※エンディングフラグは重複しません。ハーレムとか存在しません。あしからず。
フラグ話は続きます。お好みのものを史実と認識してください。
溜め息を吐きながら、フェイトは自室へと戻ってきた。
一日の勤務が終わって、これからは自由時間。
エプロンを外して部屋の中央にあるソファーに倒れ込むと、再び溜め息を一つ。
彼女がこうも溜め息を連発しているのは、今日あった一つの出来事が原因だ。
エスティマ・スクライア。自分の兄が、部隊長である癖に規律を破って八神はやての部屋へ――それも寮母である自分の手を借りて侵入したこと。
……なんで協力なんてしたんだろう。
そんな思いが胸の中に渦を巻いている。
他ならぬ兄の頼みだから断れなかった、というのは大きいが、決して納得したわけではない。
……部隊長が規律を破るなんて、いけないのに。
それだけを思いながら、フェイトは深々を息を吐いて目を閉じる。
……酷く、疲れた。どうしてだろうと思いながら、真っ暗な視界の中でフェイトは考える。
夜に男女が一緒になって……それもあのエスティマと八神はやてが。
何をしているかと考えれば、容易に想像ができる。下衆な類のものが。
別にフェイトは純真無垢な子供というわけではないのだ。興味がないわけではないし、そういうことを否定しない。
が、
……なんだか嫌な気分。
兄が八神はやてと、ではない。
兄が誰かと、というのがかもしれない。
「……兄さんは、八神さんが好きなの?」
それはエスティマが八神はやての部屋へ入ろうとした時、自分が言いかけた言葉だ。
だったらどうしたというのだろうか。
兄が誰かを好きになろうと、関係がない。
そのはずだ――
そんな得体もないことを考え続けていると、フェイトの思考は徐々に霞みがかっていった。
リリカル in wonder
フェイト・T・スクライアにとってエスティマ・スクライアは、兄であると同時に、最も身近な異性であった。
兄に関して一番古い記憶は、海鳴の上空で顔を合わせたことだ。
母のためにジュエルシードを探す決心をして降り立った先にいたのは、自分と瓜二つの顔をした少年魔導師。
この時はほぼ顔見せだけで終わった。けれどその後幾度も出会い、時には協力してジュエルシードの暴走体を鎮圧し――そして、プレシアが逝ってしまう。
今思えば、母はお世辞にも良い母親とは言い難かった。
何かに取り憑かれたように研究に没頭して、虐待を繰り返しながら幼子に難題を吹っかけ、結果がどうあれ娘に見向きもせずひたすらに自分の目的を達成しようとしていた。
スクライアに引き取られて学校に通うようになり、なのはたち友人と言葉を交わすようになってから、あの環境の異常性に気付いたのだ。
それでも母が自分にとって大切な人だということに今でも変わりはない。
客観的に見て酷い親だったのかもしれないが、優しくしてくれた記憶は、確かにある。
大事だったのだ。だからこそ、死んでしまったのは悲しかった。
一度も振り向いてくれなかったことに悔しさがあるし、助けてあげられなかったことに後悔もある。
……だからだろうか。
母をどうやっても救うことができなかった自分が、闇の書事件でああも狂乱したのは。
大人になった今の自分でも兄を奪われたら狂乱するとは思う。が、あそこまで感情を剥き出しにすることはないだろう。
独りぼっちになった自分に手を差し伸べてくれた兄。
母の代わり――誰かの代わりなんて嫌な言い方だが――となってくれた人。
母とは違い、兄は自分のことを見てくれた。
一緒にいてと云えば一緒にいてくれたし、甘えれば応えてくれた。
そんな兄だからこそ――ずっと感じていた餓えを満たしてくれた兄だからこそ、奪われて思考が憤怒一色に染まったのだろう。
その兄が今、再び奪われようとしている。
……今までとは違う。その心が、まったく別の方向に行こうとしている。
そう思うだけで、心の深い部分にドロドロとしたものが溜まってゆくようだった。
……これはなんだろう。良く分からない感情だな。
茫洋とした意識の中で、フェイトはそう思う。
距離が離れていても、何があっても、兄が自分のことを蔑ろにすることはなかった。
