クラナガンに本社を構えているデバイスメーカーのビルを背に、フェイトは自動ドアから外へと出た。
空調の効いていた社内と比べ、外はやや強めの風が吹いており、快適とは云えない。
彼女は髪を風になびかせながら、一度、背後を振り返った。
地上本部ほどではないにしろそれなりの高さを持つビルは、間近で見ると威圧感を醸し出している。
何故彼女がこんな場所に訪れていたか――それは、一つの商談をこの会社へと持ちかけにきたからだ。
その商談とは、バルディッシュに蓄積された戦闘データの提供。無論、金銭と引き替えに。
バルディッシュはワンオフで作られたデバイスであり、機体の性能、それに戦闘データはあまり流用ができない。
だが、あくまでそれは普通の場合。
フェイトのような極少数のみ存在する、高い魔力資質を持った人間のために作られるワンオフ機。この会社は、それの制作を請け負っていた。
高ランク魔導師は次元世界に多く存在しているものの、その大半が管理局に所属している。
デバイスの開発は管理局でも行われており、比較すると民間の企業はデータの蓄積がどうしても管理局より少ないのだ。
サンプルの絶対数がどうしても足りない。デバイスとは云え個人情報、漏洩を許すほど管理局も甘くはない。
技術提携こそ行っているものの、はいどうぞ、と利益を企業と山分けできるほどに、おめでたくもなかった。
高ランク魔導師がどんなデバイスを使うのかは、企業の者も分かっている。
だが、十年という時の流れの中でどんな風にチューンされてゆくのか、という辺りまでは流石にサンプルが少ない。
故に、フェイトが持ち込んだデータは喜ばれ、また、高く買い取られた。
九歳の頃から既に実戦を行い、管理局に入ってはいないものの長い間戦い続けてきた蓄積は相当なものだと云える。
しかし、思い通りにことが進んだというのにフェイトの表情は明るくなかった。
そっと、財布の入ったポケットに手を触れる。その中にあるキャッシュカードには、近々大金が転がり込んでくるだろう。
しかし、それと引き替えにしたものは決して安くない。
バルディッシュのデータを明け渡したと云っても、別にバルディッシュを失ったわけではない。
彼は今でも普段通りに動いていて、己のデータが収集されたことに対して憤っているわけでもない。
が――
「……ごめんね、バルディッシュ」
『No sir.』
気にしてません、と上がった言葉に、フェイトは薄く笑んだ。
慰めてくれたのか。優しい子、と思いながらも、やはりフェイトは自分が行ったことに疑問を抱いていた。
これで良かったのか、という疑念はずっと付きまとっている。
戦闘データといえど、あれは自分の思い出だった。
友人と共に戦った記憶。兄と共に戦った記憶。悲しみも喜びも詰まっていた思い出と云っても過言ではない。
それを金に換えるというのは、自分の記憶に価値を付けてしまったようで申し訳なく、そして気分が悪い。
それでもバルディッシュのデータを売ろうと考えたのは、お金が欲しくて――それは、兄に何かをしたかったから。
与えられるばかりじゃなくて、何かを与えてあげたい。そう思ったフェイトは、決して金では買えないと世間一般で云われている思い出を売り払った。
しかし、今更になって自分の行いに疑問が浮かび上がってくる。
先に云った事柄は勿論として、この金を使って自分は何をしたいんだろう。
エスティマに貢ぐ? 馬鹿げてる。そんなことで心が動くほど彼は安っぽくないと知っているから。
酷い虚しさと喪失感が胸を押し潰そうとする。それに耐えながら、フェイトは企業ビルを後にした。
コツコツとヒールが奏でる音を聞きつつ、歩みを進める。
自分に、何ができるだろう。それは、エスティマの家に行った日からずっと考えていることだった。
家事やなんかを手伝う、とは最初に思い付いたことだが、だからなんだ、とも思って却下。それに、八神はやてがずっと行ってきたことを真似するようで癪もであった。
八神はやては気付いていないだろうけれど、今の自分にとって彼女は恋敵と云って良い。それの後を追うようなことを、フェイトはしたくなかったのだ。
なら、自分には何ができるだろうか。
ちょっとした気遣いていどならともかく、大事なものを切り捨てるよう迫っている彼へ、自分は何をできるだろう。
