※エンディングフラグは重複しません。ハーレムとか存在しません。あしからず。
フラグ話は続きます。お好みのものを史実と認識してください。
「どうした、エスティマ。いやに暗い顔をしているじゃないか」
海上収容施設へと赴いてきて、エスティマから自分への事情聴取が終わると、チンクはそう問いかけた。
地面が芝生に覆われたこの場所に、二人以外の姿はない。
オットーとディエチの二人は今、別の部屋で待機している。チンクと二人の状態で聞きたいことがあるからと、やや無理を云ってエスティマはこの状況を造り出していた。
二人は芝生の上に腰を下ろして、それぞれ楽な体勢をとっている。
言葉を投げかけられたエスティマは、曖昧な笑み――苦々しさを覆い隠した、真性の苦笑いを浮かべる。
どうして彼がそんな顔を自分に向けるのだろう。折角顔を合わせているというのに。
疑問半分、腹立たしさ半分で、チンクは長い髪を揺らしながら首を傾げる。
決してチンクの方から口を開きはしない。彼女は、エスティマからの言葉をじっと待った。
そんな様子に観念したのか、小さく息を吐くとエスティマは口を開く。
「はやてと、少し、色々あって」
「……そうか」
短く返し、チンクはそれ以上聞き出そうとはしなかった。
云うのを拒んでいる風には見えない。どちらかと云えば、誰かに吐き出したいようにも見える。
しかしチンクは、どうしてもそれを聞く気にはなれなかった。
八神はやて。戦場で自分に宣戦布告を行ってきた、恋敵。
その女のことを――彼女の名前すら、チンクは聞いてて良い気分はしない。
こうやって海上収容施設でエスティマを待つことしかできない自分と違い、八神はやては彼の同僚として傍にいる。
そんな些細なことが、たまらなく悔しいのだ。
外にいるエスティマはどんな顔をしているだろう、と。
外を自分と歩いたら、エスティマはどんな表情を見せてくれるだろう。
そう考える度に、チンクは微かな胸の高鳴りを覚えた。
同時に、八神はやては自分の羨むそれらを、当たり前のように甘受しているのだと考えるだけで、暖かな鼓動は焦燥で早鐘を打ち始める。
……けれど、今エスティマを独占しているのは私だ。
それを強く意識して、チンクは胸を押し潰さんとする感情から逃れた。
そう。エスティマは自分と会うためにここにいる。仕事だということもあるだろう。
けれど、それ以外にも確かに、この男は自分と言葉を交わしたいからこそ足を運んでいるのだ。
その考えに多分の自惚れが混じっていると、チンク自身も理解している。
しかしそうでもしなければ、チンクはただ待つだけの現状に満足することができないのだ。叶うのならばエスティマの隣にいてやりたい。
せっかく自分を勝ち取ったのだから、その努力をどんな形でも――そう、どんな形でもだ――祝福してやりたい。
……けど、駄目だ。
自分はエスティマに求められるまま存在すると、打ち負かされ、腕に抱かれた時に決めたのだから。
だから、エスティマが自分を選ばな――
「……ッ」
チクリと胸が痛む。
幻痛だ。そう、理解している。
しかし自分にとってまったく嬉しくない未来を想像してしまえば、チンクはただそれを受け容れることなどできなかった。
結局自分は、エスティマに甘えているだけなのかもしれない。
彼が自分を求めないと想像するだけで胸の中に巣くう感情が、しくしくと涙を流す。
まさかエスティマが自分を選ばないなんて――そんな楽観的な考えと、自分はエスティマと確かな絆で結ばれているという優越感が、どこかにある。
だから待っているだけなどと甘いことを云えるのだ。
そんな自分に腹が立つ。
けれど、エスティマが自分のために海上収容施設へと足を運んで、時間を割き、言葉を交わしてくれる度に、ぬるま湯に浸かっているような心地良さが込み上げてきて、抜け出す気が削がれてしまう。
きっと今のままでも良いのだ。きっとエスティマは自分を選んでくれる。
そんな風に甘えてしまう。信じていると云えば聞こえは良いのかもしれない。
しかし、今の自分は――
「……エスティマ」
想いをすべて飲み込んで、チンクはおずおずと彼の名を呼んだ。
影のある表情を続けていたエスティマは、気の抜けた視線をすっとこちらに向けてくる。
意志の篭もっていない緋色の瞳。
普段は暖かみを与えてくれるそれが無機質なものに思えてしまい、チンクは続く言葉へ無意識の内に力を込めた。
「私の前で、そんな顔をしないでくれ。
折角お前と会えたのに、気分が沈んでしまう」
……わがままな女だ。
自嘲しつつも、それがチンクの本音だ。
以前はこんなことを考えもしなかっただろう。
仕方がない奴だと云って、彼の弱さを受け容れてやれた。
しかし、今は違う。
笑顔を向けて欲しい。傍にいて欲しい。強がって態度に出さないよう気を付けてはいるが、根底にある感情はそれだった。
長年熟成され続けた恋慕は彼に掴まったことで形を変えて、もはや、年上として振る舞うことはポーズとしてしか取れない。
そんな風に変わってしまったことを、少しだけ寂しく思う。
そんな風に自分を変えたエスティマを、少しだけうらめしく思ってしまう。
ただ待つだけがこんなに苦しいとは、以前のチンクは考えもしなかった。
エスティマは自分を捕らえるために走り続けている。だから忘れ去られることがないという確信があったからだ。
いつか捕まるその瞬間を想像するだけで、満たされるものが込み上げてきた。
しかし、今は違う。彼に掴まってしまった今、選択権はエスティマにある。
そんなことはない、とは断言できない。因縁を精算した今、エスティマは自分以外の誰かに目を向けることができるのだから。
それこそ、八神はやてのような、自分以外の女に。
しかしチンクは、彼女のような存在がエスティマの周りにいると分かっていながらも、ただ待つことしか――
「……エスティマ」
「ん、なんです?」
「目を瞑れ」
「いきなり何を……」
「良いから」
訝しげな表情をするも、エスティマは大人しく目を瞑った。
手を閉じられた瞼の前で振って、きちんと彼が見ていないか確認すると、チンクは咳払いを一つ。
……これぐらいは良いはずだ。
誰に向けたのかも分からない言い訳をすると、チンクはエスティマの頭を掴んで、そっと手繰り寄せた。
傾いてゆく身体にエスティマが慌てるも、大人しくしろと年上風を吹かせて、そのままエスティマを横にする。
そして、彼の頭を膝へと。
「……フィアットさん?」
「……疲れているんだろう?
