その日、ルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは変質した。
始まりはいつものこと、魔法の成績で母から叱られ屋敷の庭に逃げ出したことだ。
いつもと少しだけ違ったことがあるといえば、その日は雷の鳴る大雨が降っていたということだろう。
ルイズは庭で一番の大樹の下に逃げ込み、涙か雨かすでに判別が付かなくなったずぶ濡れの顔を両手でぬぐう。
――なんでわたしだけがこんな目にあわなければならないんだろう。
まだ幼い子供であるルイズだが、その内面はすでに歪み始めていた。
どれだけ努力しても出来ないことをやれと言われる理不尽。平民の使用人からも向けられる侮蔑の視線。
ルイズにはこうして誰もいない場所へ逃げ出すしか出来ることはなかった。
風で流されてくる雨でしめった草の上にルイズは寝転がる。
しめった土の臭い。目に入るのは空へ精一杯に枝を伸ばした大樹。そして聞こえてきたのは、耳をつんざくような轟音だった。
目の前で光が炸裂した。
落雷。
そうルイズが認識したのは、燃えた枝が寝転がる身体のすぐ横に落ちてきてからだった。
ルイズは身を起こし燃える大樹から雨の中へ逃げ出す。その最中、ルイズは大樹から目をはなさなかった。
ルイズは奇跡的に無傷だった。
だが、心の中までは無事では済まなかった。
その日、ルイズは破壊の力に魅入られた。
□桃色の魔女~わたしのかんがえたかっこいいるいずさま~□
部屋の中にノックの音が響く。
「開いてるわ」
「はあーい、ルイズ。晩酌のお誘いに来たわよ」
齢十六となり魔法学院に入学したルイズ。いつもの通り授業を受け、夕食を終えて戻った寮の自室に顔を出してきたのは、赤毛の髪に褐色の肌の女性。
隣の部屋の同級生。キュルケ・アウグスタ・フレデリカ・フォン・アンハルツ・ツェルプストーだった。
右手には赤ワインの瓶、左手にはパンの入ったバスケットを携えている。
「あら、キュルケ。今日は隣で盛ってないのね」
「何言ってるのよ。汚らわしいとか言って散々な目に遭わせてきたのは貴女でしょうに」
キュルケはルイズの座る机に瓶とバスケットを置くと、慣れた手つきで部屋の隅から折りたたみの椅子を用意し棚からグラスを二つ用意した。
急に机の上を占有されたルイズは、ため息を一つつきインク壺の蓋を閉めインクがついたままの羽ペンをペン立てに置いた。
そして机の上に広げられた紙を集め始める。
「こんな時間まで勉強なんて、相変わらず筆記だけは優等生なんだから。あら、良い紙使ってるじゃないの」
「勉強じゃないわ。論文を書いていたのよ。あ、ワインは待って。染みなんてついたら大変だから」
ワインの栓を抜こうとするキュルケに、紙をまとめていたルイズは待ったをかけた。
「論文? なんでそんなものを……」
キュルケは不思議そうな顔で、ルイズの手元を覗きこむ。
「明日は使い魔の召喚の日でしょう?」
「ええ、そうね。だからこうして留年するんじゃないかと気が気じゃない貴女のために来てあげたんじゃない」
大きなお世話よ、とルイズは返し、さらに言葉を続ける。
「まあ、でもそうね。留年。このままだと、わたしはほぼ確実に儀式に失敗して留年する。だから論文を書いているの」
「論文で留年は勘弁してくださいとか頼み込むわけ? 神聖な儀式にそれは通用しないと思うけど……」
「違うわ。この論文はアカデミーに持っていくの」
アカデミー。この国、トリステイン王国の王立魔法研究所のことだ。
留年とアカデミーに何の関連があるのかキュルケは理解できず、首をかしげる。
「丸一年も学院にいて使い魔も呼び出せないんじゃ、何年かかっても留年続きよ。だから、明日駄目だったら学院を辞めてアカデミーに入れないかこの論文で審査して貰うの」