先走っているという自覚はある。まだエスティマからの返事は何一つ聞いていない状況でこんなことをしている自分はおめでたい、とは分かっていた。
しかし、現在進行形で彼を苦しめているのは確かなのだから、やはり何かをしたい。些細な――違う、もっと大きな、彼の喜ぶ顔が見たい。
自分が苦しめ自分が癒す。嫌なマッチポンプ。
けれど与えられるだけ――否、奪うだけの重荷であることは嫌だと、フェイトは思っている。
思うだけなら簡単で、誰にでもできる。だからこそ行動に移そうと思って――しかし、何をしたら良いのか分からなくて始末に負えない。自分自身が。
……兄さんのために、何ができるんだろう。
そんなことをぐるぐると考え続けながら、フェイトは街並みの中へと歩き出した。
リリカル in wonder
―After―
地上本部の片隅に間借りしているオフィス。
休憩時間中に、俺はそこでB5サイズのアルバムをめくっていた。
オフィスの中には俺だけしかいない。個室を与えられているから当たり前なのかもしれないが、今はそれがありがたかった。
少し、一人で考えごとをしたかったから。
手にしたアルバムには、アルフが撮り続けてきた写真が収められている。
幼少期から今まで。最近のものになると俺とフェイトが一緒に写っているものが少なかったりする。
よく飽きなかったもんだ。アルフが写真を趣味にし始めたのは随分と昔な気もする。
だのにアルバムに収まっている写真は、月日の流れを逃さず、フェイトの成長をずっと追っていた。
中身は思わず苦笑してしまうようなものから、純粋な懐かしさを覚えるものまで多岐に渡る。
こうして確認してみれば、ああ、確かに俺はフェイトとずっと一緒にいたのだと実感できた。
しかしフレームの中に存在していた俺はずっとフェイトを妹として見てきて――そして今、どう彼女を見て良いのか分からなくなっている。
シグナムにはああ云ったものの、やはり踏ん切りを付けることはできない。
女々しいのだろうか。頑固なのだろうか。
意地を捨て去ることは簡単ではなく、未だ、俺は自身の価値観に固執したがっている。
それでは先に進めないとも、また分かっているけれど。
「はは、間抜けな顔」
アルバムに収まっていた自分の写真を見て、思わず声に出して笑ってしまう。
何も考えずにいた頃の自分。馬鹿だ馬鹿だと自分自身では思っているものの、楽しかったのは事実だ。
もう戻れない。やり直しはきかない。唯一の時だったからこそ楽しかったと今思え、当時を思い出として眺めることができる。
そして今、何も考えるずに生きてゆけるほど世の中は単純じゃなくなった。
それは今も昔も変わらない。けれど、俺の生きる場所を形作る皆が大人になって、自分勝手な感情で物事を進められなくなったんだ。
それを窮屈と考えることもあれば、愉しみと思えることもある。
どちらとも云えない表裏一体のコインのように、現実は存在している。
その表面――日だまりだけを意識して過ごすことは、やはり甘い幻想だったのだろう。
裏も含めて存在している日々。それを否定してやり過ごすことは、やはりできない。少なくとも、俺には無理だった。
もし俺にもう少しだけ脳天気さがあれば――と考えるのはフェイトに失礼か。
「……コイン、ね」
ふと、一つの事柄が思い浮かぶ。我ながら嫌な例えだ。
妹であるフェイト。異性であるフェイト。それを切り離してどちらか一方を取るべき状況であると、分かってはいる。
けれど結局、俺はどちらも選ぶことはできない。
が、そもそも人は多様性を持つ生きもので……どちらか一方を見ないふりして忘れてしまうのは、賢いのかもしれないが無様だ。
だから俺は、フェイトを一人の人間――異性であり、妹でもあると見て――やはり大切なのだと自覚する。
瞬間、俺の胸中を占めるフェイトの領分が増したような錯覚を受けた。
誰よりも、とはまだ云えないけれど。
……ああ、気が多くて嫌になる。
ハーレムでも作ってやる、なんて気概は生憎と俺にはないから尚更に。
だが、フェイトという一人の女性を意識した場合――そこで問題は振り出しに戻る。
否、より明確になったと云うべきだろう。
大事なのだとして、それでどうする?