少し休んでも、罰は当たらないさ」
「ですかね。
……まぁ、お言葉に甘えさせて貰います」
「ああ。……それと、目は開けるなよ?」
「なんでです?」
「なんでもだっ」
云って、チンクはエスティマの瞼にそっと手を被せた。
くすぐったそうに彼は身を揺すりながらも、チンクの太ももに身を預ける。
なんだかんだで筋肉質な自分の脚だ。気持ち良くないかもしれない。女性らしい体つきとは無縁で、そういう面ならば八神はやての方がずっと勝っている。
けれど、
「……ど、どうだ?」
「……ん、気持ちいいです。
人肌の温もりも、肌の感触も」
「そ、そうか」
嘘ではないと、全身から力を抜いて体重を預けてくる態度が語っていた。
こんなことでも喜ばせてやれた。些細なことかもしれないが、チンクにとってその些細なことがたまらなく喜ばしい。
こんな触れ合いすら、まともに自分たちはやれてこなかった。
「……ところで、フィアットさん」
「なんだ?」
「目、開けたいんですけど」
「駄目だっ」
駄目に決まっている。
まったく、と呟くと、絶対に退けてやらないと云わんばかりにチンクはエスティマの頭を抑えつけた。
もしそれを解けば、エスティマに勘付かれてしまうからだ。
余裕を持って膝枕をしてやるつもりが、自分でも分かるぐらいに顔が緩んでいると。
そんなみっともない表情を見せたくはない。
目に被せているのと違う、空いている方の手で、チンクはそっとエスティマの髪を撫でる。
慈しみが見て取れる手つきで、ゆっくりと金糸を梳く。
そうやって二人っきりの時間を過ごすチンクの顔は、とろけながら真っ赤に染まっていた。
リリカル in wonder
トーレが海上収容施設を襲撃してから僅かな日々が過ぎ、チンクたちへの警戒は緩められた。
それまでは妹たちとも引き離されて、それぞれ事情聴取を受けていたのか。
そう、チンクは考えていた。
もう彼女たちから聞き出せることなど残っていない。めぼしい情報も出尽くしたと、管理局も気付いているだろう。
しかし、管理局に協力的な戦闘機人はチンクのみだ。
オットーは頑なな態度を崩そうとしないし、ディエチは流れるままに、己の行き先を決めかねている。
そんな三人の元へと、今日もエスティマは訪れていた。
トーレが侵入する時に破砕した吹き抜けのガラスは塞がれ、今は鋼の天井に変わっている。
以前は日光を受けることができた庭園には、代わりに人工の明かりが降り注いでいた。
陽光を見ることができなくなったことに僅かな寂しさを感じながら、チンクは妹たちに言葉をかけるエスティマの姿に見入っている。
今、エスティマが行っている話の内容は更正プログラムのことだった。
結社の情報を管理局へチンクが話したことにより、彼女たちの刑期はやや短くなっている。
同時に、正当な教育を受けていなかったという名目を追加されて、もし裁判が終わり罪を償うことになっても、人生を謳歌できるだけの時間が残されているだろう。
しかし、刑期があることは確かだ。
それを管理局で働くことで短縮しないかと、エスティマは語りかけ続けている。
無論、チンクはエスティマの話に乗るつもりだ。
彼がそれを勧めてきたのなら、断ることなどあり得ない。
問題なのは彼女以外の二人だった。
「――と、いうことだ。
俺としては是非、これを受けてもらいたいんだけど、どうかな。
なんだかんだ云っても、君たちは世間を脅かした戦闘機人だ。
改心しようが周りの目にはどうしてもそう映ってしまう。
だからきっと、更正プログラムに沿って局員として働き始めても、風当たりは強くなるはずだ。
こちらとしてもなるべく理解のある配属先を探すけれど、それでも決して楽ではないだろう。
けど、これはチャンスなんだ。
向けられる視線はすべて、君たちを試している。
その期待に応えれば、普通に刑期を終えるよりは、周りに馴染むことができると思うけど――」
そこまで喋って、エスティマは三人を見回すと、脣を引き結んだ。
その様子は、手応えの感じない説得に無力感を抱いているよう、チンクには見える。
それもそうだろう。
つ、とチンクは視線を横にずらす。
その先にいるオットーは、エスティマから視線を外して芝生に目を注いだまま千切った草を指で弄んでいた。
まるで教師の話を聞こうとしない、幼い学生のよう。
それも仕方がないのかもしれない。スカリエッティの元で育ったナンバーズは、ある意味、我慢というものを知らないのだ。
やりたいことをやりたい時にやる。まったく興味を抱かないエスティマの話をロクに聞かなくとも、仕方がないことなのかもしれない。
生まれてさほど――三年が経っていると云っても、所詮は三年だ。知能や知識はあるのだとしても、人間性はまるで成熟していなかった。
そんなオットーと比べれば、まだディエチはマシな方なのかもしれない。
真摯な気持ちでエスティマの言葉を聞こうとしているのは、じっと彼の顔を見続けて話を聞く態度から知ることができる。
しかし、反応らしい反応はしない。
彼の云うことを知識として吸収してはいるようだが、それ止まりだ。自分で何かを決めるという段階には至っていないのだろう。
だからなのか、彼女はチンクへと伺うように視線を向けてきた。
これが初めてのことではない。
エスティマが何かを問うと、チンク姉はどうするの? と語る目を注いでくるのだ。
これがまた、トーレやクアットロならば違うのだろうが――
……姉の責任か。
短く胸中で呟くと、チンクは顎を上げてエスティマへ。
