一丁で生きる覚悟が決まるはずもない。深々と嘆息して、彼はその場に腰を落ち着けた。
 静寂が取り戻されると、空腹や消耗がひどく意識の割合を占め始める。同時に彼が懸念するのは、さっきまで会話していた相手は果たして本当に実在しているのか、ということだった。
 ためしにもう一度鎖分銅を握ってみる。

「おい。なあ」

 例によって毛がそよぎルーンは輝いたが、桃毛の声はもう聞こえなかった。

「黙るなって。話し相手になってやるから」

 空寒さと焦りがうなじを駆け抜けて、才人は口早に語りかける。が、やはり返事はない。
 いよいよ自分の正気が疑わしくなってくる。頭痛がひどく、億劫な体を動かすのはどうも外付けくさい熱なのだが、それも栄養素が絶対的に不足した状態では振るわないようだった。

「は」

 はは。と、才人はから笑いを重ねた。こんなことなら鎖分銅を手放すべきじゃなかったかなあ。そういえば条件があるのかもしれないとか言ってたっけ。っておいおい。俺、マジでこんな毛の生えた怪しい人面疽を擬人化しちゃってんのかよ。マジでやばいよ。
 両手で顔を覆う。

「やばくてもいいや。はは。すげえ誰かと話してえ」

 さっきの狂態がほとんど、彼が残していた最後の余力だった。体力メーターのライフはもうドットひとつぶんもない。

「眠ろう……」

 そうすれば痛いくらいの空腹と向き合わずに済む。才人は眼を閉じた。

 000

「あら、目が覚めた?」

 覚めるも何も今寝たばかりなのに……、と思いながら才人は瞼を押し上げる。頭上からする聞き覚えのない声に反応したのだった。
 ところが、開けた視界を前にして愕然とする。寸前までそこにあった森の梢が消えている。青々とした果てしない空がただ広がっていた。おまけにひっきりなしだった小川のせせらぎも聞こえない。虫や鳥や獣の恐ろしげな鳴き声さえ絶えている。
 慌てて上体を起こし周囲を確認した才人の目に入ったのは、広々とした草原と、そして幾分か年上と思しき、きれいな女性の姿だった。しかし、なんだか耳が長い。だが魔法を使う人間よりは不思議ではないので才人もあまり気にしない。なにより美人なので、耳が長い程度問題ない。
 それから彼はふと思い至る。ひょっとしてこれ夢か? まあ現実も夢と変わらないしな……。

「あ、あの、ここ、どこですか?」

 しどろもどろになり、回らない口をもどかしく思いながら訊ねる。空腹は相変わらずで、発生するたびに胃が軋むように痛んだ。なるほどほんとの空腹って痛いんだな、と才人はどうでもいいことを学ぶ。

「さあ。〝サハラ〟でないことは確かだけど。〝イグジスタンセア〟ってあいつは言ってたかしら。あなたたちは旅人?」
「いやただの迷子です。……〝たち〟?」

 応じながら、女性の言葉と視線に促され、才人は背後をかえりみた。
 女の子がそこにいる。
 たたんだ両膝を抱え、背中を丸め、才人とつかず離れずの位置にいて、座り込んでいる。いかにも鬱懐といった横顔を見て受けた印象はふたつだ。小さい。そして細い。桃色がかったブロンドが背中に揺れている。白いシャツと正面に回ればすぐ中身が見えそうなスカートのすそを、小ぶりな手がぎゅっと握り締めていた。
 頼りなげに揺らめく頭部が、ふいに慣性を得て才人の方へぐるりと向いた。
 恨みがましい鳶色の瞳が真直ぐ飛んでくる。

「な、なんだよ」

 少女は無言のまま、ため息をついた。それはもう聞こえよがしに、口からため息の子供でも産む気かと言わぬばかりの大きさである。

「……さいあく」

 なにこの子感じ悪い。
 かちーんと来た才人がけんか腰で口を開こうという間もあればこそ。すぐにまた空腹が意識をわしづかみにした。足も腰も萎えきっている。「そうだ、水でも飲む?」という女性の声に応えなければ、と思ううちに、再び才人は力尽きる。柔らかい草葉が頬を撫でる。
 眼を閉じ、