好きだから添い遂げる。そんなことが云えるほど俺と彼女の間に横たわる問題は単純じゃない。
彼女を選ぶのならば、それ相応の覚悟は必要で――俺に、そこまでの気概があるのだろうか。
やるべきことは分かっている。フェイトを意識した瞬間、生ずるであろう責任は霧が晴れたように輪郭を浮かび上がらせた。
だが晴れた視界は決して美しい景色などではなく、問題が山積みとなり、解消するには断崖絶壁を登り切るほどの労力が必要だろう。
俺は、それを――
やるのか、と考えた瞬間だった。
この個室に備え付けられている内線が鳴り響く。何事と思って取ると、空中にディスプレイが浮かんだ。
ウィンドウの中に写っているのは、どういうわけだかクロノだ。
奴は歯の奥に何かがはさまったような顔をしながら、よう、と挨拶をしてきた。
「クロノ、いきなりどうしたんだ?」
『ああいや、ちょっとしたことでな。問題というほどのことじゃないんだ。
……エスティマ、お前はフェイトに仕事でも頼んだのか?』
「……は?」
『……なるほど。じゃあ、どういうことだろうな』
一人納得するクロノ。だが俺は状況をまったく飲み込めていない。
なんの話だ、と無言で問いかけると、クロノは眉根を寄せながら口を開いた。
『一時間ほど前に、フェイトが僕に頼み事をしてきた。
スカリエッティに会わせて欲しい、とな。
そもそも彼は監視こそされているが行動そのものは自由だ。会うだけならば問題ない。
だから居場所を教えはしたものの、何か引っかかって、一応連絡を』
「……心配させて悪かったな。
助かったよ、ありがとう」
『ああ。……エスティマ、何かあったのか?』
「フェイトがどんな用事があってスカリエッティと会おうとしているのかはさっぱり分からない。
本当に心当たりがなくて、驚いてる」
『そう、か……まぁ、何かあったら云え。力にはなってやるさ』
「……ああ」
それじゃあ、と通信を切り、俺は早速外出の準備を始める。
鞄は――仕事をしに行くわけじゃないから必要ない。職場を抜け出してしまうから、シグナムには留守番を頼もう。
今日、これからの予定は――と、マルチタスクで同時に物事を整理し身支度が調うと、ふと、机の上に置きっぱなしとなっていたアルバムに視線を落とす。
開かれていたページには、俺、フェイト、なのは、ユーノ、そしてクロノが一緒に写った集合写真が納めてあった。
幼馴染み、と云っても良い連中と共に過ごした日々のこと。
俺は――それに視線を落としながらもアルバムを閉じ、踵を返した。
「これは、これは。随分と珍しいお客様だ。
どうぞ寛いでくれたまえ。今、ウーノが飲み物を持ってくるよ。
エスティマくんはブラックコーヒーが好きなようだが、妹の君は何が好みかね?」
「……紅茶を」
「おお、そうかね。カンヤムのセカンド、とやらが手に入ったのだ。ご賞味あれ。
管理外世界の代物だが、なかなかに美味しいらしいよ」
「はぁ、どうも」
フェイトに椅子を勧め、一人で喜んでいるスカリエッティ。
何がそんなに楽しいのか不可解だったが、歓迎されているのならば機嫌を損ねないようにしなければならない。
何せ、フェイトがここにきた理由はこの男への頼み事なのだから。
無論、今まで自分たちを苦しめてきた男に助言を求めるのはこの上ない屈辱だし、信じることなど出来るわけもない。
だが、言葉を交わしてその中からヒントとなるものが見付けられたら――と、フェイトはスカリエッティの元に足を運んでいた。
一人上機嫌なスカリエッティは、フェイトを放って鍵盤型のキーボードを叩いている。
踊る指の動きは滑らかで、データを打ち込むこととは別の、無意味な典雅さがあった。
彼はそれで何かの作業を終えたのか、満足げに頷く。
それと同時、彼女の秘書であるウーノが紅茶を持ってきて、中断していた会話が再開された。
「それでどのような目的を抱きここへ足を運んだのかね、お嬢さん。
これでも私は、君たちに嫌われているという自覚がある。
であれば、まさか談笑するために足を運ぶなどということはあるまい?」
「……それは」
そこまで云い、フェイトは僅かに口ごもった。
言いづらい、ということは勿論ある。この場は監視されていて、故に言葉を選んでスカリエッティへ問いかけなければならないのだから。
だがしかし、スカリエッティはそんなフェイトの内心を読み切ったように笑う。
「ハハ、そう心配しなくてもよろしい。
監視している者たちは、今頃、私たちが真面目な話をしていると思っているよ。
何、これもシルバーカーテンのちょっとした応用さ」
彼の言葉に、フェイトは息を呑む。
そんなことができるのならば、スカリエッティが監視下から逃れることは容易い。今の発言はそれを意味している。
が、スカリエッティはそのつもりはないと笑った。信じてはいけないと思いながらも、フェイトは己の目的を優先するため、心を落ち着かせて口を開く。
「……聞きたいのは、兄さんの身体のこと」
「……ほう? 何故だね?」
「兄さんが六課で部隊長をやっていた理由は、長い戦いでダメージが蓄積したからだって聞いてる。
それなのに兄さんは最終決戦で魔力が切れるほどまで戦い続けて……どれだけのダメージが貯まっているのか――」
「ああ、違う違う。私が聞いたのはそういう意味ではない。
何故、君がそんなことを聞くのかと問うているんだ。
身内故に彼が心配? ああ、なるほど。筋は通っていないようで通っている。
血とは鎖。それがなくとも家族とはなれるものだが、ああしかし、やはり生まれに引きずられるのは人の性とも云える。
だが不思議だな。エスティマくんがそれを望んだのかね?