仕事や役目に追われても邪険に――母がしたように扱うことはなかった。
けれど、もし兄が抱く愛情が他の人に向いてしまったら、自分はどうなってしまうのだろうか。
……兄が母のように、他の誰かを見詰めながら自分を忘れてしまうことなどあり得ないと、分かってはいる。
そのはずだと信じたい。
けど。
……けれど。
「ただいまー……フェイトさん?」
ドアが開く音と共に、小さな声が部屋の中に響いた。
それでフェイトは眠りに落ちそうだった思考を一気に浮上させる。
ついさっきまで考えていたことが色をなくして忘却してしまう。
「おかえり、キャロ」
「あ、いたんですねフェイトさん。
部屋真っ暗なのに鍵が開いていたから、ちょっと驚いちゃって」
教導が終わってからシャワーを浴びてきたのか、帰ってきたキャロの髪は僅かに湿っている。
疲労を滲ませながらも軽い足取りで近付いてくると、キャロはソファー、フェイトの隣に腰を下ろす。
「キャロ、今日はどうだった?」
「はい。今日はですね――」
楽しそうな様子で今日一日にあったことを思い出しながら伝えてくるキャロに相づちを打って、先を促す。
楽しかったこと。辛かったこと。
それらを聞きながらとりとめのない会話を続ける。
兄が、自分にしてくれたように。
姉になったということで、少しは自分も成長できただろうか。
そんなことを、フェイトは思う。
頼ってもらえるのは嬉しい反面、少し重荷に感じる。キャロはあまりワガママも云わず、良い子と云えるタイプの子なので重荷には感じない。
しかし、自分はどうだっただろうか。
キャロの面倒を見るようになってから、客観的に、妹としての自分を思い出して、
……少し、重かったね。
そんな風に分析する。
愛情の裏返しと云えば聞こえは良いかもしれないが、しかし、鬱陶しかっただろう。
思い返すと、穴があったら埋まりたい気分になる。
闇の書事件が一段落して、八神はやてに関係する事柄に兄がかかりっきりになっていた時期の自分は、随分ワガママだった。
「……フェイトさん?」
「……ん、あ、ごめんね、キャロ」
いつの間にか上の空だったことに気付かれてしまったのだろう。
が、蔑ろにされて怒った様子はない。むしろ疲れているのかと心配されている有り様だ。
ごめんね、と再び呟き、そっとキャロの髪の毛に手を伸ばす。
薄桃色の髪の毛を指先で弄りながら、フェイトはそっと溜め息を吐いた。
……兄さんが八神さんと会っているだけだっていうのに、どうして。
ここまで思い詰めている自分が少し不思議であった。
「……ん、まだ髪の毛が湿ってるね。
おいで。ドライヤーで乾かしてあげる。そしたら寝ようか」
「はい!」
キャロを誘ってドライヤーで髪の毛を乾かすと、口にしたように二人は着替えて、ベッドに入った。
疲れていたのだろう。すぐに眠りに就いたキャロの寝顔を眺めながら、フェイトは合間を置いて続けている思考を再開した。
……鬱陶しい妹だったと客観的に自分のことを見ることができるようになってから。
少しは手のかからない妹として、兄の印象に残ることはできただろうか。
少しはできた、という自負がある。
そうでなかったら、こうやって六課に呼ばれることはなく、きっと無限書庫でユーノやアルフと一緒に調べ物をしていただろう。
エスティマがどう考えて自分を六課に呼んだかは分からないが、フェイトはそれを、頼ってもらえたと考えている。
遠ざけられるわけではなく、戦力の一つとして考えられて招集された。
今までずっと――首都防衛隊第三課の時はロクに頼ってこなかった兄が、だ。
ようやく一人前として認めて貰えた。そう、フェイトは思っているのだ。
管理局の局員ではないため寮母兼嘱託魔導師という立場になってはいるが、それでも自分のできる範囲で兄の力になれたはずだ。
兄の期待に応えるために、一度だって負けることなく戦い続けてきた。
その成果に兄は喜んでくれたし、それによって力になれたという実感も湧く。
幸せだと、断言できる状況。
しかし――その兄が今、他の誰かを見ようとしている。
……そもそも兄はずっと自分を見てくれていたのか?