 000

      また開く。
 すると草原は消えている。
 才人は相変わらず森と腐葉土と川の流れに包まれている。

「幻覚かよ……」

 いよいよ末期だな、と吐き捨てた。ああ死ぬ? マジ寝たらもう死ぬかな? でももういいや。眠っちゃおう。なにしろ今俺、超、ハラ減ってるんだもん……。才人は安らかな眠りに就こうとした。きっと天国ではおなか一杯になれると半ば信じながら。
 しかしそううまく意識が落ちるはずもないのだった。脳裏には次から次へと食べ物のことばかりが浮かんでくる。
 猛烈に米が食いたい。あとは梅干と味噌汁があればいい。湯気がたつ炊きたての白米を茶碗に山盛りよそって……とりあえずなにも考えずにかぶりつく。かつおだしの味噌汁の具は才人が好きなタマネギと油揚げだ。詰め込んだ米を、舌が火傷しそうなほど熱い味噌汁で流し込む。咽喉を熱と飯が通り過ぎていく。口の中にはいっぱいに素朴なうまみが残る。梅干は肉厚でシソがちょっと甘い、母さんがめったに買ってこない紀州の高いやつ。酸味と甘味は最高に米に合う。それだけで一杯や二杯は余裕でいけるほどだ。そうだ。どうせなら海苔もほしい。パリッとした海苔でご飯を巻いて、しょうゆにつけて梅干といっしょに食べる。歯ごたえを思い浮かべるだけで垂涎ものだ。海苔の部分と米の部分の温度差を歯で感じながら噛み締める。それからじわっと梅のエキスと味が舌の上いっぱいに広がって、シソの香りが咽喉から鼻へ抜けていくのだ。ゆっくり味わう暇もなく夢中で飲み下して、残る風味を味噌汁といっしょに流してしまう。タマネギと短冊切りにされた油揚げはよく汁の味を吸っていて、汁物だけどぜんぜん口寂しくなんかない。別々に味わうことに飽きれば、今度はご飯に味噌汁をかけてしまえばいい。母さんにはもう高校生なんだし消化に悪いし下品だからやめなさいと何度も言われた食べ方。だけど時間がない高校生の朝にはマナーよりも効率が優先されることだってある。味噌の香りが鼻をついて、進まない朝の食欲も空腹を思い出してようやくやる気になったものだった。雑炊でも食べるみたいにさらさらと箸で口へ米と汁をいっしょくたにしてかきこんでいく。タマネギと油揚げを噛みながら、ほんの一分で一杯を食べ終えてしまう。ごちそうさま。そう言いながら、歯を磨いて、髪を梳いて、制服を着て、スニーカーをつっかけて家を出ていく……。
 それらはすべて、起きながら見る夢。
 臨死の白昼夢だった。
 眼窩すらくぼみかけて、瞼を閉じる必要もじきになくなる。開いた眼で見る夢はどこまでも優しい。瀕死の双眸は盲窓と同じだ。ただ機能が空回りしているだけ。スピリチュアルな方々が見れば才人の鼻からエクトプラズムがもわもわっと出たりする様子も観察できたかもしれない。
 騒々しくラッパをかき鳴らす天使たち。彼らを率いて天から降りてくるのはパトラッシュではなく、ものすごく不本意そうな顔でぶすっくれる桃色がかったブロンドの女の子だった。断崖絶壁と評するのも生ぬるい、むしろ練達のロッククライマーへ挑戦状をたたきつけるがごとくハングオンしてるのではないかと眼を疑うほど平べったい胸にウクレレを抱えて、ヴァン・ヘイレンばりのライトハンド奏法でぎゃんぎゃんかき鳴らしている。
 激しいプレイのさなか、彼女は神託でも告げるようにのたもうた。

「犬よ犬。死にそうになってる場合じゃないわ。死ぬならわたしの言うことを達成してからにして」

 なんだとこのアマ。

「これから街へ行って、なんでもいいから人工知能がエンチャントされたマジック・アイテムを手に入れなさい。なるべくなら武器がオススメよ。質は問わないから即ゲットすること。しかるのちうまいことどーにかして路銀を手に入れなさい。最後にここから北東に徒歩で数日行った先にあるラ・ヴァリエール領に向かいなさい。いいわね。どっしぇー」