そんなわけはない。彼が我が身可愛さに私に頭を下げるなど、まず絶対にあり得ないと断言できる。
であれば、君の独断専行となるが……彼が私の技術で延命することを望むわけもなし。
そんな彼の心根を無視してまで、何故、君がそんなことを口にするのか。
ああ、実に興味がある。聞かせて欲しい。
どうか教えてくれまいか、彼の妹であるお嬢さん。
兄を慕うあなたが、ある種、他の誰よりも近くにいる君が、どうしてそんなことを口にできるのか。
その回答をもって、私は君の期待に応えるとしよう。
何、些細な対価だろう? そう気にすることでもあるまい。
それとも――私には云えないことなのかね?」
「それは……」
兄のために何かしたいから。理由となるのはそれだが、しかし、下地となった兄への恋慕を口にすることはできない。
相手がスカリエッティということもあるが、この時になって初めて、フェイトは他人に己が胸に秘めている恋慕を口にできないと自覚する。
今まで一度たりとも第三者へ発さなかったこの想い。
エスティマと添い遂げるつもりならばいずれは周りにこの気持ちを伝えなければならないと分かっていたが、いざその時になるとどうしても躊躇してしまう。
そんなフェイトの内面を読み切ったわけではないだろう。
しかしスカリエッティは愉快げに口の端を持ち上げると、値踏みするようにフェイトを眺めた。
「どうしたのかね? 何、簡単なことだ。一言で良い。それで君は望む答えを得られるだろう。
それとも……口にするのが憚られる理由でもあるのかな?
気にすることはない。ここにはウーノを含めて三人だけ。約束しよう、君が口にしたことを、私は一語一区、口外しないと。
……それでもまだ、口にはできないのかね?
ああ、駄目だ。それはいけない。興味が増してしまうよ。
美人がそんな悲痛な表情をするものではない」
「……ドクター」
遊びが過ぎます、とウーノが声を発する。
スカリエッティは含み笑いを続けながらも、失礼、と頭を振って再び金色の瞳をフェイトへ向けた。
蛇に睨まれた蛙、という表現がしっくりくるようにフェイトは動きを止めてしまう。
ともすれば、呼吸を忘れ去ってしまいそうなほどに。
人の内面を土足で踏み荒らそうとする金色の瞳からは、嫌悪感しか抱かない。
これはエスティマも嫌うわけだ。こんな人間を好む者がいるとするならば、頭のネジが弾け飛んだ奴か、人を人と思わない人非人ぐらいだろう。
そんなことをフェイトは思う。思いながら、エスティマへと抱いた恋慕を口にするかどうか迷っていた。
こんな人間に――と。それもある。
だがやはり、他人に知られて、というのも大きい。
今更になってフェイトはエスティマが怯えていたことを理解する。
他人が自分から離れてしまうのでは、というのは勿論、常識から外れた気持ちを口にするというのは酷く勇気が必要だった。
……けれど――何かしたい、って思ったんだ。
エスティマのために。やっぱり良い案なんか一つも浮かばなくて、エスティマに知られればまず間違いなく怒られるような手段しか思い浮かばなかったけれど。
それでも、誰もが躊躇う、誰にもできないことをやり遂げたかった。
その一念でこの場所へ足を運んだことに間違いはない。
だからあとはこの恋慕をスカリエッティへ教えるだけ。嘲笑されるだろうとは分かっているけれど、それを乗り越えて――
フェイトは口元を引き結び、金色の瞳を真っ直ぐに見据える。
スカリエッティはフェイトの心根が定まったことを理解したのか、猫のように目を細めた。
そして――フェイトは弱々しい吐息を吐き出し、何故自分がスカリエッティに助言を求めようとしたのか答えようとする。
……答えようとした、その時だった。
部屋の入り口である自動ドアが軽い音を立てて開き、その奥から一人の男が断りなしに踏み込んでくる。
その姿を見間違う者はここにいない。エスティマ・スクライア。彼は表情に微かな怒りを浮かべて、黙ったまま歩みを進める。
そしてスカリエッティ、ウーノ、そしてフェイトの三人がいるところまでくると、スカリエッティに視線を向け、怒りを浮かべた緋色の瞳を細める。