「……つまり、更正プログラムを受ければ、一般人として世に戻ることができたとき、世間に馴染みやすいということで良いのか?」
「……ええ、そうです」
助かった、と彼はアイコンタクトでチンクに伝える。
しかし、助けられているのは自分たちの方だ。
わざわざ時間を割いて、更正プログラムを勧めてくるエスティマ。
別にこんなことをしなくとも、裁判で罪を裁けは良いだけのことのようにも思える。
それをせずに可能な範囲で自分たちへ下される罰を軽くしようと奔走するのは――
……こいつのことだ。捕まえたからには責任を持って、と考えているんだろうな。
エスティマらしいよ、とチンクは笑みを零す。
そうして今日も話が終わると、エスティマは何か質問がないかと三人に問う。
いつもはここでチンクが挙手し、二人っきりの時間を作るのだが、今日は違った。
今までずっと動いていなかったディエチが、手を挙げた。
声をかけるのも忘れて、エスティマは眉根を寄せる。
が、すぐに正気へ戻ると、ややどもりながら声をかけた。
「えと、はい、ディエチ……どうした?」
「うん。少し、話したいことがある」
話したいこととはなんだろうか。
チンクはディエチを見やる。しかし、表情の薄い妹からは、何を考えているのか読み取ることができない。
釈然としないものを感じながらも、オットーは一足先に己がいるべき場所へと戻される。
チンクはオットーの話が終わってから、エスティマとの習慣付いた語らいを行うために残っていた。
ディエチに時間を取られたことで、普段よりもややその時間は短くなるだろう。
しかしは今はそのことよりも、なぜディエチがエスティマに質問をしたのかという方に興味があり、さほど気にはならなかった。
「あの、エスティマ」
「なんだ?」
おずおずとディエチは口を開く。
ゆっくりとした速度は、口の中で転がした言葉を厳選し、相手にしっかり話をしようという意志を見ることができた。
「……聞きたいんだけど。
もし、あの更正プログラムが終わったら、私たちは何をすれば良いの?」
「……ん、何を、って?」
分からない、といった表情をするエスティマに対してもどかしそうな顔をしながら、なおもディエチは言葉を続ける。
「そのまま。何をすれば良いのか、私には分からない。
働け、っていうのなら分かるけど……」
「ん、いや、更正プログラムが終わったら、局を止めても問題はないよ。
一般人として生きても――」
「……それが、私には分からない」
困った、という風に呟かれた言葉で、エスティマの瞳に理解の色が浮かんだ。
悩んでいるのではない。本当にどうして良いのか分からず、困っているのだろう。
苦笑し、そうだな、とエスティマは呟く。
「まだ分からなくても仕方がないのかもしれないね。
……うん。
もどかしいかもしれないけど、たくさんの人と触れ合ってゆく内に、それは気付けることだと思う。
そういうものだ、っていうのは随分と無責任な言い方かもしれないけど。
それでも分からないときは、相談してくれれば良いから。
俺は、君たちナンバーズの担当をする執務官だしさ」
言葉をかけられても、ディエチの表情は晴れなかった。
一度俯き、彼女は顔を上げる。
曇ったままの瞳を宙に彷徨わせながら、
「……トーレ姉はさ」
「……トーレ?」
「うん。トーレ姉は……自分のやりたいことを、やったのかな」
それだけ零して、口を噤んだ。
もう話はないようで、ディエチは自主的に腰を上げると、控え目な足取りで庭園の出口へと向かっていった。
その背中を二人は黙って見送った。
「……トーレ、か。
あの子から見たら、あれはどう映っていたんですかね」
エスティマが洩らした呟きには、呆れたような響きがあった。
ディエチに対してではないだろう。おそらくは、トーレ本人にだ。そう、チンクは思った。
「俺からしたらはた迷惑なだけで……けれど、身内から見たら違うのか」
「……私も一応、奴の身内だぞ?」
「……失礼しました」
「気にするな。
まぁ、そうだな……トーレは」
チンクは脳裏に、姉の姿を思い浮かべる。
戦闘機人という存在に独特の美学を持ち、エスティマに敗北した三番目のナンバーズ。
彼女はディエチが云ったように、自らのやりたいことを果たして散っていったのだろうか。
トーレがどうなったのか、大体のことを捕まったナンバーズは知っている。
そして、トーレがこの海上収容施設に姿を現したことで、それぞれに影響が出ていることにチンクは気付いていた。
オットーはおそらく、トーレが自分たちを助けにきたことで、いつか再びスカリエッティの元に帰ることができると希望を抱いたのだろう。
今の頑なな態度はきっと、姉妹がすべて捕まるまでは続けられるのではないだろうか。最低でも、双子のディードが捕らわれるまでは。
ディエチの変化は、さっきのような発言を口にするよう、考えるようになったことだろうか。
エスティマの言葉を聞いて、知識にする。しかしそこから先のことに思いを馳せようとまではしなかったのだろう。今までは。
しかしトーレが自らの信念を貫いたことで、ディエチは自分の未来を考えるようになったのか。
そして、自分は――愚問だ。
もう進むべき道は決めている。何があってもこの男について行くと、固く誓ったのだ。
「トーレは変わった奴で、決して真っ当な人間ではなかったと思うが……そうだな。
純粋な戦闘機人と云いながらも、心に随分と人間くさい贅肉をつけていた気がする。
そういうところが今になって、ディエチたちに影響を与えているのだろう。
今度は、私たちの番だからな」