今まで続けていた思考、その前提がふっと浮かび上がってきた。
そのはずだ、とフェイトは思う。兄が自分のことを忘れたことはなかったはずだ。
僅かな悪寒を感じて、フェイトは隣に眠るキャロを抱き締めた。
微かな呻き声をキャロが上げる。少し、抱き締める力が強かったのだろうか。
……もう寝よう。
考えすぎても仕方がないと思いながら、フェイトは無理矢理に頭の中を空にして、睡魔に身を委ねた。
しかしそうしていると、ふと、一つのことが思い浮かんでくる。
恩に着る、という兄の言葉が――
「いやまぁ、確かに恩に着るとは云ったけどさぁ……」
「うん。約束を破らないのは兄さんの美徳の一つだよね」
はやてとのいざこざ、海上収容施設での事故が一段落してから。
休日を使って、フェイトとエスティマの二人はクラナガンの市街地へと繰り出していた。
流石はクラナガンと云うべきか、昼の駅前は混雑で目を回しそうな状況だ。
その中を寄り添いながら、二人は雑踏を掻き分けて歩き出す。
今日二人がここにきているのは、女子寮にエスティマが侵入する際に云った恩に着るという言葉が端を発している。
お礼も兼ねて、ということで、二人は休日にクラナガンへと遊びにきていた。
他の誰かがいるわけでもない。純粋な二人っきりは久し振りだ。
上機嫌な様子でエスティマと腕を絡めながら、フェイトは兄と一緒に雑踏の中を歩く。
そんなフェイトと違って、エスティマは頭痛を堪えるような顔をしていた。
「……この歳になって兄貴と出かけるの、そんなに楽しいか?」
「えっ……楽しいけど?」
「……そっか、ごめん。うん、楽しいよな」
遠い目をして笑う兄の様子に首を傾げながらも、フェイトはどこに行こうかと思考を巡らせる。
今日はエスティマの全奢りらしいので、行きたいところに行こうと思っているのだが、自由すぎて考えがまとまらない。
遊びに行くというのなら色々と候補はある。見たい映画が丁度上映しているし、近くの博物館では面白そうな催し物をやっているみたいだ。
が、せっかく兄ときているのだから、兄とでしか楽しめないところに行きたい。
そんなことを考えつつ、ふと、エスティマへと視線を移す。
「ねぇ、兄さん」
「ん?」
「その服、いつ買ったの?」
指摘されて、エスティマは思い出したように襟元に視線を注いだ。
袖や襟が疲れてしまっている。生地も傷んでいるのか、張りがない。
無理をすればそういう服だと見ることもできる。着ている本人の素材が悪くないので。
しかし、フェイトからするとどうしても気になってしまうのだ。
「かなり前……な気もする。一年半ぐらいかな」
「……よし、決めた。今日は兄さんのコーディネートだ」
「……良いからフェイトの行きたいところに行けって。
遠慮するなよ。どこにでもついて行くから」
「私は兄さんのコーディネートがしたいの。
そういうデートも、悪くないよね?」
「……はいはい」
仕方がない、といった風にエスティマは笑った。
デートと云ってみても、少しも照れた様子を見せない。
それが少しだけ不満ではあったが、仕方ないだろう。自分は妹なのだし。
「……あれ?」
「ん、どうした?」
「ううん、なんでもない」
ふと考えたことに違和感を抱いたのだが、その正体をはっきりと定めることができなかった。
余計なことを考えてしまったら時間が勿体ないと思い、行こう、とフェイトはエスティマの手を引いた。
目に付いた店に片っ端から入って、男性ものの服をエスティマに着せてみたり。
似合わないものから似合いそうなものまで、どんな風になるのかと楽しんで。
そうしている内にエスティマも乗り気になったのか、悪くない雰囲気のまま二人は遅めの昼食をとることにした。