「どっしぇー?」

 最後の台詞だけがあまりにもちぐはぐで、才人は突っ込みのため思わず覚醒してしまった。

「どっしぇー?……なんだ、今のは。悲鳴か?」

 クールな呟きが頭上から落ちてくる。女の声だ、と才人は思う。
 また女か。
 女はもう嫌だ。
 気づけば彼は前のめりに地面へ伏せていて、おまけに両手は背中で拘束されている。首筋にはちょっと楽観できないくらいの重圧もかけられて、完全に身動きができなくなっていた。極めつけは、目の前に突き立てられた白銀の輝きである。
 どう見てもダンビラだった。
 なぜ。
 なぜちょっとアホな走馬灯から0.5秒で、こんな今そこにある危機に出会う。
 才人は一瞬でパニックを起こした。

「なな。なんだこりゃ。どうなってんだ!」

 あまりの急展開に叫びを上げる。と、顔も見えない女の声が、やはりクールに答えた。

「起きたか。死んだかと思ったが、存外しぶといな。この不届きものめ。素性の知れない野良犬め。恐れ多くも王家の森に無断で侵入して勝手に動物を殺して回るとはな。このサイコ野郎、いったいなにが目的だ?」
「ヒィ!」

 女は台詞からしてドSである。潜在的Mである才人にとっては手ごわい相手と認めざるをえない。

「脅えてる場合ではないぞ。さあ、貴様は何ものだ。見たところ平民のようだが、なんでこんなところで自殺オフをひやかしに樹海に行ってみたら自分しか来てなくて悲しくなったあげくちょっと死んで見たくなった、的な真似をしている? 洗いざらい吐け。吐かなければ、フフ」

 そこで急激に声色から遊びが消えた。

「二本ずつ腕を切り落としていってやる」
「腕は二本しかないですからぁ! これ切っちゃったらもう生えてきませんからぁ!」
「口答えするな」

 ぐっさぐっさと顔の前で土が掘り返された。

「すいません……許してください。腕は。あ、左手の甲あたりはちょっと削ってもいいや」

 才人はわけもわからず脅えるばかりだ。ある種肝が据わっているので死への恐怖に関してはもう麻痺しかかっているのだが、気づいたら見知らぬサドっけたっぷりの女の人にまたがられているこわさというものはまた別種である。加えて、背中で押さえられた手が当たるおしりが柔らかいやら微妙にいい匂いがするやらでちょっと興奮してもいた。栄養価が足りなくともそこはサルのような年頃の才人である。解消する余裕もなかった煩悩は溜まりに溜まっているのだった。

 若干とろんとしかけている才人の背でデイパックを漁るサド女の名は、もちろんアニエスという。
 なぜ彼女がここで出てくるのかというと、一昨日付けで王都での勤め先をクビになったためだった。ちょっとしたひと悶着の果てに居辛くなって逐電を図ったのである。
 そこでさて今度は前線に近そうな軍隊にでも入ってやろうかと旅に出たのだが、トリスタニアを出奔した矢先、森へてくてく歩いていく貴族の少女を見かけた。
 もちろんケティ以外に、そんな物好きが近在にいるはずもない。しかし彼女がやらかしたことで間接的に古巣を追い出される羽目になったとは露知らず、アニエスは単純に雇い口の匂いを感じて少女の後をつけたのだった。
 アニエスは魔法学院の存在は知っていても、その制服は知らない。だからケティが貴族の子女だということは一見してわかったが、その所属がここから数十リーグ離れた施設だとは見とれなかった。長旅の風情でもないし、必然近隣の領地にゆかりのある貴族だと当て込んだのである。
 組し易そうな少女だったのでコネを作るべく近づいた。
 しかし森に入ったところで見失った。
 そこで行き倒れていたのが才人だった。
 要は腹いせで襲ったのだった。

 しかし、見たところ自分とは十も離れていそうなガキである。しかも明らかにこけた頬が哀れを誘う。さすがに不憫になって、アニエスはため息をつくと、

「冗談だ」

 と言って才人の背から降りた。見慣れない繊維で編まれた袋の中身は一見して本ばかりである。大方田舎のぼっちゃんが旅に出てみたら右も左もわからなくなって遭難した。そんなところだろうと見当をつけた。
 ほぼ正確に合っていた。
 才人は気慰みに脅されたともしらず、脅えた眼で得体の知れない女剣士を見上げた。