そう。
もう自分たちは道具として戦っていれば良いだけの存在ではなくなる。
所属が結社から管理局に変わるだけではない。生きている限りは続いてゆく人生と向き合わなければならなくなるのだ。
そんなことを考えているチンクとは違い、エスティマはトーレとの戦いを思い出したからなのか、うんざりした表情を浮かべていた。
「俺としては迷惑この上ない相手だったんですけどね」
「そう邪険にしてやるな。
熱烈なラブコールだったじゃないか」
「……あんなのから欲しくはないですよ、そんなの」
一度だけチンクを見て、腕を組むとエスティマは憮然とした表情になる。
こちらに視線を寄越したのは、無意識なのか意図的なのか。
なんにせよ、可愛いやつだ、とチンクは苦笑した。
「そう拗ねるな、エスティマ。
……ほら」
云って、チンクは太ももを軽く叩いた。
すると、憮然とした表情は苦々しく。
嫌がっているというよりは、迷っているのか。
「いや、でも……」
「ほら、早くしろ。時間がない」
「……それじゃあ」
渋々とエスティマは芝生に腰を下ろして、チンクの太ももを確認しながら頭を下ろしてゆく。
前回は唐突で、今回は合図をしたからか。
ならば、次はどんな反応をエスティマは見せてくれるだろう。
素直に喜んでくれるまでは、きっと長い時間がかかるのだろうなと、チンクは思う。
口にこそ出さないが、変なプライドがあるのだろう。
せがむような真似をしたら男としてそれはどうなのだ、と。
気難しい奴だ。それとも、男は皆こうなのか。
エスティマ以外の男性を知らないチンクには分からなかったが、別に知ろうとも思わないため、深くは考えない。
ももにエスティマの頭が乗ると、チンクは彼の額に手を乗せた。
前髪を指で弄びながら、綺麗な顔だ、と笑みを零す。これで男らしいなんて云っても、可愛いだけで威厳も何もないだろうに。
「……フィアットさん」
「なんだ?」
「フィアットさんは、罪を償って、その後どうしたいのか決めていますか?」
投げ掛けられた言葉に、チンクは息を飲んだ。
それは……、と、思考が凍り付く。
お前がそれを聞くのかという僅かな苛立ちがあるのは確かだし、いざ感情を言語化しようとして出来なかったというものある。
今のままでも、チンクは充分に幸せではあるのだ。
もどかしいと思うことがあっても、わざわざエスティマがここへ足を運び、時間を割いて――と。
場所が変わっても今のような関係が続いてゆくのならば、拒むようなことは何もない。
だというのに、なぜエスティマはそんなことを聞くのだろう。
自分とエスティマの間に溝があるような気がして、どうしても口を開くことができなかった。
そんなチンクに、エスティマは気付いたのか。
閉じていた瞼を開くと、じっとチンクの瞳を見つめてくる。
嘘や誤魔化しを認めない。そんな意志があるように見えた。
「……私は」
何かを云わなければ。
分かっていても、しかしチンクは、意味のある言葉を紡ぐことができない。
その、と繋ぎの言葉で間を取り繕っても、長持ちはしなかった。
一分二分と過ぎ去って、エスティマは再び瞼を閉じる。
「……約束」
「……え?」
答えず、エスティマはチンクのももから頭を浮かせた。
立ち上がって制服についた芝の欠片を払うと、そのままチンクを見下ろす。
そして、
「……すみません。
少し、浮かれていたようです」
「……え?」
「次に俺がくるまでに、フィアットさんがどうしたいのかを、決めておいてください。
さっきディエチたちに説明した、相談するというのは嘘じゃありませんから。
それじゃ……もう、行きます」
「ま、待て!」
立ち去ろうとしたエスティマに声をかければ、彼は無視することもなく足を止める。
こちらに振り向いてはくれるが、しかし、瞳に浮かんだ感情には遊びが一切ない。
チンクからの言葉を真っ向から受け止めようとしている。
「なんでしょうか、フィアットさん」
「……私は、だな」
何を云えば良いのだろうか。
どんな言葉をかけたら、エスティマは――
そんな風に迷っていたからだろう。
エスティマは見透かしたようにチンクから目を逸らすと、遠慮がちに口を開く。
「……フィアットさん。あなたは、俺の人形でもペットでもないんです。
唯々諾々と従うようなことだけは、しないで欲しい」
「……けど、それは、お前が」
「……そうですね。俺も悪かった。
あなたはきっと分かってくれているって、思い込んでいた。
……フィアットさん。あなたは犯罪者で、俺は執務官です。
未来のことを考えて……それが決して楽ではないと、分かりますね?」
……分かっている。
ナンバーズの裁判を担当する執務官が、その内の一人と通じているなんて知られたらゴシップの良い的だ。
そうなれば、エスティマが自分たちのために奔走してくれていることも水の泡と消える。
そうなってしまえば、もうエスティマと一緒にいることすら容易ではない。
……分かっていた。
分かっていたけれど、今のぬるま湯が心地良くて、ずっと見ないふりをしてきたことだ。
長い間エスティマは頑張ってきたのだから、少しでも報いてやりたい。
そんな風に言い訳をして、その実、彼と甘い時間を過ごしたかっただけなのだから。
「ちゃんと考えておいてください。
それでは」
「――ッ、エスティマ!」
名を呼ぶも、今度は彼が振り返ることはなかった。
しかし足を止め、
「フィアットさん……俺は、あなたが大切だからこそ、寄りかからないで欲しい。
……今は、まだ」
行きましょう、と促されて、チンクは立ち上がる。