紙袋を二つほど持ったエスティマとフェイトは、混雑しているファミリーレストランやファーストフードを避けて喫茶店へと。
昼過ぎではあるが、空席はあっても店内はそこそこ混んでいるようだ。
一人しかいないウェイターがキッチンとフロアを忙しそうに行き来する様子を眺めながら、二人は窓際のボックス席に着く。
ガラスを隔てて通行人が行き来するのを視界の端に収めながら、二人はようやく一息吐いた。
「……落ち着いて考えてみると、着ない服って本当に扱いに困るよな」
「えっ、兄さん着ないの?」
「パンクな服は似合わないって。レザーとかも着るのに勇気がいるだろ」
「……兄さん、服の好みが大人しすぎ。
まだ十代なんだから、ちょっと冒険しても変に見えないよ?」
「服に着られているような服装をするのが嫌なの」
「なんでも着こなせると思うんだけどなぁ、兄さん」
「おだてたって何も出ないぞ」
割りと本気で云ったのにエスティマは相手にしてくれない。
フェイトを片手間で相手にしながらメニューを見て、ウェイターに注文を頼む。
ブレンドとやや値段の張るミックスサンドを。
いきなり注文を頼むものだからフェイトは慌てて、エスティマと同じものを頼んでしまった。
「もうっ、兄さん!」
「悪い悪い。
しっかし、買ったのは俺のばっかりじゃないか。
お前のワガママ聞くってことで遊びにきたのになぁ」
「私は楽しいから良いよ?」
「……俺のことを着せ替え人形にして楽しんでいたのかっ。
分かった。もう服は買わないぞ。次にどこへ行くのか、ちゃんと決めておくように」
「はーい」
そんな会話をしていると、注文していた珈琲と料理が届く。
香りが立ち上る珈琲に、フェイトはミルクと砂糖を。
エスティマはブラックのまま、口へと運んだ。
「……やっぱり喫茶店のコーヒーは良いなぁ。
隊舎のコーヒーメーカーで煎れるのとは違うわ」
「んー、確かに美味しいと思うけど、そんなに違う?」
「ああ。なんて云うか、隊舎のは味がアバウトだし。
まぁ、コーヒーメーカーがあるだけ有り難いけどさ」
「そう……なのかな。細かいことは分からないけれど」
「俺もそんなにコーヒーに詳しいわけじゃないけどね。
ああ、アレだ。好きな食べ物を食べ比べてみるようなものだよ」
などと云いながら、エスティマはミックスサンドに手を伸ばす。
具を零さないように注意しながら食べるのを眺めつつ、フェイトも同じように。
この光景は外から見たらどう映るのだろうか。瓜二つの、双子の兄弟が同じものを食べている。
性別の違いはあっても、外からみたら外見にそう違いはないらしいし。
……やっぱり、双子って見られるのかな。
一応はデートのつもりなのに。
しかし、カップルとして見られたところで――
あれ、と。
再びフェイトは首を傾げる。
何か違和感がある。そもそも自分は、なんでそんなことを考えているのだろうか。
「ああ、そうだフェイト」
「……え?」
名を呼ばれ、フェイトは顔を上げる。いつの間にか俯いてしまっていたようだ。
ミックスサンドの一つを平らげ、二つ目に手を伸ばしながら、エスティマは言いづらそうに口を開いた。
「その……ありがとう。
はやてとは上手く話をつけることができたよ」
「……うん」
いきなり上がった八神はやての名に、ずしりと胃の腑に重いものが溜まる。
同時に、意識していなかった胸の内に宿っていた何かが、蠢いた錯覚を受けた。
……なんでこんな気分になるんだろう。
これじゃあまるで、いつかの――兄がシグナムに取られたと思った時に感じたものに似ている。
取られる、という部分に変わりはないだろうけれど、今度は前と違うのだ。
どう違うのか。それは――
「まぁ、云っても小康状態ってやつだけどさ。
早いところ、自分の気持ちに決着つけないとな」