「久し振りだな、スカリエッティ」
「ああ、久し振り、エスティマくん。
どうかね、君も一杯。妹さんを肴にくつろいでいたところさ」
「……お前、また殴られたいのか?」
「それは勘弁願いたい。君に殴られた頬が直るまで、地味に時間がかかったのだよ?
それに痛かったのも事実。生憎と、傷付いて喜ぶような性癖は持ち合わせて――」
「帰るぞ、フェイト」
「待ちたまえ! 私の話を最後まで聞いて欲しい!」
「じゃあな」
腕を掴んで強引にフェイトを立たせると、そのままエスティマはスカリエッティの部屋を後にした。
背後で何やら言葉が聞こえてきても、エスティマは完全無視だ。聞く耳持たない、を地でやっている。
フェイトはそんなエスティマに、ただ腕を引かれているだけだった。
いきなりの登場に呆然とし、次に抱いたのは後悔だ。
……私、何をやっているんだろう。
与えられるばかりは嫌だと思って、自分で行動を起こしたのに、結局傷付く前に彼が助けにきてくれた。
これじゃ、今までと同じだ。何も変わっていない。結局自分は彼の荷物でしかない。
どうして、私は――
そう彼女が思うと、不意にエスティマが足を止める。
別に何があったわけでもない。ただ、スカリエッティの部屋から遠ざかったからだろう。
エスティマは掴んでいたフェイトの腕を放し、そのまま振り返って目と目を合わせてくる。
向けられた瞳を真っ向から見返すことはできない――が、逸らすことを許さないと云われているようで、おずおずとフェイトは視線を合わせた。
交錯する、四つの緋色の瞳。どちらもまったく同じ造形。ただ違うのは、内に宿っている意思の光か。
エスティマに浮かんでいるものは燻った怒りだ。どうして、と語らずとも彼の言葉が伝わってくるかのよう。
「……ごめん、なさい」
それを見続けることができず、フェイトは謝罪の言葉を零した。
声は弱々しく、悪いことをした自覚があると、エスティマへ伝える。
が、それを受けてもエスティマは瞳にたたえた怒りの色を消さない。
しかし、
「……私、兄さんのために何かしたかったの」
「何を……」
フェイトの呟きに、エスティマの表情が目に見えて歪んだ。
だからというわけではないが、フェイトは先を続ける。
「私、昔から兄さんに守られてばかりで……最近になって力になれたと思ったけど、やっぱり駄目だった。
困らせてばかりで……けど、それだけじゃ嫌だから。兄さんのことが好きだから、何かしたくて、私……!」
「……それとスカリエッティがどう関係あるんだよ」
「……兄さんの身体、ずっと戦い続けてボロボロだって思って。
だから、プロジェクトFに詳しくて――」
「……俺の身体を良く知っているスカリエッティに助力を求めた、か」
「……ごめんなさい」
「なんで謝るんだ。
……悪いと思っているなら、なんでそもそもこんなことをしようと思ったんだ、フェイト」
問いかけられ、フェイトは痛みを堪えるように目を瞑った。
口に出したくない、とは思いながらも、
「……他の誰にもできないことを、したかったから」
ぽつり、と呟く。
「私、他の誰よりも兄さんの特別になりたかったの……!」
それが、フェイトの本音と云えば本音だった。
彼のために何かをしたい。確かにそれは間違いではないし嘘ではなかった。
が、フェイトが本当に望むものはそれ。
他の誰にもできないことをして、彼に喜んで欲しかった。褒めて欲しかった。
そのためだったらどんな屈辱だろうと、敵に頭を下げてでも――否、誰にもできないことをしたかった。
ただ当たり前のように与えられるものではなく、何か、代償や努力、そういったものが必要となる行為をすることで、彼の心を自分に引き留めておきたかった。
無様と云えば無様だろう。幼いと云えば幼い。
だが、これしか――今まで守って貰う側であったフェイトが、もう大丈夫と、あなたの隣に立てるから、と証明するための手段として選んだ事柄だった。
「けど私、結局は駄目で……なんで、なんでこんなタイミングできたの?