「あ、あの、冗談って」

 なんだかよくわからないが、その弱った目線がアニエスのサド琴線に微妙な力加減で触れた。いじめたい。こいついじめたい。強烈にそう思った。

「冗談は冗談だ」気の迷いを、かぶりを振って散らした。「腹が減っているのか?」
「減ってるというか、無です」
「そうだな……ところでちょうどここにパンがある」
「おお……」

 アニエスが皮袋から取り出したのは、昼食用に購入しておいたライ麦のパンだった。小麦とは比べ物にならないほど味は落ちるが、才人はよだれも垂らさんばかりに眼を輝かせた。

「焦るな。すぐにはやらん。見たところ相当まともな食を断っているな。最後に食べたのはいつで、何だ?」
「え。これ」才人が指差したのは例の野草である。
「……まさか根もか」
「根も」
「…………よく生きてるな。吐いたか?」
「かなり」
「そうか……」

 アニエスは感慨深く才人を見つめた。いるんだなあこんな世間知らずも、という生暖かい目線である。覚えず放浪時代の苦労を思って、なんだかしんみりした。

「……ちょっと待ってろ」

 むしゃっとパンの角を大口でほおばり、咀嚼する。「ああああ」とわめく少年は意に介さない。

「そんな殺生な!」
「もぐもぐ。だまれ。もぐもぐもぐ……」

 リスのようにほっぺを膨らませ、とにかく噛み続ける。硬かったパン生地をほどよくペースト状にしたところで、アニエスは口の中身をぺっと掌に吐き出した。面食らう少年に向かって、差し出してやる。

「え。なんですかそれ」
「そのままでは硬いからな。胃に負担がかかる。本当はパン粥がいいのだが、待ちきれまい? とりあえず腹になにかいれてやれ」
「え、え。マジで?」

 よくこねられた掌中のかたまりを見て、才人は生唾を飲み込んだ。ばっちいなーという感情が五割、ほんとにいいんだろうか、という感情が三割、なにはなくとも食い物だ、という感情が二割であった。一瞬からかわれているのか、とも思う。しかしアニエスの顔は大真面目であった。よく見るとなかなかの美人さんである。こんな人が口の中にいれたものを俺が食う。当然の意識をして才人は顔を赤らめた。
 どう考えてもアブノーマルだ。しかし、しかしだ。興味がないかといえば、そんなはずもなく……。

「いらんなら捨てるぞ」
「いただきます」

 才人はパクッといった。
 下げたくない頭は下げない。しかし善意のほどこしを無碍にするのは文明人ではない。何より妙なエロティシズムを感じては引き下がれない。
 そういう信念に基づいた選択であった。
 掌に口付ける。まるで人慣れしていない子猫がミルクを、差し出した指先から舐め取るような――。
 そんな牧歌的な光景ではぜんぜんなかった。才人は一度タガが外れるともう見栄を忘れてがっついたし、アニエスはサドっ気を満開にして背筋をぞくぞくさせながら賢明にペーストを食べる少年を冷然と見下ろしていた。アニエスのエスはサドのSである。そして才人のサイはどうにでもしてくだサイのサイだ。
 無言の一分が過ぎる。
 才人はそれこそ舐め取るような勢いでパンを平らげた。
 アニエスはあざけりもあらわに呟いた。

「イヌのように食べたな」
「う」才人は羞恥と屈辱に顔を伏せた。
「いいのだぞ。もっと欲しいのならそう言っても」
「うう」
「そのかわり……」声を抑揚させて、「欲しければわんと鳴け。イヌのように」
「ううう……」