そう云って笑うエスティマの表情を、フェイトは直視できなかった。
視線を逸らしつつミルクと砂糖で濁ったコーヒーの水面に視線を注ぎ、つい嫌味のようなことを云ってしまう。
「……兄さん、気が多いよね」
「……重々承知してます」
「……良いけど」
そんなことを云ってしまった自分に、少しだけ自己嫌悪を。
……折角の休日に、何をしているんだろう。
好きこのんで嫌な気分になる趣味はないのに。
ぴったりと会話が止んだまま昼食を終え、二人は喫茶店を出る。
すると気を取り直したように、次はどこに行くとエスティマが声を上げた。
救われた気分になりながら、さっきのことをなかったように振る舞って、フェイトは午前中の調子を取り戻す。
「次はどこへ行く?」
「んと、ね。……じゃあ、展望台とかどう?」
「ああ、あそこね……」
何かを思い出したように、エスティマは眉根を寄せた。
それもそうだろう。フェイトだって知っている。分かってて口にしたのだ。
午前中ならば家族連れが多い、クラナガンを一望できる展望台。
しかし、今から向かえばそこは、カップルが散歩をするための場所となっているだろう。
「兄妹で行って楽しい場所じゃないだろ」
「……下見、下見。お互いにさ」
「……まぁ、良いけど」
やれやれと頭を振りつつも、大人しくエスティマは展望台の方へと進み始める。
それに追い着くとエスティマと再び腕を組んで、歩きはじめた。
「……歩きづらいんだけど」
「気にしないで。ゆっくり歩こうよ。まだ時間はあるんだし」
「それもそうか。それにしても、下見ねぇ。
フェイトはそういう相手がいるのか?」
「……え?」
「いや、だから、そういう相手。彼氏とかそういうの。
俺が気付かないだけで、もういたりする?」
「いないよ。私、モテないからね」
「よくもまぁ平気で嘘を吐くな、この妹は。
ヴェロッサとかいるだろ?」
ふと名前が挙がった男性の顔が脳裏に浮かんでくる。
ヴェロッサ・アコース。管理局では査察官をやっており、聖王教会にも籍を置いている人。
仕事などで顔を合わせる度に言葉を交わす機会はあるが、別にエスティマが気にするような関係ではない。
なんでそんなことを云うのと、エスティマに気付かれないていどに、フェイトは声のトーンを下げた。
「……彼氏さんとかじゃないし」
「ふーん。じゃあ、気になる男とかはいないのか?」
なんの気なしに向けられた言葉に、フェイトは目を見開く。
本人としては軽いつもりで聞いたのだろう。
しかし、フェイトにとっては――
……自分にとっては、なんなのだろうか。
別にショックを受けるようなことではないのに。
あくまで自分と兄は兄妹であり、兄妹ならば、別に行っても不思議ではない会話のはずだ。
そうは思うも、今の何気ない問いかけは酷くフェイトの心を揺さぶった。
「……兄さん」
「……ん?」
「兄さんが気になるかな、私は。
心配で目が離せないもの」
「……そりゃ困った。
いつまでも妹に心配されてちゃ駄目だしな」
いい加減兄離れしろよ、とエスティマはフェイトの頭をぐりぐりと撫でる。
幼子にするような扱いだ。昔は自分もやられていたような気がする。
荒々しく、けれど嫌ではない感触。
久し振りのそのスキンシップに、懐かしさが込み上げてきた。
同時に、子供扱いされていると思い――それが酷く不満だった。
……もう私は子供なんかじゃないのに。
不満げに脣を尖らせるも、兄はそれを分かってくれない。
もしかしたら自分は、兄からすればいつまでも幼い妹でしかないのかもしれない。
……嫌だな。
そう、フェイトは思う。
私はもう大人だよ、兄さん。
守ってもらうばかりじゃないって……それが分かっているから私を六課に呼んでくれたんじゃないの?