勇気を出して、もう少しで、考え抜いた答えを手にすることができたのに。
誰にも真似できないこと、ようやく出来ると思ったのに……!
どうして!? 兄さん、私のことが嫌いなの!?
そうじゃないなら、邪魔なんてしないでよ!」
フェイトの言葉に、エスティマは苦々しく口元を歪めた。
フェイトがどんなつもりでスカリエッティの元にきたのか、彼は知らない。
ただ嫌な予感がしたために乱入して、フェイトを強引に連れ出したに過ぎない。
故にこれがただの逆ギレであることも、フェイトは分かっている。
しかし――今の一幕が、やはり自分は兄に守られていることしかできないと云われてしまったようで、我慢ができなかった。
息を荒げ、肩を上下させているフェイト。
目には涙すら浮かんでいるその姿を見て、俺は――場違いだと分かっていながらも、苦笑してしまった。
悪いと分かっていながらも、それを止めることはできない。
直前まで感じていた憤り――とは云ってもスカリエッティに抱いていた感情の八つ当たりみたいなもの――は霧散して、ただ困ってしまう。
「……馬鹿だなぁ、フェイトは」
「な、馬鹿って……」
憤りを色濃くしながらも目に浮かぶ涙はより多く。
怒り泣き、といった具合の彼女へ俺は一歩踏み出して、手を持ち上げた。
紅潮した頬に手を添え、そのまま指で涙を拭う。
瞬間、フェイトは戸惑ったように目を白黒させた。まぁ、当たり前だろう。
「……本当に馬鹿だよ。
そんなことしなくたって、お前は俺の特別だってのに」
「……兄さんが云ってる特別と、私の望んだ特別は違うよ」
「分かってる。けど、俺にとってはそうなんだ。
お前が女の子として見て欲しいんだとしても、俺にはできない。無理なんだよ。
フェイトは妹であり、一人の女。……どちらか片方から目を逸らすことなんて、できるわけがない」
……口に出した言葉は、今までずっと考えていた事柄の答えだった。
どちらか片方として彼女を見なければならない。しかしその選択は、切り捨てた瞬間に何かが潰える取捨選択。
だが、俺は結局どちらも選ぶことができなかった。
どうしょうもない本音として、俺はどちらのフェイトも手放したくないんだ。
「じゃあ……」
怯えるように、頬に当てられた手へ自分の掌を重ねて、フェイトは涙に濡れた瞳を向けたきた。
浮かび上がった疑問。それを口にするのを躊躇うように、しかし、それでも彼女は問いかけてくる。
「……私は、兄さんに女の子として見てもらえないの?」
「……そうじゃないんだ。
妹として。そして女の子として。両方を重ねてしか、俺はフェイトを見ることができない」
「……難しいよ」
「俺もそう思う」
「……なんで。
どうして、もっと単純になってくれないの……っ」
「……俺も、そう思う」
重ねた手をそのままに、そっと、俺はフェイトの背へと腕を回した。
フェイトは微かに息を呑み、重ねた手は指を絡め、噛み合うように俺たちは身体を重ねる。
抱擁を行ったとしても、お互いがお互いに抱く感情はやはり交差しないだろう。
ボタンの掛け違いのように些細なズレ、それは絶対的な価値観の相違。
その溝は小さく、しかし深い。
どのような理屈を投じても埋まらない感情という奈落は、穴が空いたままの空虚さが存在している。
「……フェイト」
「……何?」
「シグナムには悪いけど、しばらく、一緒に暮らそうか」
「それ、って――」
「……期待には応えられない。兄妹の枠を越えた、恋人らしいことは絶対にしない。
それでも、誰よりも近くにフェイトを置くよ。お前が飽きるまで、ずっと」
「……兄さん、馬鹿だよ。そんなことをされて飽きるわけないじゃない。
そんなことをされて――どう我慢しろって云うの?