 本来の主人を差し置いて、速攻で主従関係が構築されそうになっていた。
 果たしてロザリオ交換のような神々しい空間を割ったのは、甲高い悲鳴であった。

「きあーっ」

  000

 時間を少し遡る。

「うう。やってしまったぁ」

 平民の少年がラリってから小一時間経っていた。小康状態を取り戻したらしい彼からは百数十メイルほど離れた小川に、ケティはいる。うさぎを捌いている最中に笑い転げたせいでマントに血の染みがついたので、必死でごしごし洗っているのだった。
 火龍山脈の火蜥蜴を密猟してその皮を編みこんだこのマントは、ケティのお気に入りであった。室内で炭塵を爆破して彼女がなんともなかったのも、このちょっとしたマジックアイテムの耐火性のおかげである。
 血というのは繊維に染みこむと非常に落ちにくい。だから必死になって手揉みで洗う。小川の水は冷たいが、基本的に学院生は洗濯に慣れている。もっともそれも、シルクといった高級品に限った話だ。大物の洗濯に関しては、たいてい水の魔法を用いて一括で行ってしまう。そもそもこちらの水は洗剤の類が溶けないので、洗濯にはもっぱら沸かした湯を使わないといけない。
 友だちの一人もいないサビシイ生徒は別として、水属性が使えないケティのようなメイジは他人に頼る。そこで共同して、用意された水を温めるのだ。
 寮という空間ではとにかく人間関係が重要である。とくに女子のそれは複雑だ。サロンや派閥に近いものがいくつも構成されている。歴史ある勉強会のようなものもある。そこでOGとの繋がりを得て人脈を築くのは、ケティのような一般的生徒にとってはかなり重要な命題だった。
 こういうグループに属するものは、たいていがメイジとしては凡庸な才しか持っていない。例外はあるが、あくまで例外の域を出ない程度だ。
 反面、孤高を貫いたり爪弾きにされるのは、性向か実力、あるいはその両方が図抜けた生徒である。女子寮ではたとえば、フォン・ツェルプストーやタバサがその筆頭格であった。別の意味で孤立していた女生徒もいたが、その女の子は死んでしまった。
 だけど、今やその女子寮自体が、もうないのだ……。
 現実に思考が及ぶと、水面に写る顔は冴えないものに変わった。頃合かしら。そんなことも思った。
 学院で大暴れしていたあの平民。彼を見ていると飽きないが、それは結局、逃避に過ぎない。ケティには決着をつけるべきことがまだあった。ギーシュ・ド・グラモンとの関係である。
 ケティは事実をありのまま受け止めた。平民との交流が、彼女に新たな強さを与えていた。それは雑草魂である。
 学院はなくなった。どうあがいても、実家への帰参は避けえない。ならばせめてその前に、ひとときの恋の清算をすべきだろう。
 要するに豪遊にも飽きたのだった。

「よし」

 水洗いを終える。
 澄んだ水面を見下ろす。
 可愛らしい自分の顔の背後に、見知らぬ男の顔が見えた。

 彼らはむろん野良メイジ団の別働隊だった。ただのモブだが手練である。本隊と別れ森に入るや息をひそめ、迅速にケティの痕跡を追って川辺の彼女を捕獲するべく行動を起こしたのだった。

 そして、予期せぬ襲撃を受けたケティの対応は。

「どなた?」

 無邪気であった。
 微笑さえ浮かべて、肩越しに野良メイジの顔を直視する。星が飛びかねない必殺の貴族スマイルの直撃を受けて、ケティを捕まえんとしていた野良メイジは一瞬硬直した。
 ケティはその隙を一から十まで無駄にした。きょとんと首を傾げてとりあえず愛想笑いを続ける。野良メイジの手に杖を見つけ、いまだ事態が把握できないながら「ひょっとしてお役人さん?」から「迷子?」まで二十通りの可能性を浮かべた。その中には「人さらい」も含まれていたが、彼女は意識的にその可能性を無視した。もしそうだったら怖いからである。

「わたくしに何かご用でしょうか」
「お、おお」

 硬直から脱した野良メイジAは、背後からBとCにせっつかれてどうにか咳払いする。水辺から立ち上がったケティとお見合いするかたちになって、なぜか彼は赤面しながらあらかじめ用意していた台詞を吐いた。

「う、うごくにゃ」かみまくりであった。
「にゃって」「だせえっす……」BとCが辛らつな批評を下した。
「うるせえ!」恥ずかしさをごまかすためAは大声で繰り返した。「動くな! 声も出すな! さもないと身の安全は保証しねえぞ!」