そんな言葉が胸の内に宿る。
が、それを口にするだけの勇気はなかった。
まだまだ子供だろ。兄ならばそんな風に云いそうだし、もし云われてしまったら、今の楽しい気分が吹き飛んでしまいそうな気がするのだ。
……なんでそんな風に思うのだろう。
違和感が増してゆく。
今日一日――否、八神はやての部屋へとエスティマが向かってからずっと続くもどかしい気持ちが、今日になってから加速度的に大きくなってゆく。
胸を締め付けるような気持ちが、どんどん大きくなる。
何故だろう。その答えを得ることができないまま、二人は展望台へとたどり着いた。
バスを使って展望台のある公園前にたどり着くと、エスティマとフェイトはそのまま舗装された道を進み始めた。
擦れ違う家族連れは、皆帰宅するところだろうか。
それとは違って、自分たちと同じように上へと進む者たちは、どれもが男女と一緒だった。
兄妹でこんなところに来る者は、そういないだろう。
そういないはずの一組が、自分たちなのだけれど。
舗装された道を進んで丘陵を登りきると、その瞬間、山肌に隠れていた夕日が自分たちを照らし上げた。
アスファルトに散った落ち葉を踏み締めながら、エスティマとフェイトはゆっくりと歩いてゆく。
そうして開けた場所に出ると、一望できる街並みに、二人は同時に吐息を漏らした。
「……悪くないな」
「うん、そうだね」
綺麗、と素直に云わない辺りが実に兄らしい。
へそ曲がりだなぁ、と思いながら、二人は周りの人間がそうしているように、大きな声を出さないで散歩を始める。
周りにいるカップルを横目で見ながら、フェイトは兄と絡めた腕をぎゅっと抱き締める。
しかしエスティマは微塵もそれを意識せずに、夕焼けに照らされた街並みを楽しんでいるようだった。
「良いんじゃないのか?」
「……え?」
「いや、だからこの場所。
下見にきたんだろ?」
「あ……うん。そうだね」
「どうした? 疲れたか?
結構歩き回ったし、無理ないと思うけど。
もう少ししたら帰るかね。明日も仕事だし」
「……ううん。もう少し、ここにいようよ。
今日は私とデートなんだから。ワガママ、聞いてくれるんでしょ?」
「そうでした。ワガママな妹様だよ、まったく」
肩を竦めて、座るか、とエスティマは紙袋を持った腕を近くのベンチに向ける。
こくりとフェイトは頷くと、兄に誘われるまま一緒にベンチへと座った。
腰を下ろせば、ひやりとした感触が腰に広がる。それを遠ざけるように、フェイトは兄の腕をまた抱き締めた。
胸をより一層強く押し付けられる感触になのか、エスティマは苦々しい顔になった。
「……おいおい。
いくらなんでも、甘えすぎだろ」
「別に良いじゃない。
こういうことが出来るのも、妹の特権だよ」
「随分とグレーゾーンな気もするけどね、俺は。
あんまりベタベタするなよ」
「なんで?」
「この歳でこんなんやってるのは不自然だし。
それに……あんまり云いたくないけど、俺だって男だぞ。
困るんだよ、色々と」
云って、エスティマは抱き締められていた腕を解いた。
それでフェイトの胸を圧迫していた感触が消えてしまう。
ずっと抱き締めていたものが消えた喪失感は思いの外強く、あっ、と声を漏らしてしまった。
「あんまり兄貴とベタベタしてたら、男も寄ってこないだろ」
「……私はそれでも良いよ?」
「……あのな、フェイト」
困った風に笑って、エスティマはさっきまでフェイトに抱き締められていた腕をさする。
その動作がフェイトの感触を拭おうとしているように見えて、あまり良い気分はしなかった。
「そうやって好いてくれるのは嬉しいけど、いつまでもやってるわけにはいかないだろ?