「学院を辞めるって……」
突然の告白に、キュルケは手に持ったワインの瓶を落としそうになる。
唯一無二の悪友。永遠のライバルが自分の元からいなくなってしまう。
辞めないで、とは言えなかった。ルイズの言っていることは何も間違ってはいなかったからだ。この爆発を心から愛す爆発娘が、他の魔法を使うだなんて想像もつかない。
「これは学院に入ったときから考えていたことよ。だから、論文の準備はずっと前からしていたの。辞めることは家族にしか言っていなかったけどね」
「じゃあときどき授業を抜け出していたのは悪巧みじゃなくて……」
「何が悪巧みよ! 論文のフィールドワークのために学園を出ていたからよ。……まあ授業に出てないのはそれだけが理由じゃないけど」
「はあ、明日は使い魔の召喚の日だというのに何の用意もしていないのは、そういうわけだったのね。気の早い貴女なら部屋に藁の寝床でも用意しているのかと思ったのに」
キュルケは軽い悪態をついて、混乱しそうになる頭をいつも通りに落ち着けようとする。
そんなキュルケの内心を知らぬルイズは、何でもないことのように話を続けた。
「ありえない明日よりも目の前の現実よ。とりあえず今書いている本命以外に二本は書き終わってるわ」
ルイズは集めた紙束を持って席を立つと、部屋に据え付けられた棚をあさって新しく二つの紙束を取り出し、キュルケに手渡した。
「ええと、『装飾型魔法杖に関する研究』に『平民がメイジとして生誕する確率の考察』……ね。これ、もう研究されてて価値のない論文とかいう落ちはないの」
渡された論文をぺらぺらとめくりながらキュルケは言う。
キュルケは卓越した魔法の使い手である『トライアングル』のメイジだが、魔法研究についてはさほど詳しくない。
しかし、学園の内外に名をとどろかせる有名なメイジである『魔女』のルイズといえど、学生の書く論文がそう簡単に魔法文化が特に盛んな国であるトリステインの研究所に認められるとは思えない。
いや、それを可能にしてしまえそうな気分になるのがこの小さな魔女の持つオーラなのだが。
「大丈夫よ。わたしの姉はアカデミーの研究員で、概要を送ってみたけど十分行けるって言われたわ」
「身内の評価なんて当てにはならないとは思うけどねぇ……あら、錬金を使った加工なんて書いてあるけどこれはどうしたの?」
「わたしと同じように政略結婚の駒になるよりは自分で人生を歩みたいなんて野心を抱えてる上級生を捕まえて、ちょいっとね。ほら、表紙が共著になっているでしょう」
自分の知らないところで何をやっているか解ったものではないな、とキュルケは目の前の悪友について思った。
論文を斜め読みしたキュルケは、紙束をルイズに突き返し、ワインの瓶に再び手を伸ばす。
今日は一晩ルイズを励ますつもりで訪れたが、そんな無益な努力より酒の肴に論文についての話を聞き出そう。
野心あふれるゲルマニア出身のキュルケは、論文の中にあった『平民からメイジを抽出する実験教育』の項目を見てそう思いついた。
二日酔いと共に向かえた春の使い魔召喚。
結論からいうと、ルイズの魔法は成功した。
「あは」
思ってもいなかった結果に、ルイズは心の奥底から沸き上がる歓喜に笑いを隠せなかった。
「あはははははははははは、やった、やったわ! 最高の使い魔を喚び出したのよわたしは!」
ルイズが喜んだのは、魔法を成功させたことではない。
喚び出した生物を見て喜んだのだ。
魔女のルイズが喚び出した使い魔。それは……人間だった。
「ルイズ、『サモン・サーヴァント』で平民を呼び出してどうするの?」
誰かがつぶやいたその言葉。それが使い魔を召喚し終わって待機していた生徒達の耳に入ると、笑い、そして動揺が生徒全員に広がった。