 ケティは心底不思議そうに垂れがちの眼をぱっちりと見開いた。

「なんであなたがわたくしの身の安全など保証してくださるのですか?」
「い、いやなんでって言われましても当方としては」丁寧語が伝染していた。
「ああ。わかりましたわ!」
「おお!」
「あなた、親切なかたですのね?」
「話通じねえよこの子!」Aが頭を抱えた。
「俺に任せろ」歩み出たのはBである。彼はケティと目線の高さを合わせて、噛んで含めるように言い聞かせた。「いいかいお嬢さん。これまでどんな平和ぼけしたお屋敷の奥で育ってきたんだか知らないが……」
「ちょうど良かったですわ! 今から昼食にしようと思っていたところですのよ。よろしければごいっしょにいかが?」
「あこれはどうもごていねいに……」

 会釈合戦に入ったBとケティをよそに、AとCが密談を交わした。

「なんだあれ……頭湧いてるのか」
「いや、あんなもんですよ世間知らずの令嬢っていったら」
「あん? そういやおめえは没落した家のボンボンだっけな。じゃあああいうのの扱いには慣れてるだろ。どうにかしろ」
「任せてください」自身満々に胸を叩くのはCである。

 えへんえへんと声色をつくって、ランチのメニューを開陳しようとするケティに向かう。Cはそれなりに見れなくもない好青年的なスマイルで、

「やあ。そこなミ・レイディ。ちょっといいかね」
「はい?」

 振り向いたケティの手には足から半ば皮剥ぎされたウサギの死体が握られていた。

「きあーっ」

 森にとどろき渡るCの悲鳴である。彼は蒼白になってかがみこみ、頭を抱えてしまう。

「お、おめ、なんつう声だしやがる。女かよ」耳を押さえ、しかめつらでBが言った。
「ぼくグロ駄目なんすよマジマジマジで! こっち近づけないでお願いだからぁ! 眼! つぶらな眼がぼくを見てる! 見てるよマンマァーッ!」

 一同はのたうち回る彼をぽかーんと見守った。

「どど、どうしましょう」困ったケティは、とりあえず腕の中のモノをかかげて、「ほらー、うさぎさんですよー。かわいいですよー。……あれ? ……こえが、……おくれて、……聞こえる、ゾー?」
「すいません勘弁してくださいほんと! パパ! やめてよ、ぼくはメイドとパパのしていたことなんて見てないよ! だからその怖いのをどけてよぉ……」
「あら……、これもだめですか。それじゃあ、えへんえへん。……きみもシルバニ○ファミリーにあそびにおいでよ! きっと愉快な世界さ!」
「ほ、ほんと……?」

 涙に濡れたCの眼。ケティの嗜虐心に火がついた。

「ただし連れて行くのはおまえの首だけだぁ!」デス声である。
「ひぎい!」

 恐怖のあまりCが身を丸めて親指をしゃぶりだした。
 哀れをもよおしたAが、さすがにこれ以上はとケティを制した。ドクターストップである。

「おい、もうやめてやれ……」
「そうだ」とB。「死体で遊んじゃいけねえな、お嬢ちゃん。そいつは始祖のめぐみだぜ」
「あ、すいません。わたくしったら……。しゅん……」

 ケティはしゅんとした。
 うさぎ(死体)もしゅんとした。
 AとBはげんなりしていた。

「口で言ってるじゃねえか」
「あんなカマトトってありか?」
「とりあえずもういいから杖奪って捕まえるぞ」
「そうだな……」

 疲れの色を見せつつも、二人は任務に忠実であった。立ち尽くすケティを無力化すべくにじりよる。
 そこに朗々たる声が響いた。

「そこまでだ!」

  000

 風上で叫んだのは才人であった。悲鳴を聞いて取り急ぎ様子を見に行ってみれば、そこにはどこかで見た顔の女の子がおり、さらにガラの悪い男たちに囲まれているではないか。しかしそのわりにはなんだか和気藹々とした空気が流れていた。あの子たしか……。木陰に張り付き、才人がほこりをかぶりつつある記憶を取り出そうとしていると、アニエスが固い口調で呟いた。