そりゃまぁ、フェイトに彼氏ができたら少しは驚くけど、それはそれだ」
「……兄さんは、私に彼氏ができて良いの?」
「だから、今云ったろ? 少しは驚くって。
……まぁ、基本的には賛成だよ。……多分」
最後の呟きは自信がなさそうだった。
が、フェイトはそれに気付かない。
それよりも、彼氏を作ったら、という言葉が、胸の内に渦を巻く何かに火を点ける。
これは怒り、だろうか。違うような気もする。もどかしい気持ちは自分ですらはっきりと理解できない。
「兄さんは……」
「ん?」
「兄さんは、私のことをどう思ってるの?」
「……は?」
自分で云った言葉の意味が分からない。
現に、エスティマも混乱して眉根を寄せている。
今の言い方じゃまるで、自分が兄に女として見て貰いたいような――
……ああ、そっか。
今になってようやく気付いた。
何故八神はやてと兄が一緒にいることがああも気に入らなかったのか。
幼い頃は兄を取られていたから。
けれど今は、嫉妬していたから。
兄に大切にされるのは自分の役目だったはずなのに、周りにいる女たちはどいつもこいつも兄を自分のものにしようとしている。
それがどうしようもなく悔しくて――しかし妹でしかない自分は、それを眺めていることしかできない。
そもそもが間違っている。思うこと自体が狂っている。
……けど、仕方ないよね?
誰かに言い訳をするように、フェイトは蚊の啼くような声で呟いた。
惚れるなという方が無理な話。
兄を兄と認識したのは生まれ落ちてから随分と後なのだ。
親族だと認識しているのは後付で、最初にフェイトの前に現れたのは、ただの少年であった。
エスティマを兄と認識したのも、ただ母という空席に彼を据えただけである。
餓えた自分に愛情を注いでくれて、窮地に陥れば必ず救い、どんな時でも裏切らず傍にいてくれる人。
そんな人を好きになるなという方が不可能なのだ。
フェイト・T・スクライアは、当たり前のようにエスティマ・スクライアを愛し、愛されていた。
……そもそも独り立ちすることが無理だったのかもしれない。
いや、この気持ちに気付くことがなければ、一人で生きてゆくこともできただろう。
けれどこうして気付いてしまった以上、もうどうすることもできない。
胸に渦巻く感情が嫉妬と分かった今、それを取り除く方法は一つしか思い浮かばない。
……誰かのものになるぐらいなら。
「……兄さん」
「……ん、ああ、ごめん。
フェイトは大事な妹だと――」
思っているよ。
そう続く言葉を、フェイトは脣で塞いだ。
色気も何もない。ただ蓋をするという表現はしっくりくるような。
エスティマの頭をしっかりと腕に抱き、引き寄せるようにして脣を合わせる。
初めてのことだから上手くいかない。けど、それで良い。
ただ押し付けるだけの口付けはフェイトとエスティマ二人の立ち位置をそのまま表しているようだった。
受け容れるわけがない。受け容れられるわけがない。
それが分かっていても尚、フェイトは自分の気持ちに嘘を吐きたくはなかった。
常識というものは一応フェイトにもある。
兄妹でそういう関係になるのはいけないことだと分かってもいる。
けれど――いけないことだとしても、この気持ちを抑えつけることなどできない。
「――っ、馬鹿! 何やってんだ!」
フェイトの胸を突き飛ばして、口元を抑えながらエスティマが怒声を放つ。
向けられたことのない類の感情に、びくりと反射で身体が震えた。
冷や水を浴びせられたようにフェイトの思考がまともな方向へと傾く。
が、それは嫌われたかもしれないというものであり、決して、今の状態から抜け出したものではなかった。
「……なんで」
しかし兄の怒りはすぐに収まり、すぐに戸惑い一色へと変わる。
フェイトから目を逸らし、居心地が悪そうに眉間に皺を寄せた。
困っている。当然だ。
ずっと妹と思っていたようだし、ついさっきも大事な妹と云おうとしてくれた女からこんなことをされれば、困ってしまうのも当たり前だろう。
けれど、フェイトに止まるつもりはない。
ここで二の足を踏めば、きっと兄は今日のことをなかったことにして、他の女と一緒になってしまう。
そんな根拠のない確信が、フェイトにはあった。
強いて云えば勘だろうか。しかし、間違っているとは思えない。
だから、
「兄さん、私ね」