エスティマが視線を送ってくることは、もうなかった。
チンクもまた、彼の顔を見ようとはしなかった。
今日もまた、エスティマは海上収容施設へと脚を伸ばしていた。
同じ日々の繰り返し。既知感を抱きそうになるやりとり。
いつもの光景とは、まさしくこれのことを云うのだろう。
そんなことを、チンクはエスティマを眺めながら考えていた。
いつもはしっかりと聞き取るエスティマの言葉も、今日は右から左へと声が突き抜けてしまう。
彼女が考えていることはただ一つ。
先日エスティマに向けられた問いかけだった。
罪を償った後、自分はどうしたいのか。
……そんなことは決まっている。ようやく一緒になれたのだから、自分はこれからずっとエスティマと共に――
いや、違う。
浸かっていたぬるま湯が冷めてしまって、ようやく。
冷や水を浴びせられて、ようやく冷静になれたとも云える。
エスティマと共に歩むことはできない。今はまだ。
約束――そう、あの日交わした約束には、続きがあった。
『――いつか必ず、俺がこの手で捕まえて、罪を償ってもらいます。
そうしたらまた、遊びに行きましょう。気兼ねすることもなく、以前と同じように』
――と。
おめでたいことに、自分はその後ろ半分を分かったつもりでいて、忘れていた。
エスティマもきっと、そうだったのだろう。でなければ、自分に甘えるような素振りを見せたりはしなかったはずだ。
そんなところばかりは昔と変わらない。肝心ところだけは絶対にねじ曲げない頑固さも。
辛いのならばこちら側にこないかと何度も誘ったというのに――今では馬鹿なことをしたと思っているが――彼は一度たりとも頷かなかった。
そんなところは、年月が経っても変わっていないようだ。
そんなところが微笑ましく、嬉しく、うらめしい。
もっと自分に優しくても良いだろうに。
そんなことだから――
……いや。
自嘲し、チンクは僅かに首を振った。
約束をねじ曲げて日だまりのように心地良い関係を望み続けているのは、自分の方だ。
エスティマだって望んでいるだろう。
しかし彼は自分でそれを振り切り、そのときチンクはただ戸惑うことしかできなかった。
その些細な差は、きっと大きいはずだ。
……なんだかんだ云って、自分も妹たちと同じように幼いのかもしれない。
白馬の王子様に連れ出されたお姫様は、なんのしがらみもなく幸せになれるのだと思い込んでいたなんて、少女趣味が過ぎる。
そんな簡単に物事が進むのならば、どれほど良かったか。
けれど、それを許さない男だからこそ、自分は……。
……そう。
ぬるま湯は確かに心地良いのかもしれない。
しかし、そこに浸かり続けてしまえば、残るのはふやけて皺だらけになった、みすぼらしい人間だけだ。
そんな自分を許すことができず、また、チンクにもそうなって欲しくないと彼は願っているのだろう。
なんてワガママなのだろうか。
……良いさ。
お前がそれを望むなら……いや、違う。
私はお前との時間をやり直したい。罪を償うことでまたあの頃に戻れるというのなら、私はなんだってしよう。
そうチンクが心に決めると、エスティマはナンバーズへの更正プログラムに関する話を止めた。
そして、いつもの時間がやってくる。
オットーとディエチの姿が庭園から消えると、エスティマとチンクは二人っきりに。
しかし、以前のような柔らかい空気がその間に漂うことはなかった。
表情を引き締めて、冷たささえ感じる色を瞳に浮かべながら、エスティマは執務官の顔をチンクに向けてくる。
そんな顔をしないで欲しい。
そう願ってしまいそうになるが、本当はこれが正しいのだ。
自分は犯罪者で、エスティマは執務官。
いくらお互いに胸へと秘めた感情があるのだとしても、その区切りを飛び越えるようなことをしてはいけない。今はまだ。
「答えは、出ましたか?」
「……ああ」
「そうですか。
……聞かせてもらっても?」
「……いや、聞いて欲しいんだ。お前に」
首肯し、エスティマは口を閉じてチンクへと視線を注ぐ。
それをじっと見返して、チンクは頭の中に並ぶ言葉を削ぎ落とす。
過度な装飾なんかはいらない。
ただ伝えたいことを口にしようと。
そうして整理が着くと息を吸い込んで、チンクは言葉を紡ぎ始める。
「……私は、お前と一緒にいたい。
きっと世間一般から見たら、犯罪者の望みとしては間違っているのだろう。
けれど、私にはそれしかないんだ。
お前と一緒にいたいから、私は罪を償いたい。
……だから、エスティマ。
もし、罪を償ったら――」
私と、とそこまで云ってチンクは言葉に詰まった。
もし罪を償ったら……どうしたいのだろう。
ずっと一緒にいたい。それは確かだ。
けれど、そんな曖昧な言葉ではなく、確かな気持ちを、目の前の男に伝えたい。
そのための言葉は一体――
必死に考えを巡らせて、ぽつりと一つの言葉が浮かび上がってきた。
「もし、罪を償ったら……」
が、茹だった頭で考えたことだからだろうか。
とてもじゃないが、素面で云うような台詞ではないように思える。
しかし、
「はい」
待ちますよ、と言外に云うような柔らかな声を向けられた。
急かすつもりはないのだろう。
しかしチンクとしては、ヤケクソへなるのに背中を押されたようなもので、
「もし罪を償ったら、お、お前の……」
「ええ」
「――お前の子供を産ませろ!」
「はい、分かりま……。
………………………………えぇ!?」
「素っ頓狂な声を上げるな!
良いか、もう一度云ってやる!
私は、だな――」
「やめて下さい、はしたない!