「男のほうは一人に見覚えがあるな」
「アニエスさんもですか?」すでに互いの名乗りは終わっていた。
「も、とはどういうことだ」
「俺はあの女の子の方に……」
「なんだ。貴様貴族に知り合いがいるのか」不審げな顔でアニエスがいった。
「知り合いってか、ちょっとだけ」
「ならちょうどいい。あの娘の素性を教えろ」
「えっと……」素性と言われても困る。才人はしどろもどろになりながら、「たしか、ケティ、とかっていったような」
「それは名前だろ。家名のほうだ。大事なのは」下心が見えるアニエスの鼻息は荒い。
「すいません。知りません。ただ、こっからちょっと離れたところにある魔法学校の生徒です」
「ほう」

 貴族なのは間違いないと思ったがやっぱりか。きらーんとアニエスの目が光った。やおら荷物を降ろすと、頭陀袋から音を立てぬよう慎重な手つきで装備を取り出しはじめる。彼女の心はすでに決まっていた。復讐達成への早道である立身出世のためにはためらいなど何一つない。そして、目の前の少年を利用することに寸毫の遠慮もない。

「な、なんすか」ねっとりとした視線に絡まれて、才人はアニエスから目をそらす。嫌な予感がビシバシ来ていた。
「喜べ」アニエスは冷笑した。「さっそく、恩を返す機会に恵まれたぞ」

 否応なかった。才人は一言の反論もできないままアニエスの指示に対し唯々諾々する。剣を片手に素早く迂回路を取る恩人に言いつけられるまま、彼はタイミングを計ってケティとそのほか三名の男たちの動静をうかがう。
 アニエスはやる気まんまんだったがまだ悪い連中って決まったわけじゃないし、という常識的な期待はすぐ無駄になった。なぜか地面にうずくまった一人をよそに、残り二人がのんきにうさぎを捌くケティの背後を狙いつつあったのだ。それでもどうすべきか迷っていた才人だったが、ふと見れば向かって左手の高所にいるアニエスがすごく怖い眼でこちらを睨んでいた。
 もうやるしかない。
 彼は右手に鎖分銅を握り締め、力の限り声を張った。

「そこまでだ!」

 まず大声による注意の惹起。それにより意識を逸らし、生じた間隙にアニエスがつけこむ。そういう手順である。
『壊せば壊れる』という最低原則が確保された、互いを有視界に含む原始的な戦闘行為でもっとも重要なのは距離と手番である。『自分は殴れるが相手の手は届かない』間合いでずっとオレのターンをやれるのであればそれが理想的だ。しかし常識的にそれが不可能なので、戦闘者は駆け引きを実行しなくてはならない。
 対メイジ戦において平民が勝機を掴むとすれば、結局不意打ち以外に手段はなかった。それはアニエスの得た結論である。才人におとりをさせた彼女の中では怜悧な計算が進んでいた。
 敵性メイジは三人であり、こちらには手ごまが一人おり、そしてできれば無傷で確保したい要人はメイジである。
 これらの要素を総合的に加味して彼女は「いける」と踏んだ。野良メイジABCがなんだかバカっぽそうだったのも見逃してはならない点である。

 甘かった。

 闖入者を認識した野良メイジ三人の対応は極めて迅速で的確だった。
 まず虚ろな眼でうずくまっていたCが立ち上がり、きょとんとしていたケティを地面に引き倒し杖を奪った。同時にAが杖を振って火球を才人へと放つ。最後に風を生んだBが、今にも木陰から飛び出さんとしていたアニエスの気配を捉える。

「もう一人いるぞ!」

 アニエスは失策を悟る。胸中で痛罵を漏らした。

「――こいつら」

 傭兵上がりだ。それもかなり場慣れしている。まともに戦うのはいかにも不味い。
 だが、既に口火は切られた。火種を焼き尽くすまで両者は止まれない。斬り込むしかないか? アニエスは圧縮された風を勘でかわして自問する。だめだ。一人を斬った時点でほかの二人に殺される。不意打ちは相手を浮き足立たせてこその不意打ちだ。

「無理だな」

 彼女は一瞬で撤退を選んだ。必然貴族のほうはともかくあのサイトと名乗った少年の身は危険にさらされることになる。自分の浅はかな功名心が子供の命をあたら散らす。さっそく重たい罪悪感が胸に生じかけるが、飲み込めないほどではない。
 だが、
 ――生木が火で爆ぜる音が聞こえる。
 アニエスは唇を噛んだ。
 ……それでも、せめて自分に脅されたように見せかけるくらいはできる。もしくはさっさと逃げるよう、今度は自分が囮役を演じればいい。彼女は焦りの中で視線を動かし、才人の姿を探す。そうする間にも野良メイジのひとりは距離を詰めてきている。ようやく見つけたとき、少年は不恰好な得物を手にして、ほとんど無防備に迫り来るメイジのひとりを迎えんとしていた。
 アニエスはたまらず怒鳴った。