「魔女だからって平民をさらってくることはないだろう!」
「確かに魔女には奴隷がつきものだけど、平民はないだろう」
平民を呼び出した侮蔑とも魔女と呼ばれるルイズが人を呼び出した恐れともとれる言葉は、歓喜で心が満ちあふれたルイズには何の障害ともならない。
「何を言ってるの!? 人間よ!? この大地の支配者たる人間を召喚したのよ!」
喜びで笑うルイズと、平民を笑う生徒達の笑い声が場を満たす。
だが、そこに教師の喝の声が割り込んだ。
「これ! ミス・ヴァリエール! それに皆さん! 喚びだした使い魔の種族で過度に誇ったり相手を馬鹿にするのは卑しい行為ですぞ!」
メイジを見たければまず使い魔をだとか相応しい使い魔が喚び出されるなんて散々言っておいて……、とルイズは注意をしてきた教師に食ってかかりそうになるが、踏みとどまって言葉を飲み込んだ。
教師と口論する前に、彼女には他にやるべきことがあった。
――契約を、『コントラクト・サーバント』をしなければ。
そこまで考えると、ルイズの顔から血の気が引いた。
これから『コントラクト・サーバント』、使い魔との契約を結ぶ魔法をこの目の前の少年にかけなければならない。
ルイズの使える魔法は爆発のみである。
何かを対象にした魔法は、その対象物が爆発する。それは物に限った話ではなく、生き物も同じだ。
実験と称して今まで数多くの小動物を殺してきた。さらにルイズはその性格が災いしてか、荒事に巻き込まれその爆発で人に怪我を負わせたこともある。
だが、人を殺したことは平民相手ですら一度もなかった。
契約の『コントラクト・サーバント』の魔法は、使い魔と口づけを交わして契約を行う。失敗し爆発した場合は、頭、ないし刻まれるはずのルーンの場所が爆発するだろう。ルイズ自身も無事ではすまないだろう。
成功すれば良いというだけの話だが、爆発以外の魔法を使えたのはつい先ほど、この少年を召喚したたったの一回のみだ。
「『錬金』」
ルイズは試しに人のいない場所の草に『錬金』の魔法をかけるが、地面が爆発でえぐれただけだった。
今日になって急に魔法を使えるようになった、というわけではないようだ。
――使い魔は自分の分身。自分にかける魔法を使ってもわたし自身は爆発しない。だから『コントラクト・サーバント』では爆発しない。
そのような考えがルイズの頭によぎるが、楽観的すぎると自ら考えを切って捨てた。
ルイズは気持ちを切り替えた。そうだ、先ほどと同じように爆発するのを前途として魔法を使おう。
右腕を呼び出した人間、青い服を着た少年へと伸ばす。少年は、状況を未だ理解できないのかぽかんとした顔で座り込んだままだ。
そしてルイズは右腕へと精神力を通す。
ルイズの両腕には、水のメイジの外科手術により魔法の杖が埋め込まれていた。自分を実験台にした魔法研究の成果。これこそ、彼女の論文の『本命』だった。
「我が名はルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエール」
彼女が唱える呪文は、他の魔法のようなルーンではない。神聖な儀式と言われるだけはある、特別な呪文。
しかし、右腕に通す精神力は何度も使ったことのある『爆発』と同じもの。
あの落雷の日から十年以上にも及ぶ修練……意図的に爆発を起こす修練の果てに身につけた、『人が傷つかない失敗魔法』の行使。
「五つの力を司るペンタゴン」
右手の指先は、少年の額の上に。
「この者に祝福を与え、我の使い魔となせ」
呪文の詠唱を終えたルイズは、目を見開いたままの少年へと頭を近づけていく。
――もしかして人間を召喚って人攫いの同類になるのかしら?
少年に契約の口づけをしながらそんなことを考えたルイズは、また顔を青くした。