こんなところで云うことじゃないでしょうに!」
「云わせたのはお前だろう!」
「そうかもしれないですけどっ」
ああもう、とエスティマはその場で頭を抱える。文字通りに。
そんな態度がたまらなく不満で、チンクは口をへの字に曲げた。顔を真っ赤にして。
「……私にこんなことを云わせて、なんだ、お前は」
「……うっ。
いや、まぁ、その……流石にそんな答えは予想していなくて」
しどろもどろになりながら、さっきまでの真面目な態度はどこへ行ってしまったのか。
エスティマは視線を彷徨わせながらぶつぶつと形にならない言葉を零す。
背伸びをするとそんな彼を両手で捕まえ、頬をしっかり挟み込み、チンクは朱に染まった顔でじっとエスティマを見る。
「……私を見てくれ」
「……はい」
云われ、エスティマは彷徨っていた視線をチンクに向ける。
視線が絡んだ。お互いがどこか熱っぽいのは、気のせいではないだろう。
……ずっと一緒にいたい。
一人の人間としてエスティマと共に生きたい。
友人などの立場ではなく、運命を共にして歩んでいきたい。
そうなれば自然と、子供は作るものだろう――と、チンクは考えてあんなことを云ったのだ。
他に言い様があっただろうとは、自分でも分かっているが。
あんまりにあんまりな言い方だ。
その証拠に、気持ちをぶつけられたエスティマはすっかり困り果てている。
……迷惑だったのだろうか。
返事を一向にくれない彼の態度にそう思ったとき、
「……俺だって、フィアットさんと一緒にいたい。
……流石に、子供とかは、その、考えてなかったですけれど」
「そうか」
向けられれた言葉に、頬が緩むのをチンクは自覚した。
とても自分の意志では止められない。気付けば目尻は落ちて、じんわりと温もりが胸に広がってゆく。
「……私はこれから、正しく罪を償うよ。お前と添い遂げるために。
だから……最後に一つだけ、ワガママを聞いてくれないか?」
「……えっと、はい」
なんですか? というエスティマの問に応えず、チンクは頬を挟んでいた手をそのまま首に回した。
そして、エスティマを抱き寄せながらギリギリまで背伸びをする。
子供と大人のような身長差。それに悔しさを感じながらも、チンクは目を白黒させるエスティマへと脣を。
ただ優しく、触れるだけのようなキス。
時間にして一秒か二秒。
一瞬でしかないそれを名残惜しそうに終えると、チンクは顔を離す。
僅かに顔を俯けて、ちろりと舌先で自らの脣をなぞった。
味がするわけでもないのに、上等なワインでも舐めたような甘さがある。そんな錯覚があった。
「……二度目だ」
思い返すのは、ずっと昔のできごと。
けれど何度も振り返り、確認し続けたチンクにとっては色褪せていない記憶。
宝石のように仕舞い込んでいたそれと、まったく同じできごとが増えたことで――それだけで、これからずっと頑張ってゆける。そう、彼女には思えた。
……などとチンクが思っていると、だ。
「……ちなみに、一度目は?」
ぽつりと呟いたエスティマを首を傾げてみてみれば、また彼は目を逸らしている。
しかし、今度はさっきと違い、照れているわけではないようだ。
気まずい、とでも云えば良いのか。
「……覚えてないのか?」
「……何をですか」
……もしやこいつ、気付いていなかったのか?
確かにあのとき、自分はクアットロのISで姿を消されていたが、それにしたってあんまりだ。
むっとしつつ、むくむくと悪戯心が湧いてくる。
くすりと笑って、首に回した手を解くと、ステップを踏んでエスティマから一歩遠ざかった。
そして踊るように髪を揺らしながら、得意げな笑みを作る。
「……さて、どうだったか。
どこぞの朴念仁にくれてやったんだが」
「……まぁ、そんなこと気にしませんけどね」
その言葉が強がりなのは、言葉、表情から丸わかりだ。
本当に、こいつは。
そして、こんな奴だからこそ私は。
笑みを絶やさず、嬉しくて嬉しくて、この気持ちさえあれば大丈夫だと、チンクは控え目な笑い声を上げた。
腕時計に視線を落とす。
そこに記されている時間を見詰めながら、八神はやては溜め息を吐いていた。
今日の仕事は既に終わっている。
後はもう女子寮に帰って明日に備えるだけだと、分かってはいるが――
もう一度はやては腕時計を見て、眉尻を落とした。
彼女が執拗なまでに時間を気にしているのには、一つの理由がある。
仕事中に届いた、エスティマからのメール。
それには、大事な話があるから六課から出て来て欲しいという旨。そして待ち合わせの場所、時間が記されていた。
腕時計の針は、既にエスティマの指定した時間を五十分も過ぎていた。
今から彼のところに向かったら、合わせて一時間ほどになるだろうか。
はやてはどうしてもエスティマと顔を合わせる気になれないため、仕事の終わった職場で無為に時間を過ごしていた。
彼との待ち合わせを忘れ去ったようにサービス残業を行って、しかし、五分刻みのペースで時計を気にする。
そして遂に我慢ができなくなったのか。
眉間に深い皺を作ると、はやては重い腰を上げてオフィスを後にした。
傍から見ても気の進まない調子の滲んだ足取りでふらふらと駐車場を目指す。
そして自分の車に辿り着くと、エンジンに火を入れ、はやては両手で掴んだハンドルにこつりと額を当てた。
「……嫌な予感しかせえへん」
再び溜め息。
しかし、いつまでも二の足を踏んでいるわけにはいかないだろう。
気の進まないまま、はやてはアクセルをゆっくりと踏み込んだ。
すっかり暗くなった駐車場をライトが照らし上げ、その中をはやての車は進んでいった。
法定速度を守って――次々と後続車に追い抜かれながら、はやては湾岸線を進む。
その先にあるのは、いつぞやの戦闘で破壊されたマリンガーデンだ。
修復は進んでいるようだが、まだ運営は再開されていないようで、遠目に見えるレジャー施設は工事現場の光でうっすらとライトアップされていた。