「バカ! 逃げろ!」

 その声は耳に届いていたが、「なんで?」としか才人は思わなかった。初撃の火球を一見した瞬間から、とりあえず魔法的な脅威として目の前の三人がキュルケやタバサよりも劣ることはわかっていた。厄介なのは魔法そのものよりも連係と咄嗟の反応だ。だから敵が自分とアニエス、そしてケティとかいう女の子にそれぞれ一人ずつ対応した瞬間、彼の心中にはただ戦闘への恐怖と緊張だけが残った。
 才人は、学生とはいえ百人越えのメイジにいきなりケンカを売ったアホである。加えてここ数日ひっきりなしに危機的状況に置かれたせいで、彼の内部ではいくつか心理的な枷が吹っ飛んでいた。何より、才人の左手にはマルトー親方たちからのプレゼントが握られている。
 逃げる理由はひとつもなかった。

「どこのどいつだか知らねえが、」

 詠唱を終えて掲げられる杖と口上。そのモーションの狭間に、才人は右手のスナップを効かせるだけでよかった。鎖を引いて飛んでいく分銅は野良メイジAの指の爪ごと杖を吹き飛ばした。その場の全員が飛び上がる杖を見ているとき、才人だけが動いていた。とりあえず頭はやばいよなあ。と冷静に思考しながら同じくらいヤバイ首筋に左手の棒を叩きつける。Aは手もなく崩れ落ちた。オオカミより、うさぎより、お魚さんより、鳥より、ずっと簡単に仕留められる相手だった。

『……』

 アニエスも、BもCも、目を丸くして事態の推移をただ見送った。全員が「ドッキリ?」とでも言いたげな面相をしている。ただなんだかわからない内に組み伏せられたケティだけがぱちぱちと拍手を送っていた。

「すごーい」
「いや、どーもどーも」

 照れた顔で応じる才人に向かって、我に返ったCがいち早く杖を向けた。余計な問いは発しない。最善にして最速の行動である。紡がれたマジックアローは一直線に才人の胸を目指した。回避できる距離でもタイミングでもない。
 才人は単純な反射神経でその上を行った。
「やべえよけろ」と思いながら大腿に力を込める。この状態のとき、才人の体は倍速で動くのに認識が通常速度なので、どこか騙されているような感がつきまとう運動になる。それは周囲も同じことだった。歩法や体捌き、または魔法の駆使によって肉眼では捉えにくい挙動を実行することはできる。しかしそれは面と向かった場合の話であり、実際に眼で追えないスピードに到達しているわけではない。
 ところが才人は予備動作からは絶対にありえないスピードで動く。それも一歩目、初速から。座った姿勢からいきなり一メイルもジャンプするようなもので、注視すると酔っ払うほど気持ち悪い機動なのだった。例えるなら人間大のごきぶりがいるようなものだ。いわゆる常識的な人間を相手に戦闘経験を積んだ場合ほど対応を見誤る手合いである。
 瞬時にして視界の外へ消えようとする才人を、泣きそうな顔でCは追う。
 軍のスパルタについていけず野にくだったヘタレな彼だが戦闘のイロハくらいは承知している。だからもう自分に呪文を唱える暇がないことも充分理解していた。それでも詠唱をはじめ、杖を構える。しかしその先にありえない動きを見せる少年は居らず、なぜか伸ばした腕の内側、懐中に黒髪を生やした頭がある。
 Cは諦め混じりに呟いた。

「それはないだろ…」
「俺もそう思う」

 みぞおちに棒の先端が食い込む。衝撃を体内に浸透させる見事な手の内腕の絞りであった。招かれるように地面へ落ちる体をかわし、才人は残る一人をちらと見る。
 じゃらりと音を鳴らして、提げた鎖が地を這った。

 唖然としていた最後の野良メイジBを、ちょうどアニエスが背後からはたき倒したところだった。









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