毒を混ぜ込むように、ゆっくりとフェイトは口を開く。
もったいぶるようにして、言葉を紡ぐ。
「私、兄さんのことを愛してるよ。
一人の男の人として見てる。ずっと、そうだった。
勘違いしてたんだ。そもそも私、兄妹がどんなものかなんて、あとから知ったから。
……うん。私、他の誰よりも先に、兄さんのことが好きだったんだよ?」
「……止めてくれ。
冗談にしたってタチが悪い」
「冗談だと思ってるの?」
それがトドメになったのか。
エスティマの表情が、目に見えて歪んでしまった。
当然だろう。今まで兄として自分に接して、自立を願い、依存することもなくなったと思っていた妹がこんなことを口にしたのだから。
今までエスティマが積み上げてきたことを、フェイト自身がぶち壊しにしてしまったようなものなのだ。
痛みに耐えるような表情で、エスティマは目を伏せる。
そして頭を振ると立ち上がり、紙袋をそのままにフェイトへ背を向けた。
「……先に帰るよ。
今日のことは、忘れる」
「私は忘れないよ」
間髪入れずに応えたフェイトを無視して、エスティマは歩き出す。
夕日に照らされた彼の背中は酷く頼りない。がっくりと肩を落として進む兄は、一体何を思っているのだろうか。
……私、酷いことした。
今更になって罪悪感が湧き上がってくる。
胸には嫉妬を消し去ったことで満ちた愉悦が残っているが、同時に兄の気持ちを踏みにじったことへの申し訳なさが押し寄せてくる。
……気付かない方が良かったのかもしれない。
あまりにも普通じゃないこの気持ちは、兄を兄と勘違いしたまま、ひっそりと風化させた方が良かっただろう。
しかし気付いてしまった今、我慢することなどできはしない。
まだ兄の感触が残っている脣を、そっとフェイトは指先で撫でる。泣き笑いといった表情を浮かべながら。
周りが恋人だらけの展望台で、一人、兄と過ごした時間の余韻に浸っていた。
「……なんでこんなことになったんだろうな」
『さあ。私には分かりかねますが』
一人で帰路に就いたエスティマは、胸元のSeven Starsに言葉を落としながら、ついさっきに起こった出来事を思い返していた。
表情には忌避感が溢れている。嫌悪に近い――が、それはフェイトに対してではなく、自分自身に対してだ。
なんでこんなことになったのだろう。
再び自分自身に問いかける。
フェイトにブラコンの気があるのには気付いていた。
しかしそれはプレシアの代替えとでも云える立ち位置のせいであると思っていたが、どうやら違ったらしい。
フェイトの言葉を鵜呑みにするのならば、彼女はずっと自分のことが好きだったと云う。
そんなことがあり得るのだろうか。
ずっと自分は、フェイトに対して兄として接してきたつもりなのに。
何かをどこかで間違ったのだろうか。
真っ直ぐに育って欲しいと願っていた妹が、兄を好きになるだなんて風に。
『旦那様』
「……なんだ」
『客観的にですが、こうなる片鱗はずいぶん前からあったと思います。
旦那様と彼女の距離は、近すぎる気もしましたから』
「だから仕方がないって? そんなことで納得できるかよ。
フェイトは俺の妹で――」
妹だった。自分自身で兄を名乗り、甘えてくる彼女をそのまま甘やかせた。
接していた時間はそれほど長くなかったが、その分、稀に会えたときはフェイトの好きなようにさせていた。
それが悪かったのだろうか。そんなことを、エスティマは思う。
……エスティマはフェイトが全面的に悪いと、思っていない。
そもそもエスティマとフェイトが兄妹というのは後付であり、エスティマはフェイトを本当の意味で妹として扱ってはいなかったのだから。
血の繋がりは確かにある。戸籍上でも兄妹となっている。
だが、エスティマの中身はフェイトの兄として生まれた者ではないのだ。
もしかしたらこうなることを望んでいたのかもしれない。そんな気後れする部分があるからこそ、フェイトを責めようとは思えなかった。
後ろ暗いのだ、単純に。自分の軽率な行動がまたしてもこんな形で、と。
その証拠とでも云うように――
「……嫌じゃなかったからな」
『何がですか?』
「こっちの話だ」
自嘲するように笑って、エスティマは脣を手の甲で隠す。
そう。常識的に考えて怒りはしたが。
決して、嫌ではなかったのだ。
そんな自分に腹が立つ。
この上なく、腹が立って仕方がなかった。