ハンドルを握る手は、このまま横に切って隊舎に戻ってしまおうかと迷い続けている。
そして何事もなかったかのように明日を迎え、気付かなかったとエスティマに謝って――と、甘いことをどうしてもはやては考えてしまうのだ。
彼からの大事な話。それをするのに、わざわざマリンガーデンを選んだ理由とはなんなのだろう。
いや、そんなことよりも――
……大事な話。
思い当たる節が一つだけ、はやてにはあった。
つい先日、エスティマに訴えかけたこと。
自分のことをどう見ているのか――と。その答えが返ってくるような予感が、はやてにはあった。
それも、悪い形でだ。
根拠はない。あるといったら精々女の勘といったレベルで、まったくアテにはならなかった。
様々な思考が頭の中を駆け巡る。
しかしどれもが形らしい形を持っておらず、ぐちゃぐちゃとした頭の中は、そのままはやての心を表しているようだった。
車を進めていると、ついに待ち合わせ場所へと到着してしまった。
時間は、待ち合わせから一時間半が過ぎていた。
祈るような心境で車を降りると、はやては周囲を見回す。
その中に、はやてはエスティマの姿を見付けた。
ずっとそうしていたのだろうか。彼は制服姿のまま、修復中のマリンガーデンへと目を向けている。
「……ごめん。メールに気付くのが遅れてもうた」
明るい調子で云うつもりだった言葉は、自分でも驚くくらいに沈んでいた。
こんなのじゃ駄目だと、はやては小さく頭を振る。
都合の悪いことを聞いても、嘘はやめてと笑い飛ばせるぐらいの空元気ぐらいは見せなければ。
声を放つと、エスティマは振り返る。
しかし彼の顔を直視することができず、はやては顔を俯けた。
「……ん、いや、大して待ってないから、気にしないで」
そか、と呟く。嘘だ。きっと彼は、律儀に一時間以上をここで過ごしていたのだろう。
はやての反応はそれだけであり、会話に発展はしない。
それに焦れたわけではないだろうが、エスティマははやてへと近づき始めた。
マリンガーデンを修復している金属質な作業音が響く中に、彼の靴音が混じる。
コツコツと革靴の上げる音は小気味よく、リズムを刻んでいるようだ。
秒読みか何かのように。
「……はやて。それで、君を呼び出した理由なんだけど、さ」
「……うん」
「あの日、先延ばしにした話に決着を付けようと思って、ここに呼んだんだ。
……答えを聞いて欲しい」
「……うん」
こくり、とはやては頷く。
しかしシンプルな反応と違い、はやての心中は穏やかではない。
この時になってようやく思い出す。
このマリンガーデンは、自分とあの戦闘機人が戦い、言葉を交わした場所だった。
ああ、そうか。嫌な予感はそのせいだったのか。
ここに来てくれと云われたからこそ、こんなにも嫌な予感がしたのかと、はやては気付く。
エスティマとの事柄で、初めて自分が焦りを抱いた場所なのだ。ここは。
だからこうも不安を掻き立てられてしまうのだろう。
そして、
「……ごめん、はやて。
君の気持ちには応えられない」
あまりにも呆気ない一言で、問いかけへの答えは返ってきた。
「そっ……か」
やっとの思いで、それだけをはやては絞り出す。
他に言葉らしい言葉が浮かんでこない。
何故、なんで、どうして。
今にも自制心が吹き飛んで、感情に任せたままに言葉を吐き出してしまいそうだった。
それをしないのはせめてもの抵抗で、それは悪い冗談だと笑い飛ばそうとし、
「……俺は、フィアットさんのことが――」
「……止めて」
フィアット――エスティマが口にしたチンクの偽名を耳にして、自らを律する鎖に一筋のひびが入る。
「……ごめん」
続けようとしていた言葉を飲み込んで、それっきりエスティマは何も告げず、口を噤んだ。
それによって生まれた沈黙が、心に突き刺さってしまう。
自分から黙ってと云ったのに、今度はその沈黙が辛い。
だから、
「……なんでなん?」
漠然としすぎた言葉を、はやては零してしまった。
そうしてしまえばもう止まらない。
ひびの入った戒めは一気に解け、はやては俯いたままエスティマへと近付く。
「……ねぇ、エスティマくん。
なんで?」
「……なんで、だろうね。
ただ俺は、フィアットさんのことがどうしようもなく好きなんだって、気付いてしまったから。
大事だとは今までも思っていたけれど……今は、ずっと一緒に生きて行きたいって思ってる。
だから、はやてを選ぶことはできないよ。
……ごめん」
謝罪の言葉が聞きたかったわけではなかった。
なのに――
気付けば、はやてはエスティマの胸元を掴んでいた。
制服の生地が悲鳴を上げるほどに強く――その衝撃で、軽く金属の擦れるような音が響く。
音源は彼の首に下がったリングペンダント。
後生大事に彼が持っている、戦闘機人との絆の象徴と云うべき物。
それの奏でる音が酷く耳障りで、はやての感情は一気に臨界点へと跳ね上がった。
微塵もそんなつもりはないのに、脣は弧を描く。
喉が震え、どんな言葉を云えばいいのか考える間もなく、ぎゅっとエスティマの制服を握り締めて、なんで、とはやては呟いた。
「なんでなん?
ねぇ、エスティマくん……なんで私やないの?
気に入らないとこがあったから?」
「……そんなことはない。
はやてはずっと、こんな俺に良くしてくれた」
「なら、なんで?
私の何があかんかったんや?」
「……何も、悪くはなかった」
嘘や、とはやてはすぐに返す。
あはは、と乾いた笑いが洩れて、更に彼女は言葉を続けた。
だってそうだろう? と。
悪いところはなくて、ずっと尽くしてきたことも分かってくれているのならば、フるはずがない。
もし自分を受け容れてくれないというのなら、それは――
「長い髪が好きなら、今から伸ばすで?
ああいう外見が好きなら、ずっと変身魔法をつこうたってええよ?