私はずっと、今みたいに抱きしめてもらいたかった。これより先のことだって、したいと思ってるよ?」
「それでも我慢してもらう。これが俺のできる最大限の譲歩だ。
……やっぱり駄目なんだ。お前と、俺を取り巻くすべてを天秤にかけることはできなかった。
ごめんな、優柔不断で」
「……馬鹿。本当の本当に、馬鹿なんだから」
云いながら、フェイトは俺の背に回す手をより一層強めた。
抱き合っているため、お互いがどんな表情をしているのかは分からない。
ただ、困り果てたような溜息が、耳朶を撫でた。
「……けど、そんな兄さんだから私は救われて、好きになったんだもの。
だから、付き合うよ。大好きな兄さんがそれを望むなら。
絶対、後悔させてあげる。そっちから襲わせて欲しいって云わせるんだから」
「そうならないよう、努力するよ」
云いながら、俺はフェイトを抱きしめていた腕から力を抜いた。
そして妹である彼女から一歩距離を取って……だが、絡めた指はそのままに。
やはりフェイトの頬には涙が伝った跡が残っている。
しかし表情そのものは笑みに変わっていて、ようやく、久し振りにフェイトの笑顔を見れた気がした。
「帰ろうか」
「うん」
小さくフェイトは頷くと、俺と歩幅を合わせて――俺からも歩幅を合わせて、ちぐはぐな距離感を取りつつ、二人でそれを笑う。
そうして、曲がり角を過ぎ去り――
出会い頭に顔が会った第三者、顔も知らぬどこかの誰かと目が合った。
瞬間、彼は訝しげな顔をする。
当たり前だろう。同じ顔をした者――おそらくは兄妹が、まるで恋人同士のように指を絡めて歩んでいるのだから。
……その視線を受けて。
エスティマとフェイトは、どちらともなく、絡めた指を解いた。
開いていたウィンドウを閉じ、ついさっきまで会話していた少女の心情を考えながら、どうしたものか、とユーノは溜息を吐いた。
そして腰掛けていた椅子の背もたれに体重を預け、天井を見上げる。
薄暗い部屋の中、視線の先にある壁紙は中途半端な色彩となっていた。
「……まさかこんなことになるとはね」
思いも寄らない事態に――否、本当にそうだっただろうか。
考えてみれば、フェイトがエスティマへと向ける兄弟愛はずっと紙一重であったような気もした。
ブラコンの一言で今まで片付けてはきたものの、片鱗はあったということだろうか。
が、それも今になったからこそ云えること。
もし気付いていればそれとなく言葉で誘導し、エスティマをただの兄としてと見続けるように矯正できたし、していただろう。
……本当に、どうして。
自分の抱く感情が嘆きなのか憤りなのか分からない。
そしてまた、どうして良いのかも分からない。
否、分からなくもなかったが――
「……ユーノ」
ふと、背後から声をかけられる。
そこにいたのはアルフだ。
彼女から予めフェイトの抱く恋慕の感情を聞いていなければ、少女――シグナムからの通信を冗談だと切り捨てていただろう。
アルフの言葉だからこそユーノは信じた。エスティマやフェイトとは別種の感情を彼女に向けていて、信頼とは別の絆が二人の間にはある。
だから、荒唐無稽を通り越して、人によっては悪夢とすら云える現実を嫌々ながらも認めたのだ。
アルフが口を開く。
彼女が伝えてくるのは、今し方エスティマとフェイトが決めた取り敢えずの指針だ。
精神リンクで主人と繋がっているアルフを介せば、二人が行ってることは筒抜けとも云える。
それを耳にして、ユーノは一つの決意を胸に抱いた。
……いつものこと、かな。
エスティマはエスティマらしい妥協点を考え出したし、フェイトもフェイトで一応の落ち着きを取り戻したようだ。
一連の騒動、感情の動き、決着の付け方は、二人をずっと見てきたユーノからすれば、実に二人らしいと云える。
だから――僕も、と。
困った弟妹を持ったもんだ、と苦笑して、すぐに表情から色が失せる。
……冗談で済ますことなど、できるわけがなかった。