話し言葉が気に食わないなら、頑張って直すから……。
……それ、でも」
「そういうことじゃないんだ、はやて。
俺は、あの人があの人だから、好きになったんだよ。
……いくら姿形がどうでも、俺は――」
好きという感情を抱いて貰えなかった。
自分が愛して貰えないという、完全な烙印であり敗北以外の何ものでもない。
「なんで!」
エスティマの言葉を大声で遮り、はやては彼の胸板に額をぶつけた。
苦しげな吐息を彼は漏らす。それに構わず、なんで、と呟き続けながら、はやては額を擦り続ける。
はやても分かっていた。
エスティマがずっと走り続けていた理由の大半を締めるあの戦闘機人が、彼を自分の手の届かない場所へと持って行ってしまうと。
それが嫌で、以前は彼に訴えかけ――そして今、みっともなく縋って引き留めようとしている。
しかしエスティマはこんなことで意志をねじ曲げはしないだろう。
どんなに哀れを誘い、媚びたところで、それになびくような人間でないことは、良く知っている。
ずっと見てきたのだから、知らない方がおかしいというものだ。
それだけに、辛さもより大きなものとなってはやての心を締め付ける。
……本当に、何がいけなかったのだろう。
もっと尽くせば良かったのだろうか。
もっと媚びれば良かったのだろうか。
彼の意志を尊重すると云いつつ、怯えて最後の一線を踏み込まなかったのがいけないのだろうか。
彼の意志を無視して、自分の物にしてしまおうという気概が足りなかったのだろうか。
そう思うも、どれもが間違っているような気もする。
明確な答えをはやてに教えられる者はこの場に存在しない。
――もし、チンクがエスティマへはっきりとした答えを出さなければ結果は違っただろう。
――もし、見栄を気にして素直な言葉を彼女が口にしなかったならば、エスティマの心はチンクに傾かなかっただろう。
――そうすればエスティマは、彼女の罪を精算する手伝いをするだけ、と決めて、はやての気持ちに報いようと思っただろう。
けれどそうはならず、エスティマはチンクを選んだ。
本人たちすら気付かない、ボタンの掛け違いとすら云えない微かな違いが、こうして形となっていた。
だから、はやては納得できない。
なんで自分じゃないのかと――どうすればエスティマを引き留めることができるのかと、そればかりを考えてしまう。
「なんで、私じゃ駄目なんや……!」
喉が震え、掠れた叫びが吐き出される。
それに耐えきれなくなったのか、エスティマは両腕を持ち上げるが、
「……ごめん」
はやてを抱き締めず、力なく両腕は再び落ちる。
それを視界の隅で捉えて、ああもう抱き締めてくれることすらないのか、と、はやては理解した。
瞬間、激情は一気に冷えてじわりと目元に涙が溢れてくる。
目頭が熱くなったのは一瞬で、ひんやりとした涙が頬を伝う。
「……なんで」
ぽつり、と言葉を洩らして。
嗚咽を押し殺しながら、彼女はエスティマの胸板を力なく叩いた。
「……なんでっ」
どんどんと鈍い音が次々に上がる。
込められた力は決して強くはない。しかし、拳を受けるエスティマの表情は、苦みと痛みに濡れている。
そうして、どれほどの時間が経っただろうか。
すん、と鼻を鳴らして、はやては顔を上げる。
充血し、涙に濡れた瞳は灯りを反射して鈍く光っている。
エスティマはそれを俯き加減な緋色の瞳で見つめ返すと、何かを云おうとして口を開き、止めた。
おそらくはまた謝ろうとしたのだろう。
そう、はやては察する。
なんて酷い男なのだろうか。
すっぱりと切り捨てるわけでもなく、突き放すわけでもなく、ただ残酷に、はやてよりもチンクが好きなのだと真っ向から云ってくる。
それも、こちらがどんな気持ちを抱いているのか知った上で。
不器用や愚直などという言葉では言い表せない。なんて憎らしい。
黒々とした感情がふつふつと湧き上がってくる――が、はやてがそれに突き動かされることはない。
……分かってはいたのだ。
もし自分が選ばれなかったら、きっと彼はこうするだろうと。
そんな素直な彼だからこそ自分は好きになったのだから、しょうがないという気もする。
要するに惚れた弱みというやつだろう。
しかし、だからこそ、こんなことでは諦められない。
まだ自分のことを少しでも好きでいるなら――人を嫌うことがない彼ならば――少し本気で意地悪をしてやろう。
心の中でほくそ笑みながら、はやてはエスティマの胸板に爪を突き立てた。
「……エスティマくん。
あの戦闘機人を好きになったっちゅーのは、分かった。
けど、執務官と犯罪者が簡単に手と手を取り合って幸せになれると思っとるんか?」
「……思っていないさ。
そう、だね……今の騒動が終わって二年か三年。
それぐらいは我慢することになると思う」
「……そう。分かってるなら、ええよ。
ところでエスティマくん」
「……ん?」
「ディープキスってあの戦闘機人としたことある?」
「何をいきな――」
言葉が続くよりも早く、はやてはエスティマの頭に手を回して手繰り寄せた。
勢いに任せたせいか、鈍い音を立てて額同士がぶつかる。
が、はやてはそのまま怯むこともなく、エスティマの脣を奪った。
唐突なことと痛みで目を白黒させる彼を余所に、脣を重ねて、はやてはそのまま舌で脣に割り入る。
色っぽさも何もない。ただ荒々しく、奪い取ろうとするように赤い舌が蠢いて、歯茎を舐め上げる。
その時になってようやく、エスティマは正気に戻った。
抱きつくなんて生温い、締める、と云った方が正しいだろうはやての腕を振り解いて突き飛ばすと、咄嗟に口を手の甲で隠した。
「な、何するんだよ!?」
「んー、宣言っていうか、なんちゅーか」
対称的に、はやては一瞬前まで触れ合っていた唇を人差し指でなぞる。
顔に浮かんでいるのは、どこか彼女らしさの欠けた挑発的なものだった。
「エスティマくんがあの戦闘機人を好きなのは分かったわ。
せやけど、簡単に諦められるほど、私の気持ちは安くなんかあらへん。
……二年か、三年。
それまでに、エスティマくんを私のものにしてみせる」
「……悪いけど、はやて」
「……分かってるよ」
バツの悪そうに呟いたエスティマへ、はやては薄く微笑む。
分かっている。今のはただの意地悪だ。
けれど――こうでも云わなければ、耐えることなんかできない。
長年抱き続けた恋心はすぐに手放せるほどに軽くなんかない。
今、心にぽっかりと穴が空いてしまえば、きっと立ち直るまで長い時間がかかるだろう。
だから今だけは、少しだけ甘えさせて欲しい。
……あわよくば、という気持ちは勿論あるけれど。
すっかり困り切ったエスティマの表情を眺めながら、はやては尚、薄く微笑む。
「……うん、分かってる」
顔を僅かに背けながら、彼女はぎゅっと目を瞑り、溢れた涙が頬を伝った。